ZoaZoa日記

気の向くままに書き散らしてゆきます。皆さまの考えるヒントになればと思います。

シンゴジラの生物学

 現代文の大学入試などで、存命の作家の作品が使われる事がある。当然、入試後に原作者に著作使用の報告がいくのだが、その答えを見て原作者が「ええ?その解釈は違うんだけどなあ」とこぼす事はよくあるらしい。問題作成者としては、入試の前に「この解釈でよろしいですかねえ」と原作者に尋ねる訳にはいかないだろうから、なかなか難しい所である。というか様々な解釈できる作品の方がやはり名作は多いのであって、出題者を責める気にはなれない。あえて言えば、何とでもとれる中で正答をあえて考える受験生がちょっと気の毒に思うくらいである。

 

 なんでこのような事を書いているかと言うと、庵野秀明監督・樋口真嗣特撮監督のシン・ゴジラが滅法面白かったからである。はっきりいって日本映画史に残る大傑作となるだろう。とにかく、映像的にも言語的にも単位時間当たりの情報量が桁違いに多い。かといって、ある程度、情報をカットしても充分に楽しめるように構成されている。つまり、見る人にどのような視点・背景があるかによって、様々な解釈が成り立つ作品である。御親切に劇中でも「私は好きにした君も好きにしろ」という意味深な台詞を幾度か登場させ、観客を挑発しているので、公開後数日でネタばれを控えたうえでも相当な数の感想・解釈がネット上に溢れかえった。そして、時間が経つにつれ、徐々にネタばれを含んださらに膨大な感想・批評・解釈が出てきて、読むと本当に様々な視点があって、それぞれに一理あるので、読んでいるだけで楽しい。

 そこには演出や映像などの映画論もあれば、政治学や防災もしくは震災・原発についての社会学の視点もあり、さらには監督自身の内面をさぐる人もいる。つまりは非常に重層的な作品故に、いくらでも議論できる訳で、私個人も多方面にわたって書きたい事は山ほどある。が、あえて生物としてのゴジラに限定して書きてゆきたい。監督の意図がどこにあったにせよ、ここからさきは私なりに考えた生物としてのゴジラである。

 なお、ネタばれが含まれているので、まだ見てない人はなるべく読まない方がよいだろう。映画館で見た後に参考にしていただければ幸いである。また、私自身も映画館で見た曖昧な記憶を頼りに書いているので不正確な部分があるのは御了承願いたい。

 

 

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、ゴジラの生物学といっても、既に「ゴジラ生物学序説」という名著があるので、今更な気もするが、ただ今回のシン・ゴジラでは、様々な生物学的ヒントが映画の中で何気なく盛り込まれているので、架空のトンデモ生物としても考察するのが楽しい存在になっている。もちろん、架空の生物についてあれこれ考えても、フィクションはフィクションであるから無理があるし、何かの役に立つものでもない。ただ面白いから考えるのである。

 

 

ゴジラ生物学序説 (扶桑社文庫)

ゴジラ生物学序説 (扶桑社文庫)

 

 

新 ゴジラ生物学序説―骨粗しょう症の可能性からウイルス進化論まで

新 ゴジラ生物学序説―骨粗しょう症の可能性からウイルス進化論まで

 

 

 

 今回のシン・ゴジラにおけるゴジラには次のような特徴がある。

 

1.核エネルギーで活動している

2.極めて短時間に四段階の急速な変態(進化)を起こす。

3.人類がまだ発見してない新元素を体内で生成できる。

4.体内で発生した熱は血液循環によって放熱している。

5.外皮は極めて堅牢で自衛隊の火器はほとんど役に立たない。

6.ヒトの8倍以上の遺伝子を持っている。

7.背中、尾の先端と口らしき部分から超高温の熱線を出す。

8.後天的に周囲の飛行物体の存在を視覚以外でも捕捉する事ができるようになる。

9.無性生殖的に個体を増やすシステムがある。

10.極限微生物との共生で核融合核分裂を制御している。

11.既存の血液凝固剤によってゴジラの血液は凝固できる。

 

 これまでのゴジラと共通しているのは「核エネルギーで活動をしている」くらいである。

はっきりいって、1、3、7、10と4、6、11とは両立しない。いくか極限微生物と言っても、核分裂核融合の起こる温度で安定した構造を維持するのは困難であるし、ましてや既存の血液凝固剤はタンパク質との相互作用によって凝固するので、耐熱性のタンパク質を想定しても、もって数百度までである。そして、遺伝子がDNAもしくはRNAどちらでも、二重らせんの構造はとってないだろうし、体内の推定温度からしてタンパク質と同じく遺伝子として機能する形を維持できるとは思えない。つまり、劇中での御用学者が言っていたように「想定外の生物で何とも言えない」と言う事になる。しかし、それでは話は進まない。専門用語を勢いよく連射し、痺れる巨災対のテーマ音楽にのって「なぜ超高温と通常の生体反応の両立するのか」と言う疑問はなかったことにして、最後まで突っ走るしかないのである。

 

 と言う事で、全体としてみればゴジラは矛盾を抱えている存在なのだが、別個の事については結構、劇中で語られているので、そこだけに注目して考えられることを記す。以下、当然の事ながら多少の科学的見地を含めた私の妄想である。

 

<核エネルギーを使う存在としてのゴジラ

 まず体内で既存の元素を組み合わせて新元素を生成できるので、体内のどこかに核融合炉のようなあるいは微小な加速器のような構造があるはずである。それは極限微生物の作る特別な膜構造の集合体が局所的に超高磁場を作り、その中で生成していると思われる。無論、その詳細は不明。新元素が生じる場は非常に高温かつ高圧になっているだろう。そして、新元素と言う以上、ゴジラがまき散らした放射性物質は、原子番号119番ウンウンエンニウムから始まる第8周期以降の元素と言う事になる。119番以降は理論的には中性子の数から比較的崩壊寿命の長い「安定の島」の元素が存在すると予想されている。劇中で最後に半減期が20日程度と言う事が判明するので、おそらくはその「安定の島」の元素ということになるだろう。どちらにせよ、人工合成元素かつおそらくは金属元素である事には変わりない。

 新元素は当然の事ながら、どのような性質を持っているのかは全くの未知数である。少なくとも、ここまで原子番号が大きくなると、既存の元素の常識は当てはまらないかもしれない事は容易に想像が付く。自衛隊の火器では全く歯が立たない装甲も、この新元素の大きな特徴なのかもしれない。

 

元素111の新知識 第2版増補版 (ブルーバックス)

元素111の新知識 第2版増補版 (ブルーバックス)

 

 

元素はどうしてできたのか (PHPサイエンス・ワールド新書)

元素はどうしてできたのか (PHPサイエンス・ワールド新書)

 

 

 

 また、急激な多段階にわたる変態(進化)も、一般的な生物の持つ骨格構造や筋肉構造では説明が付かないので、元素変換を連鎖的に行って身体構造を元素レベルで再構築させている事が考えられる。当然、大量の熱が発生するので、海中では周囲の海水は沸騰し、陸上では廃熱及び形態形成の余剰部分を排除するために血液らしきものをエラ状の孔から排出する。また、血液循環の放熱効率を上げるために背中に突起を発達させる形態的工夫も観察される。しかし、第三形態となれば、さらに元素変換は激しく進み、かつ体積に対する表面積の比が小さくなるので、陸上に居続けると体内が高温になりすぎると思われる。よって、冷却のため再び海中に戻る他なくなる。

 

 なお、文科省の安田が「破壊の規模から考えて通常のエネルギー源で活動しているとは思えない」と言う風な疑問を呈し、環境省の尾頭が「核エネルギーでは」となるシーンがあるが、怪獣映画でこういった純粋なエネルギー問題を語ったのはたぶん初めてなので、非常に感動した。徘徊した後の破壊状況を「地表に震源のあるマグニチュード5程度の地震」と同程度と大雑把に概算すると一回目の上陸でゴジラが放出したエネルギーは2×1012J程度と思われる。

 一般的な生命のエネルギー源はATPである。そして、1モル(507g)のATPからが最大限エネルギーを引き出した場合約3×104Jのエネルギーが放出される。つまりゴジラがATPをエネルギー源として活動していた場合、7×107モル(約35490トン)のATPを消費したことになる。通常の生物では体重当たりのATPの質量は数%以下である。もちろん、分解再生が繰り返されるので、活動時間に比例して消費ATP量は増えてゆく。しかし、第二形態・第三形態のゴジラの身体の推定重量と陸上での推定活動時間からしてATPが35490トンというのは生物学的に利用不可能な量であり、ゴジラがATPをエネルギー源として活動していたと考えるのは、安田が言うように確かに難しい。

 

 

 第四形態ではエネルギー放出の形態が三種類となる。まず一つは体内で生成した元素を比較的低温のまま微粒子(煙)として口腔状の開口部から放出。そして、続いて色温度から推測してだいたい4000K(約3800℃)の火炎として放出。これはおそらくは微粒子自体の発熱による発光であろう。そして、色温度から推測して20000K(約19800℃)以上のビームのような熱線が開口部だけでなく、背中の突起や尾から照射される。

 これは核融合反応を進めるために体内で発生させていたプラズマを一気に放出させた結果であろう。仮に20000K程度としたが、もっと高温かもしれない。

 自己防衛のためのエネルギーを放出しきれば、生命活動を維持する核エネルギーも枯渇するので、再びじっくりとミクロなレベルから周囲の既存の元素を素材として新元素を生成してゆくほかない。その過程は一見すると活動を停止したゴジラということになる。無論、充分な新元素および核エネルギーが蓄積すれば再び活動を始める。

 

 

プラズマ物理・核融合

プラズマ物理・核融合

 
トコトンやさしい核融合エネルギーの本 (B&Tブックス―今日からモノ知りシリーズ)

トコトンやさしい核融合エネルギーの本 (B&Tブックス―今日からモノ知りシリーズ)

 

 

 

 

 ゴジラは最初に記したように、大気や海水中の元素を材料として新たな元素を体内で生成できるので、通常の動物のように外部から有機物を摂取する必要はない。よって、牙のある口のように見える開口部は、いわゆる食べるための口腔ではなくエネルギー放出のための放出口と考えるのが妥当であろう。よって、「血液凝固剤を口から入れても吐き出すのでは」という多くの人が抱く疑念も、あそこが体内環境につながっている唯一の開口部と考えれば、血液凝固剤を投入するのはあの穴しかないだろう。言うまでもなく、外皮は様々な火器が貫通しないほどの硬度なので注射という選択肢は始めからないと思われる。

 

 

<生物としてのゴジラ

 核エネルギーを利用すると言う時点で、既存の生物学の常識は通用しないのであるが、そこは無視して、ここでは劇中でかわされた生物学的な言及について考えたい。

 まず、遺伝子が人の八倍以上あるという話だが、仮に遺伝子が核酸の形であるなら、たしかに地球上で最も進化した存在と言えるかもしれない。ネット上では、「人よりも遺伝子が多い生物などいくらでもいる」と言っている人もいるが、おそらくはそれは遺伝子ではなくてゲノムと勘違いしているものと思われる。ゲノムで見ればヒトよりも多くのゲノムを持った生物は珍しくない。しかし、遺伝子となると話は別である。実際に発現し機能を発揮するタンパク質をコードしているのが「遺伝子」であり、その遺伝子が人の十倍以上あるということは、人よりも十倍以上も機能を持ったタンパク質をゴジラが有しているということである。それはより多様な環境に適応できる可能性を持つということでもある。もちろん、タンパク質の種類が多ければいいというものでもないが、単純に考えて生体内に持っている分子がより多機能な方が、様々な状況に対応できうるだろう。

 

ゲノムが語る生命像 (ブルーバックス)

ゲノムが語る生命像 (ブルーバックス)

 

 

 

 

 例えば、周囲の飛行物体を感知するセンサーをおそらくは後天的に獲得しているのであるが、それも多様なタンパク質の発現が可能だからこそであろう。実際、微弱な電流や赤外線を感知する生物は実際にいるわけだし、あれだけ形態形成を繰り返すゴジラがいきなり新たな形質を発現させても、なんら不思議ではない。ただし、三次元的に移動する物体のみ感知するようで、直線的(二次元的)に動く物体(線路上を走行する列車など)は対象外だったようである。

 無性生殖的に様々な種へ分岐して拡散するというのも、生物の生存戦略としては極めて理にかなった方法である。おそらくは余剰にある遺伝子を自ら組み替えて、形態形成パターンや遺伝子発現のパターンを変えてゆき、身体の一部から出芽のように新個体を放出する生殖様式なのだろう。ゴジラの場合、一個体の中に、複数の個体が内在し、環境の変化に応じて小さな個体として分散、状況次第で再び集合するような「可塑性のある個体」という概念を確立させているのかもしれない。第二形態から第三形態への変化、飛翔形態もしくはヒト型形態の萌芽が身体の一部から生れているなどがその例である。すなわち、我々が長年イメージしてきた恐竜型のゴジラは、単に形式的な「はりぼて」に過ぎず、ゴジラの本質はその個体の可塑性にあるのかもしれない(だとすると、今後、映画としてはヒットにくくなるだろう)。

 

ヌカカの結婚―虫たちの不思議な性戦略

ヌカカの結婚―虫たちの不思議な性戦略

 

 

昆虫は最強の生物である: 4億年の進化がもたらした驚異の生存戦略

昆虫は最強の生物である: 4億年の進化がもたらした驚異の生存戦略

 

 

 

 さて、問題の血液凝固剤について。血液凝固剤というのは、血液凝固に関わる様々な因子(そのほとんどはタンパク質)に作用して、血球やタンパク質が凝集するように促す物質である。トロンビンのような天然由来のタンパク質もあれば、凝固反応の足掛かりを作るような無機物(シリカ、カルシウムなど)の場合もある。劇中では候補が数十種類あり、破壊現場から回収したサンプルから有効なものサーベイしている様子を示していた。要するに新たに開発するというより、既存の血液凝固剤を使うということである。となると少なくともゴジラの血液は脊椎動物と共通の成分を多く含む液体ということになる。そんな我々と大差ない体液が高温となっている体内で変性しないのかという疑問は脇に置き、あれだけの巨体に対してあんなタンクローリー車程度の血液凝固剤の量で足りるのかという疑問を持った人もいるだろう。そもそもゴジラの体循環系もはっきりしない(熱源の分布はわかるにせよ)のに、血液凝固剤の投与だけで冷温停止スクラムがかかるとどうして断言できるのか。

 そこは、矢口が大河内内閣の閣僚に「希望的観測は禁物」と苦言を呈したのと同じ程度には、「血液凝固作戦(ヤシオリ作戦)」にも大きな「希望的観測」が含まれている事は否めないだろう。環境省の尾頭も途中「確度をあげるしかない」と言うあたり、それなりにやけっぱちな方法論である事は自覚していると思われる。しかし、他に妙案がない以上やるしかないのである。

 さて、血液凝固剤あんな量で足りるのか、もしくはあんな入れ方で効果あるのかという疑念であるが、実際に効いてしまった以上、次のような事が考えられる。

 まず血液循環による冷却機能は、相当な血流速度によって維持されていたと言う事がまずある。言うまでもなくあの巨大なサイズ全体に冷却のための血流を送りだすにはとんでもない圧力によって血液を輸送しなければならない。単純に100m以上の高度に何トンもの血液を引き上げるだけでも大変なのに、効率的に冷却しなければならないのでゆっくり循環していたのではその場その場で茹だってしまう。逆に言えば、ちょっとでも遅滞すると全身に大きな影響が出てくると言う事である。それは、全量凝固剤を投入する前からゴジラの動きが鈍くなっている事からも推測できる

 また、莫大なエネルギーを利用して生命を維持しているために、その制御の揺れによってぶれるエネルギーの単位が半端ではない。下手すれば自分自身が核エネルギーによって溶解してしまう危険性もある。よって、アクシデントが生じた場合はシビアに対処が出来るようにシステムが構築されていると考えられる。よって、血液凝固によって少しでも通常の冷却系のシステムに反故があった場合、すぐさまもっと強力な冷温停止状態を強制的に執行することになる。ATPによるエネルギー生成系の私たちの身体では、どんなにエネルギー生成系が暴走したとしても、体液が沸騰するようなことはない。だいたい36℃プラスマイナス5℃に収まっているのが私たちの身体である。しかし、ゴジラは違う。下手すると簡単に数千℃も体内温度が急上昇することもありうる。

 これは逆に考えれば、全身の血液が凝固しなくても部分的な血栓のようなものが生じるだけでも冷却抑制効果が出てくるということであり、あの程度の血液凝固剤で充分だったということだろう。

 もう一つの疑問、「あんな入れ方で大丈夫なのか」だが、あの噴出口から超高温の熱腺が放出されていた訳であるから、最も冷却しなければならない部位に直結している事は疑いの余地はないだろう。そこに直に血液凝固剤が入ると言う事は、いきなり本丸の血液が冷却不全を起こすと言う事で、最も効果的な投入部位ということが言えるだろう。

 また、今回の血液凝固の作用を見る限り、ゴジラは毛細血管で成り立つ閉鎖血管系ではなく、部分的に血管がなくなる開放血管系の循環系であると推測される。もし閉鎖血管系であれば、それこそ「飲ませる」のでなく「注射」しなければ効果は期待できなかっただろう。

 

 

考える血管―細胞の相互作用から見た新しい血管像 (ブルーバックス)

考える血管―細胞の相互作用から見た新しい血管像 (ブルーバックス)

 

 

 

 なお、スクラム冷温停止にとなっても、周囲の気温が10~30℃である以上、徐々にゴジラの体内の温度も気温に近づいてゆくと思われる。スクラムはあくまで緊急停止措置であって、充分に冷却できれば生命活動を再開するのは時間の問題であろう。矢口が最後、遠景のゴジラを見ながら、浮かない表情を浮かべたのも、今回の対処が多かれ少なかれ時間稼ぎに過ぎない選択だった事をかみしめていたからかもしれない。

 

 余談ながら国連決議で、熱核兵器(いわゆる水爆)で熱却する選択肢も出てくる訳だが、言うまでもなくゴジラは核弾頭が身体に着弾する前に迎撃するものと予想される(というか一般的に熱核兵器は上空で炸裂させる)。熱核兵器核融合の連鎖反応によって形成する火球の内部は、瞬間的に数億度になるが、派手に爆発する段階にはかなり温度としては低下してしまう。実際に、ゴジラに降りかかる熱線はせいぜい10,000℃弱にすぎないであろう。通常の生物ならそれで十分すぎるほどだが、元々数万℃の温度環境を制御するゴジラにとって、10000℃程度では熱却することはできないと思われる。と言う事で、熱核兵器を使用した場合、二重三重に日本へのそして世界へのダメージが大きかったと思われる。

 

核兵器のしくみ (講談社現代新書)

核兵器のしくみ (講談社現代新書)

 

 

 

 最後にゴジラの行動パターンについて。巨災対では「意志があるようには見えない」という見方をしていた。確かに一回目のルートには何かの必然は感じられない。ただ、試しに陸に上がって、どうも放熱がうまくいかないから海へ戻ったと言う風な感じである。

 しかし、二回目の上陸は政府中枢を目指して進行している事は明らかで、これは単なる徘徊とは違うであろう。もしかすると、一回目の上陸も目的地はそこで、途中で断念したのかもしれない。一回目の上陸の被災地を訪れた矢口が「あとちょっとで首都中心に到達する」と言う台詞がそれを物語っている。

 と言ってもゴジラになんらかの「自由意思」があるとは思えない。その生殖形態からして、おそらくは中枢神経は全身に分散していると思われる。いわば昆虫の神経系をより発達させたような情報処理がなされているのではないか。つまり、ゴジラとして発生した時点で目標地点がプログラミングされていると言うのが妥当な線であろう。そして、目的地でエネルギーを放出して火の海にしてから、新たな複数の形態となって、全世界に飛散するという予定だったのかもしれない。それは凍結後の尾のアップの映像が示唆している。

 では、そうした行動プログラムはどうして生じたのか。それは科学の視点では何とも言えない。もしかすると、牧吾朗博士が設定したのかもしれないし、生物として元々そのようにできているのかもしれない。物語としては、牧吾朗設定説が盛り上がる訳だが、監督自身はその答えを明かす事はなかろう。

 

 

モンシロチョウ―キャベツ畑の動物行動学 (中公新書)

モンシロチョウ―キャベツ畑の動物行動学 (中公新書)

 

 

孤独なバッタが群れるとき―サバクトビバッタの相変異と大発生 (フィールドの生物学)

孤独なバッタが群れるとき―サバクトビバッタの相変異と大発生 (フィールドの生物学)

 

 

 

 

ともあれ、「科学的な視点」で好きに論じてみた。いろいろ計算・概算等が間違っているかもしれないが、ご指摘あれば幸いである。

生命科学と水素水

 何をやっていても、自分が関わっている事が世の中の中心になってしまうのは当然のことである。日常でいつもその事を考えているから、その事を通した世界を見ている。人間というのは、一回きりの人生しか歩めない訳だから、途中、多少の修正は入ったとしても、その人なりの視点でしかこの世界を捉える事はできないとも言える。何かを研究している人々は、自分の研究テーマを軸に物事を深く考察するために、特にその傾向は強い。大抵は、自分の研究テーマに意義があるから研究をしている訳で、自分のテーマがこの世界の中でたいした意義がないのであれば、研究のやり甲斐もないであろう。

 しかし、生物という極めて多面的な存在を研究対象にした場合、一人の人間が生物全体を完璧にすべてを把握理解することは困難である。というか不可能。となると、人間も含めた生物を研究する人は、生物のごくごく一部分を研究しているに過ぎなくなる。生物を理解するために、何がどれだけ重要かというのは、現時点では(そして、たぶん将来も)何とも言えず、誰も本当の答えは知らないはずである。しかし、それでは寂しいので、「自分のやっている事は生物を理解するうえで極めて重要な部分を担っている」と思えた方が精神衛生上好ましい。と言う事で、生物を研究する人の論文やレポートは「~は、生命を維持する上で極めて重要である」「~は~のために重要な役割を担っている」と言う風な文言はだいたい入っている。まあ、嘘ではないが、がっちりどこから見ても真実であるかと言えば、それも断言はできない。研究の進展によって、その重要度はそれなりに変わってくる。つまり、正しく「重要度」を判定できる人は未来にもたぶん現れないであろう。

 

 「水素分子が体内でなんらかの生理作用を及ぼす」というのは、現時点では生化学の教科書には載ってないし、その特性を応用した医薬品もまだ公的には認可されていない。しかしながら、「水素分子にはなんらかの作用がある」と考えて今現在、研究を行っている人々は「水素分子の有用性」をほぼ確信して、様々なやり方でその有用性を証明しようと精進しているであろう。今、巷で話題の「水素水」については、他の似非科学と違って、水素分子の効果を「示唆する」論文がまっとうなジャーナルにおいて、すでに多数出ている。ま、論文が出ているから間違いないと言う事では全くなくて、他の似非科学よりはマシと言う事である。それに水素水の難しいところは、ビタミンなどと違って、水素分子が作用する際の身体条件及び摂取条件が極めて流動的なので、なかなかカッチリしたデータを出すのは難しいように感じる所である。しかし、そんな事を言っていたら進歩はないので、コツコツと臨床データを積み上げてゆくほかなかろう。

 

 物理・化学系の人は、この「水素水」の生理的な効果について否定的にとらえている場合が多い。「水素ガスの水への溶解度から考えて、到底効果を示すとは思えない」というのが主な根拠のようである。物理・化学系の人の発想の根幹には、やはりラボアジェから続く「量的な関係」があるから、「そもそもの水素分子が微量では体内で反応する量もたかが知れるから、生理作用も期待できない」ということなのだろう。さらには特定の活性酸素種だけと反応するのも疑問を呈している。いろいろ言いたい気持ちはよくわかる。

 生物系の人からは、「腸内細菌がそれなりの量、水素を生産していて、それが体内にも吸収されているから、新たに外から水素を取り入れる意味はない」という異議も出てくる。これも、水素水など飲まなくても、実際に呼気に水素が含まれる場合もあるからもっともな説明である。水素水を飲まないのに、なぜ呼気から水素分子が出てくるかと言えば、現時点では「腸内細菌が生産したから」としか説明のしようがない。

 

 水素水を販売する素人さんではなくて、実際の水素分子の生体への影響を研究している人はこういった矛盾点をどう考えているのか。ここ数年の文献(やたらに日本人が多いが)のデータを信用するならば、「水素分子は何らかの情報分子として機能していて、最もよく効果を示す濃度があり、そこを超えると機能しなくなる」というような事になっているらしい。個人的には、「情報分子としての水素」ならば納得のできることが多い。ただし、現状では、水素分子のレセプターは何か、具体的にどのような情報伝達が行われるのかは全くわかっていないので、相当にアバウトな仮説であり、まだまだ研究の蓄積が少なすぎる。

 しかし、過去には、一酸化窒素(NO)のような例もある。一酸化窒素は本来有毒ガスなのだが、ある濃度において様々な生理作用をコントロールする情報分子として機能する。当然、初めの頃は「そんな有毒ガスがなぜ?」という見方が大半であったろう。しかしながら、研究の進展によって無視できない因子として認識されるようになり、ノーベル賞の対象にもなった。生物系の研究では、思いもよらない事がしばしば発見されるのであるが、発見された後でも「なんで、こうなんだろう?意味わかんね」「そうなっているから、そういうもんなんだろう」としか言いようのない事が多々ある。物理や化学のように、「根本原理からは外れず、その延長に新知見がある」と言う風には必ずしもならないのが生物系の研究の難しいところだ。そして、物理化学系の人々がかなり強硬に水素水を否定しているのを見ると、こういった生物特有のシステムについての感覚が希薄な場合も多いのかもしれない。

 

 ただ、個人的には、「水素分子が本当に情報分子として機能するなら、体内に水素分子を合成する系がないのか?」という疑問が生じる。でないと、微妙な生理機能をコントロールする際、腸内細菌の状況に依存することになり、それでは不安定でしょうがない。言うまでもなく、水素水を飲むと言うのはあくまでオプションであって、情報分子であるなら元々、体内で水素分子濃度が状況に応じてコントロールされていなければならないだろう。一酸化窒素以外でも、硫化水素(HS)なども有毒ガスではあるものの、重要な情報分子として機能しており、各組織で合成される。と同時に、腸内細菌も硫化水素を生産する。そのような気体分子がある以上、「水素分子がなんらかの機能を持っている」と言われて「そんな事は絶対にありえない」とは私は断言できない。ただ、その作用は一酸化窒素や硫化水素に比べると穏やかであるように感じる。すなわち、域値を超えると作用しないというのは、過剰にあっても無毒なガスと言う事なのである。一酸化窒素や硫化水素が過剰に体内にあれば、明確な副作用が発生する。

 

 ともあれ、現在は、水素水を「カラダにいい!」と信じ切って常飲する人もいれば(たぶん、こちらが多数派であろう)、「水素水は完全なインチキだからあこぎな商売をするな」と訴える人(こちらは少数派)、両方いる。ハッキリ言って、現状の研究段階でここまで商売を拡大するのは「見切り発車」のような気もするし、効能をはっきり打ち出すのもかなり問題がある。御多分にもれず、詐欺商品も後を絶たない。私としては、現状の価格で水素水を購入する気には全くなれないし、人に勧めるつもりもなければ、「インチキだから絶対に買うな」とも言う気もない。それよりも、水素分子が実際に体内でどのような作用を引きおこしているのかの方が私にとっては重要である。世間の雑音に惑わされずに、粛々と研究を進めてほしい。

こどものせかい

 何かの作品を見たり読んだりしていると、ふと「ああ、これって、アレに似ているなあ」と一瞬、思うものの、あまりに違う世界であるために「ううん、似ていると言うべきなのか」と戸惑う事がよくある。これは自分だけの内面的な相似なのか、あるいは単にそれなりに普遍的なものなのかは何とも言えない。具体的に似ている項目を上げれば、たしかに共通項はあるものの、全く違う作品どうしだから、やはり人に説明する時に違和感はぬぐえない。というような事を、最近、こどもが主人公の作品について感じる事が多かった。どの程度の普遍性があるのか、試しに書き出しておく。基本的に、どれも非常に好きな作品である。

 

 まずは、スウェーデンの児童作家、アストリッド・リンドグレン「やかまし村の子どもたち」シリーズ。これは原作も映画もどちらも時々無性に見たくなる・読みたくなることがある。月並みな言い方なら、癒しの作品群である事は間違いない。何も重大な事件は起きない。ただ、淡々と田舎の子供たちの日常が描かれてゆく。それだけなのに、ついついこの世界に何か吸い込まれてしまうのである。

やかまし村の子どもたち (岩波少年文庫(128))

やかまし村の子どもたち (岩波少年文庫(128))

 
やかまし村の春・夏・秋・冬 (岩波少年文庫)

やかまし村の春・夏・秋・冬 (岩波少年文庫)

 
やかまし村の子どもたち [DVD]

やかまし村の子どもたち [DVD]

 

  

 で、あっと原作のアニメ「のんのんびよりを見ていたら、やたらに「やか まし村の子どもたち」がフラッシュバックしたのであった。似ている所は、田舎である事と、何か重大な事は起こらないと言う事だけで、他は全然違う設定なの だが、私が勝手に設定している「空気感」がやはり同じなのだろうか。やはり、ついつい、見てしまう。

 

のんのんびより 1 (MFコミックス アライブシリーズ)
 

 

 「のんのんびより」、ある意味、現在の日本の山村地のリアルではあるのだが、たぶん近い将来、集落の維持は困難となり消えてなくなる運命だろう。つまりは、まさに「かってのやかまし村」のような話になるかもしれない。在りし日の楽園である。そんな事も、「やかまし村」と「のんのんびより」をつなげる要因になっているように思う。「のんのんびより」の唯一の難点は、皆、自然児過ぎる点だろう。実際の田舎の子どもたちは、あそこまで自然には詳しくはない。そんな「今はそんな子はいないよなあ」という所も、「かってのやかまし村」感が出ているように思う。

 

 

 ビクトル・エリセ監督「ミツバチのささやきは、ゆるぎない名作として不動の地位を保っており、日本では「となりのトトロ」の原型映画としても、知られている。一度見ただけでは、よくわからない映画ともよく言われる。まあ、製作時のフランコ政権末期の状況からして、そんなわかりやすい映画ではまずいのだが、そんな事よりも、やはりアナ・トレントの内面世界を詩的な風景・情景でこれでもかと表現し尽くしているのが素晴らしい。ともあれ、彼女の瞳が全てを物語るのだ(演じた本人は、深い事は考えてなかったと述懐しているらしい。ま、子供だから当たり前か)。

 

ミツバチのささやき HDマスター [DVD]

ミツバチのささやき HDマスター [DVD]

 

 

  さて、どういう訳だか安部吉俊「リューシカ・リューシカを読んでいると、「ミツバチのささやき」の様々な場面が想起されるのである。

 

リューシカ・リューシカ 1 (ガンガンコミックスONLINE)

リューシカ・リューシカ 1 (ガンガンコミックスONLINE)

 

 リューシカ・リューシカの方は、オールカラーでキャラ的にも全然、「ミツバチのささやき」とは違うのだが、リューシカの子どもの視点というのが、やはり自分が普段忘れている何かなんだろうなと思うと、やはり「アナ・トレント」のあの瞳にいきつくのである。たぶん、「ミツバチのささやき」が本当に好きな人、より深く理解している人には、「随分と表層的な解釈しかできないのね」と言われそうだが、まあ、私自身、そんな程度なのでいたしかたない。

 

 

 スペインからスウェーデンに戻る。同じく、リンドグレンの「ロッタちゃん」シリーズである。こちらは大人と子供との絶妙なズレが主題であって、少々、強情っぱりなロッタちゃんが、いろいろやらかす話である。これもまた、ついつい見てしまう・読んでしまう作品群なのだが、何が面白いのか自分でもよくわからない。落ち着いて見れば、ちょっとひねくれた面倒くさい子供の話なのだが、その「不確定要因」な部分がまさに「子供」という存在を体現しているようで、怖いもの見たさで夢中になってしまうのかもしれない。

 

ロッタちゃんのひっこし (世界のどうわ傑作選( 1))

ロッタちゃんのひっこし (世界のどうわ傑作選( 1))

 
ロッタちゃんと じてんしゃ (世界の絵本)

ロッタちゃんと じてんしゃ (世界の絵本)

 
ロッタちゃん はじめてのおつかい [DVD]

ロッタちゃん はじめてのおつかい [DVD]

 
ロッタちゃんと赤いじてんしゃ [DVD]

ロッタちゃんと赤いじてんしゃ [DVD]

 

 

  そして、同じような感覚になってしまうのが、あずまきよひこよつばと!である。「やっぱりきたか!」と思った人も多かろう。

よつばと! 1 (電撃コミックス)

よつばと! 1 (電撃コミックス)

 

 

  まあ、よつばは、ロッタちゃんよりも「素直」かもしれないが、子供ならではの「不確定要因」は満載であって、そこをギャクとして楽しむ人も多いのだろう。私もその面はある。が、やはりあの小憎らしいロッタちゃんのフィルターが入って、読んでしまうのである。そう思うと、よつばも、随分と邪悪な存在のように思えてくる。周囲の大人との距離感というのも、絶妙に「ロッタちゃん」を思い出させてしまう。日本と北欧とでは、家庭環境の雰囲気も随分と違うはずなのだが、どんな共通項を見出してしまっているのだろうか。自分でもよくわからない。

 

 

 いきなりロシアに飛ぶ。まだ日本ではそれほど知られてないし、日本語版もまだないのだが、フル3DCGアニメーションの「マーシャと熊」

www.youtube.com

 これが滅法、 面白い。小さなマーシャが熊の家にいって、やりたい放題やって熊が事態をおさめるというパータンの話なのだが、マーシャの容赦なさが本当に凄まじい。と同 時に、熊がいろいろ小言を言う割には仏のように優しい。それは、おそらくはマーシャには全く悪気はなく、「子供のすること」と認識しているからだろう。 マーシャは、ただ、自分のやりたいように振舞っているだけ。それにしても、全能感が全開である。

 

  これを見ていて、すぐに思いだされたのが鳥山明Dr.スランプアラレちゃん」である。全然、タイプが違うのに、マーシャの超人的なハチャメチャぶりが何か、ロボットであったアラレちゃんが不本意にも怪力でトラブルを起こしていた様を想起させる。マーシャの方は、フルCGで髪の毛一本一本の動きまで微細に表現しているが、アラレちゃんも、髪の毛、結構細かかったなあというのも思いだす。あの時代なら、セル画作るの大変だったろう。ともあれ、「マーシャと熊」はやく日本語版を出せばいいと思う。と同時に、アラレちゃんのフル3DCGも良いような気がしてきた。動きが激しい分、ドラえもんとかより、合っているような気もする。

 

 

 

 

 

 最後は、フィンランドである。ノボラ姉妹原作、カイサ・ラスティモ監督「ヘイフラワーとキルトシュー」。公開当時は北欧らしいオシャレな家具や小物が注目された映画なのだが、内容はまあ奇妙キテレツである。まず、まともな大人が登場しない。唯一まともなのが、小学校入学間近の姉のヘイフラワー。妹のキルトシューは悪意満載の我儘し放題な子供。周囲の大人も、ヘイフラワーの困難をまっとうに解決する気はない。つまり、ヘイフラワーにとって「不条理な世界」がオシャレで奇妙な背景(なんせ、極彩色の発酵セラピーまで登場するのだ)で展開する訳である。はっきりいって、妹のキルトシューは、子供と言えども、張り倒したくなるくらいに憎たらしいキャラクターになっていて、ヘイフラワーの悲劇性がより浮き彫りにされる。

 

ヘイフラワーとキルトシュー [DVD]

ヘイフラワーとキルトシュー [DVD]

 

 

  さて、この「ヘイフラワーとキルトシュー」、あらゐけいいち「日常」「はかせ」「東雲なの」のやり取りを読んでいて(見ていて)、ついつい思い出してしまうのであった。はかせは、数々の発明はするものの、実質的に菓子やオムライスの好きな幼児である。そして、東雲なのを作った当人である。そう、東雲なのはロボットなのだ。そして、はかせは、気まぐれに不条理な事を、なのに断りもなく押しつけて(改造して)ゆく。しかし、なのは、抗議は続けるものの、はかせの日常の世話を親か姉のように行うのだ。学校でも、東雲なのの周囲はおかしな人々ばかり。ある意味、ロボットであるという状況以外は、東雲なのは、「日常」で登場するキャラの中で、最も「常識的」である。なんか、そんな健気さもヘイフラワーを思い出させる。ともあれ、どちらも常識的なようでいて、奇妙な世界が展開していると言う点で、共通項があるかもしれない。でも、見かけは全然違う。

 

日常 1 (角川コミックス・エース 181-1)

日常 1 (角川コミックス・エース 181-1)

 
日常 DVD-BOX コンプリート版

日常 DVD-BOX コンプリート版

 
はかせの好きなのなの

はかせの好きなのなの

 

 

 以上、こどものせかいを描いた作品で、リンクしてしまう作品群をあげてみた。さて、どの程度、共感されるものなのだろうか?まあ、連想と言うのは人それぞれだから、全くの見当違いに思われるのかもしれない。

 

世界の国からコンニチハ

 SFなどで、知的文明のある地球以外の惑星に行くと、多くは地球とは比べ物にならないくらいに「単一な文化圏」を持った種族として表現される事が多い。「高度な文明を築いて」という説明なら、その惑星には、もっともっと多様な文化があってしかるべきだろう。しかし、時間やページ数の関係上、そういった他惑星の多様な文化圏までの詳細な描写というのはなかなか出て来ないものである。逆に考えて、仮に、異星人が地球に来た場合、誰が、どの国が、「地球代表の文化」を提示するのか。やはり大抵の超大作映画のようにアメリカ合衆国が「地球代表」になってしまうのだろうか。

 

 真面目な話、本当に外部惑星から人類以外の知的生命体が地球へやって来た場合、しかも地球に定住したいという申し出があった場合、どうするのであろうか?SF映画などでは、その星に住むと言う流れになったら「その星のどこに住むのか」という話はまあ、ほとんど出て来ない。とりあえずカメラが回っているような場所に住むのだろうなあと言う事になる。しかし、実際に異星人が現在の地球に来た場合、「無国籍」な訳だから、地球上のどの国に着陸しても、「難民」もしくは「移民」の扱いになるのではないか。しかし「地球人ではない」という重い事実に対し、国連等で暫定的な明確な処遇が決定されるかもしれない。まさか、「どこの領有地でもない南極の居住は認める」というような、極端な事にはならないだろう。異星人が、寒さに適応できる身体の持ち主であったとしても、南極に押しやる事の方が、資源問題等でややこしいことになりそうだ。

緒方貞子―難民支援の現場から (集英社新書)

緒方貞子―難民支援の現場から (集英社新書)

 
わかりやすい国連の活動と世界〈2005年度版〉

わかりやすい国連の活動と世界〈2005年度版〉

 
南極越冬記 (岩波新書 青版)

南極越冬記 (岩波新書 青版)

 

 

 仮に「異星人を国連で定める所の人権を持つ存在として認める」「異星人は地球のどこにでも自由に居住できる事とする。国連の加盟国は、異星人の居住を拒否できない」「ただし、異星人は居住する国の法令は順守する事とする」と言うような取り決めとなったら、その異星人は、そして国連に加盟する各国はどうするだろうか。各国とも、様々な問題を抱えている。財政が破綻している国もあれば、内戦状態の国もある。難民や移民を大幅に制限している国もある。さらには深刻な飢餓が定常化している国もあろう。

人権宣言集 (岩波文庫 白 1-1)

人権宣言集 (岩波文庫 白 1-1)

 
世界紛争地図  角川SSC新書

世界紛争地図 角川SSC新書

 

 

 中には、街おこしならぬ、国おこしとして「異星人の招聘」を強力に推し進める国も現れるかもしれない。様々な法令を微調整せざるを得ない官僚機構の発達した大国をしり目に、小回りのきく何の資源もない小国などは、あっさり「異星人受け入れ」の流れになる事もあるだろう。異星人の方も、国連から提供される各国のデータなどを見て、どこの国が良いのかじっくり検討するものと想像する(ま、想像と言うより「妄想」だが)。

 

 

丸腰国家―軍隊を放棄したコスタリカの平和戦略― (扶桑社新書)

丸腰国家―軍隊を放棄したコスタリカの平和戦略― (扶桑社新書)

 
世界国勢図会〈2015/16〉

世界国勢図会〈2015/16〉

 

 

 異星人、国連からの膨大な各国資料を読みこむが、やはりそれは「取りまとめたデータ」だろう(勝手に決めてつけているが)から、各国の本当の「雰囲気」というのはわからない。リアルタイムで刻々と変化する各国の状況を知りたい。となった時に、とりあえずテレビなどをつけて得られる情報源は何かと言えば、通信社による報道であろう。しかし、言うまでもなく、報道というのはその時に国際的に注目されている国々しか報道されないから、偏りがある。そもそも、報道する側の主観は入るから、世界各国のリアルを正当に知る事が出来るかどうか疑問だ。ニュースには登らなくても、世界には国連に加盟している国だけでも193カ国(2016年現在)あり、それぞれの国でそれぞれの国民は生活している訳である。そこまで細かくならなくても、大国についてだって、すべてが報道されている訳ではない。

 そうなると、その異星人が特殊な能力の持ち主でない限り、インターネットで様々な情報収集ということになろう。しかし、インターネットの情報は玉石混交である。何を信じたらいいかわからない。そんな中で、その国の政府が発信している情報はまずチェックする必要があろう。もちろん、それぞれの国の事情で意識的に虚偽の情報を流す場合もあるが、おおむね、大規模なデマを流すような事は出来ない。あえて言えば、「その国としての解釈」と釈明できる程度の情報の揺れ幅であろう。

 そういった時に意外と重宝するのが、各国大使館のツイッターである。その国の存在をアピールするために、ツイッターのアカウントを作ったんだろうから、日々、新たな情報が更新される(今一つされない国もあるが)。無機的にニュースを流すだけだと、飽きられてしまうから、硬軟取り混ぜて、より多くの人が定期的に身に来てくれるように工夫がなされている事が多い。というか、そういう国でなければ、異星人としても魅力は感じないだろう。いや、異星人が何について魅力を感じるのかわからないが。

 

 ということで、いくつかの国の大使館のツイッターを紹介しよう。中には、観光局のツイッターもあるが、継続的に見ていると、やはりそれぞれの国の雰囲気と言うものが伝わってくるものである。なお、一応、日本にある大使館のものにする。異星人が日本語を読解できるかは、とりあえず忘れてほしい。

 

twitter.com

 やはり、ツイッターとして、ここは外せない。政治、文化、生活、日本におけるフィンランド情報、些細なフィンランド豆知識、など実にいろいろ取り混ぜて、ずっと読んでいると「フィンランドで生活する」と言う事が、どんな感じなのかイメージできるようになっている。意図しているのか、自然とそうなってしまうのかわからないが、ともあれ、見ていて楽しいツイートが多い。中の人の「人柄」のようなものがなんとなく伝わってくるのもいい。寒い国だけれども、ツイッターを見ている限り、ここなら住んでもいいかもという感じを受けるだろう。

 

 

twitter.com

同じ北欧でも、かなり雰囲気が違う事は実感できると思う。とにかく、ちょっとした事でもデンマークに関する事なら、統計でもなんでも、どんどん掲載と言う感じで、ずっと読んでいると相当にデンマークに詳しくなる。しかし、知識偏重というか、言葉にならない「生活感」というものは、ちょっと感じにくい。何か、ビジネスライクという印象も受ける。

 

twitter.com

大の親日国、ポーランド。まあ、親日かどうかは異星人には関係のない事だろう。ただ、親日国だからこそ、政府観光局も力を入れてツイッターをしている。ポーランド直行便のリアルタイムな状況を定期的にツイートしている。なんか、田舎の学校の修学旅行で地元の放送局が、生徒たちの乗った交通機関の発着情報を放送するのに似ている。同時に、旅に役に立つのか立たないのかよくわからない情報も多数。他の国の政府観光局よりも「私たちの国に来てください!」いう熱意が強い気がする。

 

twitter.com

正式な大使館のツイッターはあるものの、もう一つ、居候ネコによるツイッターがドイツにはある。正式版と何が違うかと言えば、語尾が「~ニャう」となっている事と、やたらにサッカーの話題が多い事。これはこれでいいのかもしれないが、ドイツというよりもほとんど「居候ネコ」のツイッターになっている。しかし、ドイツと言うと堅苦しいイメージがあるが、こういう存在を生みだす国でもあるという意味では、なかなか生きた標本のようなツイッターかもしれない。

 

twitter.com

最新情報も更新しつつ、いろいろとためになる知識も満載なのだが、何か微妙に、本当に微妙にズレているのがこのフランス大使館である。何がズレているのかは、なかなか言葉にしにくいのであるが、一つはときおり入る「豆知識」の説明をフリップの画像データで提示している事。まあ、分かりやすいと言えば分かりやすいのだが、そのデザインが何か「中国製商品の怪しい日本語説明」と「ヴェンチャー企業のプレゼンデータ」が混在したような妙な雰囲気なのである。

 

twitter.com

はっきり言ってフランス大使館以上に何と言ったらいいかわからない存在だ。本気なのか冗談なのか、何を言いたいのか言いたくないのか、なぜその写真なのか、なぜ今、その話題なのか、なぜタグの嵐なのか、自虐なのか非難なのか、微妙な「訳語」はわざとなのか、天然なのか、フリップのフォントがなぜ読みにくい明朝体(しかも、ときどき縦書き)なのか、本当に掴みどころがない。

 

 異星人としては、各国のツイッターをみたら、かえって混乱するかもしれない。やはり、ゆっくりと各国を旅して、現地の「リアル」を肌で感じた方がよいだろう。

 しかし、世界を旅する事のままならない私などは、世界の国から、ツイッターを通して、様々な形、様々な温度で、私たちに向けて「コンニチハ」と言葉は発せられているのは事実なのだから、各国大使館のツイッターを日々、眺めて、いろいろな国々へ精神的な旅行をしたつもりになっている。当たり前だが、やはり、その国の事は、その国の人が、一番よく知ってるのであるから、リアリティがある。

 

 

 

 

 

 

 

日本酒の音楽

 幼い頃は「大人になったら違いの分かる人間になりたい」と本気で思っていた。別にカフェイン飲料の宣伝に感化されていた訳ではない。「些細な差異が判別できるようになるには長い年月が必要なのだから、違いがわかると言う事は、大人であることなのだ」という単純な「大人への憧れ」であった。

 

ネスカフェ ゴールドブレンド 90g

ネスカフェ ゴールドブレンド 90g

 

 

  ところが、それなりに年を重ねてみて、違いがわかるようになったかと言えば、全くそんな気がしない。知識さえ積み重ねれば判別できる違いについては、まあ年の功である程度「わかる」ようになっている所もある。例えば、魚市場に置かれているシロサケ、ベニサケ、キングサーモンカラフトマス、ギンザケの違いなどは、小さい頃はさっぱりわからなかったが、今では見れば容易に判別できる。

 

サケマス・イワナのわかる本

サケマス・イワナのわかる本

 

 

 とはいっても、そのサケの仲間の魚たちが切り身となり、「味だけで判別せよ」となると、正直言って、どれがどれかを当てる自信はない。味と言うのは感覚であり、知識としては客観視することは難しい。仮に味の違いを感じたとしても、その時の自分の感覚のみで、どんな状況でも、ピタリと該当の魚種を当てるというのは私には至難の業である。つまりは、仮に違いがわかっても、それを第三者に伝える術を持たないということである。

 

 利き酒というものがある。日本酒の銘柄などをその味だけで当てるというものだ。利き酒師のような人が、蛇の目のぐい飲みから日本酒を口に含み、淡々とした面持ちで銘柄を当ててゆく様を見ていると、到底、私が及びもつかない世界だと思う。仮になんとなく違いがあると認識できても、それがどの銘柄なのかはたぶんわからない。そして、味を表現する語彙もない。そもそも、語彙があったとしても、その言葉がどの味に当てはまっているのか、私にもわからないだろうから、人に伝える事は出来ない。

 

蛇の目 利き酒 1合ぐい呑

蛇の目 利き酒 1合ぐい呑

 
日本酒の教科書

日本酒の教科書

 

 

 正直に告白してしまうと、日本酒を飲んで「不味い。これ以上、絶対に飲めない」と本気で思う事は滅多にない。「飲みにくい」とか「癖がある」などは感じたことはあるものの、それは私の中では不味いというものではない。微生物が醸したある種の個性だと思っている。不味いというのは、ドリアン羊羹(ペースト)とかサルミアッキ(塩化アンモニウム)の飴のようなものを言うのである。まあ、それでも、それらの罰ゲームみたいな味も慣れれば不味いと言うほどのものではなくなるのだが。

 

ドリアンペースト

ドリアンペースト

 

 

  不味い食材はともかく、日本酒はその製造工程の複雑さから、不確定要因が多々ある。だから、一口に日本酒と言っても本当に様々な個性が発生することになる。よって、人から「お勧めの美味しい日本酒を教えて?」と言われても困る。というか、なぜ利き酒師でもなく、普段、日本酒について語る事もない私に尋ねるのかわからない。まあ、尋ねてくる人も「絶対に美味しい日本酒を飲まなければ!」という壮絶な決意で私に尋ねている訳ではなく、「誰かいい人いない?」という程度の軽い気持ちで言ってくるのだろう。そこで、「いい人とは何か?善をなす人のことか?性格が良い人か?あるいは、結婚する条件として好適という意味か?」などと真面目に考えるのがあほらしいのと同じように、日本酒のベストを考えるのも徒労であろう。だいたい、そんなのその人の詳細な味覚がわからないと判断しようがないだろうし、そもそも他人の味覚などわかるのか。

  とはいえ、これだけ多種多様な日本酒があるのに、一般的には二つの指標、「重さと香り」や「濃淡と甘辛」の組み合わせで、淡麗辛口とか濃潤甘口などと味の表現をしているようだ。ただ、私自身、いくらそのような説明がされていても、飲んでみるまでは、その味については全く想定できない。正直、人を血液型で四分類にしているような無理やりな感じを受けるのも事実だ。では、では、それぞれどう違うのか、なかなか言葉にできない。言葉にできなので、音楽に託すことにする。

 

 ということで、いくつかの日本酒に音楽を添える。そんな事をしても、誰にも理解を得られないだろうし、日本酒の味について何も伝えられない自己満足の所作なのは重々承知であるが、何かの(何の?)日本酒についてのきっかけになれば幸い(誰に対して幸いなのだろうか?)と思ってあえて書く。なお、諸般の事情により、紹介する日本酒は、東北・新潟のものが多くなる事を予めご了承願いたい。また、あてる音楽も日本酒の特性上、ピアノ曲が多くなる。

 

小原酒造 純米大吟醸 蔵粋 管弦楽

純米大吟醸 管弦楽 蔵粋 角200ml

純米大吟醸 管弦楽 蔵粋 角200ml

 

  音楽と言えば、この喜多方の蔵であろう。なんせ、もろみの時にモーツアルトを聴かせているそうだ。モーツアルトを聴かせると、発酵の勢いが変わってくると言う。なぜモーツアルトなのか?シュターミッツあるいはJ.C.バッハでは駄目なのか?そもそも微生物に聴覚がないのにどのように音楽を認知しているのか?とまあ、いろいろ疑問点はあるのだが、酒自体は、モーツアルト臭(どんな臭いだ?)もなく、普通に美味しい。どのような感じかと言うと、モーツアルトというよりも、シューベルトの即興曲Op142-2に近い雰囲気だ。

シューベルト:即興曲(全曲)

シューベルト:即興曲(全曲)

 

 

次行こう。

金紋秋田酒造 熟成古酒山吹六年

金紋秋田酒造 熟成古酒 山吹6年 720ml瓶

金紋秋田酒造 熟成古酒 山吹6年 720ml瓶

 

  さすがの私も、この酒の味が他とは全く違うのはわかる。というか古酒だから当たり前と言えば当たり前である。先入観が入るので、色とかはまずは無視しよう。純粋に味だけで判断しても、もう強烈な味である。どう強烈かと言えば、スクリャービンのピアノソナタ第5番のような感じである。なんせ味が複雑であって、これを日本酒と呼んでいいのかさえ迷う。

スクリャービン:ピアノ・ソナタ集 1(グレムザー)

スクリャービン:ピアノ・ソナタ集 1(グレムザー)

 

 

 さて、次は新潟県から。

白瀧酒造 上膳如水 純米吟醸

白瀧酒造 上善如水 純米吟醸 瓶 1800ml

白瀧酒造 上善如水 純米吟醸 瓶 1800ml

 

 

  新潟の酒は淡麗辛口が多いとは言われるが、私自身は「そうかなあ」と思う事の方が多かった。あれだけ酒蔵があるのだから、そんな単純に割り切れるとは思えない。「秋田には美人が多い」というのと大して変わらない言説のように思う。つまりは、多かれ少なかれ主観(思い込み)が入るのである。そういうものだと思って飲むと、そう感じる。が、さすがに先入観抜きにして、この純米吟醸酒は「淡麗辛口」の意味がうっすらとわかるような気もする。こういった酒には、シベリウスのソナチネ1番しかなかろう。

 

ソナチネ第1番嬰へ短調作品67-1 第1楽章 アレグロ

ソナチネ第1番嬰へ短調作品67-1 第1楽章 アレグロ

 

 

 同じく新潟県から

越の華酒造 純米原酒 カワセミの旅

越の華酒造 純米原酒 カワセミの旅 瓶 箱入り 720ml

越の華酒造 純米原酒 カワセミの旅 瓶 箱入り 720ml

 

  チョコレートに合う日本酒として売り出しているもの。確かに合うような気もする。淡麗辛口とは相当に違う事は、さすがにわかる。これもまた、インパクトのある味ではあり、単純に甘いというよりも、なんだろう、それだけではない何かある気がするので、まあ音楽なら、ラフマニノフの前奏曲Op32-5のような感じである。

ラフマニノフ:前奏曲集

ラフマニノフ:前奏曲集

 

 

再び秋田に戻る。湯沢の蔵だ。

木村酒造 福小町 純米吟醸

純米吟醸 福小町 720mL

純米吟醸 福小町 720mL

 

  個人的にかなり好きな酒である。なにがどう好きなのかと言われると非常に困るのだが、なんとなく相性がいいというか、すっと身体に入ると言うか、飽きないというか、長くつきあえる友人のような趣がある。音楽で言えばラベルのピアノ協奏曲の2楽章な感じである。

ラヴェル:ピアノ協奏曲集

ラヴェル:ピアノ協奏曲集

 

 

 最後は福島の郡山の蔵。

仁井田本家 金宝 自然酒純米原酒

仁井田本家 金宝 自然酒純米原酒720ml
 

  この日本酒なら飲めると言う人がいる一方、これはちょっとと言う人も多い銘柄である。一言で表すなら「味が濃い」のだろうが、そう言う単純な話でもないような気がする。通常、あまり日本酒に燗を付けたりしないのだが、この酒だけは、ちょっと温めた方が良いように感じる。単に私の思い込みかもしれない。しかし、ちょっと暖かな温度で飲むこの酒は、何か仄かににぎやかな味がするのである。とか書くと通ぶった感じになるが、ともあれ、特徴的な酒である事は間違いなく、頭の中ではバルトークのソナチネが鳴っている。

Bartók: Complete Solo Piano Works

Bartók: Complete Solo Piano Works

 

  

 と書いたところで、やはり、ほとんどの人は全く日本酒の内容が想像もつかなかったであろう。まあ、講釈を聞くより先に、何はともあれまず日本酒は飲んでみないと分からない。そして、飲んでみて、自分なりのしっくりくる音楽を見つけるのも酒の肴になるのではないか。ともあれ、日本列島には数限りない酒蔵があり、それぞれに違った個性の日本酒が今日も醸されているのである。

 

勝手にBGM選手権

 NHKFMの番組に「きらクラ」というものがある。クラシック音楽を様々な企画に絡めて柔らかな切り口で紹介してゆく番組であり、「おしゃべりクラシック」→「気ままにクラシック」に続く番組である。「きらクラ」とういうのが「気楽にクラシック」の略かと思えば、どうもそればかりではないらしい。似たような番組に「小澤幹夫のやわらかクラシック」というのが昔あったが、これはNHKFMではなくて、FM東京の番組である。ただし、番組の内容というか企画自体はほとんど変わらない。

 その「きらクラ」であるが、BGM選手権と言うコーナーがある。様々な詩や小説を朗読して、その朗読にしっくりくるクラシック音楽をあてるというものだ。司会のふかわりょう氏がなかなか情感を込めて朗読してくれる所にBGM候補となる音楽が投稿されてくるのだ。私自身も、だいたい「これなんかいいかな」という目星は案外とつくもので、実際に放送時に同じような曲が採用されると「皆、考えている事は一緒だなあ」と感心する。中には「これはないだろう!」と言う場合もあるが、まあ音楽に対する感性は人それぞれと言う事だろう。

 ということで、今回は私が勝手にいろいろなコミック作品に対してBGMをつけていこうと思う。勝手にBGM選手権である。別にクラシックに限らない事とするが、まあクラシックが多くになるような気がする。それだけ、クラシックの方が多様性があるからしょうがない。賛同できるものがあれば、幸いである。というか、何が幸いなのか。

 最初は、石川雅之もやしもんである。ご存じの方も多いだろうが、バクテリアや菌類、ウイルスを肉眼で識別できる農大生が主人公の発酵青春マンガである。結構長い連載で、沖縄に行ったり、ヨーロッパに行ったり、合衆国に行ったりと随分様々な事が起こるのだが、実は1年間の話という、夏目漱石の「こころ」も真っ青の充実したキャンパスライフの作品だ(別に誰も死なないが)。主人公の視点で様々な微生物がキャラクター化されて日常生活の中で飛び交うわけだが、その可愛い微生物たちの活躍のBGMがアニメでも実写でもちょっと物足りないというかほとんどない事が多い。寂しい。と言う訳で、勝手にBGMであるが、もやしもんで微生物たちがわんさか活躍する場面で、合衆国の折り目正しいミニマリストである ジョン・アダムス(John Adams )のフードゥーゼファー(HooDoo Zephyr)という曲を当てたい。微生物たちが縦横無尽に自由に飛び回っている様が手にとれるようにわかる。興味がわいたら、ミニマル・セレクションのトラック8のリンク先の試聴で確認願いたい。

 

 

もやしもんDVD-BOX【初回限定生産版】

もやしもんDVD-BOX【初回限定生産版】

 
ライヒ、グラス&アダムズ:ミニマル・セレクション

ライヒ、グラス&アダムズ:ミニマル・セレクション

 

 

 

 二番目。高野文子「ドミトリーともきんす」。この作品は、科学と芸術とを幸福に結ぶ近年まれにみる傑作だと思う。高野文子の作品にはある意味「体温」というものがない。ないから、こういった極めて科学な内容を手品のような巧みさで表現できるのだろう。この作品で問題になっている科学の事をゼロから理詰めで理解しようとしても無駄である。しかし、どういった雰囲気のものなのか、それをそっとそよ風のように触れさせてくれるのがこの作品の良さで、考えるのでなく感じるのである。となるとBGMはあまり情動的なものでは馴染まない。というか、私はこの作品のページを開いた時から、ある音楽がずっと鳴っていたのであった。それは、パウルヒンデミット(Paul Hindemith)のピアノのためのソナタ第二番の第一楽章。このヒンデミットの乾いた感じと高野文子の作風が妙にマッチするのである。

 

 

ドミトリーともきんす

ドミトリーともきんす

 
ヒンデミット:ピアノ・ソナタ集

ヒンデミット:ピアノ・ソナタ集

 

 

 三番目。作者自身が「このBGMで描いていた」と伝えてくれる山田芳裕の「へうげものだ。といっても、作者が紹介してくれる音楽は、作品に合わせての音楽というより作業BGMにちかいものだろう。実際、作品そのもののBGMにはなりそうにない音楽ばかりである。この作品は、古田織部の生涯を相当な誇張表現とギャグを交えてドラマチックに紹介する作品である。いろいろ戦国時代の史実も出てくるが、やはり面白いのは織部なりの「ひょうげた」感性をここぞという時にプレゼンする時であろう。皆が緊張した面持ちで織部がどんな事をするのか見守っている中で、いきなり既定の常識を覆す作品(パーフォーマンス)を披露し、場は脱力する。そして、織部は意気揚々と去ってゆく。その場面では、私としては倉橋ヨエコのアルバム「婦人用」の中の「土器の歌」が高らかに鳴り響いている。この曲は、ショパンピアノソナタ3番の4楽章から始まり、途中にいきなり曲想が変わりドンドコと土器の歌的なものが流れる。戸惑っいつつも、その原初のリズムに乗ってくる頃に再びいきなりショパンのフィナーレで終わるという珍妙な作品である。そもそも古田織部の作風が前衛的かつ原初的なのだから、案外とこんな変な曲でも似合うのだ。とくに「へうげもの」では、その側面が強調されているから、なおさらである。

 

へうげもの(1) (モーニングコミックス)

へうげもの(1) (モーニングコミックス)

 
婦人用

婦人用

 

 

 

最後は、(原作)ひじかた憂峰、(作画)松森正の「湯けむりスナイパーに登場してもらおう。遠藤憲一主演でテレビドラマにもなったので、それなりにメジャーになったとは思うが、鄙びた温泉旅館に真面目に勤める元殺し屋「源さん」とその温泉街の人々の日々を淡々と愚直に、あまりに愚直に描き切る、知る人ぞ知る名作である。ほんのかすかにNHKドラマの「夢千代日記」に似たところもあるが、やはりこちらはもっとありえない設定なのだけれどもリアルと言うか、もっと生々しいと言うか、濃厚な作風である。この「湯けむりスナイパーのサウンドトラックか?」と思うほどに、作品世界とリンクしてしまうCDがある。それは、アルノ・ババジャニアン(Arno Babajanyan)作品集。ババジャニアンはアルメニアの作曲家。ハチャトリアンの仲間だ。もうこのCDに収められているどの曲を聴いても、この作品のいろいろな場面が思い浮かぶ。一応、クラシック系のCDなのだが、一曲目から「なんか買ったCD間違えた?」と思うほどに、思いきり強烈である。ほとんど昭和時代の昼ドラのムード音楽なのである。音楽をスマートにまとめようなんて気はさらさらなく、とにかく暑苦しく迫ってくるのだ。まさに、湯けむりスナイパーの世界である。なぜアルメニアの音楽と日本の鄙びた温泉街がここまでリンクしてしまうのか全く不可解だが、とりあえず私が勝手に「源さんのテーマ」と名付けている「ピアノとオーケストラの為の小品『夢』」リンクをはっておこう。湯けむりスナイパーをまだ知らない人には、「この物語の主人公の源さんは、この音楽のような人物なのだ」と強く言いたい。何かこの音楽に感じるものがあったなら、是非とも作品を読んでほしい。

 

湯けむりスナイパーDVD-BOX(5枚組)

湯けむりスナイパーDVD-BOX(5枚組)

 
湯けむりスナイパー1

湯けむりスナイパー1

 
作品集 ババジャニアン(p)マヴィサカリアン&アルメニア放送管弦楽団、他

作品集 ババジャニアン(p)マヴィサカリアン&アルメニア放送管弦楽団、他

 

 

  と言う事で、四つの「勝手にBGM選手権」だった訳だが、はっきり言ってそれぞれ私個人が感じている事にすぎず、共感できる人がどれくらいいるかは全くの未知数だ。ともあれ、皆さんも自分が読んで面白いと思った作品に、「これだ!」というようなBGMを当ててみる事を勧める。「ピッタリな音楽を見つけた時の快感」は、他では得られない感覚だし、何より自分なりの音楽をあてると、その作品が何か自分のためだけにコーディネートされたような感じがして楽しいものなのだ。お試しあれ。

消えてゆく言葉

 何か創作の物語を作る時に、未来を舞台にすればまだ誰も知らない訳だから、どんな設定でも構わないが、過去を題材にした場合、それなりに時代考証をしなくてはならない事になる。人事ながら、結構これは大変なのではなかろうか。物品の類は、「存在するかしないか」でまあ感覚的につかめる部分もあり、資料にも当たりやすいが、「言葉」となると結構厄介だろう。誰もが言語学者や歴史学者ではないので、現在使っている言葉の延長線上に「雰囲気」だけで、江戸の世を描写する事も多い。私も当然の事ながら、昔の言葉などほとんど知らないし、その言葉がいつから使われているのかもよくわからない。なんせ、言葉は生き物であって、文献にあるからといって、一般に使われていた言葉かどうかは定かではない。現在だって「フランス落とし」となんて単語が建築業界人以外の日常会話で出てくるかと言えば微妙であろう。ま、見れば誰もが知っているモノなのだが。

 

中西産業 フランス落し DC-824

中西産業 フランス落し DC-824

 

 

  過去の人物が現在にやってくる物語と現在の人物が過去にゆく物語と、どちらが多いのか定かではないが、なんとなく最近では「過去の人物が現在にやってくる」というパターンが多くなってきたように思う。まあ、これは過去の人物も、現代に慣れてしまえば「言葉の時代考証」を厳密に考えなくてよくなる、という面もあるのかもしれない。

 しかし、実際、本当に過去の人間、特に江戸時代の人間が現代にやってきたら、そう簡単に価値観を転換させることは難しいだろうし、長年の習慣を変える事も大変だろう。その辺、これまでの「過去から現代へ」の創作は、すぐに現代に馴染んでしまう感じを受ける。例えば、荒木源「ちょんまげぷりん」などは、なにか良い意味で現代に適応しすぎのような気もする。まあ、案外、そういうものかのかもしれないとも思う。

 

ちょんまげぷりん [DVD]

ちょんまげぷりん [DVD]

 
ちょんまげぷりん (小学館文庫)

ちょんまげぷりん (小学館文庫)

 

 

  しかし、黒江S介「サムライせんせい」の主人公は、頑固になかなか現代に馴染まないので、ある意味、妙なリアリティがある。確かに、想いがある人が現代にやってきたら、そうだろうなあと感じさせる場面が結構出てくる。やはり、元の時代に戻りたいとまずは強く願うのが自然であろう。一人の人間を描く時、単に習慣の違いだけではなく、帰属意識というのは無視してはいけないのだ。

 

 

サムライせんせい (クロフネコミックス)

サムライせんせい (クロフネコミックス)

 
サムライせんせい (二) (クロフネコミックス)

サムライせんせい (二) (クロフネコミックス)

 

 

 

逆に、「現代から過去へ」の場合、「過去の世界でそこの住人になりきる」か「未来人として振舞う」か、でかなり雰囲気が変わってくる。例えば、前者の例は村上もとか「仁jin」であろうし、後者は半村良戦国自衛隊」であろう。前者は結構、時代考証も苦労している跡があり、なんといっても圧倒的なドラマで多くの人を感動させた作品である事は間違いない。そんな作品にも歴史に詳しい全国の「歴史おじさん」から「これは当時なかった物ではなかろうか」「その時代ではありえない事ではないか」と結構くるらしい。そこは難しいところで、「史実に忠実だったら物語として面白いか」という話なので、有る程度、時代考証をしているんであれば、大目に見てもいいように個人的には思う。それを言ったら、現代の医者がタイムスリップする訳ないんだから。一方、後者の「戦国自衛隊」は荒唐無稽すぎて時代考証云々を言うのは野暮というものである。でも「仁jin」とは別方向にふっきれていて面白い。たぶん、戦国自衛隊に関しては馬鹿らしくて歴史おじさんのクレームも出しようがないだろう。そう言う意味では、アニメになるが「伏 鉄砲娘の捕物帳」で描かれた江戸の風景もまた、完全なる荒唐無稽と史実とが絶妙にミックスされて、絶対にありえ得ないはずなのに、そんな江戸があったかのように錯覚させる質感を伴ったリアリティがある。色彩も見事だ。

 

伏 鉄砲娘の捕物帳 Blu-ray

伏 鉄砲娘の捕物帳 Blu-ray

 
戦国自衛隊  ブルーレイ [Blu-ray]

戦国自衛隊 ブルーレイ [Blu-ray]

 

 

 といっても、まだ歴史を学んでいない子供が「江戸時代の陸奥の田舎娘が手持ちのガトリング銃を持っていた」と思い込むのも多少問題もあるので、やはり根っことなるものは押さえておいた方がいいだろう。そこはやはり大森洋平「考証要集」の出番である。時代考証と一口に言っても、その対象は森羅万象に至る訳で、それをすべて把握する事は容易ではない。これまで過去を題材に創作された物語の中にも多々、間違いがあったに違いない。しかし、最低限、これくらいは押さえておこうと言う事がこの本には書かれてあるようである。読み進めると、この本は本当に便利であって、単純に豆知識として知るだけでも愉快である。この本は、別に時代劇にクレームをいれるための本ではない。

 

  

 ここで「考証要集」に掲載されている言葉をピックアップして、言葉が時代を遡るにつれて消えてゆく様を見て行こう。言葉は生き物であるから、有る瞬間からその言いまわしが発生したと言う事は特定できないので、ざっくりと時代区分をしてみた。

 

まず、

太平洋戦争までの昭和時代にはなかった言葉。

「意外と」「生き様」「医食同源」「ブス」

 

 他にも多数あるだろうが、なんとなく感覚的に「戦後だろうな」というものは載っていないのである。カタカナ語の大部分は、戦後生まれであろう。それにしても、ブスと言っても戦前では通じないのである。「意外と~だね」と言い回しも、戦前にはないのだ。ちなみに、「生き様」はないが、「死に様」はある。そして、例によって昭和元年~20年の間で新たに作られ、現在も使用されているものは少ないようである。多くは、昭和20年を境に「死語」となってしまったのであろう。

 

明治時代にはなかった言葉

「放送」「栄養」「牛耳る」

 

 要は大正時代に生まれたらしい言葉。「牛耳る」なんてねえ、もっと古いような気がする。「放送」も「栄養」も、科学と技術の進歩にあわせて一般化した言葉だろう。

 

 

江戸時代にはなかった言葉

「演説」「階段」「家族」「簡単」「希望」「教会」「切り札」「空気」「結局」「こっくりさん」「自覚」「時間」「刺激」「事件」「社会」「自由」「条件」「常識」「象徴」「神経」「青年」「責任」「存在」「太陽」「単純」「突撃」「生意気」「拍手」「万歳三唱」「必要」「不可能」「保険」「友情」「連絡」

 

 いったい江戸時代以前の日本人はどうやって会話していたのかと思うかもしれない。しかし、江戸時代の人間が現代にやってくるというのは、こういう基本的な語彙がない人がやってくると言う事で、もう全く違う世界の住人である事を改めて実感する。語彙が違いすぎれば、いくら文法が同じでも、考えている根本が違うはずなのである。少なくとも、現代社会で込み入った「大人の会話」はできないだろう。何気に、私たちは明治期以降に作られた言葉の中で社会生活を送っているのである。まあ、現代人と江戸時代の人との会話も、小学生低学年レベルの会話、すなわち情動を主にした関わりならたぶんできるだろう。しかし、ちょっと高度な事を話し合おうとなったら、埒が明かない場合の方が多いはずだ。改めて、明治時代の爆発的な「訳語」の普及が、その後の日本の国家建設に重要な役割を果たしたことが実感できる。とりあえず、母国語で大学まで学べるというのがアジア諸国の中で日本の強みと言えるような気がする。

 

戦国時代にはなかった言葉

「改革」「ぐにゃぐにゃ」「こんにちは」「人間」「マジ」「野菜」

 

 これは江戸時代の間に使われ始めた言葉らしい。「マジ」が今も生き残っているのが面白い。擬音語・擬態語もそれなりに命脈を保っている。まあ、黄表紙とかそんなのばかりだし。戦国時代にいくと、挨拶に「こんにちは」は使えないのである。なんとなく、もうそこは日本ではないような感覚に陥るのは私だけであろうか。さて、最後。

 

戦国時代には既にあった言葉

「突然」「時代」「調達」

 

 なんだか、妙に納得する言葉である。しかも硬派な言葉だ。なんせ、戦国時代ですからね。明日はどうなるかわからない。なんか、調達とか時代とか、明治時代に作られてもよさそうな言葉である。どうのこうの言って、戦国時代は変革期だったのだ。

 

 言葉に関しては、他にも星の数ほどあると思うし、それぞれの専門家がもっと詳細に調べていると思う。が、気になった人は、古語辞典でも紐解いて、今の言葉とのつながり(必ずしも、古典作品に出てくるような重要語でなく)をちまちまと調べて見るのも面白いだろう。ともあれ、はっきりしている事は明治は新しい言葉のバブル時代だったのである。しかも、一部の知識階級だけの話ではないのだ。おそらく、明治時代以降、日本人の語彙は、爆発的に増大したはずである。

 

ベネッセ全訳古語辞典 改訂版

ベネッセ全訳古語辞典 改訂版