ZoaZoa日記

気の向くままに書き散らしてゆきます。皆さまの考えるヒントになればと思います。

シンゴジラと文系・理系

 以前に「人は理系として生れる訳ではない」という小文を書いた。興味の対象が自然であれば理系で、人間であれば文系という話であった。もちろん純粋に理系あるいは文系に特化した人などはいない。各々の比率は違えども、現実に社会生活を送っている以上、誰もが理系的な部分と文系的な部分を兼ね備えているのは言うまでもない。

 

 シン・ゴジラを何度か見ていると、監督が意識しているのかどうかはわからないが、この文系理系という分け方が作品の中でかなり明確に区画化されているので面白かった。シン・ゴジラでは、登場人物の背景や私生活は、主人公であってもほとんど明らかにされない。当然、人情噺・家族愛・恋愛譚はほとんどないと言ってよい。そこに不満を感じ、シン・ゴジラを酷評する人もいるが、それは映画に求めている事の種類が違うので致し方ない。そういう人は役者の自我が炸裂するような絶叫・号泣系の作品を堪能すればいいだろう。

 シン・ゴジラでは、登場人物は基本的に組織の中で機能する駒である。そして、それぞれの駒にどのようなスペックがあるのかは、一瞬一瞬の演出の積み重ねや文字情報でかなり明確に示される。要は、多方面に光を当ててじっくりと人物像を想定してゆくと言うよりも、完全に登場人物を記号化して取り扱っていると言ってもいい。別の言い方をすれば役割の決まっているコマを自在に組み合わせてドラマを成立させるような巧妙に設計された見事な群像劇とも言える。

 

以下、例のごとくネタばれを壮大に含むので、未見の人は注意されたし。

 

 

 

 

 

文系集団の閣僚・官僚

 気付いている人も多いだろうが、シン・ゴジラでは、オープニングから最初の自衛隊ヘリ出撃まで人間側のBGMが全く流れない。無論、ゴジラ自身のBGMは上陸・進化と非常に効果的使われる。オープニングからヘリ出撃まで、人間側は冗長な会議および現実から遊離した閣僚の迷言が連続するだけで対応が後手後手になっている状況である。BGMがないということは、人間側のゴジラに対する実質的な進展はないと言う事を意味する。

 多くの閣僚、官僚は「人間が作ったシステム」を思考の中心に置いた、文系の比率の高い人たちが中心となった集団である。よって、政治家及び官僚の多くは、一般的に「自然が関与する事象」に対して適切な判断を下す事ができない。なぜなら、自然は人間が作ったシステムではないからである。

 ゴジラに限らず、様々な天災が起きた時、後から政府の対応が批判される事があるが、それは文系の発想だけでは被害を最小限にするための政治的判断ができないから致し方ないところがある。「ならば専門家を呼べばいいのでは」と言う単純な話ではない事は、三人の有識者を呼んでも何も解決しなかった事が象徴している。あれは多くの人にとっては「役に立たない御用学者」のカリカチュアのように見えたかもしれないが、実際にあの段階でゴジラについて説明できる研究者はいないであろう。ただし、三人の有識者のコメントは理系のそれではない。もし、本当に理系ならば、全くの未知の生物が出現した時に、あのように「わからない」と言うだけでと平然としていられる訳がない。わからないなりにもっと身を乗り出してない知恵を振り絞って仮説を立てることだろう。つまり、あの三人の有識者は、理科的な知識のある文系側の人間である。ちなみに「御用学者」というのは、政府の期待する答えをうまくアレンジして言及してくれる学者の事を指すのであって、あの三人の有識者は御用学者ですらない。

 

 大河内首相について書く。第二形態がさらに変化して第三形態(通称・品川くん)となり、自衛隊ヘリによる攻撃を大河内首相が決断しなければならない場面がある。直立したゴジラはすでに大規模な災害を引き起こしている本体である。ここで殲滅させなければさらに被害が拡大することは確実だ。ところが、攻撃地域に人がまだいる可能性があると言う事がわかり、首相は攻撃中止命令を出す。戦後の日本で作られてきた統治の形を考えれば、確かに「自国民に銃を向ける訳にはいかない」というのは正しい。ある意味、典型的な文系の発想である。おそらく平時には良い政治家であったろう。しかし、自然が相手の場合、文系はやはり分がわるい。

 

 さらに言うなら、政治家や官僚は工学的な視点もなかなか持てない。工学は自然の法則を人間が利用できるようなシステムとして構築してきたものであるから、自然そのものへの理解がなければ正しく把握する事はできない。防衛出動を首相が決断した後に、エレベーターの中で、閣僚たちが「自衛隊がでてくればゴジラはひとたまりもないだろう」と言うようなシーンがあるのだが、文系にありがちな「自然に対する根拠のない楽観」の典型と言える。閣僚は書類上の戦力は把握しているかもしれないが、現実の自然に対する想定力が決定的に欠けているのである。

 

「文理両刀」政治家の面々

 あの場面で太平洋戦争の例を出して「楽観は禁物」と戒めることのできた内閣官房副長官の矢口蘭堂は、文系でありながら理系の視点も持てる、文理バランスの非常にいい「文理両刀」の人物と言えよう。理系的である事自体に、理科的な知識は必ずしも必要ない。自然へのリアリティが持てるかどうかが重要なのである。その自然への畏敬を感じとれるからこそ、矢口はゴジラの圧倒的な存在形態を直感的に把握し、巨大不明生物特設災害対策本部(巨災対)の必要性を痛感したのだ。そして、巨災対が組織された後も、彼が文理両刀だからこそ、その面々の成果を的確に理解し、最も良い形でまとめることができたのである。

 

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)

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 泉修一政調副会長およびカヨコ・アン・パターソン大統領特使の二人もまた文理両刀の登場人物である。どちらもいかにも理系的な台詞はないものの、状況を的確に把握している事には変わりない。

 泉は一見するとコテコテの政治家タイプ、つまり文系人間に見えるが、巨災対のメンバーをかき集めるに際し、どのような人材が適切かを判断できる事自体、理系センスがあるという事に他ならない。単なるコネであれだけの適材適所を実現する事は困難であろう。

 パターソンにしても、牧博士の研究資料の意味するところを把握し、米国側の共同研究者の選定も行うなど、理系の素養がなければできない事を何気なくこなしている。情報の欠落した牧博士の解析図を広げた時も「自分の専門ではないけれど」という断りが入ると言う事は、おそらくは何らかの理系の修士号くらいは持っていそうである。同時に、当然ながら政治的駆け引きも行う面もある(というかそちらの側面の方が分かりやすく演出されていた部分はある)。

 なお、「カヨコ・アン・パターソンのような人物が将来大統領になるというのは全く非現実的だ」と言う人もいるのだが、そう言う人は現実の世界でドナルド・トランプが大統領候補になっているのを知らないのだろうか。私個人の意見だが、トランプよりも、これだけ有能なパターソンが大統領になる方がはるかにマシであり、世界のためになるだろう。

 

自衛隊の司令官も「文理両刀」

 自衛隊の司令官も理系の視点がなければ仕事にならない。ある意味、最もシビアに自然に対峙するのが自衛隊と言う組織であろう。不確定要因が数多くある中で、最も効率的かつ効果的に敵に損害を与えるためには綿密なシミュレーションが必要である。そして、実戦というのは、一回しかできない壮大な実験とも言える。その司令官が文系であると、理想論もしくは精神論に傾きがちで、どんな高度な兵器を所有していても玉砕あるいは撤退しかないだろう。無論、人心掌握も作戦には重要であるから、文系の側面も司令官には備わっていないといけない。つまり、自衛隊の指揮官もまた文系と理系のバランスが取れてないと務まらないのである。

 シン・ゴジラでは、自衛隊の司令官が、これまでの日本映画にありがちな「政府からの命令に盲目的に従うだけの存在」ではなく、自発的に思考できる有能な存在として描かれている。これは、本物の自衛隊の作戦に準拠して、作戦実行までの手順をリアルに追求した成果であろう。なお、人間側でBGMがつくのは、既に書いたように自衛隊ヘリの出撃からである。つまり、ここから人間側の物語が動き出すのだ。

 

 

理系集団・巨災対

 シン・ゴジラを決定的に面白くしたのは、この巨災対という組織を設定したことにある。これまでの災害モノ・SFは一人の天才科学者が問題を解決するというパターンが圧倒的多かった(例外は、マイケル・クライトン原作の「アンドロメダ・・・」)。ところがシン・ゴジラでは共同対策チームなのである。つまりヒーローはいない。「プロジェクトXみたいでカッコいい」という人も多かったが、実際問題としてゴジラという巨大で未知の生物に対して、一人の科学者だけでどうにかなる訳なく、様々な専門分野から多角的に考察しなければ具体的な対策案は出せないだろう。言わば、素粒子研究のような巨大科学の研究手法を取らなければ解決できないのだ。そして、BGMもあの巨災対のテーマがプロジェクトの進行に合わせて変奏されながら鳴り響く。

 一部、外交畑の人材もいたが、言うまでもなく巨災対のメンバーの多くは理系である。ゴジラと言う「超越的な自然」に対決するためにはそれは必然と言ってよい。といっても、巨災対の中でも、文系と理系の配合比はその立場によって微妙に異なっている。

 

 

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巨災対「文理両刀」の人々

 巨災対の中にも文理両刀な人物がいる。まず、資源エネルギー庁電力・ガス事業部原子力政策課長の立川 及び経済産業省製造産業局長の町田だ。氏名役職は失念したが、防衛省から来た彼、輸送手段重機等を調達する運輸省の彼も同じような立ち位置だろう。役職からもわかるとおり、実社会と密接に関わる部署だけに他のメンバーとは少し雰囲気が違う。立川は放射線対策、町田は凝固剤供給の調整、防衛省の彼は作戦本体の策定、運輸省の彼はロジスティックの管理など、ヤシオリ作戦の運用に関わる部分を請け負っている。つまりゴジラの本質に迫るというより、後方支援的な立ち位置だ。

 

巨災対「いわゆる理系」の二人

 文系成分よりも理系成分の方がそれなりに多い人となると、文部科学省研究振興局基礎研究振興課長の安田、途中から参加する原子力規制庁監視情報課長の根岸があげられるだろう。

 安田は全国の研究機関に本当にいそうな典型的な研究職キャラクターである。というか、私の知り合いにも似たキャラの人は実際にいる。自然への興味はあり、未知の発見には無邪気に興奮するものの、周囲の人間関係にも気を使える人物だ。よって、ゴジラの本質の理解を矢口などに上手く伝達する役割も担っている。

 根岸もゴジラから発見された新元素についつい興奮(歓喜?)してしまう半面(同じ場にいた、赤坂秀樹内閣総理大臣補佐官が「アメリカの狙いはこれか」と冷静にいかにも文系的な発言をするのと対照的だ)、一般社会と放射線との折り合いについても充分に考えているようである。まあ、普段は原発や自然界からの決まりきった放射性同位体のスペクトルを眺める日々だろうから、全く未知のピークのある線源が見つかれば彼でなくても興奮する気持ちはわかる。

 

アイソトープ手帳

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巨災対「バリバリ理系」の二人

 人間よりも自然を探求する事が三度の飯よりも好きなのである。そして、研究対象が自分の想像を超えれば超えるほどエキサイトする。研究そのものが面白ければ、社会的評価は気にならない。それがバリバリの理系である。方向性を間違えれば危険な人物だ。

 その二人とは、間 城北大学大学院生物圏科学研究所准教授と尾頭ヒロミ環境省自然環境局野生生物課長補佐である。閣僚の前でもマイペースを貫くクールビューティの尾頭、ひたすら自らの仮説を暑苦しく展開し続ける間と、その没頭の仕方は対照的だが、今ではほとんど絶滅危惧種と言えるバリバリの理系である。

 しかし、自然(ゴジラ)を真に理解するには、ある意味、研究対象に「なりきる」事も必要なのだ。ゴジラについてのブレークスルーが実質的にこの二人によってもたらされたのは、言い方は変だがゴジラと言う研究対象を誰よりも「愛していた」からだろう。なんといっても、尾頭は自然環境局野生生物の部局にいるのである。そして、熱核兵器の使用については「ゴジラより怖いのは人間ですね」とまさにゴジラ寄りの発言をする。そして、最後の最後、放射性元素半減期が思い他の短い事がわかって、おもわず笑顔がこぼれるのはもちろん復興が早まるという人道的な安堵感と同時にゴジラとの共存の可能性をも視野に入った事への彼女なりの喜びの表情だったのかもしれない。

 もちろん、彼らだけではゴジラへの対処はできなかったのであるが、彼らのアイデアがなければ対処のきかっけさえ得られなかった訳で、そう言う意味では非常に重要な役目を果たした二人と言う事になろう。

 

日本を救った文系の政治家

 理系が頑張らなければ本質的なゴジラ対策はできない。効果はまだ未確定だがヤシオリ作戦は準備万端だ。ところが、国際社会はそう単純ではない。ゴジラの原因を作ったアメリカ合衆国は、国連を通した熱核兵器によってゴジラをなかったことにしたい。日本の近隣の中国・ロシアとしては、動く自然災害「ゴジラ」は日本で熱却してほしいのは当然だろう。

 ここから先は、文系の世界だ。文理両刀の矢口・泉をパイプ役にして、赤坂が里見佑介内閣総理大臣代理を「もう好きにしたらよろしいかと」と説得する。おそらくは里見総理大臣代理も迷っていたのであろう。赤坂の言葉で決意を固める。そして、自らの進退を覚悟して、フランス大使に頭を下げて、どうにか攻撃の時刻を繰り下げることに成功する。この時、文系の登場人物が出ている場面で初めてBGMが流れる。冒頭の文系閣僚・官僚の会議シーンでは無音楽だったのとは対照的である。

 

文系でも理系でもない人々

 いろいろな人が既に指摘しているが、シン・ゴジラの大きな特徴の一つに「愚か者が出て来ない」という事がある。愚か者とは、その時その時の感情に振り回されて最悪の選択をする人々の事である。シン・ゴジラでは自らの職務を全うする人々しか出て来ないのである。もっと言えば、それなりに頑張って勉強してきた人しか出て来ない。ここで言う「勉強してきた人」というのは、学歴の事を言っているのではない。それぞれに専門知識を学び、深く自ら考え、世界を見据える軸のようなものを確立している事を指す。そうした軸があれば、文系理系問わず、ゴジラが来た時に何をすべきなのかは明確である。まあ、文系閣僚・官僚は前半ではブラックユーモア的に演出されてしまったが、冷静に見ればそれぞれの立場で出来うる事を精一杯やっていることがわかる。ゴジラと言う不測の事態であるが故に的外れになっているから滑稽なだけである。

 勉強してない人(軸のない人)は、残念ながら文系でも理系でもない。それは小学生を単純に理系文系に分けられないのと同じである。シン・ゴジラの中で、官邸前で「ゴジラを殺せ」「ゴジラを守れ」のデモをやっている集団が一瞬出てくる。このデモをやっている人々の中に、この文系でも理系でもない愚か者がいるのかもしれない。何がしかをそれなりに勉強し、自分の頭でそれなりに考える人なら、そんなデモをしても何も得るものはない事はわかるはずである。

 そういった愚かな人々がほとんど登場しないために「現実的でない」「感情移入できない」という評価も生じることになるのだろうが、ドラマを盛り上げるために愚か者を全面的に登場させたらこの映画はおそらくは収拾がつかなくなったであろう。あえて、軸のある人々だけを登場させて、流れるようなドラマの機能美を堪能するのがシン・ゴジラの鑑賞のコツかもしれない。