ZoaZoa日記

気の向くままに書き散らしてゆきます。皆さまの考えるヒントになればと思います。

「君の名は。」と震災

人は見たいものを見る

 普段、何気なく見ている風景も、何かのきっかけで、それまで全く存在すら気付いていなかった物が急に見えてくる事がある。例えば、「歯が痛いなあ」などと感じて街を歩いていると、「こんなに歯医者の看板ってあった?これでは町じゅう歯医者の看板だらけだな」と言うような不思議な感覚になる。別に、私の歯が痛くなったから、歯医者の看板が出現した訳ではなく、単に「見えていても、見てなかった」「見たいものだけを見ていた」と言う事であろう。

 

 いろいろ気になる事も多かったので、再び「君の名は。」を見てきた。ハッキリ言って、「一回目、一体自分は何を見ていたのだ、お前の眼は節穴か!」と思った。まさに「見たいものだけを見ている」状態だった。こんな調子だと、まだまだ見落としている事、見えてない事が多々ありそうな気がする。が、とりあえずは二回目の鑑賞で「見えた」事を備忘録的な意味合いも含めて、列挙しておく。新海誠ファンや「君の名は。」に心酔している人にとっては、今更ながらの「常識」ばかりだろうが、こういう間抜けな人もいると言う事で暖かく見てほしい。何かまだ勘違いがあったらご指摘いただければ幸いである。

 

1.オープニングが記憶以上に作品要素を濃縮していた。

 組み紐やムスビのイメージは当然として、竜のモチーフや三つの時代(八年前・五年前・現在)の服装の変化、舞台の変転などがすべて凝縮されていた。全編をわかった上で見ると、本当に無駄なショットがない。

2.宮水神社の神楽舞で使う神楽鈴のデザインが「竜」。

 竜は言うまでもなく「彗星」の象徴。

3.瀧の通う高校の名前が「神宮高校」。

 神宮を名乗れる神社は限られているので、それが瀧の通う高校名というのは象徴的。

4.頻出する戸の開閉カットに法則性があった。

 ムスビがつながる時は開き、ムスビが途切れる時は閉まる。

5.瀧のバイト先の店名が「il giardino delle parole」だった。

 直訳すると「音声言語の庭」つまり、新海誠の前作品「言の葉の庭」になる。

6.神楽舞で三葉が彗星本体、四葉が分裂する彗星核を象徴する?

 これはあくまで推測だが、竜をかたどった神楽鈴を使いつつ、あの二人が分離してゆく舞の流れはたぶんそうなのだろう。

7.都会の風景は彩度が落ちたのでなくて、漂う粒子状物質の靄を表現。

 遠景でなく、雑踏などのカットでその効果が使われている。

8.糸守町の長閑な鮮やかさは湖畔の水蒸気によるうっすらとした霞で表現。

 逆に、糸守町の風景では、俯瞰的なカットでこの効果を使っている。

9.彗星が落下する10月4日は、人類が初めて人工衛星スプートニク)を発射した日。

 たまたまかもしれないが、新海誠の素材に天文関係が多いので、わかって使っている可能性は大。「秒速5センチメートル」では、ロケット発射が絶縁の象徴。

10.テレビの解説でロシュ限界の言及があった。

 ここまで語らせているなら、やはり彗星軌道の誤りはもったいない。

11.彗星衝突の入射角が約70°だった。

 これは「秒速5センチメートル」のロケット発射角度とほぼ同じ。

12.瀧と奥寺先輩とのデートの「懐かしの風景」写真展で「三陸」地域の展示もあった。

 三陸は、言うまでもなく東日本大震災津波により街が失われた地域。つまり、そういう写真展ということ。

13.瀧と旅館に泊まっている時の奥寺先輩の下着の色は黒。

 「だから何」と言われても困るが、奥寺先輩っぽいなと。

14高山ラーメンのおじさんが瀧に渡す弁当が「おむすび」。

 言うまでもなく、三葉たちが神体に向かった時の弁当と同じ。つまりは、お「ムスビ」。

15.瀧と三葉が心身共に邂逅している山頂シーンで、瀧が写っているカットでは彗星落下後の湖面が、三葉が写っているカットでは彗星落下前の湖面が背景になっていた。

 これは、二人が邂逅している特異点(半径数m)以外は、時間も空間も交錯していないと言う事を示唆している。

16四葉は彗星衝突の8年後に東京の高校生になっていた。

  成長していてわかりにくいが、組み紐を結んでいるから間違いなかろう。

17.最後の「決め台詞」のシーンで彩度が上がったように感じたのは錯覚。

  駅の雑踏から外の晴れあがった風景へ移行していく中で徐々に彩度があがってきているので、最後の最後で急に上がった訳ではない。

 

 他にもきっと見落としている事がいろいろあるとは思うが、これくらいが私の限界である。小説版やスピンオフ小説で物語の背景を仕入れても、こんなものだから、情けない事限りなし。で、二回目で実は涙がでそうになったシーンがいくつかあった。自分でも「え?」と思ったのだが、その「涙」は、どうやら「震災」との個人的な連想がいろいろ結びついた結果であるように思えた。ということで、「君の名は。」と震災について書く。

 

君の名は。」と震災

 既に非常に多くの人が「君の名は。」と震災との関係性について語っている。「震災後の気持ちの整理の一つの方向性を示した」という肯定的な意見もあれば、「こうも綺麗にまとめてしまっては危険だ」と言う手厳しい評価を語る人もいた。しかし、私自身は、一回目を見た時に「震災について意識しているな」と感じた部分もあったが、それほどに露骨でもなかったので、「震災映画」という印象は持たなかった。実際、被災者でもない限り、「君の名を。」を一回見るだけで自動的に震災についてのメッセージを強烈に受け取るというのは、なかなか難しいだろう。そもそも、誰が見てもわかるような直接的な震災メッセージが入っていれば、私自身、一回目の鑑賞で純粋にエンターテイメントして楽しめなかったはずだ。

 

 とはいうものの、新海誠が震災について全く意識せずに「君の名を。」を作り、この作品から震災を読みとるのは見る側の勝手な思い込みだ、というのはいくらなんでも無理な話であろう。もちろん、震災なんて何も考えずに楽しめる作品ではあるが、そんなに底の浅い作品ではないと私は思うのである。二回目を見た今、それを確信している。まあ、確信しているのは私なのであって、それが新海誠の真の意図なのかは定かではない。ここから書く事は、例によってあくまで私の個人的な考えである。

 

 ほぼ同時期にヒットしている「シン・ゴジラ」は、やはり震災の中でも「原発事故」を想起させるように構成されていると思う。ゴジラそのものが人間の生み出したもので、それが暴走して制御できないと言う状況の作品だからである。奇しくも、赤坂が「自然災害とは違う。対処できる」旨の発言をしている。無論、「シン・ゴジラ」もまた、そんな事を考えなくても、徹底的に楽しめる作品である事は「君の名は。」と同じである。

 

 一方、「君の名は。」の方は、「津波被害」を象徴しているということになろう。彗星衝突という人間の力では回避不可能な自然災害を扱っており、それなりの周期性もある。さらに写真展で「三陸」をあえて入れているし、彗星衝突の際に想定される糸守湖による津波被害などがその根拠である。男女のロマンスであると同時に、そういった自然災害を通した物語が「君の名は。」である。

 二回目鑑賞で涙が出そうになったのは、物語の「構造」が見えて、私個人の震災関連の経験とリンクした瞬間があった事が原因だ。だから、非常に個人的な話になり、普遍性はない。というか、震災経験に普遍性などもともとないので、ここに書くことに意味があるのかどうかはわからない。が、ともあれ書いておきたいので書く。

 

君の名は。」の三層構造

 「君の名は。」を二回見て強く感じたのは、この作品は三つの層構造になっているのではということである。

 まず「表層」に「瀧と三葉のロマンス」がある。これはまあ、誰が見ても分かる男女の物語であって、音楽で言えば主旋律(ソプラノ)に当たる。基本的に八年前から現在に至る物語だ。当然、ここだけに着目していても充分に楽しめるように新海誠は入念に設計しており、多くの人のハートを射止めた部分もこの二人の世界の物語だろう。

 一方、「深層」、音楽で言えば「バス」にあたるのは、糸守湖を形成した「1200年前の彗星衝突をきっかけに発生した伝承」である。彗星という災厄に対して、未来へどう対策してゆくか。近代化以前であるから、ご神体を祀り祈祷する他なかろう。そして起こった災厄を後世へ忠実に伝えていかなければならない。これは、途中「繭五郎の大火」で文字情報としては失われるのであるが、糸守の伝承行事として形式的に受け継がれてゆくことになる。そして、そのベースがあるからこそ、瀧と三葉の時空を超えた物語が始まる訳で、「深層」と言っても極めて重要である。

 そして「中間層」、音楽で言えば「中声部(アルト&テノール)」にあたるのが、糸守町およびそこに暮らす人々である。糸守町は、「深層」の伝承と「表層」の瀧と三葉をつなげるためにはなくてはならない「場」である。そして、彗星が衝突する前、すなわち三葉が生きる「8年前の糸守町」は、田舎ながらも戦後から近代化が進んできたほぼ同じ価値観を共有する歴史ある共同体であった。その中で三葉が育った。つまり、三葉自身がいくら都会にあこがれると言っても、三葉は糸守に根(ルーツ)がある人間であり、宮水家だけでなく糸守町に住む人々すべてによって、三葉の存在は支えられていたのである。まとめると、

 

   表層 :瀧と三葉

   中間層:糸守町とその町民

   深層 :昔から受け継がれている伝承

 

 ということになる。

 そして、それぞれの層の横のライン、つまり表層なら「瀧と三葉」、中間層なら「一葉と四葉」(もしくは、テッシーとさやちん)、深層なら「彗星衝突と神事様式発生」がある。それと同時に、表層と中間層「三葉⇔一葉」、表層と深層「伝承⇔三葉」、中間層と深層「一葉⇔伝承」のように層ごとの縦のラインもある。横のラインも縦のラインも、すべては「ムスビ」である。

 ということで、それぞれの層で私が感じた事を記す。

 

表層:瀧と三葉

 この層を中心に話は進むので、この層の流れだけを追っても充分にハラハラドキドキして面白い。というか、初めてこの作品を鑑賞する観客の大部分はそうだろう。私も実際、一回目はそうだった。

 しかし、二回目の時、瀧と三葉のあれこれを見ながら、ふと「この二人は特別な『ムスビ』によって出会えた類稀なる幸運な特例なのだな」となぜか思ってしまったのである。まあ、特別な「ムスビ」にロマンがあり、時空を超えた「愛」に多くの人々は感動しているのは言うまでもない。しかし、逆に言えば、ちょっとした手違いで「三葉が助かった時間軸」が成立しなかったら、三葉はこの世におらず、瀧のもやもやした感覚が続くだけで、二人は8年後に出会う事もないのである。

 東日本大震災が起きた当時、新聞に掲載される死亡者名簿をかなり懸命に見ていた時期がある。なぜ懸命に見ていたのかと言えば、知り合いがいないか探していた訳なのだが、若い世代、特に十代の名が目に入るたびに、胸が締め付けられる思いがした。知り合いでもないのに「生きていればこの子にはどのような縁・未来があったのかな」とついつい考えてしまうのである。

 瀧が図書館で糸守町死亡者名簿を閲覧し、宮水三葉の名を見つけるシーンで、そんな震災当時の自分の事を思い出した。「もし、東日本大震災津波で命を落とす事がなければ、上京して、瀧のような男性に、もしくは奥寺先輩のような女性に出会う『縁』があった若人もいたに違いない。亡くなったのは彼らの責任ではない。男女交換の時空を超えた瀧と三葉のような特別な『ムスビ』がなかったとしても、何らかの『縁』によって導かれた男女がいたなら、もっと….」と考え始めて、なぜか涙が溢れそうになった。そんな事を考えてもどうにもなる訳ではない。場合によっては、こんな「もしも」を考えるのは、前を向いている遺族に失礼であるのは重々承知ながら、やはり瀧と三葉を見ていたら考えてしまったのである。

 しかし、逆に考えれば、あの被災地に居ながら、様々な「縁」に導かれて、津波に呑まれることなく、今も生きている若人はきっと沢山いることだろう。もしかすると上京して運命的な出会いをしている人もいる事だろう。震災から五年経ったのである。その出会いは、瀧と三葉のような特別な『ムスビ』ではなかったかもしれないが、生きているからこそ実現している「縁」である。夢想を広げれば、意識に登って来ないだけで、実は夢の中で瀧と三葉のような事が多くの若人に起きていて、普通はそれが強烈に「忘却」されしまっているだけのかもしれない。つまり、それこそ溝口俊樹と宮水二葉のように、いずれ出会うように、無意識に行動を選択していたのかもしれないのだ。

 

中間層:糸守町とその住民

 私が「君の名は。」の中で最もリアリティを感じた登場人物は、「高山ラーメンのおやじ」である。他の登場人物はやはりこの作品のために造形されたキャラクターであり、アニメーションと言う世界の枠の中で生きている。しかし、「高山ラーメンのおやじ」は、ある意味この作品の中では「異質」である。私がリアリティを感じた理由は、同じような境遇と雰囲気を持った人物が具体的に思い浮かぶからである。住んでいた故郷が津波で失われ、他の場所で店を始めている人はそれなりにいて、普段は震災の事などは口にせず黙々と仕事をしている。不躾な客が津波の事などを尋ねても、遠い目をして、淡々と答えるのみ。はっきりした感情を表に出す事はまずない。

 

 高山ラーメンのおやじは、彗星衝突時には既に糸守町にはいなかっただろう(だから、生きている)。そして、彼が帰るべき故郷はもうこの世にはない。そんな彼が、瀧のスケッチを見て「良く描けている」としみじみ言うのである。そして、失われた故郷がどうにかなる訳でもないのに、瀧を龍神山まで車で案内し、弁当まで手渡す。そして別れ際に「良く描けていたから」とまた言うのである。写真でなく、糸守の風景を「誰か」の視点で描かれている事に、高山ラーメンのおやじは、「郷愁」と同時に「何かただならぬ事」を感じ、この青年には何かをせずにいられないと思ったのである。そう思ったら、ここで、涙腺が緩んだ。実はこの高山ラーメンのおやじがに瀧が出会わなければ、瀧は何もつかめないまま東京へ戻ってしまう結果になっていたはずだ。そうなれば、三葉と瀧が出会うと言う未来もない。高山ラーメンのおやじもまた「ムスビ」の一つである。

 なお、高山ラーメンの店や弁当の包み紙に描かれていた「さるぼぼ」は、安全や安産祈願の飛騨高山の民芸品である。基本的に「のっぺらぼう」なのが大きな特徴で、「誰かはわからない誰か」を瀧が探している場面で出てくるのは、なかなか象徴的である。

 

 瀧と三葉だけを見ていると忘れがちだが、瀧の行動によって三葉が彗星被害を免れる時間軸になったとしても、糸守町が消滅する事には変わりない。すなわち、糸守町の人々は全員助かったとしても、宮水神社はなくなり、あの即席カフェもなくなり、被災者として他の場所で生きてゆく事になるのだ。宮水一葉や宮水俊樹がどうなったかは描かれていないが、とりあえずテッシーとさやちんは8年後には、婚礼に向けてウキウキなようである。さやちんが飽きもせず(ちょっと高級になった)ショートケーキを頬張るのも微笑ましいし、テッシーがいかにも土建屋な服装なのも相変わらずだ。

 そして、8年後の宮水四葉。姉に「口噛み酒を売り出せば?」などと無邪気に進言するようなちょっとオマセな小学生だった彼女は美しく成長して東京で高校生をやっている。授業を受けている表情は、決して暗い訳ではないが、どことなく虚ろである。こういう表情は私自身、何度も見た事がある。故郷を失い、根っこのない新天地で懸命に学校生活を送る生徒たち。普段は明るいし、地元の子達ともワイワイやっているのだが、ふとある瞬間に寂しげな顔になる事がある。彼ら・彼女らが本当の所、何を想っているのかはわからない。しかし、「故郷がない・生まれ育った故郷へ戻れない」という動かせない事実に、何も想わない・感じない訳はないだろう。ともあれ、高校生になった四葉のあの表情を見たら、そんな事があれこれ思い出され、やはりぐっとこみあげるものがあったのである。

 

 

高山ラーメン 醤油5食

高山ラーメン 醤油5食

 
飛騨のさるぼぼ NO.9 (赤:さるぼぼ柄)

飛騨のさるぼぼ NO.9 (赤:さるぼぼ柄)

 

 

 

深層:昔から受け継がれている伝承

 ある人がそこに実在すれば、意識する・しないはともかく、その人の中には間違いなく、遠い祖先から受け継がれた遺伝子がある。無からいきなり人間が誕生したりはしない。

 しかし、文化の伝承となると不確定要因が多い。受け継がれる文化を「ミーム」などと言ったりするが、時間の経過の中に埋もれて、発生した当初の「意味」がわからなくなっているものは、糸守町に限らず、多々ある。

 震災後、すっかり有名になった「津波てんでんこ」。「津波が来たら、人の事などかまわず、各々の判断でとにかく高台に向かえ」という教訓なのだが、この言葉も、大震災レベルまでいかなくても、比較的短周期で起こる中規模な津波被害が繰り返されたからこそ、伝えられてきた言葉であろう。しかしながら、それが沿岸住民全員に身についていた言葉だったのかと言えば、なかなかそこは難しいところだろう。そうした教訓が身に染みる経験に昇華されるには、一人の人間の生涯はあまりに短い。つまり、深い意味も理解したうえで、子孫へ伝えていく強靭な意志が継続しなければ、そのような伝承は簡単に失われてゆく。

 大震災直後、沿岸の被災地に赴いて、放射線の測定や津波による動植物の状況を見に行った事がある。その時に気付いたのは、津波到達地点ぎりぎりの所に、示し合わせたように大小の神社がある事であった。標高差のそれほどない、何気ない田んぼのど真ん中にある神社も、本当に津波到達点ぎりぎりに建立されていた。地図で広範囲に調べると、本当にことごとく津波到達地点ぎりぎりに神社があるのだ。おそらくこれは偶然ではない。千年以上前にM9クラスの貞観地震が起きた時に到達した大津波の災厄と関連して、その場所に建立されたのであろう。しかし、その神社がその場所にある意味は長い年月の間に失われてしまったのである。これは私個人だけの妄想でなく、本としてまとめた人もいる。糸守町の彗星もまた、千年周期の出来事だ(この辺の設定、新海誠はやはり巧い)。

 「君の名は。」では伝承の縁起(記録)は「繭五郎の大火」で失われてしまったと言う事になっているが、仮に記録が残っていたとしても、「彗星の破片が再び同じ場所に落ちる」なんて事は、まっとうな科学者であれば想定しないだろう。しかし、文化的な伝承の中には、未来への教訓として無視できない内容が含まれている事もあるかもしれない。フィクションの中とは言え、瀧と三葉、糸守町の人々は、その伝承によって救われた事は間違いないのである。

 

 

利己的な遺伝子 <増補新装版>

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津波てんでんこ―近代日本の津波史

津波てんでんこ―近代日本の津波史

 
神社は警告する─古代から伝わる津波のメッセージ

神社は警告する─古代から伝わる津波のメッセージ

 

 

 

 長々とあれこれ書いてきたが、実は「君の名は。」の中で、新海誠は上記のような三層構造の世界観をある場面でコンパクトかつスマートに提示している。どの場面かと言えば、瀧が口噛み酒を飲んで、様々なイメージ群が現われてくる所である。あの幻想的な映像の中に、ここに書いたような三層を構成する要素がすべて詰まっていると言っていい。実は、ここでもちょっとウルッと来てしまった。作品の中で、宮水一葉が「すべてはつながっている」と語る所がある。いろいろと思い返せば、本当に「ムスビ」はいたるところにあり、「無縁」と言うことはないのがこの世界なのである。その事を、この作品を通して改めて感じる。

 

 

 パンフレットの中で、新海誠は「観終わった後に、一曲の音楽を聴いたと思えるものを作りたい」と語っている。私自身が三層構造の説明に音楽の例えを出したように、「君の名は。」は極めて音楽的な作品である。というより、新海誠の作品は元々、「音楽的絵画」の側面が強い。ただ、「ほしのこえ」から始まり「言の葉の庭」至る彼の作品群は、あまりに抒情的な部分が勝っているが故に構成上の弱さがあり、「ソナタ」というよりも、上質な「歌曲(リート)」のような印象を与えるものであった。

 しかし、「君の名は。」は、前記事及び本記事で書いたように、いくつかの要素を有機的・重層的に組み合わせて壮大なドラマを作る事に成功している。そして、形式に縛られながらも、彼独自の抒情性は失われてはない。

 すなわち、「君の名は。」という作品は、新海誠が満を持して完成させた「交響曲」なのである。

 

9/13追記:

瀧の名字「立花」だが、「橘」とすると、古今和歌集の「五月待つ花橘の香かげば昔の人の袖の香する」という恋人を追慕する有名な歌を思い出すのだが、やはり新海誠はこの歌を意識して「たちばな」にしたんだろうか?ありうると言えばありうる。そして、「タチバナ」は日本書記では「非時香菓(ときじくかぐのこのみ)」と記され、不老長寿の妙薬として珍重されたらしい。時を超える主人公の名前の由来として「非時」という文字列があるのが、また暗示的だ。

 

 

 

 

改めてもう一度みたい「君の名は。」

 人の記憶は全くあてにならないのは重々承知しているつもりだが、いざ自分の事になると「忘れた事」の自覚がないから始末が悪い。思い出せない事は、私の中ではない事になっているから、見落とした事自体に気付かない。で、改めて「事実」を提示されると「そう言えばそんなこともあったな」とようやく思い出すのである。つまり、完全に最初から認識してないのでなくて、一旦は情報を入力したのに、それが全く引き出せなくなっているのだ。

 

 何の事を言っているのかというと「君の名は。」についての自分の記憶である。前の記事を書いた後に、小説版「君の名は。」を読んでいたら、映画の中で「これあったよ、なんでコレを忘れてるんだよ、自分」と言う事がかなりあったのである。

 

 

 

 

 自分なりにショックだったのは、神社の縁起が焼失した原因「繭五郎の大火」のことをすっかり忘れていたことだった。結構、インパクトのある名称で、映画を見ている時は「まゆごろう、か」と苦笑したはずだったのに、すっかり忘れている。神社や湖の名前もやはり「宮水神社」「糸守湖」だった。ということで、前の記事は部分的に改正した。

 また、映画の台詞と小説の台詞とが完全に一致ししているかどうかは定かでないが、なんとテレビの解説で「ロシュ限界」という言葉まで出ている。これは私の記憶には全く残っていない。そこまでもし厳密に映画で言及しているなら、作品全体の厳密性を統一する意味で、山本弘氏の言うように確かに「彗星軌道のミス」は非常にもったいないと言う気もする。

 

本編を補完する「Another side :Earthbound」

 さて、欠落した記憶を渇求する立花瀧のように、私もまた映画だけでは想像で補うしかなかった事柄を求めて、「君の名は。Another side :Earthbound」を読んだ。

 第1話:瀧、第2話:テッシー、第3話:四葉、第4話:三葉の父(俊樹)の視点による、いわゆるスピンオフの内容だ。これが、本当に映画の「欠けたピース」を見事に補完する物語で、自分なりに腑に落ちる事だらけで、ある意味、本編と同じくらい感動した。というか、第4話の宮水俊樹の物語などは個人的にはある意味本編より面白い。

 まあ、意地悪く言えば「本編だけですべて理解させるべきでは?」という気もするが、作品の奥行きを別の媒体で知るというのも楽しいものである。そして、前の記事で私が自分勝手に妄想していた事の裏付けが取れたと言う満足感もある。そして、案の定、想像以上に新海誠が物語を作り込んでいることもわかる。ほんの少し内容を紹介しよう。

 

 

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瀧について:「ブラジャーに関する一考察」

 本編のみをちょっと醒めた目で見ていると、「瀧がかなり間抜けに見えてしまう」事はある意味避けられない。「もっとはやく電話連絡しろ」とか「なんで紙のメモを残さないんだよ」とか「糸守町の三年前の災害に思い至らないとかありうる?」とか「あれだけ特徴的な場所をなぜ地図で確認できないの」とか言い出したらきりがない。しかし、そういった瀧の間抜けさは、見えている側が「神の視点」になっているから見えてしまうものである。もっと平たく言えば、いわゆる「志村!後ろー、後ろ!」の視点だ。だいたい、人間というのは自分の事は棚に上げて、人の事は良く見えるものである。岡目八目。

 それにしても、瀧は間抜けすぎないか。そう思った人は、Another sideの第1話を読めばいい。結論から言えば、「もともと瀧は間抜けな奴」だったのである。身も蓋もないがそう言う事だ。例えば、彼は三葉に指摘されるまでブラをつけないで登校しているのである。そして、体育では、ブラなしのままバスケで大活躍。当然、男子の視線釘付けなのだが、なぜ釘づけになっているのか自覚がない。つまり、かなり想像力や観察力が欠如しているのだ。小説版では「試してみたけれど、電話やメールは通じない」という設定になっているのだが、それでも東京の自宅で紙に記録を残さないというのは、ブラをつけるという発想すら出てこない瀧なら十分にありうる。そして、三年前の災害の事も、飛騨地方の地理的な感覚も、たぶん都会育ちの彼の日常にとっては、「別世界」のことだったのだろう。ただ、自分の「かたわれ」である三葉への想い(実際には「何か思い出すべき誰か」)だけで、深い考えもなく、スケッチを描き、探す当てもないあの場所を探しに行くのである。

 中には「瀧と三葉が相思相愛になる過程があまり描かれていない」という感想もあったが、心身交換を繰り返している二人な訳だから、ある意味、それぞれの自己愛を少し拡大するだけで、容易に相思相愛になるだろう。Another sideでも、三葉の身体に入った瀧が、鏡で三葉の姿に思わず見とれるという描写がある。そして、いくら瀧が間抜けであっても、糸守町の巫女としての重責すなわち糸守町の地縁(Earthbound)という圧迫感を嫌でも感じ、三葉の健気さを好ましく思ったに違いない。二人は互いに別個の人間としては会えないけれども、身体だけを通して交流を続けている訳で、皮肉な事に、普通の男女よりも精神的な距離を縮めるのはさして時間はかからないだろう。そして、龍神山の外輪山で、一瞬ではあるが、二人は事実上「一身一体」すなわち「両性具有」のような存在になる。そして、「彼は誰時」を過ぎ、それぞれは、また別個の人間として別れ、互いを求め合う存在に戻るのだ。ほとんど、プラトンの「饗宴」でアリストパネスが語ったとされる男女の愛の起源に通じるものがある。

 

饗宴 (光文社古典新訳文庫)

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テッシーについて:「スクラップ・アンド・ビルド」

 テッシーこと勅使河原克彦は、メカに強い多少オカルト好きの高校生である。父親は地元の建築会社の社長。当然、町長の宮水俊樹(三葉の父)とも悪い意味でつながりがある。彼自身は父親と町長がつながっているのは、不健全だとも感じている。悪い奴ではなさそうだ。主人公ではないから、本編だけみるなら、その程度の情報しかテッシーには与えられない。そんな彼が三葉の言葉を信じて、いきなり変電所爆破を実行する訳だから、かなり唐突というかリアリティがない。ほとんど「数学できんが、なんで悪いとや!」の「高校大パニック」の世界である。

 しかし、Another sideの第2話を読むと、彼があの行動をとるに至った背景がわかる。彼は地方特有の町に充満するあまりの閉塞感に押しつぶされそうになっていたのである。そうであれば、今の高校生なら地元を離れて都会へ行く訳だが、彼は非常に責任感も強い。建設会社の社長の息子ということで、会社を引き継ぐ事は予め決められた事だ。それに反抗して勘当されても都会へ出る程に、テッシーは自分勝手ではない。自分の生まれ育った場所、糸守,町を愛しているのだ。ただ、現状では未来がない事も充分にわかっている。自分が社長になった時には、過去のしがらみ(Earthbound)で身動きとれなくなったこの町を根本から作りなおす。スクラップ・アンド・ビルドだ。手順として、そのためには一旦、すべてを更地にしないといけない。「地震や大火事が起きれば、この町を作りなおせる」と彼はそれを半分真面目に夢想するのだ。そう思うと、三葉とさやちんに「カフェに行こうか」と提案する彼の心情というのは、半分冗談ではあるが半分本気であることがわかる。ただ、今はまだそこに存在してないだけで、いつかは本式のカフェを糸守に作る事を諦めてはいないのだ。

 そんな彼が三葉から「彗星が落ちてくる」と真顔で言われたら、真偽はともかく、町をゼロから作り直す絶好のチャンスと考えるだろう。当然、「その話のった!」となる。まあ、さやちんは、そう言う意味で部外者だから、三葉の話もテッシーの熱意も理解できずに、彼らの勢いに呑まれてずるずると町内放送をやってしまうのだが。しかし、テッシーは本気の本気なのだ。変電所爆破は、彼にとって決して衝動的な行動ではない。

 本編では、テッシーとさやちんは都会で結婚することになっているようだが、時間はかかるかもしれないが、彼らが中心となって、きっと糸守町を立派に復興・再建してくれることだろう。

 

 

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四葉について:「アースバウンド」

 三葉の妹である宮水四葉もまた、本編では詳しくは語られないが、限られた登場シーンだけみても、無邪気で好奇心旺盛、子供らしい賢さもある愛すべきキャラクターである事はわかる。個人的に思い出したのは、「クロムクロ」に出てくる、白羽由希奈の妹、小春である(というか、「君の名は。」自体、物語の構造が「クロムクロ」に似ている部分が多い)。

 Another sideの第3話では、この四葉の内面世界が語られる。姉の異変を客観的に観察し、何が起きているかをおそらくは誰よりも多面的に推理する。残念ながら、彼女の推理はことごとく的外れなのだが(当然だ)、小学生の限られた知識からあれだけ考えられれば立派である。そして、言うまでもなく四葉もまた、宮水家の血筋である以上、文字通り糸守町のEarthboundからは離れられない宿命を持った存在である。

 さて、その四葉だが、なんと好奇心で宮水神社の拝殿の自分が作った「口噛み酒」を飲んでしまう。口噛み酒といえば、時空を超える重要なアイテムだ。三葉が作った酒を瀧が飲めば、組み紐で結ばれたかたわれ同士が時空を超えて出会う事になる。

 しかし、四葉には、ペアとなる組み紐もない、つまり、四葉には「縁」のある存在がまだいないのだ。そんな四葉が口噛み酒(しかも自分で作った)を飲んだらどうなるか。

 これは宮水家の血筋を遡る他なかろう。既に記録が失われたはるか昔、まだ宮水神社が壮大な神殿を有していた頃。そんな昔に四葉の精神は飛び、四葉と最も縁の深い先祖に憑依する訳である。繭五郎の火事で失われた神社の縁起のエピソードも、この四葉の物語で補完されるのだ。宮水神社の神事は、単に古臭い因習ではなく、確かに受け継がれるべき大切な「何か」があったのだ。すなわち、惰性も混じった形式的なEarthboundでなく、まさに地域の切実な願いが充満したEarthboundをはからずも時を超えた四葉は見せてくれたのである。

 なお、口噛み酒自体は、四葉によると、「えぐ酸っぱい味」がしたそうだから、生化学的にはアルコール発酵には失敗していると思われる。もしかすると、幻覚作用を引き起こす成分が醸造されていて、瀧も四葉も、その影響を受けて様々な幻影を見ただけなのかもしれない。古代シャーマンがトリップするために様々な幻覚作用を引き起こす植物やキノコを摂取することは普通に行われていたはずなので、あながち間違いではないかもしれない。しかし、それでは、伝奇ロマンは台無しで、「怪奇大作戦」のテイストになってしまう。

 

 

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宮水俊樹について:「あなたがむすんだもの」

 第4話はなかなか奥が深くて、「君の名は。」の大人バージョン言ってもいい内容である。あえて表現するなら、実相寺昭雄ウルトラQ ザ・ムービー 星の伝説」の雰囲気を持ちつつ、星野之宣「宗像教授伝奇考」で補強したと言った感じの話である。わかる人には、この説明だけで、私のワクワク度を想像できるかと思う。はっきりいって、この第4話のエピソードだけで、一つの作品が作れると思う。

 本編では三葉の父、宮水俊樹は「嫌な奴」としてしか印象に残らないだろう。一応、二回目の三葉の説得によって、糸守町民を避難させる結果になるが、その細かい過程は省略されている。登場するシーンでは、一葉からも三葉からも邪険にされ、テッシーの父とも癒着して、ほとんど悪いイメージしかない。あんなキャラをなぜ出す必要があったのかと思った人もいるだろう。

 ところが、宮水俊樹は、昔、溝口俊樹という民俗学者だった。そして、謎の多い宮水神社の縁起を調査するために「民俗学者」として糸守町を初めて訪れたのだ。その時、出会ったのが宮水二葉、つまり三葉の母となる女性だ。「ひと目あったその日から」という感じで、溝口俊樹からすれば民俗学の調査、宮水二葉からすれば貴重な伝承を学術的に保存してもらうと言う名目で二人は頻繁に逢瀬を重ねる事になる。

 その二人の民俗学的な丁々発止が、歴史素人の私としては、ほとんど「宗像教授伝奇考」の展開である。なんと巫女である二葉もまた彼女のなりの仮説(直感に基づく部分があるにせよ)を持っているのだ。

 宮水神社の祭神は、機織りを教えた神である倭文神(しとりかみ)である。しかし、どこの神社の倭文神とも関連がないと言う。そして、糸守ではその倭文神は竜を退治した伝説がある。そこに、「君の名は。」でも重要なアイテムとして登場する、組み紐の話が絡んでくる。倭文神に関連して、時間軸の交錯を象徴する組み紐を「編む事自体が重要」だと二葉は断言する。根拠はない。ただ彼女のなかではゆるぎない確信がある。それを宮水家の巫女は続けてきた。そして、退治すべきその竜は何を象徴しているのか。言うまでもなく、それは彗星である。彗星が定期的に災厄をもたらし、組み紐でつなぐ時空を超えた「縁」によって、その災厄を防ぐ、そうした流れが綿々と受け継がれてきたのだ。

 ともあれ、溝口俊樹は、二葉に惹かれ、やがて宮水俊樹となる。そして、宮水神社の神主となるが、近代的な学術の世界と前近代的な土着の強固な因習の世界とはあまりに違っていた。二葉の糸守町での神がかった絶対的な存在感に戸惑いつつ、二人の娘(三葉、四葉)も授かる。しかし、二葉は免疫疾患で亡くなってしまう。かけがえのない二葉を失った俊樹は慟哭する。しかしそんな悲しみをよそに、宮水一葉のみならず、近代的な死生観とはあまりに乖離した糸守町の二葉の死への感覚に、俊樹は戦慄するのだった。「この町は狂っている」。俊樹は家を出て、古臭い因習に縛られた町を変えるべく、町長になる決意をする。糸守町を近代的な町に変貌させるのだ。そのためなら、多少汚い事もやってやる。そして町長となった。

 彗星が落ちる日、三葉が町長室へやって来る。「糸守町に彗星が落ちる」などたわけた事を言う。しかも、姿は三葉だが、そこにいるのは三葉ではない。俊樹にはわかるのだ。この感覚、覚えがある。ともあれ、今は祭りの運営で忙しい。三葉を追いかえす。しかし、再び泥だらけの三葉がやってくる。今度は心身ともに三葉だ。そして、それは過去から連なった二葉の姿でもあった。俊樹は町長として避難訓練と称して住民の避難を指示する。

 俊樹は、糸守町のEarthboundに惹かれ、Earthboundを呪い、Earthboundによって最後は救われたのである。そして、その時の流れの糸を紡いでいたのは、ほかならぬ宮水家の巫女たちだったのだ。おそらくは、二葉と俊樹もまた若かりし頃、瀧と二葉のように、夢の中で心身交換を行っていたのであろう。しかし、理性的で知能の高い俊樹は、瀧と違い「奇妙でリアルな夢でとどめて」それ以上追及せず、完全に忘却してしまったのだ。しかし、俊樹は無意識のうちに民俗学を専攻し、瀧と三葉が最終的に東京のあの階段で再会するように、俊樹と二葉もまた糸守町の宮水家で邂逅したのだった。あくまで想像であるが、二葉の方は、「必ず『彼』がここにやって来る」と確信があったのだろうと思う。そして、二世代の連携によって、糸守町の災厄は防がれることになる。

 

 

 

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日本書紀(上)全現代語訳 (講談社学術文庫)

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読んでから映画館でもう一度見よう

 「君の名は。」の小説版はともかく、「君の名は。Another side :Earthbound」はちょっと高校生には難しい部分があるかもしれない。しかし、「君の名は。」の映画を一回見て、どうも釈然としない人、あるいは「もう一回見に行きたい」と思っている人は、是非とも、この二つのテキストを読んでから、映画館へ向かって欲しい。全編に散りばめられた何気ない描写それぞれに深い意味がある事に気付き、きっと新たな感動を味わう事が出来るだろう。

 ともあれ「君の名は。」、傑作である。

 

 

 

 

「君の名は。」の科学 後編

 ここからは、個人的な理科的視点で「君の名は。」について書いてゆく。「こんな細かい事をくどくどと書いて何になるのか」と言う意見もあるかもしれないが、はっきり言って何もならない。ただ、考えてみるのが面白いから考えているだけである。なるべく正確な記述に努めたいが、いかんせんすべての分野について専門家ではないので、どこか根本的に概念が誤っていたり、計算が間違っていたりする可能性もある。お気づきの点があれはご指摘いただきたい。

 

ティアマト彗星の軌道について

 「君の名は。」は、彗星が非常に重要な役割を果たす。登場する彗星の名は、ティアマト彗星といい、周期は1200年と紹介されていた。周期が1200年と言えば長周期彗星あるいは非周期彗星であり、周回によるその核の質量減少も小さいと予想され、それなりに巨大な彗星と考えられる。

 周期から考えて、その彗星の起源は、冥王星よりはるかかなたの太陽系外縁、いわゆる「オールトの雲」にあると考えて間違いないだろう。そして、それは太陽の周りを楕円軌道(あるいは放物線軌道)でまわっている。最初にテレビに映っていた解説図ではちゃんと彗星が太陽の周りをまわっているように描かれていたのであるが、その後何度かテレビを通した彗星軌道解説図では、なぜか地球のまわりをまわっているように描かれている。これは大事件である!地球の重力(質量)がこの1200年の間に急激に増大したのであろうか?そうでもないと、あのテレビの図はありえない。

 ネットを見ると、やはり気になった人がいて、山本弘氏も「面白い作品だけに、こういった根本的な間違いは惜しい」という旨のコメントを出している。ま、そう言いたくなる気持ちはわからない訳でもない。実際、天文ファン、あるいは高校地学大好きだった人なら「ええ?!」とびっくりする所である。とはいえ、そんな人は観客のごく一部であって、ほとんどの人にとっては、彗星の変な軌道などは眼中にないだろう。

 何度かその不思議な解説図が出てくるので、私としては「テレビ局が馬鹿なのだな」と言う風に考えることにした。天体に詳しくないテレビ局の美術さんが資料から描き写す際に間違ってしまいそれが延々と改正のないまま使われてしまったのである。現実においても、テレビで滅茶苦茶な図や表が出てくる事は決して珍しくない。あんな図を出して、多方面からクレームが来ないのかと心配する事もあるが、番組を見ている限り、あまりそう言う類の間違いのクレームはこないようである。あるいは来ていても無視しているのかもしれない。

 

やさしくわかる 太陽系

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ティアマト彗星の分裂について

 さて「君の名は。」では、なんと彗星が分裂するのである。物凄く貴重な天体現象である。実際、劇中のテレビ放送が「世紀の天体ショー」的にそれを報じている。アニメであるから、印象映像を参考にするしかないが、ティアマト彗星はとんでもなく巨大に見える。東京で瀧が眺めている様子から核と尾を合わせて45°を余裕で超えている。下手すると70°くらいあるかもしれない。

 巨大に見える要因としては、「彗星の核がもともと巨大である」か「異様に地球に接近している」かのどちらかである。最近ではへール・ボッブ彗星が記憶に新しい。この巨大彗星は、彗星の核が巨大だったパターンである。なんと核の大きさは50kmちかくあり、しかも、核が二つ以上あり中で自転しているという驚きの研究結果が出た。

 テイアマト彗星による大惨事の原因も「核自体が巨大で、その核がすでに複数あり内部で自転しているものが、周囲の惑星の重力の影響を受けて、何かの拍子に(えらく適当な言い回しだが、専門でないので申し訳なし)彗星本体から核の一部が飛び出してしまった」という説明ができないこともない。つまり、「糸守町に落下したのは、ティアマト彗星の最も大きい核のまわりをまわっていた小さな核であった」という訳である。ところが、この説明だと問題が一つある(専門の方から見れば複数の問題があるだろうが)。彗星本体からの分離から糸守町落下までの時間が短すぎるのである。

 作品中では、お祭りの夕方、彗星の分裂が確認されてから、少なくとも数時間以内にその分離した核が糸守町に衝突しているようである(感覚としてはもっと早くに衝突しているように思える)。テレビ放送の声も「急な事で落下地点は予測できない」と言う風なアナウンスが流れる。

 観測史上最も接近した百武彗星であっても、地球から彗星までの距離は0.1AU(約1500万km)であった。地球の軌道に近づいている彗星自体の速度をざっと17km/s(時速61200km)とした場合(実際は、太陽に近ければ近いほど速度は大きくなるのだが)、分裂から地球落下まで約246時間(ざっと10日間)かかるのである。あの町の規模なら、避難準備は余裕をもってできるだろう。別に変電所を爆破する必要もない。

 しかし、仮に彗星分裂から衝突までの時間を12時間として逆算すると、ティアマト彗星と地球との最接近距離は734400kmということになる。これは地球と月の距離の約2倍弱程であり、地球との衝突の確率を真剣に計算しなければいけないレベルだ。さらに6時間に短縮すると(作品の中ではそんなタイムスケールだったような気がする)、36720kmとなり、ついに月との距離よりも近くなる。

 6時間の場合、明らかに地球近傍天体の扱いとなる。しかも、直径数10mの小惑星などではなく、それなりの大きさの彗星が迫ってきたら、「華麗な天体ショー」とテレビで浮かれている場合ではなく、万が一、彗星が分裂した場合の対策を国際的に練っておかねばならないだろう。とは言っても、人類は彗星の軌道を即座に変える術を持たないし、彗星がどのように分裂するかを予測する事は非常に難しい。さらにはその分裂した核が地球のどこに落ちるのかを予測する事も、12時間程度では非常に難しいかもしれない。対策を立てるのが難しいから、パニックを避けるため「ティアマト彗星は危険である」と言う事は公表されなった可能性もある。とはいっても、各国のアマチュア天文家が警告を発していたとは思うが。

 さて、さらに極端に話を進める。もし、分裂から3時間で衝突したならどうか。この場合、ティアマト彗星と地球との距離は18360km。この凄まじい至近距離は、地球の重力によって小天体が崩壊する、いわゆるロシュ限界の距離19134kmより小さい。こうなると、彗星本体が崩壊するので、糸守町のみならず、彗星の核由来の巨大な破片が地球各地に落下し、天体観測史上最悪な大惨事となるだろう。作品の中では、「ロシュ限界は超えてない」という事も言及されている。ということで、数時間という事を考えれば、彗星分裂が確認されてから、その分裂した核が糸守町へ衝突するまで6時間から9時間の猶予があったと思われる。

 

 

天文年鑑2016年版

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彗星の科学―知る・撮る・探る

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ティアマト彗星のクレーターについて

 糸守町のある飛騨山脈は火山フロントに位置し、活火山が過去にあってもおかしくはない場所だ。つまり、宮水神社の本社のあるあの場所(龍神山)はカルデラの可能性もある。

 しかし、宮水神社の失われた伝承という物語の背景を考えると、ティアマト彗星が過去三回ほど糸守町周辺へ彗星の核を落としていったと考えるのが自然であろう。まあ、同じような場所に彗星の核の断片が周期的に落下するのは、確率的には極めて非現実的な事象ではあり、普通は「ありえない」と断言してもいい。しかし、それでは話が成り立たないから、「そういうもの」として考える。

 すなわち一回目(かどうかはわからないが)、2400年以前の衝突時にはご神体のある龍神山のクレーターが出来、1200年前の衝突では糸守湖を形成するクレーターが生じ、大規模な山体崩壊と山火事が発生して、災厄を鎮めるために宮水神社が建立される(この辺もあくまで想像)。そして三年前に、糸守町の湖畔に三回目の衝突が起こる。

 さて、龍神山クレーターを形成したファーストインパクト(仮にM1クレーターとする)は、人の大きさと山腹との比較の印象だと、バリンジャー隕石孔とほぼ同じ規模、すなわち直径は1.5km程度といった所だろう。

 そして、糸守湖を形成したクレーター(M2クレーターとする)は、最も衝突の規模が大きかったことは、単純なクレーターの大きさ(湖の直径)を見れば想像がつく。諏訪湖がモデルだとすれば、直径は約5km。数千年以内の範囲で生じたクレーターのうち、これほどの規模のクレーターは現在の地球上には見つかっていない。

 最後に糸守町の湖畔に生じたクレーター(M3クレーターとする)は、湖の大きさの比較からおよそ直径2km程度と思われ、この時に衝突した彗星の核は、バリンジャー隕石孔を作った隕石よりもエネルギー量が大きかったことがわかる。

 さて、それぞれのクレーターは、どの程度の大きさの彗星核が糸守町周辺に落ちた結果なのだろうか。それを算定するには、彗星核の密度、入射角度、衝突速度、地盤の特性などを決めて計算しなければならず、それなりに面倒である。しかし、世の中便利になったもので、それぞれのパラメーターを入力すると隕石が衝突した場合の被害を自動的に計算してくれるサイトがあるのだ。その名も、Impact Earth!。さっそく数値を入力して、結果を出してみよう。

 まず、密度であるが、彗星の核はほとんどが氷なので、密度はほぼ1000kg/m3、すなわち、重さが1トンの一辺が1mの立方体と言った感じだ(これが鉄隕石になると同じ体積で重さは8トンになる)。入射角は、作品中の衝突時の映像からすると約70°くらいだろうか。衝突速度は、先に出てきた彗星の公転速度に合わせて17km/s(時速61200km)としておく。地盤の特性は周囲の火山噴火で生じた凝灰岩、すなわち堆積岩ということにしておく。さらに、三回目の衝突の際には、湖畔衝突と言うことで、水深100mと仮定して、対岸に生じる津浪規模も計算してもらおう。そして、非現実的ではあるものの、三回の衝突は同じ条件で起こったとする。結果は以下の通り。

 

 M1クレーター(龍神山ご神体)  → 衝突した彗星核の直径157m 

                   クレーターの底のまでの深さ 150m

                   地球衝突の確率:7600年に1回

 

 M2クレーター(糸守湖)     → 衝突した彗星核の直径450m

                   目視上、太陽の82.5倍の火球を形成

                  クレーターの底までの深さ 約200m程度

                   地球衝突の確率:80000年に1回

                   

 

 M3クレーター(糸守町湖畔に衝突)→ 衝突した彗星核の直径 185m

                    クレーターの底までの深さ 201m

                    対岸の津波の高さ:26m~52m

                    対岸までの津浪到達時間:2分40秒

                    地球衝突の確率:12000年に一回

 

 結果を見て分かる通り、どれも数千~数万年単位で一回起こるか起こらないかの事象である。しかも、「糸守町に」ではなく「地球に」衝突する確率である。つまり、同じ地域に数千年の間に続けて落ちる確率はさらに何桁も小さくなる。現実には「ありえない事象」というのがよくわかるだろう。ただ、もし万が一、このような大きさの規模の彗星の核が地球に衝突した場合、どのような大災害になるかということはわかる。

 作中では、M3クレーター形成時、対岸の山側にある糸守高校が避難所として設定されている。衝突地点から高校までの距離は定かではないが、落下地点の対岸なので、少なくとも5km以上は離れている事は確実だ。しかし、直径185mの彗星の核が通常の地表に衝突した場合、衝突地点から10km離れていても風速120m/sの突風が吹き荒れ、木造家屋や樹木はなぎ倒される。ただし、湖畔ということで、糸守湖の水がその衝撃を多少和らげると思われるが、それは逆に言うと、湖畔に津浪が押し寄せると言うことでもある。

 糸守湖外縁ということで水深100mとして入力すると、津波の高さは最大52mということで、彗星衝突地点以外でも、商店街などのある湖畔の町は津波で全滅であることがわかる。高校は高台にある(しかも湖畔が切り立っている)ためぎりぎり大丈夫だったのだろうか。ただし、いくら糸守湖がショックアブソーバーとなったとしても、おそらくは衝撃波は余裕で高校まで到達し、学校の窓ガラスはすべて割れ、避難が完了していたとしても少なからず人的な被害は出たはずである(新聞記事では町民全員無事のような内容が出ていたが、命に別状はないと言う意味だろう)。

 余計な事だが、三葉がつけていた日記(学習ノート?)のようなものも、この時に消滅したと思われる。

 

 また、落ちた彗星核の一部が185m程度として、そこからざっと逆算すると、ティアマト彗星本体のメインの核はやはり直径5~10km程度の大きさがあると思われる。もしそうなら、夜空に虹色に輝くあの様子は充分納得できるし、むしろ明るさが足りないくらいである。

 

 

 

天体衝突 (ブルーバックス)

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Newton 小惑星インパクト

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M1クレーター(龍神山のご神体)の植生と巨石

 龍神山の山中にあるM1クレーターであるが、その植生は作中ではほぼ草原・湿原である。そして、宮水神社のご神体のある巨石にそれなりの照葉樹らしき高木が生えている。飛騨山脈南部では森林限界は標高2500m程度にある。そのような高山に三葉の祖母である一葉が一日で登るのは厳しいだろう。また、龍神山の外輪山から見える周囲の山も、森林限界を超えた北アルプスレベルの標高の山は見えていない。つまりは、M1クレーターのある山々は、樹木が育たない森林限界の標高ではないと推測できる。

 となると、あのクレーター内部はうっそうとした森林が再生しているはずだ。というのも彗星の核が衝突して一旦はすべての植生が消失するが、日本の気候条件では、2400年もあれば植生が余裕で回復してしまうからだ。しかし、作品の中ではクレーター内部は森林ではなく明らかに見かけは草原・湿原である。いったいなぜか。おそらくは、80年~120年前に山火事があったのであろう。そして、すべては黒こげとなり荒原となり、そこから二次遷移が進行中という状態ではないか。二次遷移の年月は、ご神体の巨石に生えている樹木程度と思われる。また、湧水も豊富で、窪地(この世とあの世の境界にあたる)では湿性遷移が出発点になるエリアもある。よって、森林を形成する速度が平地よりも多少遅い事も考えられる。

 

 

図説 日本の植生 (講談社学術文庫)

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気候変動で読む地球史―限界地帯の自然と植生から (NHKブックス No.1240)

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 また、M1クレーターにはもうひとつ謎がある。M1クレーターが火山によって生じたカルデラではなく、彗星の核の衝突によって生じたと考えるならば、口噛み酒を奉納しているご神体の鎮座する巨石はいったいどこから来たのかという問題である。個人的にはある意味、この作品の最大の謎かもしれない。彗星の核はほとんどが氷なので、衝突した後には実体はない。つまり、あの巨石は宇宙からの落下物とは別物である。ならば、「元々あった岩なのでは」と思ったところで、そんな巨石も彗星の核の衝突時にすべて吹き飛んでしまっているはずだ。ではあの巨石の起源は結局何なのか。

 可能性の一つとして、近隣の火山噴火によって飛んできた火山岩塊という事がある。それにしても巨大すぎるので、1200年の間にクレーターの中心部から数km範囲の近隣の火山において相当に大規模なブルカノ式噴火が起きたと想定しなければならない。M1クレーターの外輪山から見た糸守町側の景観は、かなり開けていたので、その近接した火山はそれ以外の方角にあると考えられる(ようには見えないのだが、山体崩壊して、長い年月の間に植生が回復し、現在は火山活動の痕跡もない目立たない形になっているのだろうか)。なお、あの巨石が火山噴火の岩塊であると仮定すると、作中で見える巨石の色合いから推測するに、あの巨石は安山岩で出来ている可能性が高い。

 また、人があそこまであの巨石を運んできたと言う事も考えられる。重機もない近代以前にそんな事が可能なのかと思うかもしれない。しかし、飛鳥の石舞台古墳ストーンヘンジなどを思い返してみれば、現在からすれば想像を絶する労力であったかもしれないが、外輪山まで運ぶ事ができれば、あのクレーターの底まであの巨石を運ぶのは不可能ではないだろう。

 しかし、最も可能性があるのは、糸守湖形成の時、すなわち直径450mの彗星核の衝突によるM2クレーターを形成の際に、衝突地点の山中に元々あった岩塊が飛ばされてきたということだろう。実際、龍神山のM1クレーター内部及び外輪山には、大小の岩が散在している様が見てとれる。クレーターの底、それも真ん中に、あのような巨石があったら、当然、そこをご神体を祀る本社(本宮)とするのは自然な流れであろう。

 

 

日本の火山図鑑: 110すべての活火山の噴火と特徴がわかる

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巨石巡礼―見ておきたい日本の巨石22

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口噛み酒と神事

 三葉が神事で口噛み酒を作る場面で、テッシーが「人類最古の酒作りの方法だ」と呟く所がある。確かに人為的に製造する酒として口噛み酒は弥生時代程度までは遡れるので、かなり古い部類に入る。米などのデンプンを唾液のアミラーゼで分解し、生じた糖類を天然の酵母が分解し、アルコールが生成される。しかしながら、デンプンを分解しなくても、天然には元々、果実の果汁や蜂蜜に糖類が存在する。その糖類(果汁や蜂蜜)を適温で保存すれば天然の酵母によって自然とアルコールが生じる。いつ頃に製法が確立したかどうかは定かではないが、人類が最初に酒を作ったとすれば、果汁などを原料にしたものが先であろう。と言うのも、米を材料に使う以上、口噛み酒は農耕成立以降でないとありえない酒作りだからである。

 この口噛み酒、真っ当に製造するのはなかなか難しい。単に飯を噛んで吐けばいいというものでなく、口腔内の微生物のフローラがどうなっているかによって、生じる酒の品質も変わって来る。細菌の組み合わせ如何では、最悪の場合、腐敗が進行するケースもありうる(というか、素人がやれば大抵そうなる)。それは、巫女であろうかその辺の親父であろうが口腔内の微生物の種類が問題なのである。「もやしもん」でも、美里薫たちが口噛み酒でひと儲けしようと画策するも失敗に終わっている様が描かれている(どうやら、四葉が作った方は、生化学的には少なくとも失敗しているようである)。

 

縄文の酒

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酒の科学―酵母の進化から二日酔いまで

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もやしもん(1) (イブニングKC)

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 ともあれ、三葉の醸した三年物の口噛み酒を、瀧は一気に飲む。

 「三葉は巫女の家系だからわかるとして、なぜ瀧が三葉に選ばれたのか、その理由がわからない」という感想を書いている人もいたが、私としては「あやふやな記憶を頼りに、あの口噛み酒を飲み干す」という大胆な行動を起こすだけで、三葉と結ばれるに十分な素質を持っているだろうと感じる。話の流れで「飲んで当然」と思う人も多いのかもしれないが、ほぼ野外で三年間放置された、しかも神聖な意味合いもある、あの口噛み酒をあえて封をといていきなり飲むというのは、いろいろな意味でやはり普通の現代人の感覚では無理であろう。

 まず、三年間寝かされた結果、どんな成分が生じ・どんな微生物が優勢になっているかわかったものではない。下手すれば、食中毒になる可能性だってある。そして、迷信とわかっていても、神聖なものに触れる(しかも封を開けて身体に入れる)という行為は、今だって「罰が当たる」と普通は感じるものだろう。少なくとも、私なら、まずは臭いをじっくりと嗅ぎ、火落ち菌によるメバロン酸や酢酸菌による酢酸その他有機酸が生じてないか確認するだろう。要は、酸っぱい臭いがした時点でアウトである。

 しかし、瀧は御神酒徳利の蓋に中身を注ぎ、一呼吸置くだけで、臭いも嗅がずに一気に飲み干すのだ。科学の視点で眺めれば、はっきりいって無謀である。

 

 

神饌 ― 神様の食事から“食の原点

神饌 ― 神様の食事から“食の原点"を見つめる

 

 

 「君の名は。」は一応、男女の恋愛の話ではあるのだが、三葉をわざわざ巫女の設定にしていると言う事は、神事を通した奇跡という舞台装置を活用する狙いがあると思われる。となれば、瀧もまた、やはり巫(かんなぎ)の末裔と考えるのが自然であろう。それも、水にまつわる神々である(そして、名前の「瀧」は、彗星を象徴する「竜」が含まれている。そして、瀧の通う高校は「神宮高校」)。有史以前から、男女の心身交換を通して災厄を予言するようなシャーマンが存在し、その末裔が三葉と瀧なのである。よって、二人が結ばれるのは宿命であり必然なのだ。

 すなわち、「君の名は。」は、瀧や三葉の意識を超えた古来の神事をなぞりつつ、男女の運命的な結びつきを成就させると言う日本の深層を内在する恋愛物語と言う風に見る事もできそうだ。そう思えば、「M1クレーターのあの世とこの世の『水』で隔てられた境界を超えて、宮水神社の本宮に入り、口噛み酒をいきなり飲み、『彼は誰時』に、時空を超えて瀧と三葉が邂逅する」と言うある意味強引な(伏線を一気に回収しすぎと言われがちな)流れも別の意味で納得がゆくだろう。ま、この神事の話は、あくまで私の妄想に過ぎないので、実際の狙いはわからない。

 

 なお「繭五郎の大火」というエピソードもあるように、組み紐の素材はおそらくは定番の絹であろう。充分な面積の水田に恵まれない糸守町にとっては、やはり養蚕が盛んな時代があった事が考えれる。そうでなければ、繭五郎(まゆごろう)などという名前はつけないだろう。

 

 ここに書いた細かな科学的なお話しを知らなくても「君の名は。」は、充分楽しめる作品である(ただ、「口噛み酒と神事」については、その視点があると、クライマックスはまた一層楽しめるかもしれない)。おそらくは、こうした科学的な視点以外にも、見る人によっていろいろな解釈(特に民俗学的な視点で)があることだろう。

 

 改めて、こうした作品を多感な十代に映画館で鑑賞できるというのは、羨ましいと思う。そして、この小文を呼んで、彗星や火山などにも興味がわいたという人がいれば、存外の喜びである。

 

9月9日追記:小説版、及び2回目鑑賞を経て、いろいろ見落とし、勘違いがあったので、全面的に改正した。

 

 

 

「君の名は。」の科学 前篇

高校生が羨ましい

 今の高校生は幸せだと思う。なぜなら、大林監督の「転校生」「時をかける少女」、梶尾真治クロノス・ジョウンターの伝説」の成分を含みながら、物語のおおまかな枠組みは映画「オーロラの彼方へ」で、全編にわたって「秒速5センチメートル」が組み込まれている、そんな贅沢な作品、新海誠「気の名は。」をリアルタイムに映画館で体験する事ができるのだから。特に、最初にあげた作品をほとんど知らない高校生がいたら、なおさら映画館でこれまで味わったことない深い感動に浸っている可能性は高いだろう。知らないと言うのが、場合によっては良い方向に作用する事があるが、先入観なしに優れた作品を初体験して感激するというのはその典型である。

 

 

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 ある程度の歳をとって経験を重ねると、あるいは、それなりの量の様々な作品を知ってしまうと、新たな作品に接する時、「これはアレの二番煎じだな」とか「この設定はあの名作に比べるとリアリティないなあ」とか純粋に作品に没頭できなくなる部分はどうしても出てくる。上述の梶尾真治氏も「気の名は。」を見た後に、ツイッターで「ほとんど先が読めてしまった」旨を呟いておられる。まあ、タイムトラベル・ロマンスの大家だから、当然であろう。「批判のための批判」でなくても、人生や創作物の経験値が上がるごとにそうなってゆくのは、程度の差こそあれ、残念ながら避けられない。十代の頃に感動した作品でさえ、年齢を重ねてから改めて見返すと「何に感激していたのかわからん!」と自分自身にあきれる事もよくある。まあ、人間、日々変わってゆくのである。

 「君の名は。」についてネット上で辛口なレビューを書いている人は、やはりそれなりに人生経験や多くの作品に既に接してきた方なのだろう。若い人(特に十代)で、この作品について批判的に書く人がいるなら、既によほど様々な創作物に接してきた人もしくは自ら創作に苦悩している人か、単に「批判のための批判」の人だろうと勝手に想像している。ま、実際はどうなのかわからない。人それぞれなので。

 

 何の予備知識もなく見に行った私も、最初の三十分間くらいでほぼ話の筋は見えてしまった。見えてしまうと言う事は、やはり「ハラハラドキドキ」しながら見ている人とは後半の驚き度合いが違ってくるのはやむを得ない。しかし、先が見えてしまっても、あるいは多少の設定のアラがあっても、個人的に、この作品は素晴らしいと思う。見に行くかどうか迷っている人がいたなら、よほど気難しい人でもない限り、「見て損はしない良い作品だよ」と伝えるだろう。以下、ネタばれが相当含まれているので、まだ見ていない人は注意されたし。

 

 

 

 

 

 

 

君の名は。」の全体の個人的感想

 何が良かったといえば、「時空を超えるアイテムが渋い」という事がある。まず、ここが私好みだ。なお、ここで書く感想は個人的な見解であり、絶対にそうだというものではないので、その辺をわかった上でお読みいただきたい。

 まず、「赤い糸」と言うあまりにベタなものを、伝統工芸の「組み紐」(正式な名称、忘れた)に関連付けて、活用したのが巧い。しかも、一本だけでなく、色の違う紐を組み合わせて何本もの組み紐を宮水家は編んでいる。すなわち「組み紐」を編む作業シーンを通して、「時を自ら編む」かつ「異なった時間軸をつなげるマルチバースの概念」をも象徴しているのではないか。マルチバースについては、トッシーもムー的な雑誌を示して何気に説明していた。

 そして、物質的に時空を超えるアイテムとして「口噛み酒」を使うのもいい。時間軸を超えた情報伝達は、紐があれば成り立つのだが、時を隔てた物質は出会う事はできない。そこをある意味強引に結びつけてしまうのが、「口噛み酒」というアイテムだ。下世話な言い方をすれば、事実上の時間を隔てた間接キスであり、別の見方をすれば一種のアニミズムと言ってもいい。それが時空を超えた物質的な接続を成立させる「きっかけ」とする訳である。三葉が三年前に口から吐いた息の中の酸素原子が、三年後の瀧の肺に入る事は現実的には確率的に当たり前のようにありうるのだが、それは二人だけの話ではないから、説明した所で、見ている方は納得いかないであろう。あくまで、三葉成分が濃厚な、しかも神域で発酵していた口噛み酒に瀧と三葉をつなげるアイテムとしての意味があるのだ。

 さらには、この作品のベースを表す「誰そ彼」や「彼は誰時」という美しい日本語を、あのクレーター外輪山の風景の中や音楽とリンクさせてクライマックスで使うのもいい。やはり音声だけだと、その意味合いはなかなか実感できない訳で、わざわざ「言の葉の庭」に登場した百香理先生に黒板上で書かせてまで、「誰そ彼」「彼は誰時」と言う言霊を「言葉アイテム」として活用している。新海誠作品全般に言えることだが、彼が選ぶ「言葉」というのは、本当に繊細で美しいものが多い。「現実はそんな綺麗事ばかりじゃない。気障ったらしい。感傷的過ぎる」という人もいるかもしれないが、時として美しい言葉に身をゆだねるのもいいのではと個人的には思う。

 

 反対に、おそらくは時空を遮るアイコンとして、閉まる戸のカットがかなり繰り返し登場する。煩雑に感じる人も多かったかもしれないが、時空のつながりは儚く、何度でも途切れうる様を象徴しているのだろう。そう思ってみれば、二人がつながっている事へのアンチテーゼとして戸の開閉のカットが後半になる程にヒリヒリ感じられてくる。

 

 そしてやはり極めて抒情的な映像・構図・カット割りが圧倒的に素晴らしい。辛口な評価な人も、この映像美だけは認めている場合が多い。実際、奥行きのある水彩画のような映像は、新海作品以外ではなかなか見る事はできない訳で、特に都会と田園風景との対比の巧さにいつも感心させられる。構図やカット割りもさることながら、私の目が悪いのかもしれないが、都会の風景の時は全体に彩度を微かに(本当に微かに)下げているように見えるのである(ついでに言うと、都会のシーンでも、最後の最後、二人が階段で振り返る所は、ほんの微かに彩度がクイっと上がったような気がするのだが、これはさすがにこちらの思い込みが大きい気がする)。そして、今回は特に糸守町の描写が、様々なアングルを通して本当に美しく表現されている(どうやら諏訪湖周辺がモデルらしい。確かに言われてみれば似た雰囲気だ。が、糸守湖は断層湖の諏訪湖と違いクレーター湖という事になろう)。個人的にはこの風景を見ているだけでも心地よい。

 

 彗星を設定に使うと言うのもいい。まず、彗星は外観的にも美しいし、空を見上げて巨大な彗星があるだけで絵になる。そして、周期的にやってくるというのも物語を作りやすい。さらには、その彗星こそが悲劇の原因という二重性もいい。当然、その彗星の災厄は、この作品の民俗学的なモチーフとしても使われるのである。そして、「彗星の核が衝突して一つの町が消える」というぎりぎり災害の規模が実感できるそのスケール感がたまらない。天体衝突の話は、大抵は地球滅亡レベルの規模が多く、それをどうにか阻止する話になる訳だが、「君の名。」では、とにかく衝突は避けられないのである。

 

 

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 オープニングも非常に効果的である。ついつい、RADWIMPSの疾走感あふれる音楽に惹きこまれてしまうのであるが、あやふやな記憶をどうにか引き出して、思い返してみればあの短時間のオープニングの映像の中にこの物語の諸要素が実は詰め込まれていたりする。そして、OP曲の夢灯籠の歌詞もまた見終わって振り返れば、納得の内容である。初見ではっきりと意識できないとしても、この作品全体の基調をあの短いオープニングでとても手際よく提示しているように思える(繰り返すが、あくまで私の個人的意見である)。

 

 

君の名は。(通常盤)

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 また、意図的に省略しているシーンを要所に入れるのもなかなかいい。例えば、三葉の最初のシーン。糸守町の家の和風な寝室で三葉の身体に入った瀧が目覚め、違和感から胸を触るシーンがある。男女入れ替え話ではお決まりのシーンだ。そして、襖を開けて妹の四葉が入ってきて「なにやっとるん?」となる。ところが、その次のシーンは丸一日経過して、三葉の身体が三葉に戻った日常がいきなり出てくるのだ。男女入れ替えの話なのに、なんと入れ替わった初日の当惑の日常が省略されているのである。省略された一日は、それぞれ見ている側が想像で補完する他ない。それは瀧の側も同じだ。ところが、徐々に二人の心身交換の日常を何気ないカットの積み重ねで補ってゆく。そして、日常の充実した様子の描写がマックスになった所で、RADWINPSの歌詞付きの音楽が鳴り響く。無論、ここでも歌詞と映像はリンクしている。しかし、曲が終わると、ぱたりと心身の交換ができなくなる。ここから、また省略のシーンが多くなってゆく。

 後半で特に印象的なのは、「彼は誰時」を経て戻って来た三葉(中身も三葉)が町長室へ乗り込んでゆくシーン。なんと、乗り込んでゆくだけで終わりなのである。町長の対応を最後まで入れるのは論外だが、一言ぐらい三葉が町長に迫る台詞を入れて、三葉と町長との緊張が生じた状態を作った上で次のシーンに入ってもよさそうなものだが、それすらない。そこからしばらく三葉は画面に登場しない。彼女がどうなったかは、かなり長い時間わからない。つまり、詩情あふれる都会風景を切なく見ながら、見ている人はしばらく瀧と同じように、三葉について想いを募らせることになる(まあ、瀧は思い出せない「何か」を渇望するのだが)。

 そして、最後の最後。階段シーンでほぼピンポイントの充填に到達する(ついでに言うと、最終直前の瀧の後ろの「テッシー・さやちんカップルの昔と変わらない会話」シーンもなかなかスパイスとして効いている)。

 つまりは、欠落→充填→欠落→充填の繰り返しで、幾度か観客は充填のカタルシスを感じつつ、欠落が生じたら再び想像で補完しながら次の充填を求めることになる。シーンの欠落はすなわち「二人の記憶の欠落」を象徴し、ずっと傍観者で見ているはずの観客も、欠落したシーンをこれまでの話の流れを思い起こしながら、補完する。その作業を通して、二人の距離感・疎外感と見ている人の欠落感とが共鳴できるようになっているのではないか。まあ、ちょっとそれは考えすぎかもしれないが。

 ともあれ、おそらくは、こうした演出の工夫で、この物語の終盤に向けての圧倒的な駆動力が維持されているように思うのである。人によっては、「説明不足」「不親切」「必然性がない」「唐突過ぎる」と言う風に感じるのかもしれないが、私は、自分勝手に楽しむ事ができた。

 

また、何気に飛騨の民芸品である「さるぼぼ」が出てくるのも個人的にツボだった。

 

 さて、ここまでは全然「『君の名は。』の科学」になっていないのであるが、後編で具体的に書いていこうと思う。私には映画でも小説でも、なんらかの作品を鑑賞している時、「科学の視点」というものが通奏低音的に作動していて、「おやおや」と思う所を発見する事も多い。まあ、発見した所で、よほど滅茶苦茶な内容でない限り興醒めする事は滅多にない。理科の教科書ではないのだから、基本的に話が面白ければいいのである。逆に話が面白くなければ、いくら科学的な整合性が取れていてもしょうがない。

 「君の名は。」でも「おや?」と思う事がいくつかあった。別に「おや?」と思う事があっても、作品の価値は全く減じないし、私個人の中では「良い作品」であることには変わりない。ただ、「このような視点もある」という事で、「君の名は。」に感動して、なおかつ理科的な事にも興味があるという人は、是非後編も呼んでいただければ幸いである。

シンゴジラに出演している面々

 しつこくシンゴジラについて書く。いいかげん、落ち着きを取り戻したいのだが、いろいろ書きたい事が湧き上がるのがこの作品の特徴だから致し方ない。今回は出演者についての個人的な雑感を垂れ流してゆく。

 

 「シンゴジラと文系理系」で、「出演者はほとんど記号化されている」と書いたが、その記号化に大いに貢献しているのが、出演者の多種多様な「顔のバリエーション」である。シン・ゴジラ、登場人物は原則的にアップでスクリーンを占拠する。役者というのは、原則、身体全体で演技する訳で、顔面のアップばかりだと顔で演じる他ないのだが、その顔が本当に多岐にわたる。しかも、ほとんどは中年男性である。こう書くと、未見の人は「相当に暑苦しいのでは」と思うかもしれないが、意外とそれを感じないのは、ひとえにワンカットが非常に短いと言う事がある。ある意味、暑苦しさを感じる前に次のカットへ進む。

 

 つまり、そのアップの顔の切り替えでもう潜在的な物語が生じてしまう訳だ。モンタージュ理論の変わった応用とも言える。その「顔面博覧会」に登場させる役者陣が本当に適材適所というか、誰もが一度ならず何度でも様々なドラマや映画で見かけたはずの、でも名前までは全員は知らない顔である。よくこれだけ集められたなと言う感じだ。見る人の文化的背景によって「あ、あの人、こんな所に出ている!」と驚く場面が必ずあると思うのだが、一方で、この映画を一回見て、出演している台詞のある役者の名前と経歴まですべてスラスラ言える人はなかなかいないだろう。もしいたら、相当な役者マニアと言っていい。当然、私もすべての出演者(エキストラ的な人は除く)の顔と名前は一致しないし、そんな事をやりながら映画を見たら、ただでさえ情報量の多い作品なので、頭はパンクする。

 

 ということで、シン・ゴジラで私自身が印象に残った役者たちを並べていきたい。

 

大杉 漣(大河内清次内閣総理大臣

 劇団から下積みしたその役者歴はもう途方もない分量で、受賞歴も凄い。到底すべて把握できはしないのであるが、とにかく「なんでも演じる」のである。個人的に印象に残るのは竹中直人の「無能の人」の古書店主、北野武ソナチネ」の片桐。そして、やはりシン・ゴジラの流れとしては、「仮面ライダー1号」の地獄大使を忘れる訳にはいかないだろう。地獄大使が総理大臣なのである。

 

 

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柄本 明(東竜太内閣官房長官

 今や、彼の子供たちの方が有名なのかもしれないが、やはり柄本と言えば、東京乾電池柄本明であろう。この人も、あまりにいろいろな作品に出ているので、代表作と言われると案外と難しいのだが、個人的には川上弘美原作の「センセイの鞄」の松本春綱先生の枯れた存在感が印象深い。そして、やはり「ゴジラ対スペースゴジラ」の結城晃を忘れてはならない。ゴジラを血液凝固剤でどうにかしようとしていた結城晃と思ってみると、ゴジラが上陸してもそれなりに落ち着きはらって閣僚に指示を出す姿も納得できてしまう。

 

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國村 隼(財前正夫統合幕僚長

 この人も、普通にテレビドラマや映画を見ていれば、絶対に「見た事のある顔」の一人だろう。どちらかというと、渋い役柄、あるいは参謀的な立ち位置を演じる事が多い。「ゴジラFINAL WARS」では新・轟天号の副艦長の小室少佐、草薙剛の「日本沈没」では、内閣官房長官(のちに内閣総理大臣臨時代理)の野崎亨介を演じている。今回の幕僚長の役では本当に彼の本来の持ち味が最大限に生かされていて嬉しい限りである。

 

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平泉 成(里見佑介農林水産大臣のちに内閣総理大臣臨時代理)

 シン・ゴジラにおいて最終的に「美味しい役」によくこの人を起用したものだと思う。この人の芸歴も長く、実に様々なドラマや映画に出ている訳だが、ほとんど特撮の歴史と重なっているから、ウルトラマンシリーズではタロウ、レオ、ガイア、メビウスに出ているし、平成のウルトラ映画でもお馴染みの顔である。そして、ゴジラならあの「ゴジラ対デストロイヤ」での上田内閣調査室長なのだ。彼の今回のシン・ゴジラでの配役は、そういう特撮の脇役功労賞みたいな気がするのは私だけだろうか。

 

 

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渡部 哲(郡山 内閣危機管理監

 個人的にはNHK朝の連続ドラマ「私の青空」のバズーカ利根川の印象でずっと来ているのだが、おおむねそんな感じの役が多いので、修正されていない部分もある。しかし、思い返せば、「ゴジラキングギドラ」でラゴス島日本軍軍曹、「ゴジラモスラ」では戦車隊長、「ガメラ大怪獣空中決戦」では富士裾野での中隊長と徐々に出世し、ついにシン・ゴジラでは初動体制を作る重要な役どころの内閣危機管理監になっている。この流れ知る人は、郡山内閣危機管理監の冷静沈着な対応には積み重ねた経験によるものだと、わかる人にはわかる訳で、顔だけで選んだ訳でないのが憎い。

 

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余貴美子(花森麗子防衛大臣

 「小池百合子をモデルにしているだろう」とかなり言われているが、そうかもしれないし、そうでないかもしれない。この人も何でも演じられる実績のある大女優なので、小池百合子が仮に防衛大臣をやっていなかったとしても、こんな「鉄の女」のような防衛大臣がいてもおかしくない雰囲気は充分に出ていたように思う。とありえず草薙剛の「日本沈没」の大地真央よりは実在感はある。というか、シン・ゴジラの場合、あくまでその場の、花森大臣の「首相を追い詰める迫力」のみで「実力と声の大きさでのし上がって来たんだだろうなあ」と観客に物語を補完させてしまう力がある。これは「竹で割ったような勢い」と「冷徹さ」とが共存できる女優でないと無理なので、余貴美子がまさに適任だったであろう。

 

 

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長谷川博巳(矢口蘭堂内閣官房副長官)

石原さとみ(カヨコ・アン・パタースン大統領特使)

市川実日子(尾頭ヒロミ環境省自然環境局野生生物課長補佐)

 この三人に共通する事は、ちょっと微妙な出来の特撮映画に出ているということだ。長谷川博巳と石原さとみは樋口監督の「進撃の巨人」にシキシマおよびハンジとして、市川実日子庵野監督の「キューティーハニー」に秋夏子として出ている。進撃の巨人キューティーハニーは、映画作品としていろいろ問題はあるものの、個々の俳優の仕事として見ると、結構見ごたえがある。特に「進撃の巨人」での石原さとみの弾けぶりと長谷川博巳の成り切り度合いはなかなかである。

 長谷川博巳という名前を私が知ったのは「鈴木先生」からである。武富健司原作のコミックを初めて読んだ時の衝撃は忘れる事はできないが、あれを実写ドラマでやるなどとは夢にも想定していなかった。コミックだからこそぎりぎり許される表現内容だと思っていたのだが、長谷川博巳という怪物俳優を得て、見事に実現してしまった。あれができるなら、彼は何でもできる。当然、シン・ゴジラの矢口も下手をすると非現実的なキャラクターとして浮きそうなのだが、違和感なく引き込まれるのは彼の秘めた狂気によるものに他ならない。それは、別のベクトルの狂気にはなるが、石原さとみも同様である。まあ、石原さとみに関しては、賛否評論あるようだが、彼女のあの演技もまたシンゴジラを成り立たせるための極めて重要なピースであったと個人的には思っている。

 市川実日子は、市川美和子と区別が付かない時期があったのだが、木皿泉脚本の「すいか」での芝本ゆかで、間違えることがなくなった。奈良美智の描く幼女のように目つきが鋭い方が市川実日子なのである。キューティーハニーの秋夏子役は、個人的には原作のキャラがとてもよく出ていて気に入っている。妙に思わせぶりなアンニュイな役柄よりも、どこかネジの外れた役の方が彼女の良さが出ると個人的には思っている。そして、満を持して(かどうかはわからないが)、監督はシン・ゴジラの最終兵器として尾頭ヒロミを投入したのである。これは皆が彼女にハマることを想定して監督がキャスティングしたとしか思えない。彼女以外のキャスティングをいろいろ想定してみるのだが、やはり全く思いつかない。本人としては困った事になるかもしれないが、スポック=レナード・ニモイのように、市川実日子=尾頭ヒロミになりそうである。

 ともあれ、三人とも特撮映画に通底する独特の世界観を出せるキャストとして白羽の矢が立ったのであろう。そして、三人とも見事にはまった。

 なお、前述の「キューティーハニー」には、パンサークロウのゴールドクロー(!)の役として片桐はいりが大真面目に出演している。言うまでもなく、シン・ゴジラでは、官邸のお茶くみのオバサンとして登場する。あれだけの一瞬の出番ながら、「片桐はいり、出てたな」と誰もが強烈に印象に残るのはいつもの通りである。

 

 

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髙橋一生(安田 文部科学省研究振興局基礎研究課課長)

松尾 諭(泉修一 政調副会長)

 シン・ゴジラ鑑賞の第一回目では事前情報は完全にシャットアウトして映画館に向かったので、誰が出演しているなどの情報もないままであった。そこで、松尾諭が出た後に、髙橋一生が出てきて「MM9かよ!」と心の中で叫んでしまった。MM9は、山本弘原作のSFで、怪獣が定常的に出現する世界で、怪獣の出現予測を行う部署(気象庁特異生物部対策課、略して「気特対」)での物語である。それが原作とはかなり違う話としてドラマ化された。そこで、髙橋一生は灰田涼と言う実質的な中心人物を、松尾諭は山際俊夫という情報分析官を演じた。事実上、巨災対のひな型のような作品で、監督は樋口真嗣。といっても、まったりしたお役所的雰囲気の充満した分類の難しい作品だ。ともあれ、そのまったりとした二人がシン・ゴジラではえらく有能にパキパキ動いているので、二人が出てくると、MM9と比較しながら、頬が緩みっぱなしであった。というか、松尾諭、出世しすぎだ。

 なお、ご存じ方も多いだろうが、髙橋一生は「耳をすませば」の天沢聖司の声をやっている。さらについでながら、ウルトラ・お笑いバラエティー番組「ウルトラゾーン」にも両人は出ている。

 

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嶋田久作(片山修一 外務大臣臨時代理)

手塚とおる(関口悟郎 文部科学大臣

 両人とも特撮映画史上印象に残るキャラクターのトップ10には必ず入るであろう人物として記憶されている事に異存はなかろう。と誰に言ってるのかわからないが、わかるひとにはわかる。嶋田久作は「帝都物語」「帝都対戦」で魔人・加藤保憲を、手塚とおるは、「ガメラ3邪神覚醒」にて狂気のプログラマー倉田真也を怪演している。

 嶋田久作加藤保憲は本当にハマり役で原作者の荒俣宏さえ、嶋田久作に合わせてキャラを書き変えたくらいである。加藤保憲の印象が強いせいか、嶋田久作と言えば、制服組又は何かしらデカダンスの漂う、余り感情は表に出さず、密かにほくそ笑む俳優と言う印象であった。そんな感じで今回のシン・ゴジラを見ていたら、アメリカ合衆国側からの要求に対して、いきなりバーンと机をたたき「それにしても、この要求はひどすぎます!!」と泣きながら鼻水たらしながら激昂するので、非常にびっくりした。「昔、東京を壊滅させたくせに、何を言ってるのだお前は」と心の中でつっこんだ人も多かろう。これも、わかる人にはわかる、なかなか皮肉な演出である。

 手塚とおるも「ガメラ3」にて、天才プログラマー倉田真也として相当に気色の悪い演技を大放出している。あれこれロクでもない事を口走って、最後は、死の恐怖をリアルに感じながら、ひきつった笑顔で瓦礫の下敷きとなる。その恐怖の延長かのように、シン・ゴジラ文部科学大臣として、終始、落ち着きなく「何かの不安」を抱えているようなキャラクターとして登場する。シン・ゴジラ手塚とおるが発する台詞は基本的に「不安がらみ」のものばかりであり、まさに横柄な倉田真也の裏返しのような存在として演出されている。それにしても、いつのまにか文部科学大臣とは出世したものだ。

 

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 他にも、いろいろ書きたい出演者はいるのだが、際限がないからこの辺でやめておく。高良健吾竹野内豊はなぜ出て来ないのかという人もいるかもしれないが、私としては、お二人とも映画の中での「常識人」としての要石としてよくやっていたと思うが、俳優としてはあまり印象に残っていなのである。ファンの人は申し訳なし。

 

 なお、ここまで凝りに凝ったキャスティングを敢行しながら、第一作の「ゴジラ」に出演していた、菅井きん宝田明が出演していないのは、単に都合が付かなかったのか、あるいはあえてキャスト候補から除外していたのか、どちらなのだろうか。

 菅井きんは、なかなか体調的に厳しいという問題もあるかもしれないが、宝田明参院選に出馬要請が来るくらいにはまだまだ元気なようである。

 もし、あえて候補から除外していたのなら、庵野監督は、フィクションであれ真面目に「シン・ゴジラ」において本当に「ゴジラのいない世界」を想定していたとも考えられる。つまり、第一作はやはり特別なゴジラで、あの映画世界を体現していた二人は、「ゴジラを体験した二人」ということで使いにくかったのだろう。二作目以降はすべて原則「ゴジラのいる世界」という前提だから、誰が出演していようがさして問題はないのだが、やはり一作目は「ゴジラのいない世界からゴジラのいる世界へ」という原初体験な訳だから、菅井きん宝田明は、他のゴジラシリーズ出演俳優とは違った位置づけだったのかもしれない。

 

 

 ところで、映画館で四回見て、アナウンサーの小川真由美と広島大教授の長沼毅がどこに出ていたのか、未だにわからない。DVDが出たら、じっくりと探したいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シンゴジラと文系・理系

 以前に「人は理系として生れる訳ではない」という小文を書いた。興味の対象が自然であれば理系で、人間であれば文系という話であった。もちろん純粋に理系あるいは文系に特化した人などはいない。各々の比率は違えども、現実に社会生活を送っている以上、誰もが理系的な部分と文系的な部分を兼ね備えているのは言うまでもない。

 

 シン・ゴジラを何度か見ていると、監督が意識しているのかどうかはわからないが、この文系理系という分け方が作品の中でかなり明確に区画化されているので面白かった。シン・ゴジラでは、登場人物の背景や私生活は、主人公であってもほとんど明らかにされない。当然、人情噺・家族愛・恋愛譚はほとんどないと言ってよい。そこに不満を感じ、シン・ゴジラを酷評する人もいるが、それは映画に求めている事の種類が違うので致し方ない。そういう人は役者の自我が炸裂するような絶叫・号泣系の作品を堪能すればいいだろう。

 シン・ゴジラでは、登場人物は基本的に組織の中で機能する駒である。そして、それぞれの駒にどのようなスペックがあるのかは、一瞬一瞬の演出の積み重ねや文字情報でかなり明確に示される。要は、多方面に光を当ててじっくりと人物像を想定してゆくと言うよりも、完全に登場人物を記号化して取り扱っていると言ってもいい。別の言い方をすれば役割の決まっているコマを自在に組み合わせてドラマを成立させるような巧妙に設計された見事な群像劇とも言える。

 

以下、例のごとくネタばれを壮大に含むので、未見の人は注意されたし。

 

 

 

 

 

文系集団の閣僚・官僚

 気付いている人も多いだろうが、シン・ゴジラでは、オープニングから最初の自衛隊ヘリ出撃まで人間側のBGMが全く流れない。無論、ゴジラ自身のBGMは上陸・進化と非常に効果的使われる。オープニングからヘリ出撃まで、人間側は冗長な会議および現実から遊離した閣僚の迷言が連続するだけで対応が後手後手になっている状況である。BGMがないということは、人間側のゴジラに対する実質的な進展はないと言う事を意味する。

 多くの閣僚、官僚は「人間が作ったシステム」を思考の中心に置いた、文系の比率の高い人たちが中心となった集団である。よって、政治家及び官僚の多くは、一般的に「自然が関与する事象」に対して適切な判断を下す事ができない。なぜなら、自然は人間が作ったシステムではないからである。

 ゴジラに限らず、様々な天災が起きた時、後から政府の対応が批判される事があるが、それは文系の発想だけでは被害を最小限にするための政治的判断ができないから致し方ないところがある。「ならば専門家を呼べばいいのでは」と言う単純な話ではない事は、三人の有識者を呼んでも何も解決しなかった事が象徴している。あれは多くの人にとっては「役に立たない御用学者」のカリカチュアのように見えたかもしれないが、実際にあの段階でゴジラについて説明できる研究者はいないであろう。ただし、三人の有識者のコメントは理系のそれではない。もし、本当に理系ならば、全くの未知の生物が出現した時に、あのように「わからない」と言うだけでと平然としていられる訳がない。わからないなりにもっと身を乗り出してない知恵を振り絞って仮説を立てることだろう。つまり、あの三人の有識者は、理科的な知識のある文系側の人間である。ちなみに「御用学者」というのは、政府の期待する答えをうまくアレンジして言及してくれる学者の事を指すのであって、あの三人の有識者は御用学者ですらない。

 

 大河内首相について書く。第二形態がさらに変化して第三形態(通称・品川くん)となり、自衛隊ヘリによる攻撃を大河内首相が決断しなければならない場面がある。直立したゴジラはすでに大規模な災害を引き起こしている本体である。ここで殲滅させなければさらに被害が拡大することは確実だ。ところが、攻撃地域に人がまだいる可能性があると言う事がわかり、首相は攻撃中止命令を出す。戦後の日本で作られてきた統治の形を考えれば、確かに「自国民に銃を向ける訳にはいかない」というのは正しい。ある意味、典型的な文系の発想である。おそらく平時には良い政治家であったろう。しかし、自然が相手の場合、文系はやはり分がわるい。

 

 さらに言うなら、政治家や官僚は工学的な視点もなかなか持てない。工学は自然の法則を人間が利用できるようなシステムとして構築してきたものであるから、自然そのものへの理解がなければ正しく把握する事はできない。防衛出動を首相が決断した後に、エレベーターの中で、閣僚たちが「自衛隊がでてくればゴジラはひとたまりもないだろう」と言うようなシーンがあるのだが、文系にありがちな「自然に対する根拠のない楽観」の典型と言える。閣僚は書類上の戦力は把握しているかもしれないが、現実の自然に対する想定力が決定的に欠けているのである。

 

「文理両刀」政治家の面々

 あの場面で太平洋戦争の例を出して「楽観は禁物」と戒めることのできた内閣官房副長官の矢口蘭堂は、文系でありながら理系の視点も持てる、文理バランスの非常にいい「文理両刀」の人物と言えよう。理系的である事自体に、理科的な知識は必ずしも必要ない。自然へのリアリティが持てるかどうかが重要なのである。その自然への畏敬を感じとれるからこそ、矢口はゴジラの圧倒的な存在形態を直感的に把握し、巨大不明生物特設災害対策本部(巨災対)の必要性を痛感したのだ。そして、巨災対が組織された後も、彼が文理両刀だからこそ、その面々の成果を的確に理解し、最も良い形でまとめることができたのである。

 

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)

 

 

 

 泉修一政調副会長およびカヨコ・アン・パターソン大統領特使の二人もまた文理両刀の登場人物である。どちらもいかにも理系的な台詞はないものの、状況を的確に把握している事には変わりない。

 泉は一見するとコテコテの政治家タイプ、つまり文系人間に見えるが、巨災対のメンバーをかき集めるに際し、どのような人材が適切かを判断できる事自体、理系センスがあるという事に他ならない。単なるコネであれだけの適材適所を実現する事は困難であろう。

 パターソンにしても、牧博士の研究資料の意味するところを把握し、米国側の共同研究者の選定も行うなど、理系の素養がなければできない事を何気なくこなしている。情報の欠落した牧博士の解析図を広げた時も「自分の専門ではないけれど」という断りが入ると言う事は、おそらくは何らかの理系の修士号くらいは持っていそうである。同時に、当然ながら政治的駆け引きも行う面もある(というかそちらの側面の方が分かりやすく演出されていた部分はある)。

 なお、「カヨコ・アン・パターソンのような人物が将来大統領になるというのは全く非現実的だ」と言う人もいるのだが、そう言う人は現実の世界でドナルド・トランプが大統領候補になっているのを知らないのだろうか。私個人の意見だが、トランプよりも、これだけ有能なパターソンが大統領になる方がはるかにマシであり、世界のためになるだろう。

 

自衛隊の司令官も「文理両刀」

 自衛隊の司令官も理系の視点がなければ仕事にならない。ある意味、最もシビアに自然に対峙するのが自衛隊と言う組織であろう。不確定要因が数多くある中で、最も効率的かつ効果的に敵に損害を与えるためには綿密なシミュレーションが必要である。そして、実戦というのは、一回しかできない壮大な実験とも言える。その司令官が文系であると、理想論もしくは精神論に傾きがちで、どんな高度な兵器を所有していても玉砕あるいは撤退しかないだろう。無論、人心掌握も作戦には重要であるから、文系の側面も司令官には備わっていないといけない。つまり、自衛隊の指揮官もまた文系と理系のバランスが取れてないと務まらないのである。

 シン・ゴジラでは、自衛隊の司令官が、これまでの日本映画にありがちな「政府からの命令に盲目的に従うだけの存在」ではなく、自発的に思考できる有能な存在として描かれている。これは、本物の自衛隊の作戦に準拠して、作戦実行までの手順をリアルに追求した成果であろう。なお、人間側でBGMがつくのは、既に書いたように自衛隊ヘリの出撃からである。つまり、ここから人間側の物語が動き出すのだ。

 

 

理系集団・巨災対

 シン・ゴジラを決定的に面白くしたのは、この巨災対という組織を設定したことにある。これまでの災害モノ・SFは一人の天才科学者が問題を解決するというパターンが圧倒的多かった(例外は、マイケル・クライトン原作の「アンドロメダ・・・」)。ところがシン・ゴジラでは共同対策チームなのである。つまりヒーローはいない。「プロジェクトXみたいでカッコいい」という人も多かったが、実際問題としてゴジラという巨大で未知の生物に対して、一人の科学者だけでどうにかなる訳なく、様々な専門分野から多角的に考察しなければ具体的な対策案は出せないだろう。言わば、素粒子研究のような巨大科学の研究手法を取らなければ解決できないのだ。そして、BGMもあの巨災対のテーマがプロジェクトの進行に合わせて変奏されながら鳴り響く。

 一部、外交畑の人材もいたが、言うまでもなく巨災対のメンバーの多くは理系である。ゴジラと言う「超越的な自然」に対決するためにはそれは必然と言ってよい。といっても、巨災対の中でも、文系と理系の配合比はその立場によって微妙に異なっている。

 

 

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巨災対「文理両刀」の人々

 巨災対の中にも文理両刀な人物がいる。まず、資源エネルギー庁電力・ガス事業部原子力政策課長の立川 及び経済産業省製造産業局長の町田だ。氏名役職は失念したが、防衛省から来た彼、輸送手段重機等を調達する運輸省の彼も同じような立ち位置だろう。役職からもわかるとおり、実社会と密接に関わる部署だけに他のメンバーとは少し雰囲気が違う。立川は放射線対策、町田は凝固剤供給の調整、防衛省の彼は作戦本体の策定、運輸省の彼はロジスティックの管理など、ヤシオリ作戦の運用に関わる部分を請け負っている。つまりゴジラの本質に迫るというより、後方支援的な立ち位置だ。

 

巨災対「いわゆる理系」の二人

 文系成分よりも理系成分の方がそれなりに多い人となると、文部科学省研究振興局基礎研究振興課長の安田、途中から参加する原子力規制庁監視情報課長の根岸があげられるだろう。

 安田は全国の研究機関に本当にいそうな典型的な研究職キャラクターである。というか、私の知り合いにも似たキャラの人は実際にいる。自然への興味はあり、未知の発見には無邪気に興奮するものの、周囲の人間関係にも気を使える人物だ。よって、ゴジラの本質の理解を矢口などに上手く伝達する役割も担っている。

 根岸もゴジラから発見された新元素についつい興奮(歓喜?)してしまう半面(同じ場にいた、赤坂秀樹内閣総理大臣補佐官が「アメリカの狙いはこれか」と冷静にいかにも文系的な発言をするのと対照的だ)、一般社会と放射線との折り合いについても充分に考えているようである。まあ、普段は原発や自然界からの決まりきった放射性同位体のスペクトルを眺める日々だろうから、全く未知のピークのある線源が見つかれば彼でなくても興奮する気持ちはわかる。

 

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巨災対「バリバリ理系」の二人

 人間よりも自然を探求する事が三度の飯よりも好きなのである。そして、研究対象が自分の想像を超えれば超えるほどエキサイトする。研究そのものが面白ければ、社会的評価は気にならない。それがバリバリの理系である。方向性を間違えれば危険な人物だ。

 その二人とは、間 城北大学大学院生物圏科学研究所准教授と尾頭ヒロミ環境省自然環境局野生生物課長補佐である。閣僚の前でもマイペースを貫くクールビューティの尾頭、ひたすら自らの仮説を暑苦しく展開し続ける間と、その没頭の仕方は対照的だが、今ではほとんど絶滅危惧種と言えるバリバリの理系である。

 しかし、自然(ゴジラ)を真に理解するには、ある意味、研究対象に「なりきる」事も必要なのだ。ゴジラについてのブレークスルーが実質的にこの二人によってもたらされたのは、言い方は変だがゴジラと言う研究対象を誰よりも「愛していた」からだろう。なんといっても、尾頭は自然環境局野生生物の部局にいるのである。そして、熱核兵器の使用については「ゴジラより怖いのは人間ですね」とまさにゴジラ寄りの発言をする。そして、最後の最後、放射性元素半減期が思い他の短い事がわかって、おもわず笑顔がこぼれるのはもちろん復興が早まるという人道的な安堵感と同時にゴジラとの共存の可能性をも視野に入った事への彼女なりの喜びの表情だったのかもしれない。

 もちろん、彼らだけではゴジラへの対処はできなかったのであるが、彼らのアイデアがなければ対処のきかっけさえ得られなかった訳で、そう言う意味では非常に重要な役目を果たした二人と言う事になろう。

 

日本を救った文系の政治家

 理系が頑張らなければ本質的なゴジラ対策はできない。効果はまだ未確定だがヤシオリ作戦は準備万端だ。ところが、国際社会はそう単純ではない。ゴジラの原因を作ったアメリカ合衆国は、国連を通した熱核兵器によってゴジラをなかったことにしたい。日本の近隣の中国・ロシアとしては、動く自然災害「ゴジラ」は日本で熱却してほしいのは当然だろう。

 ここから先は、文系の世界だ。文理両刀の矢口・泉をパイプ役にして、赤坂が里見佑介内閣総理大臣代理を「もう好きにしたらよろしいかと」と説得する。おそらくは里見総理大臣代理も迷っていたのであろう。赤坂の言葉で決意を固める。そして、自らの進退を覚悟して、フランス大使に頭を下げて、どうにか攻撃の時刻を繰り下げることに成功する。この時、文系の登場人物が出ている場面で初めてBGMが流れる。冒頭の文系閣僚・官僚の会議シーンでは無音楽だったのとは対照的である。

 

文系でも理系でもない人々

 いろいろな人が既に指摘しているが、シン・ゴジラの大きな特徴の一つに「愚か者が出て来ない」という事がある。愚か者とは、その時その時の感情に振り回されて最悪の選択をする人々の事である。シン・ゴジラでは自らの職務を全うする人々しか出て来ないのである。もっと言えば、それなりに頑張って勉強してきた人しか出て来ない。ここで言う「勉強してきた人」というのは、学歴の事を言っているのではない。それぞれに専門知識を学び、深く自ら考え、世界を見据える軸のようなものを確立している事を指す。そうした軸があれば、文系理系問わず、ゴジラが来た時に何をすべきなのかは明確である。まあ、文系閣僚・官僚は前半ではブラックユーモア的に演出されてしまったが、冷静に見ればそれぞれの立場で出来うる事を精一杯やっていることがわかる。ゴジラと言う不測の事態であるが故に的外れになっているから滑稽なだけである。

 勉強してない人(軸のない人)は、残念ながら文系でも理系でもない。それは小学生を単純に理系文系に分けられないのと同じである。シン・ゴジラの中で、官邸前で「ゴジラを殺せ」「ゴジラを守れ」のデモをやっている集団が一瞬出てくる。このデモをやっている人々の中に、この文系でも理系でもない愚か者がいるのかもしれない。何がしかをそれなりに勉強し、自分の頭でそれなりに考える人なら、そんなデモをしても何も得るものはない事はわかるはずである。

 そういった愚かな人々がほとんど登場しないために「現実的でない」「感情移入できない」という評価も生じることになるのだろうが、ドラマを盛り上げるために愚か者を全面的に登場させたらこの映画はおそらくは収拾がつかなくなったであろう。あえて、軸のある人々だけを登場させて、流れるようなドラマの機能美を堪能するのがシン・ゴジラの鑑賞のコツかもしれない。

 

シンゴジラの音楽

 同じ映画を見ても、感じ方が人それぞれなのは当然ながら、シン・ゴジラほどその感じ方・捉え方が多種多様に分岐する作品もなかろう。公開後たった二週間程度でとんでもない数のコメント・感想・解釈・解説がネット上に溢れかえっているのは前回のシン・ゴジラの生物学に書いた通りである。

 

 

 

 今回はシン・ゴジラの音楽について感じる所・思う所を書いてみたい。当然、音楽の側面でもいろいろと様々な意見が出ている。旧作のゴジラの音楽を使ったのが素晴らしいと言う人もいれば、録音が古くて今の映画館では違和感があったと言う人もいた。また、エヴァンゲリヲンの音楽が多いのはいかがなものか、という声もそれなりに多く、鷺巣詩郎の曲は余計だったのではという手厳しい意見も見受けられた。

 

 

シン・ゴジラ音楽集

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 私個人としては、上記の意見のどれにも与しない。というのも、たぶん上記の意見を書いている人達と私とではおそらく音楽的な背景がかなり違うと想像されるからである。

 

伊福部昭シン・ゴジラ

 まず、旧作のゴジラの音楽があまりゴジラ映画とつながっていないと言う事がある。私にとって、年少の頃より長年親しんだ怪獣映画といえば「ガメラ」なのである。ゴジラシリーズは相当に年齢を重ねていった後に見始めた。よって、映画館で見られたゴジラは、機龍二部作以降である。

大怪獣ガメラ [Blu-ray]

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 そう言う訳なので、ゴジラの音楽の認識順番としては、世間一般と逆で、まずはラベルのピアノ協奏曲の第3楽章ゴジラ(に似た)音楽初体験となる。18分30秒あたりである。無論、この曲を初めて聴いた時、ゴジラに似ているとは全く思ってない。

 

ラヴェル:ピアノ協奏曲

ラヴェル:ピアノ協奏曲

 

 

  次に出会ったのが伊福部昭のヴァイオリンとオーケストラのための協奏風狂詩曲である。これを初めて聴いた頃は、映画音楽でない方の伊福部昭の曲に夢中になっていて、9分11秒あたりの部分を耳にした時「ラベルの協奏曲そのまんまじゃん!」とずっこけた記憶がある。伊福部作品には他にもプロコフィエフのピアノ協奏曲3番冒頭にそっくりなフレーズが出ていたりして、近代音楽の部品を結構そのまま活用している事が多い。もちろん、部品であるだけで完全に伊福部節の中で同化してしまっているのだが。

 

楽 協奏風交響曲&協奏風狂詩曲~伊福部昭の芸術5

楽 協奏風交響曲&協奏風狂詩曲~伊福部昭の芸術5

 

 

 そして、ゴジラ映画というものをちゃんと見たことないので、一作目から見てみようと思ってビデオを借りてきたら、いきなり冒頭で協奏風狂詩曲(ラベルのピアノ協奏曲)が登場して「なんじゃこりゃ!」となったのである。無論、ゴジラの音楽よりも、協奏風狂詩曲の方が作曲時期は古い(もっといえば、映画「社長と女店員」「蜘蛛の街」でも既に使っている)。伊福部昭の音楽がすでに強く刻み込まれていた私にとって、「伊福部昭の音楽がゴジラという映画の伴奏として使われている」と言う感じで「ゴジラの音楽は伊福部昭」という感覚にはなれなかった。それは今でも変わらない。伊福部昭自身も「周囲から『映画音楽を作るなど作曲家として邪道』と揶揄された」と回想している通り、本業はやはり純音楽の作曲家という意識はどこかにあったように思う。

 と言う訳で、シン・ゴジラ伊福部昭の音楽が流れる事自体は、伊福部作品を愛する自分としては嬉しい事なのだが、それは「初代ゴジラの音楽だったから」でなく、「伊福部昭であるから」だ。本気を出した時の伊福部昭(別にゴジラの音楽が片手間だったという事でなく、情熱の方向性が違うと言う意味で)は、ピアノとオーケストラのためのリトミカ・オスティナータの終盤(17分00秒あたりから)を聴いていただければ充分であろう。こういった伊福部成分がゴジラの音楽に昇華されているというのが、私の感覚なのである。

 ということで、シン・ゴジラで伊福部音楽に改めて魅了された人は、彼の他の多様な側面にも注目してもらえれば幸いである。

 

 

ゴジラ

ゴジラ

 

 

現代日本の音楽名盤選5 伊福部昭・小山清茂・外山雄三 (MEG-CD)

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 伊福部昭シン・ゴジラの音楽について小室敬幸氏が「音楽から読み解く「シン・ゴジラ」の凄み」というタイトルで譜例も入れて実に楽しくきちんと解説して下さっている。音楽素人からすれば、なんとなく感じている事を具体的に提示してもらえてありがたい限りである。伊福部音楽=ゴジラ音楽という人が、どのようにシン・ゴジラの音楽を受容しているかをひじょうにわかりやすく解説してくれているので、目から鱗であった。また、鷺巣詩郎の仕事についても、推測を交えながらも解説してあり、シン・ゴジラという作品は、音楽もまた入念に設計された「仕掛け」が満載である事を実感できた。

 

 

鷺巣詩郎シン・ゴジラ

 「エヴァンゲリヲンの音楽を使いすぎでは」と言う指摘も、事実としては認知できるものの「そこに何の問題が?」というのが正直なところである。おそらくはエヴァンゲリヲンの音楽の刷り込みが強すぎて、その原初イメージに引きずられてしまう違和感があったのだろうと想像する。私の場合、エヴァンゲリヲンの音楽もまた、様々な音楽を想起させるもので、特にシン・ゴジラで多用された「ヤシマ作戦」の音楽は、エヴァンゲリヲンで初めて聴いた時には、いろいろ連想する曲が出てきたものである。

 

Shiro SAGISU Music from“EVANGELION:1.0 YOU ARE(NOT)ALONE”

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 まず、ジョン・バリー「007/ロシアより愛をこめて」の「セブン」。与える印象は微妙に違うのだが、似ていると言えば似ている。そして、だいぶん印象は異なるが、同じような傾向の音楽として大江戸捜査網のテーマ曲も出てくる。

 

007/ロシアより愛をこめて オリジナル・サウンドトラック

007/ロシアより愛をこめて オリジナル・サウンドトラック

 
大江戸捜査網 オリジナル・サウンドトラック
 

 

 以下、素人的に屁理屈を並べる。3拍というのは基本不安定で、偶数拍は安定感のある拍である。奇数拍と偶数拍が混在すれは変拍子である。最も単純な変拍子は3:2の5拍子だ。例として、倉橋ヨエコのロボットを上げておこう。なにか急かされている感じになり安定感はない。さらに2拍足して、「2:3:2」としても、奇数である事には変わりないので、プロコフィエフのピアノソナタ7番終楽章のように、疾走感は高まるが、無理やり前進させされているような不安定な感じになる。偶数拍だけだと「不安定さ」は出て来ないので、強制的にアクセントでも入れない限り、リズムだけで切迫感は出しにくい。といっても、上記の例を見てもわかるように奇数拍を入れればいいというものでない。解決策としては、小節全体で偶数になるように拍を設計すれば、不安定と安定とが遷移して、聴く者に何らかのアクションを誘導させることができる。

 

 

プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ 第2番,7番,8番

プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ 第2番,7番,8番

 

 

 その最も単純な解決案は「3:3:2」にするということだ。3拍の部分の不安定さが2拍の部分で落ち着く。その繰り返しで健全な前進性が生まれる。先のジョン・バリーの007、大江戸捜査網がこのパターンである。

 「3:3:2」の変形として、「3:3:2:2:2」というのもある。譜面上は2小節となっているのだが、レナード・バーンスタインの「アメリカ」が代表例だ。「3:3」でタメて「2:2:2」で弾けるという対比サイクルを繰り返す事で前進性というよりも、舞踏への勧誘を強く促す音楽となる。

 

 

 

 「3:3:2:2:2」の最後の2拍を省いた「3:3:2:2」とすると当然不安定感は増す。と同時に二拍で終わるから前進性はある。前進性はあるが、足りない拍は自分で補って突破せよというような感じになる。リズムを刻んで思いだした人もいるだろうが、このパターンは、スパイ大作戦のテーマである。

 

 

スパイ大作戦 ファイル1 ― オリジナル・サウンドトラック

スパイ大作戦 ファイル1 ― オリジナル・サウンドトラック

 

 

 

 さて、ヤシマ作戦の音楽であるが、これは、なんと「3:3:3:3:2:2」という拍になっている。不安定な3拍が4つ連続した後に、絞めで2拍が二つ。前進性はやや薄れるものの、複雑な不安定なプロセスが秩序だって順次進行してゆく時のBGMとして最適なリズム構造と思われる。

 

 このヤシマ作戦の音楽がシン・ゴジラの「巨大不明生物特設災害対策本部(巨災対)」のテーマになったことで、この曲のポテンシャルが最大限発揮されたと言っていいだろう。巨災対向けのカッコいい楽曲はおそらく他にもいろいろあるだろうが(例えば、マイティジャックのテーマ曲のような)、架空の秘密兵器の出て来ないシン・ゴジラにおいては、面倒で困難なプロセスを粛々と根気よく地道に進めてゆくほかない訳で、さらには情報量の多い台詞もこのテーマの拍に非常にうまくハマり、シン・ゴジラで中心的な役割を果たす「巨災対のテーマ」として、この「ヤシマ作戦」以外の音楽はもう何も思い浮かばない。

 そして、サントラである「シン・ゴジラ音楽集」を聴くと、この「巨災対のテーマ」は物語の進行ともに六回も巧妙に変奏され、盛り上がってゆく。この事を見ても、巨災対のテーマがシン・ゴジラの人間側の通奏低音のように作用していることがわかる。今後、シン・ゴジラの音楽と言えば、この「巨災対のテーマ」になるのではないか。ともあれ、日本映画史上に残る極めて効果的なBGMであると思う。

 

 

シン・ゴジラ音楽集

シン・ゴジラ音楽集

 

 

 

シン・ゴジラの音楽>

 最後にシン・ゴジラのために作られたオリジナルの音楽について書く。既に小室敬幸氏が鷺巣詩郎伊福部昭とのモチーフの共通性について考察しており、鷺巣さんが、この作品を通して洗練された形で伊福部音楽の種子を蒔いている事がわかる。

 その考察の中で、サントラのトラック3「対峙」の音楽(第三形態と自衛隊が初めて対峙する場面で使われる)とトッラク20,21の「特殊建機小隊」の音楽(ヤシオリ作戦の血液凝固剤注入場面)とが共通のモチーフで、同じ戦闘場面である「タバ作戦」では違う音楽が使われていることに疑問を呈している。

 個人的には、これは自衛隊の意識の差を象徴させたものであろうと推察する。最初の対峙は「自衛隊が初めて国内で国民がいるかもしれない場所で火器を使う」という「初体験」の緊迫感がある。一方、ヤシオリ作戦の方は、不確定要因が多く放射線被害も無視できない決死の作戦という別の意味での「緊迫感」がある。ともあれ、どちらも非日常の中のさらなる非日常の緊迫感だ。

 そして「タバ作戦」は、攻撃が政府から承認されていて、自衛隊としては「入念に計画された勝つ事前提の作戦」なのである。つまり正体不明なゴジラという攻撃対象ではあるものの、自衛隊としてやることは「通常業務」である。そこは非日常の中の「自衛隊の日常」があるだろう。と言う訳で、タバ作戦はゴジラへの攻撃にはかわりないが、自衛官の根底にある意識は違うと思われるので音楽も違うのであろう。といっても、徐々に情勢が不利になるので悲劇的な曲想になる事には変わりないのだが。

 また、伊福部モチーフを内在する音型をさらに変形させながら、トッラク1「上陸」、トラック4「報道1」、トッラク13「悲劇」、トッラク14「報道2」、トッラク22「終局」と適用し尽くす所はまさに職人である。特に、「上陸」「悲劇」と「報道2」、「悲劇」と「終局」とか強く関連付けられているのは、物語の潜在的な解釈を広げる上で非常に効果的である。

 また、トッラク13の「悲劇」には歌詞があり、その意味は様々な人が和訳してくださっているが、この哀歌を素直に受けとめれば、ゴジラは牧吾朗自身であるように解釈できて、あの美しくも悲劇的なシーンの見え方もまた違って見えてくるというものである。無論、解釈はヒト様々であって、自分なりに納得できる答えが別にあれば、あのシーンを改めて味わえばいい。ただ、歌詞を知らないで見るのと、知って見るのとではかなり違う事は間違いない。

 小室敬幸氏は終局の後半部分の弦楽合奏が示すモチーフが暗示的だと言っているが、私も同感である。映画を見た人は、あの謎のエンディングを映像的に知覚しただけでなく、おそらく音楽の側面でも潜在意識的になんらかの「余韻」として感じたはずだ。

 

 そして、その余韻をかき消すかのように、初代ゴジラのオープニングのテーマが相当に手の込んだ古い録音でエンドロールに流れる。これもまた見事な演出と言えよう。そして、最後の最後で「ゴジラVSメカゴジラ」で締めくくるので「いやあ、いいものを見たなあ」という達成感を嫌でも感じてしまう。最後まで誠にかゆいところに手の届く選曲である。

 この終曲の終曲を聴いていると、同じ監督で続編はないだろうなと思う。この終曲には、何か「すべてやりきったぜ」という監督の万感の想いが込められているように感じるのである。

 

ベスト・オブ・ゴジラ

ベスト・オブ・ゴジラ

 
完全収録 特撮映画音楽 東宝篇10 ゴジラVSメカゴジラ

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