ZoaZoa日記

気の向くままに書き散らしてゆきます。皆さまの考えるヒントになればと思います。

音の風景が広がる 「この世界の片隅に」後篇 

冒頭5分間の奇跡

 予告のPVを見ている時分から、「これはすごい!」という予感はあったのである。しかしながら、本編はそんな予感をはるかに超えるものであった。

 原作とおなじく、海苔が干してある浜辺で、すずが母親に海苔の荷を背負わされる所から映画は始まる。原作よりもかなり引いたカットになっており、小さなすずがほぼ真ん中にちょこんと立っている。荷物を背負うすず。すずはまるでその風景の一部のようだ。画面全体に充満する微かな浜辺の音。下手すると汐の香さえ漂ってきそうである。原作に忠実どころの話ではない。原作の諸要素を最大限増幅させたような圧倒的な「空気感」に「うわあ、ちょっと!ちょっと、これは!」とつい変な声が出そうになった。何がちょっとなのか自分でもわからない。入って来る情報が多すぎて混乱していたのであろう。

 そして、いきなりすずの語りが始まる。どんな事情の人が声をあてていようが私には関係ないのだが、これがまたこの「空気感」の中に最初からあるべくしてあるような声として、さりげなく「音の風景」の中に滑り込んで見事に融合してゆく。もう始まって数十秒で、完全に「この世界の片隅に」私自身が入ってしまった。

 やがて船頭さんとすずの会話が始まる。すずとの距離がより間近になり、船頭さんにお辞儀し、たどたどしく挨拶をし、座りが悪い様子など、「微かな揺らぎ」をもちつつ、「生きた人間」としてのすずの実在感が立ち上って来る。そして、船が街へ近づいてゆく中で生活音も微かに増え始め、すずがこの時代この場で確かに生きている事が実感されてゆく。まさに動きの部分でもリアリティの山が築かれている。片渕監督の話によると、やはり単位時間当たりのコマ数は通常のアニメ作品よりもかなり多いようだ。言うまでもなくこの作品ではCGアニメの部分は皆無である。つまり、微かな揺らぎは私の気のせいでなく、実際にそう感じるように作っているのである。

 さて、上陸して広島の街を歩くすず。年の瀬なので多くの人が道を行き交う。ここで、また「うわあ」と声を出しそうになる。街ゆく人々それぞれが独自な「微妙な揺らぎ」によって、独立して動いているのだ。つまりは単なる群衆でなく、確かにその場その時代に生きていた一人一人を余すことなく描写しているのである!そして、さらにはっきりした輪郭と遠近感を持って満ち溢れる雑多な街の音、音、音。そんな中で、菓子や人形を眺めるすず。すずの後ろではヨーヨーで遊ぶ子供たち。ここに出てきた人々が十二年後にどれだけ生きているだろうか。しかし、この時、確かにここに人々の生活があり、それぞれに生きていたのだ。もうここまでで胸がいっぱいである。涙が出そうだ。

 そして、すずは道に迷う。普通、道に迷ったらもう少し、おどおどして慌てるものだが、すずは視線を落として大正呉服店の建物に寄りかかっているだけだ。もちろん、本人は途方に暮れていて、心の中では「うちは、ぼーっとしとるけん、迷子になるんかのう。困ったねえ」などとぼんやり考えているのである。こんな能天気なすずがその後に経験するあれこれの事を思うと、また堪らない気持ちになって来るのだが、そこに追い打ちをかけるように、すずの心情をそのまま歌にしたような「悲しくてやりきれない」がコトリンゴのささやくような声で始まる。もう駄目である。目頭が濡れてくる。まだ始まって五分も経ってないのに、完全にあちら側に持っていかれてしまっている。本当に奇跡としか言いようがない冒頭五分間である。

 

この世界の片隅に 劇場アニメ公式ガイドブック

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全編に溢れる音の風景

 驚く事に、冒頭のこうした情報(情緒)密度を維持しながら、物語はその後も進んでゆく。と言っても、物語らしい物語はない。かなりぼーっとした少女が周囲に揉まれ、あれこれドジをしながら、平平凡凡と日々を過ごしてゆくだけである。この作品を観た人の多くは、当時の生活の様子がよく実感できたという感想を抱くだろう。また、あの時代に生きた人は忘れていたあの頃の事を鮮明に思い出すかもしれない(本当の飢えはあんなものでないなどと言う人もいそうだ)。

 そうしたリアリティは、言うまでもなく膨大かつ厳密な時代考証に基づいて、小津安二郎の映画のように、画面の隅々まで市井の生活を再構築した絵コンテ及び原画が大きな役割を果たしている事は言うまでもない。今もほぼ変わらない自然景観や実在した建築も当時にそう見えていた通りに忠実に再現しているそうだ。しかし、いくら正確に再現と言っても、実写ではないのである。実写どころか、原則こうの史代タッチで描写されているから、すべて淡い水彩画のような雰囲気にまとめられている。つまりは細密な描きこみは、一部の兵器以外ではほとんどないと言っていい。なぜそれでリアリティを感じるのか。

 一つは人間の視覚というのは、ある程度の「目印」「お約束」が成り立つと、別に細密に描写しなくても「そういうもの」としてまとめて情報処理してしまう癖があるからだろう。もし、本物そっくりでなければ対象を正しく認知できないのであれば、漫画やアニメーションの鑑賞は成立しなくなる。

 そしてもう一つの要因は、ここまで再三述べてきた音の風景や微かな揺らぎによって生じる「空気感」である。単に効果音を入れるだけでなく、それぞれの音の指向性および距離感まで考え抜かれているのが本当に素晴らしい。兄弟を起こさない様に祖母を呼びにゆく時のすずの声。海苔を漉く水の音。隣組が一升瓶に醤油を注ぐ音。スケッチブックで擦れる鉛筆の音。アキアカネが飛ぶ音(!)。ともあれ、例をあげだしたきりがない。その場の空気感を感じる事が出来れば、見ている者もすずの世界と一緒に時を刻む感覚になってゆく。つまり、戦前の呉にタイムスリップして、同じ空気を吸っている状況になるのだ。「リアルとリアリティとは違う」ということが、これほどに顕著にわかる作品もなかろう。

 そして、そうした音の風景の中に、まるでコロボックルが自然発生的に音楽を奏でているようなコトリンゴの音楽がひっそりと寄り添い、それぞれの場面の「空気感」を補強してくれる。当然の事ながら、音楽が前に出すぎることもなく、この作品全体を上質なベールで優しく覆ってくれるような楽曲たちである。それはそれなりにメッセージ色の強い歌詞のついた四作品でも変わらない。

 

劇場アニメ「この世界の片隅に」オリジナルサウンドトラック

劇場アニメ「この世界の片隅に」オリジナルサウンドトラック

 

 

 

日常の音と非日常の音

 すっかり当時のあの場所の人間として生活している気になっていると日常では聞く事のない「非日常の音」が入って来る。最初はまるで遠方の花火のような、あるいは運動会を知らせる号砲のような長閑な音として針巻山の高射砲が鳴り響く。その音の遠近感もたまらない。しかしながら、日常の音の風景の中に、「非日常の音」が乱入する事が多くなる。ついには警戒警報が鳴り響き、灰ケ峰の向こうから敵機来襲。

 ここは人々が生活する場である。戦場ではない。しかし、戦闘機のエンジン音のダイナミックな三次元的高速移動、腹に響く照射音、飛び散って地面に響く破断片。すべて非日常な夢でも見ているような「音の風景」が展開する。さらには、戦局が悪化するにつれ、防空壕で爆裂振動が不規則に直接腹に響くように伝わり、至近距離でのグラマンによる地響きのような掃射などなど、容赦なく音響で殺しにかかっている感じである。下手なVRを余裕で超えて、感覚的に「自分の身が危ない!」とつい思ってしまうほどだ。

 この日常に刺しこまれた非日常の音の音響設計は本当にそれまでの長閑な生活を打ち砕くには十分すぎるリアリティがある。しかし、その非日常の音の風景が日常になってゆく。その音の風景が遷移してゆく様子もまた別の意味で恐ろしい。空襲警報が町内放送と同じレベルに変容してゆくのだ。

 そして、あの日の閃光。続く鈍い音と衝撃波。北條家の瓦が数枚落ちる。感覚的には小規模な地震のように思える。広島に原子爆弾が落ちたのである。歴史的な後付けになるが、最も「非日常」と言える音の風景である。しかし、その時の呉市民は直接の被害を感じずに、広島方面の突然発達した積乱雲のような雲を不安そうに眺めつつも、生活を続ける。この日常と非日常がいびつに交錯する「音の風景」は個人的には既視感がある故に、本当になんともいえない気分となる。

 原爆をテーマにした映画は数多くあるが、原爆投下の瞬間は基本的に記号的表現にならざるを得ない。なぜなら、広島市内で原爆投下の瞬間を忠実に再現しようとすれば、観客の鼓膜は破れ、劇場ごと衝撃波で吹っ飛んでしまうからだ。当時の様子を正しく伝えるには、爆心地からある程度離れた場での様子を描写する他ないだろう。そう言った意味で、本作は、映画において原爆投下の瞬間を忠実に再現した最初の作品になるのではないか。前例があれば教えてほしい。

 こうした「真に迫った」などと言う生易しい言葉では伝えられない生命の危機を日常で感じる「音の風景」は、初めて経験する人が多いだろう。そして、実際に経験した人は、遠い昔の事であってもフラッシュバックが起こらないか心配になる程である。ともあれ、これは音響設備の整った映画館でないと体感できない。DVDが出てから見ようと言うのでは駄目である。映画館で見なくてはこの映画を観る価値は半減してしまうだろう。

 

音の風景が途切れる時

 本作にリアリティを与え続ける「音の風景」と「微かな揺らぎ」。それが途切れる瞬間が3回ある。1回目は呉の生活とは全く違う世界から神の視点が現れた時。2回目は、ある個人の日常生活が断絶してしまった時。3回目はエンドクレジットが始まる時である。

 1回目と2回目に関しては、詳しくは語れない。原作未読の人にとっては、語れば半分くらいネタばれになってしまう。言える事は、「リアリティが喪失する恐ろしさ」をここまで感じた事はないと言う事だ。物理的な無音状態ということではない。その場の空気感がなくなり、精神的な真空状態になるような、そんな根源的な恐ろしさなのである。1回目は、同じ人間が無感覚になる恐怖。ここでは機械音が鳴り響くだけだ。そして、2回目は、それまでの日常が一瞬で決定的に違うものへ変質する恐怖。音の風景だけでなく、目で見る風景さえ消失し、深い内面の心象風景がコトリンゴの独特の和声に伴ってシネカリアニメーションで描かれる。この時、また「うわあ」と声が出そうになった。「これをこう表現するのか、、、」というのが正直な感想。表現者のあくなき執念を感じた。

 

エンドクレジットでのご褒美

 3回目はエンドクレジットだ。本編が終わる訳だから「音の風景」と「微かな揺らぎ」はおしまいなのは、当然と言えば当然。コトリンゴの「たんぽぽ」という前進性あふれる曲がそよ風のように流れる。観た人はわかると思うが、エンドクレジットは原作愛読者にはもうこれ以上にないくらい最高の贈りものである。月並みな表現になってしまうが、これまで何度も読み返した原作「この世界の片隅に」がここで見事に完結するのだ。もう、感無量という他ない。さらには「原作にあったアレは?」というわだかまりも最後の最後に何気なく現れて、エンド。拍手!

 そして原作未読者はエンドクレジットで一気に我にかえり、「自分の日常とすずの日常がどこかで連続しているのかな」などと思いつつ、いつの間にか目頭から液体が流れ出ている事に気付く事になるであろう(ここは個人差があります)。エンドクレジットの後半部分がよくわからなかったならば、是非とも、原作を読んでほしい。そして、また映画館に足を運び、この作品を味わってほしい。

 

 あれこれ駄文を連ねたが、この映画については、これだけ描いても到底、自分の感じた事を充分に文章化したとは思えない。観た人も「感想は言葉にできない」と言う人が圧倒的である。それは本当に痛いほどわかる。まずは映画館へ行き、自分の目で観て欲しい。観て、あなたなりに沢山の事を感じてほしい。あくまでここに書いた事は私の視点である。

 

 この作品は、アニメ史上の最高傑作、本年度邦画No.1などという次元でなく、間違いなく日本の文化遺産となると私は確信している。