ZoaZoa日記

気の向くままに書き散らしてゆきます。皆さまの考えるヒントになればと思います。

高校生のための「この世界の片隅に」

君の名は。」から「この世界の片隅に

 新海誠の「君の名は。」は公開から既に数カ月経過しているにもかかわらず、未だに膨大な数の高校生を虜にしている作品だ。瀧、三葉という主人公二人の心身入れ替えを通して、それぞれの日常が交代してしまうのは単純に面白いし、時空を超えたクライマックスへ突き進み、様々な障害を乗り越えて最後は結ばれるという、ある意味ロマンスの王道も踏襲している。ちょっと普通の恋愛ものと違うのは、主人公たちの記憶が途中から曖昧になってゆく事だ。だから、観ている側は「傍観者」として二人のロマンスの行方をハラハラしながら見守ることになる。しかし、どれだけ感動しようと、あなたはあの作品の傍観者に過ぎないと言える。

 ところが、「瀧(三葉)のような経験をあなた自身ができる映画がある」と言われたら、あなたはどう思うだろう。「傍観者」でなく「主人公」になれる映画、観たくないだろうか。実は、そんな映画があるのだ。その映画の題名はこの世界の片隅にという。個人的には、今、高校生に一番見て欲しい映画だ。

 

この世界の片隅に」での日常

 「この世界の片隅に」では、あなたは「すずさん」という少女になる。すずさんは、クラスに一人はいる、天然すぎていろいろやらかしても憎めないタイプの可愛らしい女の子だ。ただ、彼女がいる時代が私たちとは違う。すずさんがいるのは、1940年代の広島や呉だ。今の高校生にとっては想像もつかない異世界に違いない。でも、素直な感覚で映画に集中すれば、あなたは本当にその異世界にタイムスリップしてしまう事になるだろう。

 始めのうちは、今ではありえない風習に驚き、見た事も聞いた事もない日常に当惑する事も多いかもしれない。しかし、段々とそんな異世界の日常もすずさんの天真爛漫な様子につられて「当たり前」のような感覚になってきて、自分が今いる「この世界」とは別の「あの世界」で生きている感覚になる。もしかすると、ちょっと不便だけど、こういう世界も長閑で悪くないかなと思うようになるかもしれない。

 そんな感覚になってゆけば、あとは映画の終わりまで身を任せて、あなたなりに懸命にすずさんの人生を歩んでゆくことになる。途中、意識が飛んでしまうような大変な事もあるし、気持ちが激しく揺れ動く事もあるが、それとてあなたが生きている限り、日常は続いてゆく。あなたが経験した事は「あの世界」では紛れもなく真実なのだ。

 「この世界の片隅に」は普通では体験できないそんな事が起きる映画だ。

 

生きてゆく私

 ちょっと横道にそれる。個人的な経験談でしかないが、私が高校生の頃、「人生の目標」とか「生きる意味」などをそれなりに真面目に考えていた時期がある。とはいえ、明確な目標に向かって寝食忘れて何かに熱中していたという記憶もなく、ただ、自分はこれからどうなってゆくのだろうと漠然とした不安を抱いていた。今の高校生の中にも、おそらく私と同じようなつかみどころのない不安を持つ人がきっといるだろう。

 ところが、「あの世界」のすずさんは、日々、楽しそうに懸命に生きている。「あの世界」ですずさんの人生を送るあなたもまた、「懸命に日々を生きてゆく」感覚をいつのまにか体得しているに違いない。まず、食べなければ生きてゆけない。食べるために、ない知恵を絞って策を練る。危険を感じたら逃げなければならない。下手をすれば死ぬ日々だ。「人生の目標」とか「生きる意味」など考えている場合ではない。「あの世界」で生きるとはそういう事だ。状況的には不幸な気もするのに、間違いなく「生きている私」をくっきり実感できるのはなぜだろうか。ともあれ、「あの世界」ですずさんの人生を送るあなたは、「この世界」での自分の悩みはいったいなんだったのだろうと思うかもしれない。いや、すずさんの人生に入り込めば、そんな雑念すら浮かぶ暇はないかもしれない。

 

夢からはいつか覚める

 しかし、「あの世界」にずっといる訳にもいかない。いずれは「この世界」へ戻って来なければならないのだ。三葉の世界にいた瀧の心が瀧の身体に戻って来るように、それまで流れていた「あの世界」の時間が、コトリンゴの「たんぽぽ」という曲によって、ぱっと途切れる。あなたとほぼ同世代のすずさんが生きた「あの世界」から、あなたが今生きている「この世界」へ戻ってくる時がやってきたのだ。もうスクリーンに映し出される「すずさんのその後」をあなたは今の自分の視点で眺めている事に気付き、「この世界」へ戻って来た事を実感する。それまで感じていたすずの人生がまるで夢のように感じられることだろう。そして、「あの世界」と「この世界」との折り合いを自分の中でどうつけていいか模索しているうちに、これまで味わったことない感情がとめどもなく溢れ続けるはずだ。あなたは「この世界」へ戻って来た。コトリンゴの「たんぽぽ」の伴奏が、あなたの心臓の鼓動のように鳴り響き、今生きている事への充足感がみなぎってくるに違いない。確かにあなたは今ここに生きている。

 

「あの世界」から「この世界へ」

 ただ、夢から覚めたといっても、すずさんの人生は幻ではない。すずさんの人生は確かにあったのだ。すずさんがもたれかかっていた大正屋呉服店、すずさんがスケッチした広島産業奨励館(原爆ドーム)、すずさんが見舞いに訪れた海軍病院の階段。すべて実在し、今も現存する。すずさんが経験した様々な事もすべて実際に起こった事だ。「君の名は。」の糸守町やティアマト彗星はフィクションだが、「この世界の片隅に」で起こった事は、すべて本当のことだ。

 

 もし、あなたの周りに90歳を超えるような女性がいらっしゃったら、その人こそが、「すずさん」である。その女性は、紛れもなく、「あの世界」に実際に「生きていて」そして今「この世界」でも「生きている」。「あの世界」であなたが経験した事は、その90歳の女性の中に確かに深く刻まれているのだ。「この世界」は「あの世界」から間違いなく続いている。「あの世界」から生き残った人々がいたからこそ、「この世界」のあなたは今、ここに存在しているのだ。

 しかし、残念ながら「あの世界」から生き抜いてきた人々も、徐々に「この世界」からあなたより先に姿を消してゆくだろう。そして、今、あなたは「この世界の片隅に」生きている。

 

 高校生諸君、是非とも、映画館で「この世界の片隅に」を観て、「あの世界」へ旅立ち、すずさんの人生を生き抜いて欲しい。さらには、沢山の友人を誘って、「あの世界」を共有してほしい。それが私の切なる願いである。

 

 「あの世界」を「この世界」から未来へと受け継いでゆく最前線は、間違いなく高校生のあなたなのです。

「この世界の片隅に」は無形文化遺産である

「でもアニメでしょ」と言う人に

 随分と大きく出たタイトルだが、既に作品を映画館で見ているなら「そうかもしれんな」と思った人もいるかもしれない。時間が経てば経つほど、「この世界の片隅に」の物凄さを実感している。既に「音の風景が広がる」「化学」の視点で私なりにこの作品について書いたのだが、その後、見た人の多種多様の様々な視点がほぼ無尽蔵に出てきて驚きの毎日である。こうの史代・片渕監督・素晴らしいスタッフの方々の当初の意図を徐々に超えて、多くの観客がこの作品へ養分を与えて育てている感すらある。

 もちろん真面目に「ユネスコ無形文化遺産に推薦しよう!」と言いたい訳ではない。この作品はそんな権威付けとは無関係だ。より多くの人が映画館に行ってこの作品を「体験」してくればいいのである。しかし、映画館に行かなければ始まらない。観客数が頭打ちになり、映画館での上映が次々と打ち切りになってしまう可能性は今でもある。

 

 ということで、私としては珍しくいろいろな人に「この世界の片隅に」を見に行くよう伝えているのだが、「でもアニメでしょ」と言われる事が案外と多いのである。そのような人に「アニメだけど、描写が本当に凄いんだよ、実写で出来ない事をやっているんだよ!」とあれこれ言葉を尽くしたところで、「でもアニメでしょ」と同じ返答がくるのである。そりゃあ、「この世界の片隅に」は正真正銘アニメーションである。そこは否定のしようがない。アニメーションと言う存在を生理的に受け付けないというのなら、致し方ない。しかし、ある年代以上で「アニメは嫌いではないが、映画館で見るようなものではない」と思い込んでいる方もまだ多いようなのだ。どうも、大昔に孫に付き合って見たアニメを基準として「アニメ=漫画=子供向け」という感覚で今まで来てしまっている可能性が大きい。当然、孫が成長した後はアニメなど全く見ない日々である。はっきりいってそういった世代の方々にこそ見てほしい作品なので非常にもったいない。

 ここで邪道かもしれないが権威を利用する事にしよう。すなわち「ユネスコ無形文化遺産になりうるアニメだよ」という殺し文句を繰り出すのだ。すべてではないにせよ、ある年代以上は、世界遺産とか無形文化遺産を妙に有難がる人が多い傾向がある。実際にそれぞれ価値のある事物だからそれらに感動する事は悪くはない。しかし、「富岡製糸場世界遺産に登録された」と聞いて、「是非行ってみたい!」などと衝動的に言いだす人を見ると「昔からずっとあそこにあるんだけど、、」とつい言いたくなる。どうも「権威」が付く事が重要な人もいるようなのだ。そこで映画館へ足を運んでもらうための方便としてユネスコの「権威」を使わせてもらうのだ。

 しかしながら、「そんなのはあんたが勝手に思っているだけでしょ。実際、認定された訳でないし」という反論が来る事は容易に想像がつく。そりゃそうだ。ということで、これから「この世界の片隅に」がユネスコ無形文化遺産になりうる根拠を書く。半分冗談だが半分本気である。

 

ユネスコ無形文化遺産の条件

 まず、ユネスコ無形文化遺産の定義を記すと

 

慣習、描写、表現、知識及び技術並びにそれらに関連する器具、物品、加工品及び文化的空間であって、社会、集団及び場合によっては個人が自己の文化遺産の一部として認めるもの

 

だそうだ。

 

 なんだか、解釈を広げれば、私たちの文化的な活動・生産物はすべて当てはまりそうであるが、当然、選定基準がある。選考基準は二つ。

 

 1.たぐいない価値を有する無形文化遺産が集約されていること

 2.歴史、芸術、民族学社会学、人類学、言語学又は文学の観点から、たぐいない価値を有する民衆の伝統的な文化の表現形式であること

 

 「誰が『たぐいない価値』を決めるのか」というツッコミはひとまず置いといて、映画「この世界の片隅に」が、これら選考基準に適合するか考えてみよう。

 

映画「この世界の片隅に」は無形文化遺産の選考基準を満たしているか

 選考基準の1番目は、映画を見た人なら言わずもがなであろう。まず「無形文化遺産が集約されている」という文言は、まさに映画「この世界の片隅に」そのものである。観客に「すずが実在している」と思い込ませるために、人々の記憶に微かに残されているあの時代の文化の様相が圧倒的なリアリティによって濃縮還元されているのだから当然だ。そして、口コミ中心でこれだけの観客を引きよせ、高評価な人が大半(11月23日時点で、yahoo評価は4.56 / 評価人数2000以上)な訳だから「たぐいない価値を有する」と判断してもよかろう。とはいえ、「アニメなんて」という人にとっては「それは単にお前の思い込みだろう」「高評価は流行に踊らされているだけ」と言われるかもしれない。

 

 そこで選考基準の2番目。具体的な基準を示そう。

 まず「歴史」「文学」の観点だが、本作品は第二次世界大戦(太平洋戦争)についての貴重な伝承文学と捉えることができる。語り部は言うまでもなく「すず」である。本編ではすずが見聞していない事はほとんど「伝言」「回想」でしか登場しない。あくまですずの近辺で起きた事を「自作の絵画」なども通して語ってゆくのだ。すずの語りがリアルであればあるほど「すずが実在したかどうか」は問題にならなくなる。それは伝承文学の大きな特徴である。そして伝承であるからこそ、リアリティが出てくる。

 民俗学」「人類学」「言語学の観点では、作品中で、当時の生活の中で存在したすべての事物を、音声や形態も含めてほとんど偏執質的に詳細に再現している点があげられる。それは日常の細々した生活道具や民家の建築様式などはもちろんのこと、その地域に伝わる風習・言い伝え(傘や箸の話)そして方言(呉と広島の微妙なイントネーションの相違)にまで細部にわたる。また、季節ごとの的確な自然環境の描写を盛り込む事で、その地域の自然風土に合わせた伝統的な祭りや生活様式・伝統的産業も巧妙に表現している。

 社会学の観点では、当時の家父長制や隣組(隣保班)および軍隊組織が実際の生活の中でどのように機能していたか、あえて説明的な台詞を一切使わず、些細なエピソードの積み重ねによって描写している。同時に、観客は現在の日常での人間関係を思いだし、「家父長制」や「隣組」そして「軍隊組織」の残渣が潜在的な構造として現在も継続している事を実感することになる。

 そして、「芸術」の観点。人をそれまでとは違った世界へ連れてゆく創作物を芸術と言うのなら、映画「この世界の片隅に」はまさに芸術以外の何物でもない。なぜなら、この作品を観る事で、観客の精神は「すずが本当に生きている戦前の呉・広島」へ連れて行かれてしまうのだから。

 

 これらの観点をまとめれば、この作品が「民衆の伝統的な文化の表現形式」として二重の意味で適合していることになるだろう。一つは日本で既に五十年以上の歴史を持つ「アニメーション」という「民衆の伝統的な文化の表現形式」である点。もう一つは「作品中での戦前の生活そのもの」が既に「民衆の伝統的な文化の表現形式」なっている点である。

 

 これだけでも充分なのだが、駄目押しをしておこう。ユネスコ無形文化遺産の選定では、選考基準の項目を満たした対象に対して、さらに考慮基準というものを付加して総合的に最終決定されるようである。その考慮基準とは、

 

 1.人類の創造的才能の傑作としての卓越した価値

 2.共同体の伝統的・歴史的ツール

 3.民族・共同体を体現する役割

 4.技巧の卓越性

 5.生活文化の伝統の独特の証明としての価値

 6.消滅の危険性

 

だそうだ。何かこの作品のために用意された様な考慮基準だ。

 

 「1」「4」については、こうの史代・片渕監督・優れたスタッフたちの卓越した創造的才能と超絶技巧を前にすれば、もうこれ以上何を説明しろというのかと言う感じである。

 「2」「3」「5」については、まさに映画「この世界の片隅に」こそが、そういった価値・役割を担っている本体そのものと言う事になろう。そして、この作品は、すずの人生を通した「時代の記憶」を世代を超えて伝播する強力なツールとなる事も間違いないだろう。

 そして「」。当面は、消滅の危機はないかもしれない。しかし、時が流れて数世代後、この作品は生き残っているだろうか。どれだけ優れた芸術作品でも、歴史の荒波の中で、あるいはもっと些細な積み重ねで、あっさり失われてゆく事は多いものである。NHKテレビで放映されていたある時期の秀逸なドラマが全話ごと消失している事などを考えても、全く油断はできないのである。

 

 以上のことから、映画「この世界の片隅に」はユネスコの「無形文化遺産」に選定される条件を充分に備えていると考えられる。

 

 「でもアニメでしょ」の人へ向けて、上記のような事を、多少尾ヒレをつけながら説明・説得し、「そこまで言うなら、見に行こうかな」となれば万々歳である(ここまで書いておいてなんだが、口頭で上記の根拠内容でそういった人を説得させる自信は私にはない。弁の立つ人、よろしくお願いします)。より多くの人がこの作品を観るために映画館へ足を運ぶ事が、遠い(あるいは近い)将来の「消滅の危険性」を低くする最善の方法である。

 

 そして、この記事を読みながら、まだ映画「この世界の片隅に」を観に行ってない人へ。

 

悪い事は言わない。

まずは、映画館へ足を運び、戦前の呉・広島に行って、すずの人生を体験して来て欲しい。

「この世界の片隅に」の化学

名前の由来

 「この世界の片隅に」を映画で初めて知り、このページにたどり着いた人は、この記事のタイトルを見て「あの作品と化学なんて関係あるのか」と不思議に思っているかもしれない。一方、原作の「この世界の片隅に」に深く親しんでいる人なら「ああ、あの事ね」とおよその見当がついている事だろう。

 本当に沢山の人がこの作品について激賞している状況の中、せっかくなので「この作品での化学の視点」についても、まとめておこうと思う。より多くの人(特に理系の人)が映画を見に行くきっかけ作りに、あるいは既に観た人がまた見にゆきたい気分になれば幸いである。

 

 さて、「この世界の片隅に」の化学とは何か?実は、この世界の片隅に」の登場人物の名前のほぼすべては元素名からつけられているのだ(と推測される)。確かにそう思って見ると、偶然にしては出来過ぎで、作者が意図的に命名したと考える方が自然であるらしい。なお、どの元素をどの名前に当てはめるのか意見が分かれているものもあるので、ここではあくまで私個人の解釈ということをお断りしておく。では、紹介していこう。

 

北條家=ホウ素 B

 北條(浦野)すず(主人公)= スズ Sn

 北條周作(すずの夫)= 臭素 Br

 北條円太郎(周作の父)= 塩素 Cl

 北條サン(周作の母)= 酸素 O

 

  黒村家= クロム Cr

  黒村(北條)径子(周作の姉)= ケイ素 Si

  黒村キンヤ(径子の夫)= 金 Au

  黒村晴美(径子の娘)= アルミニウム Al

  黒村久夫(径子の息子)= ヒ素 As

 

小林夫妻(円太郎の姉夫婦)= コバルト Co

 

浦野家=ウラン U

 浦野十郎(すずの父)= 重水素 D 又は 2H

 浦野キセノ(すずの母)= キセノン Xe

 浦野スミ(すずの妹)= 炭素 C

 浦野要一(すずの兄)= ヨウ素 I

 

森田家(すずの母方の実家)= モリブデン Mo

 森田イト(すずの母方の祖母)= イットリウム Y

 森田マリナ(すずの母方の叔母)= 鉛 Pb

 森田千鶴子(すずの母方の姪)= 窒素 N

 

水原哲(すずの同級生)= 鉄 Fe

 

白木リン(呉の二葉館の遊女)= リン P

 

りっちゃん(席が隣のすずの同級生)= リチウム Li

 

隣保班(隣組の面々)

 知多さん= チタン Ti

 刈谷さん= カリウム K

 堂本さん= 銅 Cu

 

なお、映画には登場しないが、他に

 

テルちゃん(リンの同僚)= テルル Te

栗本さん(円太郎の同僚)= クリプトン Kr

 

というのもある。

 

「だから何?」と言われるとちょっと辛いのだが、それぞれの元素の特性のあれこれと登場人物のあれこれとを照らし合わせると、これがなかなか面白いのである。当然、作者がどう想定したかは全くわからないから、今から書く事は勝手な私の妄想に過ぎない。まあ、こういうものには正解はないと思うので「こういう見方もあるかもね」と暖かく見ていただければ幸いである。ただ、原作も映画も未見の人で、ある程度化学の知識もあり、物凄く勘のいい人は、この妄想でネタバレ的な雰囲気を嗅ぎ取ってしまうかもしれない。そこはうまく意識をぼやかして一旦は心の隅の隅に格納し、映画を見に言って欲しい。

 

浦野家と北條家

 ウラン(浦野家)はすべての同位体放射性元素で、御存じの通り、広島に落とされた原子爆弾の材料である。広島の原爆被害はウラン核分裂の連鎖反応によって生じる膨大なエネルギーによって引き起こされた。一方、原子力発電所における核燃料としても重要だ。しかし、原子力発電所ではその核分裂は制御されていなければならない。

 制御するために必須なのが、核分裂で生じる中性子を減速・減少させる減速材及び制御棒である。減速材として現在最も使われているのが、水である。しかし、中には、水素の中性子が一つ多い重水素(浦野十郎)で作った重水を減速材に使う場合もある。また、古いタイプの原発では炭素(浦野スミ)が減速材として使われることもある。

  しかし、制御棒の素材および減速材として重要なのはなんといってもホウ素(北條家)だ。ホウ素は半減期1秒以上の放射性同位元素を持たず、事実上、安定元素のみの元素である。そして、より多くの中性子を捕えることができる。つまりはドーンとこいと言う感じの元素だ。

 また、核分裂がおきると、その副産物として核分裂生成物が生じる。これは原爆でも原子炉でも変わらない。そこで、あらゆる元素が生じるかといえば、そんなことはない。明らかにウラン原子核の割れ方に傾向があり、生じる核分裂生成物は特定の元素に偏在する。例えば、ストロンチウムモリブデン(森田家)、ヨウ素(浦野要一)、キセノン(浦野キセノ)、セシウムなどである。ストロンチウムヨウ素セシウムの三つは原発事故でお馴染みであろう。他の放射性元素原発事故で放出されているのだが、ガスとして拡散したり、半減期が短かったりで問題にはされてない。また、ストロンチウムは崩壊の過程でイットリウム(森田イト)の放射性同位体が生じる。

 なお、十郎を除いた浦野家と北條家の男性は塩素(北條円太郎)ヨウ素(浦野要一)臭素(北條周作と全員、17族(ハロゲン)の元素である。この中で最も反応性が高いのは塩素、逆に一番落ち着いているのがヨウ素だ。

 また、コバルト(小林夫妻)の放射性同位元素は原子炉で安定元素のコバルトに中性子を当てて人工的に生成させる。つまり、意図的に中性子との「お見合い」をさせないと生じない放射性同位元素なのだ。

 また、核分裂ではなく、核融合においてはリチウム(りっちゃん)の同位体は重要な核燃料源であり、同時に水素原子の中性子が三個の同位体三重水素トリチウム)を人工的に製造する時にも必要となる。核化学から離れるが、炭酸リチウムはそう鬱病の治療薬として使われている。

 

北條(浦野)すず

 スズ(北條すず)と言う元素は風変わりである。まず温度によってその性質が変わる。13℃以下では灰色スズとなり長期間置いておくと、ボロボロになって来る(スズペスト)。スズは酸にもアルカリにも溶ける両性金属でもある。両性金属は他にアルミニウム(黒村晴美)、鉛(森田マリナ)がある。また、放射線を出さない安定同位体が10種類もあり、これも別格だ。これは中性子と陽子が安定した構造を取りやすい魔法数を持った元素だからだと考えられている。この魔法数を持った元素は、他に酸素(北條サン)がある。そして、炭素(浦野スミ)、ケイ素(黒村径子)、(森田マリナ)とは14族(炭素族)の仲間同士だ。

 また、スズの応用面として、ブリキがある。これは、(水原哲)にスズをメッキしたものだ。スズがすぐに酸化被膜を作ってくれるので鉄の酸化(錆)を防いでくれる。しかし、ブリキは外に出したりして傷をつけたりすると、スズのメッキ部分に穴があき、そこから鉄がどんどん錆びてしまう。ただし、メッキ部分のスズは鉄よりもイオン化傾向が小さいので変化しない。

 

白木リン

 リン(白木リン)は酸素などと化合物となっていればそれなりに安定しているが、単体で存在していると不安定な場合もある。白リンと呼ばれる同素体は、強い毒性があり、50℃以上で自然発火する危険な物質である。しかし、その白リンも酸素を遮断して300℃に熱すると、赤リンとなって、非常に安定した毒性の少ない物質に変わる。すなわち、反応する条件や相手次第で落ち着き場所を確保できる元素である。そして、ある意味、スズ(北條すず)の変幻自在な所と少し似たところがある。なお、リンは15族(窒素族)の元素でヒ素(黒村久夫)と同族である。

 

 

黒村径子と黒村晴美

 クロム(黒村家)は、その腐蝕されにくい特性を応用して合金やメッキには欠かせない金属である。大昔は懐中時計と言えば銀時計が一般的だったが、今では手入れの楽なクロムメッキの時計が主流である。とはいえ、全く錆びない(黒村キンヤ)によるメッキは現在でも高級腕時計などに使われ、時計を単なる道具でなく宝飾品として扱う伝統が維持されている。また、ケイ素(黒村径子)の結晶(水晶)は電圧をかけると規則的な振動が起こる。その性質を利用して作られたのがクオーツ時計である。機械式に比べて誤差が非常に少ないため、機械式の時計は今ではほとんど見かけなくなった。

 時計とは離れるが、アルミニウム(黒村晴美)の酸化物の結晶にクロムが部分的に入りこむと色を呈するようになり、1%のクロムが入るとルビーとなる。また、単体のアルミニウム(黒村晴美)は酸化した金属を還元する働きがあり、金属酸化物とアルミニウムの混合物にうまく点火する事ができれば、大量の光と熱を発しながら爆発的に反応が進み(テルミット反応)、単体の金属を得る事ができる。しかし、素人が分量を誤ってこの反応を実行すると大事故につながる場合もある。

 なお、(黒村キンヤ)とアルミニウム(黒村晴美)は、銀や銅に次いで電気伝導率が非常に高い金属である一方、ケイ素(黒村径子)とヒ素(黒村久夫)は、導体と絶縁体の中間、いわゆる半導体の材料として欠かせない元素である。

 

隣保班の面々

 カリウム刈谷さん)、チタン(知多さん)、(堂本さん)は三つとも第4周期の元素である。第4周期は遷移元素が登場し、他人ではあるけど横のつながりも大事という雰囲気が出てくる周期である。つまりは隣組と言う訳だ。なお、この三つの元素の中では原子半径が一番大きい(幅を取る)のがカリウム刈谷さん)、酸化物が看護婦の白衣のように真っ白で、白色顔料や日焼け止めに使われるのがチタン(知多さん)、そして、元素の発見年代が最も古い(古参)のが言うまでもなく(堂本さん)である。

 

あなたは誰?

 「この世界の片隅に」の小説版では、映画でも原作でも出てこなかった新たな「名前」が出てくる。その名は「ヨーコ」。既に映画を見た人、原作を知っている人は、どこで彼女が登場するかおよそ見当はつくであろう。これは私の妄想と言うより希望なのだが、この「ヨーコ」は漢字で「陽子」であって欲しい。

 陽子(プロトンは、原子の原子核において正の電荷をもつ粒子である。陽子の数が原子番号すなわち元素の種類を決める。今ある元素の起源も元をただせば陽子である。具体的には恒星の中で陽子がぶつかりあって、核融合反応が進行し、新たな元素が生れてくるのだ。そして、そこで生じた新たな元素たちは、恒星の終焉とともに広い宇宙へタンポポの綿毛のように散らばってゆく。つまり、陽子(プロトン)は新たな始まりの象徴なのだ。

 

小説 この世界の片隅に (双葉文庫)

小説 この世界の片隅に (双葉文庫)

 

 

 

こうして、元素とからめて「この世界の片隅に」を鑑賞すると、これからは周期表を見るだけで、それぞれの元素の行く末を想い、胸が熱くなってしまうかもしれない。

 

 以上、かなり変則的な「この世界の片隅に」の紹介(?)であったが、この作品は、本当にいろいろな要素が詰まっているので、化学の他にもいろいろな見方ができると思う。様々な視点を通して、全く気付かれていなかった「この世界の片隅に」の新たな魅力がさらに増えてゆけばいいなあと思っている。

 

追記:

 浦野十郎は、ジルコニウム(Zr) という視点もある。ジルコニウムは原子炉での核燃料の被覆管の材料である。

 また、白木リンの白木が、白金(Pt)と言う見方もできる。白金は、酸化しにくい貴金属として金と並ぶ元素であると同時に自動車の排気ガスを浄化する三元触媒の材料の一つとしても重要である。

 とかあれこれ書いているうちに貴重な情報が。作者の弁によると、浦野十郎はロジウム(Rh)だそうだ。ウラン核分裂における最終安定核種の一つだ。キセノン(浦野キセノ)とある意味、同じ枠組みになる。

 

1年後の追記:

 「この世界の片隅に」ブルーレイの特典ディスクにある「公開記念!ネタバレ爆発とことんトーク!」の中で、「ヨーコはヨウ素でいいよね」という片渕監督とこうの史代さんの弁があったので、ヨーコはヨウ素(I)らしい。コメントでご指摘したくださった方、改めてありがとうございました。

 なお、ヨウ素放射性同位体であるヨウ素131はウラン核分裂で生じるメジャーな娘核種(娘という語が使いたいのである)である。そして、放射性崩壊をした後は、安定核種であるキセノン131になる。つまり、原爆で亡くなったすずさんの母、浦野キセノへと回帰するという見方もできないことはないだろう。

 また、私の錯覚・誤解かもしれないが、浦野キセノとヨーコが何気に邂逅していると思われるシーンもあるので興味ある方は探してみる事をお勧めする。

音の風景が広がる 「この世界の片隅に」後篇 

冒頭5分間の奇跡

 予告のPVを見ている時分から、「これはすごい!」という予感はあったのである。しかしながら、本編はそんな予感をはるかに超えるものであった。

 原作とおなじく、海苔が干してある浜辺で、すずが母親に海苔の荷を背負わされる所から映画は始まる。原作よりもかなり引いたカットになっており、小さなすずがほぼ真ん中にちょこんと立っている。荷物を背負うすず。すずはまるでその風景の一部のようだ。画面全体に充満する微かな浜辺の音。下手すると汐の香さえ漂ってきそうである。原作に忠実どころの話ではない。原作の諸要素を最大限増幅させたような圧倒的な「空気感」に「うわあ、ちょっと!ちょっと、これは!」とつい変な声が出そうになった。何がちょっとなのか自分でもわからない。入って来る情報が多すぎて混乱していたのであろう。

 そして、いきなりすずの語りが始まる。どんな事情の人が声をあてていようが私には関係ないのだが、これがまたこの「空気感」の中に最初からあるべくしてあるような声として、さりげなく「音の風景」の中に滑り込んで見事に融合してゆく。もう始まって数十秒で、完全に「この世界の片隅に」私自身が入ってしまった。

 やがて船頭さんとすずの会話が始まる。すずとの距離がより間近になり、船頭さんにお辞儀し、たどたどしく挨拶をし、座りが悪い様子など、「微かな揺らぎ」をもちつつ、「生きた人間」としてのすずの実在感が立ち上って来る。そして、船が街へ近づいてゆく中で生活音も微かに増え始め、すずがこの時代この場で確かに生きている事が実感されてゆく。まさに動きの部分でもリアリティの山が築かれている。片渕監督の話によると、やはり単位時間当たりのコマ数は通常のアニメ作品よりもかなり多いようだ。言うまでもなくこの作品ではCGアニメの部分は皆無である。つまり、微かな揺らぎは私の気のせいでなく、実際にそう感じるように作っているのである。

 さて、上陸して広島の街を歩くすず。年の瀬なので多くの人が道を行き交う。ここで、また「うわあ」と声を出しそうになる。街ゆく人々それぞれが独自な「微妙な揺らぎ」によって、独立して動いているのだ。つまりは単なる群衆でなく、確かにその場その時代に生きていた一人一人を余すことなく描写しているのである!そして、さらにはっきりした輪郭と遠近感を持って満ち溢れる雑多な街の音、音、音。そんな中で、菓子や人形を眺めるすず。すずの後ろではヨーヨーで遊ぶ子供たち。ここに出てきた人々が十二年後にどれだけ生きているだろうか。しかし、この時、確かにここに人々の生活があり、それぞれに生きていたのだ。もうここまでで胸がいっぱいである。涙が出そうだ。

 そして、すずは道に迷う。普通、道に迷ったらもう少し、おどおどして慌てるものだが、すずは視線を落として大正呉服店の建物に寄りかかっているだけだ。もちろん、本人は途方に暮れていて、心の中では「うちは、ぼーっとしとるけん、迷子になるんかのう。困ったねえ」などとぼんやり考えているのである。こんな能天気なすずがその後に経験するあれこれの事を思うと、また堪らない気持ちになって来るのだが、そこに追い打ちをかけるように、すずの心情をそのまま歌にしたような「悲しくてやりきれない」がコトリンゴのささやくような声で始まる。もう駄目である。目頭が濡れてくる。まだ始まって五分も経ってないのに、完全にあちら側に持っていかれてしまっている。本当に奇跡としか言いようがない冒頭五分間である。

 

この世界の片隅に 劇場アニメ公式ガイドブック

この世界の片隅に 劇場アニメ公式ガイドブック

 

 

 

全編に溢れる音の風景

 驚く事に、冒頭のこうした情報(情緒)密度を維持しながら、物語はその後も進んでゆく。と言っても、物語らしい物語はない。かなりぼーっとした少女が周囲に揉まれ、あれこれドジをしながら、平平凡凡と日々を過ごしてゆくだけである。この作品を観た人の多くは、当時の生活の様子がよく実感できたという感想を抱くだろう。また、あの時代に生きた人は忘れていたあの頃の事を鮮明に思い出すかもしれない(本当の飢えはあんなものでないなどと言う人もいそうだ)。

 そうしたリアリティは、言うまでもなく膨大かつ厳密な時代考証に基づいて、小津安二郎の映画のように、画面の隅々まで市井の生活を再構築した絵コンテ及び原画が大きな役割を果たしている事は言うまでもない。今もほぼ変わらない自然景観や実在した建築も当時にそう見えていた通りに忠実に再現しているそうだ。しかし、いくら正確に再現と言っても、実写ではないのである。実写どころか、原則こうの史代タッチで描写されているから、すべて淡い水彩画のような雰囲気にまとめられている。つまりは細密な描きこみは、一部の兵器以外ではほとんどないと言っていい。なぜそれでリアリティを感じるのか。

 一つは人間の視覚というのは、ある程度の「目印」「お約束」が成り立つと、別に細密に描写しなくても「そういうもの」としてまとめて情報処理してしまう癖があるからだろう。もし、本物そっくりでなければ対象を正しく認知できないのであれば、漫画やアニメーションの鑑賞は成立しなくなる。

 そしてもう一つの要因は、ここまで再三述べてきた音の風景や微かな揺らぎによって生じる「空気感」である。単に効果音を入れるだけでなく、それぞれの音の指向性および距離感まで考え抜かれているのが本当に素晴らしい。兄弟を起こさない様に祖母を呼びにゆく時のすずの声。海苔を漉く水の音。隣組が一升瓶に醤油を注ぐ音。スケッチブックで擦れる鉛筆の音。アキアカネが飛ぶ音(!)。ともあれ、例をあげだしたきりがない。その場の空気感を感じる事が出来れば、見ている者もすずの世界と一緒に時を刻む感覚になってゆく。つまり、戦前の呉にタイムスリップして、同じ空気を吸っている状況になるのだ。「リアルとリアリティとは違う」ということが、これほどに顕著にわかる作品もなかろう。

 そして、そうした音の風景の中に、まるでコロボックルが自然発生的に音楽を奏でているようなコトリンゴの音楽がひっそりと寄り添い、それぞれの場面の「空気感」を補強してくれる。当然の事ながら、音楽が前に出すぎることもなく、この作品全体を上質なベールで優しく覆ってくれるような楽曲たちである。それはそれなりにメッセージ色の強い歌詞のついた四作品でも変わらない。

 

劇場アニメ「この世界の片隅に」オリジナルサウンドトラック

劇場アニメ「この世界の片隅に」オリジナルサウンドトラック

 

 

 

日常の音と非日常の音

 すっかり当時のあの場所の人間として生活している気になっていると日常では聞く事のない「非日常の音」が入って来る。最初はまるで遠方の花火のような、あるいは運動会を知らせる号砲のような長閑な音として針巻山の高射砲が鳴り響く。その音の遠近感もたまらない。しかしながら、日常の音の風景の中に、「非日常の音」が乱入する事が多くなる。ついには警戒警報が鳴り響き、灰ケ峰の向こうから敵機来襲。

 ここは人々が生活する場である。戦場ではない。しかし、戦闘機のエンジン音のダイナミックな三次元的高速移動、腹に響く照射音、飛び散って地面に響く破断片。すべて非日常な夢でも見ているような「音の風景」が展開する。さらには、戦局が悪化するにつれ、防空壕で爆裂振動が不規則に直接腹に響くように伝わり、至近距離でのグラマンによる地響きのような掃射などなど、容赦なく音響で殺しにかかっている感じである。下手なVRを余裕で超えて、感覚的に「自分の身が危ない!」とつい思ってしまうほどだ。

 この日常に刺しこまれた非日常の音の音響設計は本当にそれまでの長閑な生活を打ち砕くには十分すぎるリアリティがある。しかし、その非日常の音の風景が日常になってゆく。その音の風景が遷移してゆく様子もまた別の意味で恐ろしい。空襲警報が町内放送と同じレベルに変容してゆくのだ。

 そして、あの日の閃光。続く鈍い音と衝撃波。北條家の瓦が数枚落ちる。感覚的には小規模な地震のように思える。広島に原子爆弾が落ちたのである。歴史的な後付けになるが、最も「非日常」と言える音の風景である。しかし、その時の呉市民は直接の被害を感じずに、広島方面の突然発達した積乱雲のような雲を不安そうに眺めつつも、生活を続ける。この日常と非日常がいびつに交錯する「音の風景」は個人的には既視感がある故に、本当になんともいえない気分となる。

 原爆をテーマにした映画は数多くあるが、原爆投下の瞬間は基本的に記号的表現にならざるを得ない。なぜなら、広島市内で原爆投下の瞬間を忠実に再現しようとすれば、観客の鼓膜は破れ、劇場ごと衝撃波で吹っ飛んでしまうからだ。当時の様子を正しく伝えるには、爆心地からある程度離れた場での様子を描写する他ないだろう。そう言った意味で、本作は、映画において原爆投下の瞬間を忠実に再現した最初の作品になるのではないか。前例があれば教えてほしい。

 こうした「真に迫った」などと言う生易しい言葉では伝えられない生命の危機を日常で感じる「音の風景」は、初めて経験する人が多いだろう。そして、実際に経験した人は、遠い昔の事であってもフラッシュバックが起こらないか心配になる程である。ともあれ、これは音響設備の整った映画館でないと体感できない。DVDが出てから見ようと言うのでは駄目である。映画館で見なくてはこの映画を観る価値は半減してしまうだろう。

 

音の風景が途切れる時

 本作にリアリティを与え続ける「音の風景」と「微かな揺らぎ」。それが途切れる瞬間が3回ある。1回目は呉の生活とは全く違う世界から神の視点が現れた時。2回目は、ある個人の日常生活が断絶してしまった時。3回目はエンドクレジットが始まる時である。

 1回目と2回目に関しては、詳しくは語れない。原作未読の人にとっては、語れば半分くらいネタばれになってしまう。言える事は、「リアリティが喪失する恐ろしさ」をここまで感じた事はないと言う事だ。物理的な無音状態ということではない。その場の空気感がなくなり、精神的な真空状態になるような、そんな根源的な恐ろしさなのである。1回目は、同じ人間が無感覚になる恐怖。ここでは機械音が鳴り響くだけだ。そして、2回目は、それまでの日常が一瞬で決定的に違うものへ変質する恐怖。音の風景だけでなく、目で見る風景さえ消失し、深い内面の心象風景がコトリンゴの独特の和声に伴ってシネカリアニメーションで描かれる。この時、また「うわあ」と声が出そうになった。「これをこう表現するのか、、、」というのが正直な感想。表現者のあくなき執念を感じた。

 

エンドクレジットでのご褒美

 3回目はエンドクレジットだ。本編が終わる訳だから「音の風景」と「微かな揺らぎ」はおしまいなのは、当然と言えば当然。コトリンゴの「たんぽぽ」という前進性あふれる曲がそよ風のように流れる。観た人はわかると思うが、エンドクレジットは原作愛読者にはもうこれ以上にないくらい最高の贈りものである。月並みな表現になってしまうが、これまで何度も読み返した原作「この世界の片隅に」がここで見事に完結するのだ。もう、感無量という他ない。さらには「原作にあったアレは?」というわだかまりも最後の最後に何気なく現れて、エンド。拍手!

 そして原作未読者はエンドクレジットで一気に我にかえり、「自分の日常とすずの日常がどこかで連続しているのかな」などと思いつつ、いつの間にか目頭から液体が流れ出ている事に気付く事になるであろう(ここは個人差があります)。エンドクレジットの後半部分がよくわからなかったならば、是非とも、原作を読んでほしい。そして、また映画館に足を運び、この作品を味わってほしい。

 

 あれこれ駄文を連ねたが、この映画については、これだけ描いても到底、自分の感じた事を充分に文章化したとは思えない。観た人も「感想は言葉にできない」と言う人が圧倒的である。それは本当に痛いほどわかる。まずは映画館へ行き、自分の目で観て欲しい。観て、あなたなりに沢山の事を感じてほしい。あくまでここに書いた事は私の視点である。

 

 この作品は、アニメ史上の最高傑作、本年度邦画No.1などという次元でなく、間違いなく日本の文化遺産となると私は確信している。

音の風景が広がる 「この世界の片隅に」中篇 

微かな揺らぎも時間を作る

 ロボット工学の言葉に「不気味の谷」というものがある。ロボットをなるべく人に似せて作ってゆくと徐々に親近感がわいてくるのだが、どこかで「人に似ているが故の不気味さ」が感じられ親近感が一気に低下(谷)するという現象である。その原因はいろいろ言われており、いかんせん人間の感性の問題であるから、はっきりした理由はわからない。

 私の個人的な感覚で言うと、単に見かけがそっくりになるだけでは不気味の谷は感じられない様に思う。その人間そっくりのロボットの動きが人間のそれでない事が大きな要因のように感じられるのである。どれだけ細密に正確に人の動きを模倣しても、現時点では生身の人間の本当の動きにはならない。何が違うのか。それは、人の動きの中には常に微かな揺らぎがあるのだ。ロボットにはそれが全くない。それは単に規則的あるいはランダムにロボットを微かに振動させればいいというものではない。実際の生身の人間の揺らぎは極めて複雑である。生きた人間の「微かな揺らぎ」は通常は意識されてないし、見ている側も気付かない。しかし、驚く事に私たちの視覚はその微かな揺らぎを何気なく認知しているようなのである。

 それは、私自身の体験では、生身の人間がロボットやアンドロイドの動きを模倣する時に痛感した。どれだけ上手に模倣したとしても、本物のロボットと比べるとすぐにわかってしまうのだ。単純に「静止している」というだけでも、私たちは生身の人間の「微かな揺らぎ」を感じとってしまう。無論、遠目に見たら区別はつかないかもしれないが、ちょっと近づくとすぐにわかる。多少、視力がわるくてもわかる。つまり、物体の外見の詳細の違いでなく、「動き方」で人間であるかどうかを峻別しているのだ。

 前編で「視覚は理屈の上での時間の経過を認識する」と書いたが、どうやら「微かな揺らぎ」を認知するような「意識に上がってこない視覚」と言うものもあるようなのである。これは誰にでもあるのかどうかはわからない。とりあえず、私にはあるらしい。そうでなければ、視力のあまりよくない私が人間そっくりのロボットをロボットとして一瞬で判別できる根拠がない。そして、その「微かな揺らぎ」はどうもその物体の「空気感」を醸しているようなのだ。すなわち体感できる生きた時間が発生する。別の言い方をすれば「生物の実在感」である。その実在感こそが、生物と非生物を区別する決定的な要素のように私には感じられる。そして、当然「微かな揺らぎ」には時間の要素も含まれる。

 

こうの史代の微かな揺らぎ

 いいかげん本題の映画の話を始めたらどうか言われそうだが、もう少しこの作品の凄さの前提を語るのを許して欲しい。こうの史代の描く人物もしくは生き物に、私はこの「微かな揺らぎ」をかなり強く感じてしまう。頼りないラフスケッチのような線によって構成されるのが「こうのタッチ」の特徴だが、そのタッチの揺らぎが読み手の私へ伝わってきて、落ち着いて見ていれば、しっかりした造形の人物や生物なのに、読み進める中でそれぞれのキャラクターが実際に微妙に動いているかのような錯覚に陥るのである。

 無論、読み進めるのをやめて、その人物なり生物なりをじっくり凝視すれば、そもそもダイナミックな「運動性」のないのが彼女の作風であり、絵そのものに躍動感はあまりないから、静止しているのに決まっているのだ。しかし、再び作品として読み始めると、動いているような感じになるのである。もっとベタな表現をすれば登場人物が「生きている」。それはあの「不気味の谷」の原因となったものとは全く逆の「リアリティの山」、すなわち生きている存在の「空気感」が彼女の作品には何気なく築かれている事に他ならない。特に「この世界の片隅に」では、当時の市井の人々の生活を忠実に再現しようという作者の執念が宿った作品なので、その「微かな揺らぎ」具合が半端でない。つまり、「この世界の片隅に」で表出されるこの「微かな揺らぎ」による「空気感」をアニメーションとしてどう表現するか。素人目にも極めてハードルの高い課題のように思える。では、空気感醸成の大きな要素となる「音」の方はどうか。

 

こうの史代の音の風景

 漫画においては台詞以外の音は一般的に擬音や音符によって表現する。もちろん、様々な工夫によって音の存在を示す手法はあるものの、読者の感覚によっては目的とする音響が想起されない危険性もあり、擬音を使わずに音を表現するのはそれなりに冒険である。

 そうした一般則の中で、こうの史代の作品における音の扱いは独特である。まず擬音はよほど必要に迫られない限り使わない。かといって、特定の音を想起させるような意図的な試みもほとんどない(ように見える)。だからこうの史代作品をぼんやり読んでいると、彼女の作品全般が本当に静謐な印象を受けるのだ。はなから音の部分は放棄しているようにさえ見える。まさに紙芝居を無言で見せられているよう。

 ところが、少し読む速度を遅くして、じっくりとこうのタッチを味わいながらコマを眺めると大きな音ではないかもしれないが、そのカットでの音の風景が立ちあがって来るのだ。それはなぜかと言えば、第一の理由として、こうの作品においては「登場人物が何かの作業をしている場面が非常に多い」事があげられる。何かの作業をしているということは、そこには爆音ではないかもしれないが、間違いなく何がしかの生活の音が生じているのである。ちょっとゆっくりした読み方をするとその「音の日常風景」が脳内に補完されてゆく。第二の理由として「ワイドレンジで風景を切り取られる事が多いために、風の音、草や葉のすれる音、鳥のさえずり、人々の微かな足音など生活環境の中での様々な音がその微かな揺らぎのタッチから漂ってくる」事もある。ともあれ、ちょっとした読み手の意識の違いで、静謐だった全体の雰囲気が途端ににぎやかになってゆく。そこもまたこうの史代作品のマジックである。

 こうした「この世界の片隅に」の音の風景も、アニメ化する場合、どう処理するかなかなか難しい所があるだろう。シーンに合わせて効果音を詰め込めばいいと言う単純な話ではない事は、私でも何となくわかる。単なる音でなく「空気感」を漂わせないといけないのだ。

 さて、いよいよ映画本体の話に移る。はっきりいってこの作品の持つ情報量は常軌を逸したものがある。客観的な情報に限っても、原作以上に膨大な資料に裏打ちされた隅々まで入念に描かれた日常の事物・風俗の数々、こうのタッチと融和しつつも細密かつ正確な描写の兵器群、主人公のいる場として完全に溶け込んでいるにもかかわらず原作以上に存在感のある建築群および自然景観、などなどいちいち語っていると際限がない。こういった客観的な事項は私よりもはるかに詳しい方がいるだろうから、そちらに任せることにする。私はこの作品のベースにある「音の風景」と「微かな揺らぎ」について書いてゆく。後編へ続く。

 

「この世界の片隅に」公式アートブック

「この世界の片隅に」公式アートブック

 

 

音の風景が広がる 「この世界の片隅に」前篇 

音は時間を作る

 NHK‐FMで「音の風景」という番組がある。様々な場所の音だけを流しつつ、それがどんな場所でどんな状況なのかを簡潔に説明するだけの内容である。音だけだから、その風景が実際にどんなものなのか、言葉で説明されてもほとんどわからない。しかしそれ故に、ながれる音に意識が集中し、おそらくはテレビなどで同じ場所を見た時よりもはるかに鮮明に印象に残る。これは人によるのかもしれないが、私はそこに存在する音こそが場のリアルな空気を伝えるものと思っている。

 空気を感じるというのは、言い換えれば微細に変化し続ける揺らぎをまとめて感知している状況ということになろう。完全に時間が止まっていれば、そこでの空気感はなくなるはずだ。感覚的に時間を認知する時に音は極めて重要な要素となる。無論、形や位置の変化を通して視覚による時間の経過を判断することもあるが、それはあくまで、「頭の中の理屈の上での時間の変化」だ。例えば漫画は1ページに存在するコマ数は有限であり不連続である。あるコマとあるコマの間の時間は部分的に断絶している。しかし、読んでいて気にならないのは、時間の経過を頭の中で適宜補足しているからである。原則、視覚は不連続な時間しか認知できない。なぜなら、視覚は脳が処理するには情報量が膨大すぎるので、純粋に連続して視覚情報がどんどん脳内に入ってきたら、脳はすぐにパンクである。よって、刺激として網膜に光が届いても、「見えてない」「見てない」事も多々ある。

 音はそうではない。耳に入る音は、連続的にダイレクトに脳内に入って来る。言語の意味を「聞き落とす」ことはあっても、言葉の「音自体」をカットすることはほとんどない。さらには、無音の中にも、何か連続性を感じている。いや、無響室のような特殊な場にいない限り、この空気に満たされた世界で、厳密に無音ということはありえない。意識がある時に、音は刺激として途切れることはない。聴覚は連続した時間を体感的に認知するのに必須の感覚である。そして、音楽が時間芸術と言われる所以である。

 

この世界の片隅に」と私

 前置きが例によって長いが、映画「この世界の片隅に」を見てきたのである。個人的に完成をずっと切に待ち望んでいた作品であり、クラウドファンディングに間に合わなかった事への後悔をずっと持ち続けつつ、どれだけ時間がかかろうとも良い作品になればいつまでも待っていようと覚悟していた作品であった。部分映像が徐々にPVで流れるたびに、「これは想像以上に凄いかも」と予感はしていた。コトリンゴの音楽付きのPVが流れる頃には、そのPVを見るだけで感極まる感じになっていた。

 

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 映画を観終わった今、ここまで到達してしまった作品にクラウドファンディングのチャンスを逃した過去の自分を激しく叱責したい衝動にかられている。そして、自分の想像をはるかに超えたこの上なく愛おしいこの作品に貢献してくれた人々に深く深く感謝したい。本当にありがとうございます。

 

 ということで、今、私のできるこの作品への貢献は、何度でも劇場に足を運び作品を見る事と、より多くの人にこの作品を紹介することだろうと思って、この記事を書いている。

 映画本体の話は後編でする。面倒な人は、そこから読み始めてもいいかもしれない。ただ、前篇・中編で語る、この映画の凄さを理解するための前提を知っていると、これから鑑賞する人にとっては参考になると思う。既に観た人もまた、違った視点でこの作品をとらえることができるかもしれないので、前篇・中編もお読みいただければ幸いである。

 

 こうの史代この世界の片隅に」の原作は雑誌連載時にリアルタイムで読んでいて、毎度毎度、多様な表現手法に圧倒されていた。と同時に、類を見ない(というか、こうの史代作品ではありがちな)主人公の能天気なキャラクター造形と詳細膨大な時代考証とのギャップもなんともたまらなく魅力的で、当初は深刻な事件は何も起きない戦中ほのぼの漫画として終わってしまうのかなと思っていたくらいである。しかし、そんな訳はないのであって、上中下コミックで言えば下巻での急展開に衝撃をうけた読者も多かったであろう。私もその一人である。彼女の「夕凪の街」は序章に過ぎなかったのだなと思った。

 

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

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こうの史代の作品の特異性

 こうの史代の作品については、様々な人が詳細に論考しているので、今更私が何か書くのは気後れする。ただ、あえて私が感じている事を書くなら「こうの史代の作品は高度に昇華された紙芝居である」ということだ。もちろん、ちゃんと吹き出しもあるから、厳密な意味での紙芝居ではないかもしれない。しかし、説明的な台詞はほとんどなく、何か物語の背景を語りたい時は、人でなく、文字自体で語らせる事が多い。「この世界の片隅に」では他の作品よりも情報量が多いために、しばしば欄外に補足説明、および一次資料の模写、戦時かるた、当時の歌の歌詞などを縦横無尽に活用している。また定点観測的な描写が非常に多いのも紙芝居的だ。人物同士ががちがちに近寄ってあれこれするというシーンよりも、ちょっと引いた視点でのカットの連続が圧倒的に多い。そして、なんといっても手塚治虫以降の「運動性」が彼女の作品には希薄なのだ。躍動感あふれるコマというのは極めて少ない。登場するキャラクターはいきいきと存在しているのに、まるで田川水泡の「のらくろ」に先祖返りしたような平面的な表現手法も散見される。

 

 

 現在の大部分の漫画家は、多かれ少なかれアニメの申し子である手塚治虫の影響を受けているので、原作がアニメ化されて違和感を覚えると言う事はほとんどない。それは、原作の漫画の表現手法がすでにアニメの文法を内包しているからに他ならない。原作で描いてないカットもアニメの中では出てきているはずなのに、それは見ている人の印象に残らない。つまり、そういう約束事で原作も読んでいるので、アニメで原作の空白が埋められても、それは無意識のうちに省略されているのだ。人によっては、その作品をアニメで知ったのか原作で知ったのか曖昧になる場合すらある。

 逆に言うと手塚文法からやや外れた作家の作品は、アニメ化するのが難しいものが多い。例えば、オノナツメのような切り絵の集積のような作風の場合、アニメ化するためには、どこかで割り切って原作と違うテイストにするか、原作に近づけるためにとことんアニメの方を先鋭化させるかしかない。「さらい屋五葉」などは、卓越したクリエーターあってこそのアニメ化であっただろう。

 

 

さらい屋五葉 コミック 全8巻完結セット (IKKI COMIX)
 

 

  また、意外に思う人もいるかもしれないが、福満しげゆきの作品群もアニメ化しにくいと思う。本人が意識してか無意識かわからないが、はなから手塚文法から外れた過剰で特異な「運動性」が充満していて、あれをアニメに強引に落とすと相当に気持ち悪い事態になるだろう。あるいはアニメ化すると無意味になるネタも多い。例えば、近刊「妻に恋する66の方法」にある「浮遊妻」の話などは、アニメにしてしまえば「それって飛び越えてるだけじゃん」と言う事になって、全く面白くなくなる。

 

 

 

 そして、こうの史代の作品群もアニメ化するのは非常に難しい事は容易に想像がつく。もちろん、こうの史代の画風とストーリーで「動く絵」にするというだけなら出来るかもしれない。しかし、単に記号化されたアニメ文法にこうの作品が無理やり落としこまれるだけなら、彼女の作品に充満する「空気感」はほとんど失われてしまうだろう。それではアニメ化する意味はない。しかし、「空気感」は冒頭で述べたように「音」によって醸成されるのではなかったか。なぜ二次元の紙媒体であるこうの史代作品に「空気感」が宿るのか。中編に続く。

「君の名は。」のティアマト彗星を再考する

 以前に書いた「君の名は。」の科学・後編であるが、その後、小説版をよくみたら、彗星の諸条件および衝突時刻などが書いてあったので、さすがに部分訂正では済まないので、改めて書くことにした。全く、何を読んでいたのか我ながら情けないが、計算しなおす。「またまた無粋な事を」と思う人が大半だろうが、この作品をこれだけ沢山見に行った人がいれば、彗星に興味を持った人も少しはいるだろうから、私の妄想を楽しんでくれれば幸いである。

 

ティアマト彗星断片のスペック

 さて、改めてImpact Earth! にデータを入力して、どんな感じになるかやってみよう。基本、自分で複雑な計算はできないので、このサイトの数値を信じる事にする。

 小説版によると、糸守町に衝突した彗星の断片は

 

大きさ:直径40m  

密度:岩塊程度  

衝突速度:秒速30km 

衝突時刻:20時42分

生じたクレーターの直径:約1km  

 

他に、「衝突地点から5km離れた場所でも1秒後にはマグニチュード4.8の揺れが伝わり」「15秒後には爆風が吹き抜け」とある。

 なお、衝突時刻から逆算すると彗星分裂から約2時間後の出来事となるようである。上記の衝突速度から再計算すると、彗星本体は地球から216000kmの距離にあったと考えられる。ロシュ限界の19134kmからすればそれなりに離れた位置にあったと言うことになる。とはいえ、地球と月の距離384400kmよりも近いので、地球近傍天体である事には変わりない。

 

一応、ケイ酸塩の岩塊と言う事で密度は3g/cm3として、衝突角度は前回と同じく70°とする。

 

さて結果であるが、

 

なんと、

この条件ではクレーターができない!

上空6万mで分裂し、さらに細かくなった破片が

流れ星のように散らばるだけだ。

 

いわゆる、ツングースカ大爆発と同じパターンということになる。

 

ちょっと彗星断片の直径が小さいなあとは薄々は感じていたのだが、やはり駄目でした。ついでに言えば、この規模だと687年に一回程度の頻度で地球に落ちてくるそうだ。

 

 なお、大気圏突入時のこの彗星断片のエネルギーだが、4.52×1016ジュールということで、およそ関東大震災と同じ程度のエネルギー量である。ただし、地面に衝突した訳ではないので、上空で破片が分裂した地点から5kmの場所でどの程度の揺れが観測されるかはわからない。ただ、衝撃波によって、地面も揺れた事は充分に想定できる。ただし、「マグニチュード4.8の揺れ」とあっても、マグニチュードは揺れの尺度ではない(揺れの尺度は「震度」もしくは「ガル」)ので、実質的に何も表していない。よって、5kmの地点でどの程度の揺れが起きたかはわからない。そして、5km地点では約26秒後に秒速131mの突風が吹くようだ。

 

 

南海トラフ地震 (岩波新書)

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([し]5-1)地震イツモノート (ポプラ文庫)

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 ともあれ、小説版の条件では、(パドゥー大学のシミュレーターが正しければ)糸守町に単独でティアマト彗星の直径40mの破片が衝突する事はない。あるとすれば、分裂した多数の小さな破片のうち燃え尽きなかったものが民家や体育館の屋根を突き破ったり、相当に運の悪い人を直撃したりするくらいだろう。さて、困った。

 

条件を考えなおす

 困っていてもしょうがないので、打開策を考えてみよう。ともあれ、小説版にある条件を変えなければ、どうにもならない。しかし、数字として出ているものを変える訳にもいかない。変えるとすれば「密度」だ。密度は、あくまで「岩塊」ということでケイ酸主体の岩石を想定した。もしこれが、鉄主体の岩塊だったらどうだろうか。密度8g/cm3で計算してみよう。

 

生じるクレーターの直径:1.7km

生じるクレーターの深さ:363m

衝突地点から5kmでの爆風:15秒後に秒速206m

地上衝突時のエネルギー:4.64×1016ジュール(およそ関東大震災と同じ)

衝突地点から5kmでのメルカリ震度階級:5(気象庁震度階級では5弱~5強)

衝突頻度:1500年に一回

 

おお、今度はクレーターができる!

 

多少の数値のずれはあるが、見事にほぼ映画及び小説版の被害状況になる。彗星の周期もだいたいこんなものだろう。つまり、落ちてきたのは「鉄」(もしくは鉄と同等の密度を持つ物質)と考えるほかない。

 

 さて、ここで大きな問題がある。太陽系の起源からすると、彗星核にそれほどの量の鉄がある事は非常に考えにくいのである。鉄は宇宙全体で見ればそれほど珍しい元素ではないが、太陽系などが形成する過程では、より太陽に近い場所に局在する事になる。局在していわゆる地球型惑星(水星、金星、地球、火星)及び小惑星体(アステロイドベルト)ができたとされる。木星よりも遠い惑星の主成分は水素、水、メタン、アンモニアなどのガスであり、その他の単体や化合物は量的にはかなりマイナーな存在となる。

 彗星の多くはその木星型惑星からさらに遠方が起源と言われている。いわゆる、太陽系外縁(エッジワース・カイパーベルト)である。その領域の天体の多くは主成分が氷とされている。実際、テンペル第一彗星を間近にとらえたESA(欧州宇宙機構)の彗星探査機、ロゼッタの観測によれば、彗星の核は「凍った泥団子」のような存在形態だったらしい。凍ったというのは、水が凍っているのである。そして太陽の引力で集まらなかった塵がその氷の中に分散して混在しているのだろう。よって、彗星の核に直径40mもあるような鉄の塊があるというのは、現状では天文学的にはかなり無理のある(本来ならケイ酸塩の巨大な岩塊があるのも無理がある)話なのである。しかし、40mの鉄の塊が落ちて来ないと「君の名は。」の話は成立しないのだ。これは科学の視点で見れば、「テレビの解説の彗星の軌道が間違っている」というある意味「人為的」な問題ではなく、結構根本的な矛盾点といえる。

 

彗星の科学―知る・撮る・探る

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太陽系探検ガイド エクストリームな50の場所

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ティアマト彗星は人工天体?

 ここからは本当に私の妄想であり、「お前の頭の中ではそうなんだろう」の世界なので、暖かい視線で読んでほしい。

 「彗星の核に直径40mの鉄の塊がある」というのは、現時点での天文学での太陽系においてはほぼありえない事である。しかし、もしこれが人工物だったらどうだろうか。自然には起きない事でも、誰かが意図的に鉄(もしくは鉄と同じ密度の物質)の塊を内包した人工天体を太陽系に設置していたとしたら。

 

 話がいきなり飛ぶが、スタートレックに出てくる宇宙艦隊には「艦隊の誓い」というものがある。どんな内容かというと「宇宙艦隊に所属する宇宙船とその乗組員は、いかなる社会に対してもその正常な発展への介入を禁止する」というものである。原則的にワープ航法を自力で開発できるまでは、観測・観察にとどめ、その文明と直に交流する事はない。そのような上位の存在を仮定してみる。

 現在の地球は当然、ワープ航法は開発されてないので、宇宙艦隊的にはまだ観察・観測段階の文明である。しかし、ある宇宙艦隊の構成メンバー(たぶん文明学者とか)が「ただ眺めていても致し方ない。ある種の文明的・文化的な実験を行いたい」と発案した。とはいっても、何か文明を極端に進化させるような物体を地球に送りつける訳にもいかない。ならば、「自然現象に見える小規模な災害(地球規模で見れば)を起こして、地球の原住民がその災厄に対してどう変化してゆくかを観察するのはどうか」と考えた。地球側としてはいい迷惑である。

 

スター・トレック オフィシャル 宇宙ガイド

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生命と情報の倫理――『新スタートレック』に人間を学ぶ――

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 そこで、1200年周期で地球の同一地点に鉄の密度の物体を落下させる人工天体を太陽系に設置したのである。民俗学的には、「1200年と言う周期で、地球の原住民がどの程度『伝承』を保持できるか」また「災厄に対してどの程度の対策を考える事が出来るか」「災厄と文明の進歩との関係は」など観察・考察ポイントが多々あろう。ただ、それだけだと伝承が途絶えた場合、同じような被害が繰り返されるだけで倫理的に問題があるだろう。

 

宇宙艦隊の巫女設定

 そこで巫女の設定である。宇宙艦隊の文明学者は、原住民になり済まして、最初の彗星断片の落下を実施する前に、落下地点周辺にいた女性のシャーマン的な存在へ「心身入れ替わりとタイムリープの能力」を与えたのである。ただし、夢うつつでしか発揮できないように設定し、明確な予知能力として認知できないように配慮した。宇宙艦隊からその特別な能力を授けられた末裔が、宮水家の女性である。

 さらに念押しに、宇宙艦隊は、タイムリープ微生物を巫女の細胞へ共生させる処置もした。その微生物はいわばミトコンドリアのような存在として母系遺伝するので、誰と結婚しようが、宮水家の巫女には代々と伝わってゆき、「心身入れ替わり・タイムリープ能力」が世代交代を経て失われない様に補強するのだ。男系のシャーマンの方にも「心身入れ替わり・タイムリープ能力」を与えたのだが、それは巫女が持つタイムリープ微生物に触れると作動するように設定した。「君の名は。」の作中では、それは「組み紐に染みついていた三葉の細胞断片」であり「三葉の唾液(当然、口腔表皮細胞が含まれる)から作った口噛み酒」である。瀧は、三葉が持っていたタイムリープ微生物に触れることで、入れ替わりの夢を見るようになり、三葉と時空を超えて出会う事が可能になる。

 宇宙艦隊の文明学者は、「地球の未成熟な科学では理解できない宇宙艦隊の科学体系をどのように受容し、文化の中に組み込み、どのようなドラマが展開してゆくのか」も観察するのである。

 

ミトコンドリアが進化を決めた

ミトコンドリアが進化を決めた

 
ミトコンドリア・ミステリー―驚くべき細胞小器官の働き (ブルーバックス)

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ニホンザル観察事典 (自然の観察事典)

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つまり、「君の名は。」とは「宇宙艦隊の観察・実験映画」だったのだ。

以前、「神の視点で見るから瀧が馬鹿に見える」と書いたが、訂正したい。

宇宙艦隊の観察・実験映画」なので、瀧が馬鹿に見えるのである。

 

 妄想に過ぎないのは重々承知であって、新海誠監督も上記のような事はまず考えていないだろうが、個人的には上記のように考えると非常にすっきりするのである。

 

宇宙、それは最後のフロンティアなのだ。