ZoaZoa日記

気の向くままに書き散らしてゆきます。皆さまの考えるヒントになればと思います。

「君の名は。」の科学 前篇

高校生が羨ましい

 今の高校生は幸せだと思う。なぜなら、大林監督の「転校生」「時をかける少女」、梶尾真治クロノス・ジョウンターの伝説」の成分を含みながら、物語のおおまかな枠組みは映画「オーロラの彼方へ」で、全編にわたって「秒速5センチメートル」が組み込まれている、そんな贅沢な作品、新海誠「気の名は。」をリアルタイムに映画館で体験する事ができるのだから。特に、最初にあげた作品をほとんど知らない高校生がいたら、なおさら映画館でこれまで味わったことない深い感動に浸っている可能性は高いだろう。知らないと言うのが、場合によっては良い方向に作用する事があるが、先入観なしに優れた作品を初体験して感激するというのはその典型である。

 

 

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 ある程度の歳をとって経験を重ねると、あるいは、それなりの量の様々な作品を知ってしまうと、新たな作品に接する時、「これはアレの二番煎じだな」とか「この設定はあの名作に比べるとリアリティないなあ」とか純粋に作品に没頭できなくなる部分はどうしても出てくる。上述の梶尾真治氏も「気の名は。」を見た後に、ツイッターで「ほとんど先が読めてしまった」旨を呟いておられる。まあ、タイムトラベル・ロマンスの大家だから、当然であろう。「批判のための批判」でなくても、人生や創作物の経験値が上がるごとにそうなってゆくのは、程度の差こそあれ、残念ながら避けられない。十代の頃に感動した作品でさえ、年齢を重ねてから改めて見返すと「何に感激していたのかわからん!」と自分自身にあきれる事もよくある。まあ、人間、日々変わってゆくのである。

 「君の名は。」についてネット上で辛口なレビューを書いている人は、やはりそれなりに人生経験や多くの作品に既に接してきた方なのだろう。若い人(特に十代)で、この作品について批判的に書く人がいるなら、既によほど様々な創作物に接してきた人もしくは自ら創作に苦悩している人か、単に「批判のための批判」の人だろうと勝手に想像している。ま、実際はどうなのかわからない。人それぞれなので。

 

 何の予備知識もなく見に行った私も、最初の三十分間くらいでほぼ話の筋は見えてしまった。見えてしまうと言う事は、やはり「ハラハラドキドキ」しながら見ている人とは後半の驚き度合いが違ってくるのはやむを得ない。しかし、先が見えてしまっても、あるいは多少の設定のアラがあっても、個人的に、この作品は素晴らしいと思う。見に行くかどうか迷っている人がいたなら、よほど気難しい人でもない限り、「見て損はしない良い作品だよ」と伝えるだろう。以下、ネタばれが相当含まれているので、まだ見ていない人は注意されたし。

 

 

 

 

 

 

 

君の名は。」の全体の個人的感想

 何が良かったといえば、「時空を超えるアイテムが渋い」という事がある。まず、ここが私好みだ。なお、ここで書く感想は個人的な見解であり、絶対にそうだというものではないので、その辺をわかった上でお読みいただきたい。

 まず、「赤い糸」と言うあまりにベタなものを、伝統工芸の「組み紐」(正式な名称、忘れた)に関連付けて、活用したのが巧い。しかも、一本だけでなく、色の違う紐を組み合わせて何本もの組み紐を宮水家は編んでいる。すなわち「組み紐」を編む作業シーンを通して、「時を自ら編む」かつ「異なった時間軸をつなげるマルチバースの概念」をも象徴しているのではないか。マルチバースについては、トッシーもムー的な雑誌を示して何気に説明していた。

 そして、物質的に時空を超えるアイテムとして「口噛み酒」を使うのもいい。時間軸を超えた情報伝達は、紐があれば成り立つのだが、時を隔てた物質は出会う事はできない。そこをある意味強引に結びつけてしまうのが、「口噛み酒」というアイテムだ。下世話な言い方をすれば、事実上の時間を隔てた間接キスであり、別の見方をすれば一種のアニミズムと言ってもいい。それが時空を超えた物質的な接続を成立させる「きっかけ」とする訳である。三葉が三年前に口から吐いた息の中の酸素原子が、三年後の瀧の肺に入る事は現実的には確率的に当たり前のようにありうるのだが、それは二人だけの話ではないから、説明した所で、見ている方は納得いかないであろう。あくまで、三葉成分が濃厚な、しかも神域で発酵していた口噛み酒に瀧と三葉をつなげるアイテムとしての意味があるのだ。

 さらには、この作品のベースを表す「誰そ彼」や「彼は誰時」という美しい日本語を、あのクレーター外輪山の風景の中や音楽とリンクさせてクライマックスで使うのもいい。やはり音声だけだと、その意味合いはなかなか実感できない訳で、わざわざ「言の葉の庭」に登場した百香理先生に黒板上で書かせてまで、「誰そ彼」「彼は誰時」と言う言霊を「言葉アイテム」として活用している。新海誠作品全般に言えることだが、彼が選ぶ「言葉」というのは、本当に繊細で美しいものが多い。「現実はそんな綺麗事ばかりじゃない。気障ったらしい。感傷的過ぎる」という人もいるかもしれないが、時として美しい言葉に身をゆだねるのもいいのではと個人的には思う。

 

 反対に、おそらくは時空を遮るアイコンとして、閉まる戸のカットがかなり繰り返し登場する。煩雑に感じる人も多かったかもしれないが、時空のつながりは儚く、何度でも途切れうる様を象徴しているのだろう。そう思ってみれば、二人がつながっている事へのアンチテーゼとして戸の開閉のカットが後半になる程にヒリヒリ感じられてくる。

 

 そしてやはり極めて抒情的な映像・構図・カット割りが圧倒的に素晴らしい。辛口な評価な人も、この映像美だけは認めている場合が多い。実際、奥行きのある水彩画のような映像は、新海作品以外ではなかなか見る事はできない訳で、特に都会と田園風景との対比の巧さにいつも感心させられる。構図やカット割りもさることながら、私の目が悪いのかもしれないが、都会の風景の時は全体に彩度を微かに(本当に微かに)下げているように見えるのである(ついでに言うと、都会のシーンでも、最後の最後、二人が階段で振り返る所は、ほんの微かに彩度がクイっと上がったような気がするのだが、これはさすがにこちらの思い込みが大きい気がする)。そして、今回は特に糸守町の描写が、様々なアングルを通して本当に美しく表現されている(どうやら諏訪湖周辺がモデルらしい。確かに言われてみれば似た雰囲気だ。が、糸守湖は断層湖の諏訪湖と違いクレーター湖という事になろう)。個人的にはこの風景を見ているだけでも心地よい。

 

 彗星を設定に使うと言うのもいい。まず、彗星は外観的にも美しいし、空を見上げて巨大な彗星があるだけで絵になる。そして、周期的にやってくるというのも物語を作りやすい。さらには、その彗星こそが悲劇の原因という二重性もいい。当然、その彗星の災厄は、この作品の民俗学的なモチーフとしても使われるのである。そして、「彗星の核が衝突して一つの町が消える」というぎりぎり災害の規模が実感できるそのスケール感がたまらない。天体衝突の話は、大抵は地球滅亡レベルの規模が多く、それをどうにか阻止する話になる訳だが、「君の名。」では、とにかく衝突は避けられないのである。

 

 

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 オープニングも非常に効果的である。ついつい、RADWIMPSの疾走感あふれる音楽に惹きこまれてしまうのであるが、あやふやな記憶をどうにか引き出して、思い返してみればあの短時間のオープニングの映像の中にこの物語の諸要素が実は詰め込まれていたりする。そして、OP曲の夢灯籠の歌詞もまた見終わって振り返れば、納得の内容である。初見ではっきりと意識できないとしても、この作品全体の基調をあの短いオープニングでとても手際よく提示しているように思える(繰り返すが、あくまで私の個人的意見である)。

 

 

君の名は。(通常盤)

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 また、意図的に省略しているシーンを要所に入れるのもなかなかいい。例えば、三葉の最初のシーン。糸守町の家の和風な寝室で三葉の身体に入った瀧が目覚め、違和感から胸を触るシーンがある。男女入れ替え話ではお決まりのシーンだ。そして、襖を開けて妹の四葉が入ってきて「なにやっとるん?」となる。ところが、その次のシーンは丸一日経過して、三葉の身体が三葉に戻った日常がいきなり出てくるのだ。男女入れ替えの話なのに、なんと入れ替わった初日の当惑の日常が省略されているのである。省略された一日は、それぞれ見ている側が想像で補完する他ない。それは瀧の側も同じだ。ところが、徐々に二人の心身交換の日常を何気ないカットの積み重ねで補ってゆく。そして、日常の充実した様子の描写がマックスになった所で、RADWINPSの歌詞付きの音楽が鳴り響く。無論、ここでも歌詞と映像はリンクしている。しかし、曲が終わると、ぱたりと心身の交換ができなくなる。ここから、また省略のシーンが多くなってゆく。

 後半で特に印象的なのは、「彼は誰時」を経て戻って来た三葉(中身も三葉)が町長室へ乗り込んでゆくシーン。なんと、乗り込んでゆくだけで終わりなのである。町長の対応を最後まで入れるのは論外だが、一言ぐらい三葉が町長に迫る台詞を入れて、三葉と町長との緊張が生じた状態を作った上で次のシーンに入ってもよさそうなものだが、それすらない。そこからしばらく三葉は画面に登場しない。彼女がどうなったかは、かなり長い時間わからない。つまり、詩情あふれる都会風景を切なく見ながら、見ている人はしばらく瀧と同じように、三葉について想いを募らせることになる(まあ、瀧は思い出せない「何か」を渇望するのだが)。

 そして、最後の最後。階段シーンでほぼピンポイントの充填に到達する(ついでに言うと、最終直前の瀧の後ろの「テッシー・さやちんカップルの昔と変わらない会話」シーンもなかなかスパイスとして効いている)。

 つまりは、欠落→充填→欠落→充填の繰り返しで、幾度か観客は充填のカタルシスを感じつつ、欠落が生じたら再び想像で補完しながら次の充填を求めることになる。シーンの欠落はすなわち「二人の記憶の欠落」を象徴し、ずっと傍観者で見ているはずの観客も、欠落したシーンをこれまでの話の流れを思い起こしながら、補完する。その作業を通して、二人の距離感・疎外感と見ている人の欠落感とが共鳴できるようになっているのではないか。まあ、ちょっとそれは考えすぎかもしれないが。

 ともあれ、おそらくは、こうした演出の工夫で、この物語の終盤に向けての圧倒的な駆動力が維持されているように思うのである。人によっては、「説明不足」「不親切」「必然性がない」「唐突過ぎる」と言う風に感じるのかもしれないが、私は、自分勝手に楽しむ事ができた。

 

また、何気に飛騨の民芸品である「さるぼぼ」が出てくるのも個人的にツボだった。

 

 さて、ここまでは全然「『君の名は。』の科学」になっていないのであるが、後編で具体的に書いていこうと思う。私には映画でも小説でも、なんらかの作品を鑑賞している時、「科学の視点」というものが通奏低音的に作動していて、「おやおや」と思う所を発見する事も多い。まあ、発見した所で、よほど滅茶苦茶な内容でない限り興醒めする事は滅多にない。理科の教科書ではないのだから、基本的に話が面白ければいいのである。逆に話が面白くなければ、いくら科学的な整合性が取れていてもしょうがない。

 「君の名は。」でも「おや?」と思う事がいくつかあった。別に「おや?」と思う事があっても、作品の価値は全く減じないし、私個人の中では「良い作品」であることには変わりない。ただ、「このような視点もある」という事で、「君の名は。」に感動して、なおかつ理科的な事にも興味があるという人は、是非後編も呼んでいただければ幸いである。

シンゴジラに出演している面々

 しつこくシンゴジラについて書く。いいかげん、落ち着きを取り戻したいのだが、いろいろ書きたい事が湧き上がるのがこの作品の特徴だから致し方ない。今回は出演者についての個人的な雑感を垂れ流してゆく。

 

 「シンゴジラと文系理系」で、「出演者はほとんど記号化されている」と書いたが、その記号化に大いに貢献しているのが、出演者の多種多様な「顔のバリエーション」である。シン・ゴジラ、登場人物は原則的にアップでスクリーンを占拠する。役者というのは、原則、身体全体で演技する訳で、顔面のアップばかりだと顔で演じる他ないのだが、その顔が本当に多岐にわたる。しかも、ほとんどは中年男性である。こう書くと、未見の人は「相当に暑苦しいのでは」と思うかもしれないが、意外とそれを感じないのは、ひとえにワンカットが非常に短いと言う事がある。ある意味、暑苦しさを感じる前に次のカットへ進む。

 

 つまり、そのアップの顔の切り替えでもう潜在的な物語が生じてしまう訳だ。モンタージュ理論の変わった応用とも言える。その「顔面博覧会」に登場させる役者陣が本当に適材適所というか、誰もが一度ならず何度でも様々なドラマや映画で見かけたはずの、でも名前までは全員は知らない顔である。よくこれだけ集められたなと言う感じだ。見る人の文化的背景によって「あ、あの人、こんな所に出ている!」と驚く場面が必ずあると思うのだが、一方で、この映画を一回見て、出演している台詞のある役者の名前と経歴まですべてスラスラ言える人はなかなかいないだろう。もしいたら、相当な役者マニアと言っていい。当然、私もすべての出演者(エキストラ的な人は除く)の顔と名前は一致しないし、そんな事をやりながら映画を見たら、ただでさえ情報量の多い作品なので、頭はパンクする。

 

 ということで、シン・ゴジラで私自身が印象に残った役者たちを並べていきたい。

 

大杉 漣(大河内清次内閣総理大臣

 劇団から下積みしたその役者歴はもう途方もない分量で、受賞歴も凄い。到底すべて把握できはしないのであるが、とにかく「なんでも演じる」のである。個人的に印象に残るのは竹中直人の「無能の人」の古書店主、北野武ソナチネ」の片桐。そして、やはりシン・ゴジラの流れとしては、「仮面ライダー1号」の地獄大使を忘れる訳にはいかないだろう。地獄大使が総理大臣なのである。

 

 

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柄本 明(東竜太内閣官房長官

 今や、彼の子供たちの方が有名なのかもしれないが、やはり柄本と言えば、東京乾電池柄本明であろう。この人も、あまりにいろいろな作品に出ているので、代表作と言われると案外と難しいのだが、個人的には川上弘美原作の「センセイの鞄」の松本春綱先生の枯れた存在感が印象深い。そして、やはり「ゴジラ対スペースゴジラ」の結城晃を忘れてはならない。ゴジラを血液凝固剤でどうにかしようとしていた結城晃と思ってみると、ゴジラが上陸してもそれなりに落ち着きはらって閣僚に指示を出す姿も納得できてしまう。

 

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國村 隼(財前正夫統合幕僚長

 この人も、普通にテレビドラマや映画を見ていれば、絶対に「見た事のある顔」の一人だろう。どちらかというと、渋い役柄、あるいは参謀的な立ち位置を演じる事が多い。「ゴジラFINAL WARS」では新・轟天号の副艦長の小室少佐、草薙剛の「日本沈没」では、内閣官房長官(のちに内閣総理大臣臨時代理)の野崎亨介を演じている。今回の幕僚長の役では本当に彼の本来の持ち味が最大限に生かされていて嬉しい限りである。

 

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平泉 成(里見佑介農林水産大臣のちに内閣総理大臣臨時代理)

 シン・ゴジラにおいて最終的に「美味しい役」によくこの人を起用したものだと思う。この人の芸歴も長く、実に様々なドラマや映画に出ている訳だが、ほとんど特撮の歴史と重なっているから、ウルトラマンシリーズではタロウ、レオ、ガイア、メビウスに出ているし、平成のウルトラ映画でもお馴染みの顔である。そして、ゴジラならあの「ゴジラ対デストロイヤ」での上田内閣調査室長なのだ。彼の今回のシン・ゴジラでの配役は、そういう特撮の脇役功労賞みたいな気がするのは私だけだろうか。

 

 

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渡部 哲(郡山 内閣危機管理監

 個人的にはNHK朝の連続ドラマ「私の青空」のバズーカ利根川の印象でずっと来ているのだが、おおむねそんな感じの役が多いので、修正されていない部分もある。しかし、思い返せば、「ゴジラキングギドラ」でラゴス島日本軍軍曹、「ゴジラモスラ」では戦車隊長、「ガメラ大怪獣空中決戦」では富士裾野での中隊長と徐々に出世し、ついにシン・ゴジラでは初動体制を作る重要な役どころの内閣危機管理監になっている。この流れ知る人は、郡山内閣危機管理監の冷静沈着な対応には積み重ねた経験によるものだと、わかる人にはわかる訳で、顔だけで選んだ訳でないのが憎い。

 

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余貴美子(花森麗子防衛大臣

 「小池百合子をモデルにしているだろう」とかなり言われているが、そうかもしれないし、そうでないかもしれない。この人も何でも演じられる実績のある大女優なので、小池百合子が仮に防衛大臣をやっていなかったとしても、こんな「鉄の女」のような防衛大臣がいてもおかしくない雰囲気は充分に出ていたように思う。とありえず草薙剛の「日本沈没」の大地真央よりは実在感はある。というか、シン・ゴジラの場合、あくまでその場の、花森大臣の「首相を追い詰める迫力」のみで「実力と声の大きさでのし上がって来たんだだろうなあ」と観客に物語を補完させてしまう力がある。これは「竹で割ったような勢い」と「冷徹さ」とが共存できる女優でないと無理なので、余貴美子がまさに適任だったであろう。

 

 

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長谷川博巳(矢口蘭堂内閣官房副長官)

石原さとみ(カヨコ・アン・パタースン大統領特使)

市川実日子(尾頭ヒロミ環境省自然環境局野生生物課長補佐)

 この三人に共通する事は、ちょっと微妙な出来の特撮映画に出ているということだ。長谷川博巳と石原さとみは樋口監督の「進撃の巨人」にシキシマおよびハンジとして、市川実日子庵野監督の「キューティーハニー」に秋夏子として出ている。進撃の巨人キューティーハニーは、映画作品としていろいろ問題はあるものの、個々の俳優の仕事として見ると、結構見ごたえがある。特に「進撃の巨人」での石原さとみの弾けぶりと長谷川博巳の成り切り度合いはなかなかである。

 長谷川博巳という名前を私が知ったのは「鈴木先生」からである。武富健司原作のコミックを初めて読んだ時の衝撃は忘れる事はできないが、あれを実写ドラマでやるなどとは夢にも想定していなかった。コミックだからこそぎりぎり許される表現内容だと思っていたのだが、長谷川博巳という怪物俳優を得て、見事に実現してしまった。あれができるなら、彼は何でもできる。当然、シン・ゴジラの矢口も下手をすると非現実的なキャラクターとして浮きそうなのだが、違和感なく引き込まれるのは彼の秘めた狂気によるものに他ならない。それは、別のベクトルの狂気にはなるが、石原さとみも同様である。まあ、石原さとみに関しては、賛否評論あるようだが、彼女のあの演技もまたシンゴジラを成り立たせるための極めて重要なピースであったと個人的には思っている。

 市川実日子は、市川美和子と区別が付かない時期があったのだが、木皿泉脚本の「すいか」での芝本ゆかで、間違えることがなくなった。奈良美智の描く幼女のように目つきが鋭い方が市川実日子なのである。キューティーハニーの秋夏子役は、個人的には原作のキャラがとてもよく出ていて気に入っている。妙に思わせぶりなアンニュイな役柄よりも、どこかネジの外れた役の方が彼女の良さが出ると個人的には思っている。そして、満を持して(かどうかはわからないが)、監督はシン・ゴジラの最終兵器として尾頭ヒロミを投入したのである。これは皆が彼女にハマることを想定して監督がキャスティングしたとしか思えない。彼女以外のキャスティングをいろいろ想定してみるのだが、やはり全く思いつかない。本人としては困った事になるかもしれないが、スポック=レナード・ニモイのように、市川実日子=尾頭ヒロミになりそうである。

 ともあれ、三人とも特撮映画に通底する独特の世界観を出せるキャストとして白羽の矢が立ったのであろう。そして、三人とも見事にはまった。

 なお、前述の「キューティーハニー」には、パンサークロウのゴールドクロー(!)の役として片桐はいりが大真面目に出演している。言うまでもなく、シン・ゴジラでは、官邸のお茶くみのオバサンとして登場する。あれだけの一瞬の出番ながら、「片桐はいり、出てたな」と誰もが強烈に印象に残るのはいつもの通りである。

 

 

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髙橋一生(安田 文部科学省研究振興局基礎研究課課長)

松尾 諭(泉修一 政調副会長)

 シン・ゴジラ鑑賞の第一回目では事前情報は完全にシャットアウトして映画館に向かったので、誰が出演しているなどの情報もないままであった。そこで、松尾諭が出た後に、髙橋一生が出てきて「MM9かよ!」と心の中で叫んでしまった。MM9は、山本弘原作のSFで、怪獣が定常的に出現する世界で、怪獣の出現予測を行う部署(気象庁特異生物部対策課、略して「気特対」)での物語である。それが原作とはかなり違う話としてドラマ化された。そこで、髙橋一生は灰田涼と言う実質的な中心人物を、松尾諭は山際俊夫という情報分析官を演じた。事実上、巨災対のひな型のような作品で、監督は樋口真嗣。といっても、まったりしたお役所的雰囲気の充満した分類の難しい作品だ。ともあれ、そのまったりとした二人がシン・ゴジラではえらく有能にパキパキ動いているので、二人が出てくると、MM9と比較しながら、頬が緩みっぱなしであった。というか、松尾諭、出世しすぎだ。

 なお、ご存じ方も多いだろうが、髙橋一生は「耳をすませば」の天沢聖司の声をやっている。さらについでながら、ウルトラ・お笑いバラエティー番組「ウルトラゾーン」にも両人は出ている。

 

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嶋田久作(片山修一 外務大臣臨時代理)

手塚とおる(関口悟郎 文部科学大臣

 両人とも特撮映画史上印象に残るキャラクターのトップ10には必ず入るであろう人物として記憶されている事に異存はなかろう。と誰に言ってるのかわからないが、わかるひとにはわかる。嶋田久作は「帝都物語」「帝都対戦」で魔人・加藤保憲を、手塚とおるは、「ガメラ3邪神覚醒」にて狂気のプログラマー倉田真也を怪演している。

 嶋田久作加藤保憲は本当にハマり役で原作者の荒俣宏さえ、嶋田久作に合わせてキャラを書き変えたくらいである。加藤保憲の印象が強いせいか、嶋田久作と言えば、制服組又は何かしらデカダンスの漂う、余り感情は表に出さず、密かにほくそ笑む俳優と言う印象であった。そんな感じで今回のシン・ゴジラを見ていたら、アメリカ合衆国側からの要求に対して、いきなりバーンと机をたたき「それにしても、この要求はひどすぎます!!」と泣きながら鼻水たらしながら激昂するので、非常にびっくりした。「昔、東京を壊滅させたくせに、何を言ってるのだお前は」と心の中でつっこんだ人も多かろう。これも、わかる人にはわかる、なかなか皮肉な演出である。

 手塚とおるも「ガメラ3」にて、天才プログラマー倉田真也として相当に気色の悪い演技を大放出している。あれこれロクでもない事を口走って、最後は、死の恐怖をリアルに感じながら、ひきつった笑顔で瓦礫の下敷きとなる。その恐怖の延長かのように、シン・ゴジラ文部科学大臣として、終始、落ち着きなく「何かの不安」を抱えているようなキャラクターとして登場する。シン・ゴジラ手塚とおるが発する台詞は基本的に「不安がらみ」のものばかりであり、まさに横柄な倉田真也の裏返しのような存在として演出されている。それにしても、いつのまにか文部科学大臣とは出世したものだ。

 

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 他にも、いろいろ書きたい出演者はいるのだが、際限がないからこの辺でやめておく。高良健吾竹野内豊はなぜ出て来ないのかという人もいるかもしれないが、私としては、お二人とも映画の中での「常識人」としての要石としてよくやっていたと思うが、俳優としてはあまり印象に残っていなのである。ファンの人は申し訳なし。

 

 なお、ここまで凝りに凝ったキャスティングを敢行しながら、第一作の「ゴジラ」に出演していた、菅井きん宝田明が出演していないのは、単に都合が付かなかったのか、あるいはあえてキャスト候補から除外していたのか、どちらなのだろうか。

 菅井きんは、なかなか体調的に厳しいという問題もあるかもしれないが、宝田明参院選に出馬要請が来るくらいにはまだまだ元気なようである。

 もし、あえて候補から除外していたのなら、庵野監督は、フィクションであれ真面目に「シン・ゴジラ」において本当に「ゴジラのいない世界」を想定していたとも考えられる。つまり、第一作はやはり特別なゴジラで、あの映画世界を体現していた二人は、「ゴジラを体験した二人」ということで使いにくかったのだろう。二作目以降はすべて原則「ゴジラのいる世界」という前提だから、誰が出演していようがさして問題はないのだが、やはり一作目は「ゴジラのいない世界からゴジラのいる世界へ」という原初体験な訳だから、菅井きん宝田明は、他のゴジラシリーズ出演俳優とは違った位置づけだったのかもしれない。

 

 

 ところで、映画館で四回見て、アナウンサーの小川真由美と広島大教授の長沼毅がどこに出ていたのか、未だにわからない。DVDが出たら、じっくりと探したいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シンゴジラと文系・理系

 以前に「人は理系として生れる訳ではない」という小文を書いた。興味の対象が自然であれば理系で、人間であれば文系という話であった。もちろん純粋に理系あるいは文系に特化した人などはいない。各々の比率は違えども、現実に社会生活を送っている以上、誰もが理系的な部分と文系的な部分を兼ね備えているのは言うまでもない。

 

 シン・ゴジラを何度か見ていると、監督が意識しているのかどうかはわからないが、この文系理系という分け方が作品の中でかなり明確に区画化されているので面白かった。シン・ゴジラでは、登場人物の背景や私生活は、主人公であってもほとんど明らかにされない。当然、人情噺・家族愛・恋愛譚はほとんどないと言ってよい。そこに不満を感じ、シン・ゴジラを酷評する人もいるが、それは映画に求めている事の種類が違うので致し方ない。そういう人は役者の自我が炸裂するような絶叫・号泣系の作品を堪能すればいいだろう。

 シン・ゴジラでは、登場人物は基本的に組織の中で機能する駒である。そして、それぞれの駒にどのようなスペックがあるのかは、一瞬一瞬の演出の積み重ねや文字情報でかなり明確に示される。要は、多方面に光を当ててじっくりと人物像を想定してゆくと言うよりも、完全に登場人物を記号化して取り扱っていると言ってもいい。別の言い方をすれば役割の決まっているコマを自在に組み合わせてドラマを成立させるような巧妙に設計された見事な群像劇とも言える。

 

以下、例のごとくネタばれを壮大に含むので、未見の人は注意されたし。

 

 

 

 

 

文系集団の閣僚・官僚

 気付いている人も多いだろうが、シン・ゴジラでは、オープニングから最初の自衛隊ヘリ出撃まで人間側のBGMが全く流れない。無論、ゴジラ自身のBGMは上陸・進化と非常に効果的使われる。オープニングからヘリ出撃まで、人間側は冗長な会議および現実から遊離した閣僚の迷言が連続するだけで対応が後手後手になっている状況である。BGMがないということは、人間側のゴジラに対する実質的な進展はないと言う事を意味する。

 多くの閣僚、官僚は「人間が作ったシステム」を思考の中心に置いた、文系の比率の高い人たちが中心となった集団である。よって、政治家及び官僚の多くは、一般的に「自然が関与する事象」に対して適切な判断を下す事ができない。なぜなら、自然は人間が作ったシステムではないからである。

 ゴジラに限らず、様々な天災が起きた時、後から政府の対応が批判される事があるが、それは文系の発想だけでは被害を最小限にするための政治的判断ができないから致し方ないところがある。「ならば専門家を呼べばいいのでは」と言う単純な話ではない事は、三人の有識者を呼んでも何も解決しなかった事が象徴している。あれは多くの人にとっては「役に立たない御用学者」のカリカチュアのように見えたかもしれないが、実際にあの段階でゴジラについて説明できる研究者はいないであろう。ただし、三人の有識者のコメントは理系のそれではない。もし、本当に理系ならば、全くの未知の生物が出現した時に、あのように「わからない」と言うだけでと平然としていられる訳がない。わからないなりにもっと身を乗り出してない知恵を振り絞って仮説を立てることだろう。つまり、あの三人の有識者は、理科的な知識のある文系側の人間である。ちなみに「御用学者」というのは、政府の期待する答えをうまくアレンジして言及してくれる学者の事を指すのであって、あの三人の有識者は御用学者ですらない。

 

 大河内首相について書く。第二形態がさらに変化して第三形態(通称・品川くん)となり、自衛隊ヘリによる攻撃を大河内首相が決断しなければならない場面がある。直立したゴジラはすでに大規模な災害を引き起こしている本体である。ここで殲滅させなければさらに被害が拡大することは確実だ。ところが、攻撃地域に人がまだいる可能性があると言う事がわかり、首相は攻撃中止命令を出す。戦後の日本で作られてきた統治の形を考えれば、確かに「自国民に銃を向ける訳にはいかない」というのは正しい。ある意味、典型的な文系の発想である。おそらく平時には良い政治家であったろう。しかし、自然が相手の場合、文系はやはり分がわるい。

 

 さらに言うなら、政治家や官僚は工学的な視点もなかなか持てない。工学は自然の法則を人間が利用できるようなシステムとして構築してきたものであるから、自然そのものへの理解がなければ正しく把握する事はできない。防衛出動を首相が決断した後に、エレベーターの中で、閣僚たちが「自衛隊がでてくればゴジラはひとたまりもないだろう」と言うようなシーンがあるのだが、文系にありがちな「自然に対する根拠のない楽観」の典型と言える。閣僚は書類上の戦力は把握しているかもしれないが、現実の自然に対する想定力が決定的に欠けているのである。

 

「文理両刀」政治家の面々

 あの場面で太平洋戦争の例を出して「楽観は禁物」と戒めることのできた内閣官房副長官の矢口蘭堂は、文系でありながら理系の視点も持てる、文理バランスの非常にいい「文理両刀」の人物と言えよう。理系的である事自体に、理科的な知識は必ずしも必要ない。自然へのリアリティが持てるかどうかが重要なのである。その自然への畏敬を感じとれるからこそ、矢口はゴジラの圧倒的な存在形態を直感的に把握し、巨大不明生物特設災害対策本部(巨災対)の必要性を痛感したのだ。そして、巨災対が組織された後も、彼が文理両刀だからこそ、その面々の成果を的確に理解し、最も良い形でまとめることができたのである。

 

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)

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 泉修一政調副会長およびカヨコ・アン・パターソン大統領特使の二人もまた文理両刀の登場人物である。どちらもいかにも理系的な台詞はないものの、状況を的確に把握している事には変わりない。

 泉は一見するとコテコテの政治家タイプ、つまり文系人間に見えるが、巨災対のメンバーをかき集めるに際し、どのような人材が適切かを判断できる事自体、理系センスがあるという事に他ならない。単なるコネであれだけの適材適所を実現する事は困難であろう。

 パターソンにしても、牧博士の研究資料の意味するところを把握し、米国側の共同研究者の選定も行うなど、理系の素養がなければできない事を何気なくこなしている。情報の欠落した牧博士の解析図を広げた時も「自分の専門ではないけれど」という断りが入ると言う事は、おそらくは何らかの理系の修士号くらいは持っていそうである。同時に、当然ながら政治的駆け引きも行う面もある(というかそちらの側面の方が分かりやすく演出されていた部分はある)。

 なお、「カヨコ・アン・パターソンのような人物が将来大統領になるというのは全く非現実的だ」と言う人もいるのだが、そう言う人は現実の世界でドナルド・トランプが大統領候補になっているのを知らないのだろうか。私個人の意見だが、トランプよりも、これだけ有能なパターソンが大統領になる方がはるかにマシであり、世界のためになるだろう。

 

自衛隊の司令官も「文理両刀」

 自衛隊の司令官も理系の視点がなければ仕事にならない。ある意味、最もシビアに自然に対峙するのが自衛隊と言う組織であろう。不確定要因が数多くある中で、最も効率的かつ効果的に敵に損害を与えるためには綿密なシミュレーションが必要である。そして、実戦というのは、一回しかできない壮大な実験とも言える。その司令官が文系であると、理想論もしくは精神論に傾きがちで、どんな高度な兵器を所有していても玉砕あるいは撤退しかないだろう。無論、人心掌握も作戦には重要であるから、文系の側面も司令官には備わっていないといけない。つまり、自衛隊の指揮官もまた文系と理系のバランスが取れてないと務まらないのである。

 シン・ゴジラでは、自衛隊の司令官が、これまでの日本映画にありがちな「政府からの命令に盲目的に従うだけの存在」ではなく、自発的に思考できる有能な存在として描かれている。これは、本物の自衛隊の作戦に準拠して、作戦実行までの手順をリアルに追求した成果であろう。なお、人間側でBGMがつくのは、既に書いたように自衛隊ヘリの出撃からである。つまり、ここから人間側の物語が動き出すのだ。

 

 

理系集団・巨災対

 シン・ゴジラを決定的に面白くしたのは、この巨災対という組織を設定したことにある。これまでの災害モノ・SFは一人の天才科学者が問題を解決するというパターンが圧倒的多かった(例外は、マイケル・クライトン原作の「アンドロメダ・・・」)。ところがシン・ゴジラでは共同対策チームなのである。つまりヒーローはいない。「プロジェクトXみたいでカッコいい」という人も多かったが、実際問題としてゴジラという巨大で未知の生物に対して、一人の科学者だけでどうにかなる訳なく、様々な専門分野から多角的に考察しなければ具体的な対策案は出せないだろう。言わば、素粒子研究のような巨大科学の研究手法を取らなければ解決できないのだ。そして、BGMもあの巨災対のテーマがプロジェクトの進行に合わせて変奏されながら鳴り響く。

 一部、外交畑の人材もいたが、言うまでもなく巨災対のメンバーの多くは理系である。ゴジラと言う「超越的な自然」に対決するためにはそれは必然と言ってよい。といっても、巨災対の中でも、文系と理系の配合比はその立場によって微妙に異なっている。

 

 

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巨災対「文理両刀」の人々

 巨災対の中にも文理両刀な人物がいる。まず、資源エネルギー庁電力・ガス事業部原子力政策課長の立川 及び経済産業省製造産業局長の町田だ。氏名役職は失念したが、防衛省から来た彼、輸送手段重機等を調達する運輸省の彼も同じような立ち位置だろう。役職からもわかるとおり、実社会と密接に関わる部署だけに他のメンバーとは少し雰囲気が違う。立川は放射線対策、町田は凝固剤供給の調整、防衛省の彼は作戦本体の策定、運輸省の彼はロジスティックの管理など、ヤシオリ作戦の運用に関わる部分を請け負っている。つまりゴジラの本質に迫るというより、後方支援的な立ち位置だ。

 

巨災対「いわゆる理系」の二人

 文系成分よりも理系成分の方がそれなりに多い人となると、文部科学省研究振興局基礎研究振興課長の安田、途中から参加する原子力規制庁監視情報課長の根岸があげられるだろう。

 安田は全国の研究機関に本当にいそうな典型的な研究職キャラクターである。というか、私の知り合いにも似たキャラの人は実際にいる。自然への興味はあり、未知の発見には無邪気に興奮するものの、周囲の人間関係にも気を使える人物だ。よって、ゴジラの本質の理解を矢口などに上手く伝達する役割も担っている。

 根岸もゴジラから発見された新元素についつい興奮(歓喜?)してしまう半面(同じ場にいた、赤坂秀樹内閣総理大臣補佐官が「アメリカの狙いはこれか」と冷静にいかにも文系的な発言をするのと対照的だ)、一般社会と放射線との折り合いについても充分に考えているようである。まあ、普段は原発や自然界からの決まりきった放射性同位体のスペクトルを眺める日々だろうから、全く未知のピークのある線源が見つかれば彼でなくても興奮する気持ちはわかる。

 

アイソトープ手帳

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巨災対「バリバリ理系」の二人

 人間よりも自然を探求する事が三度の飯よりも好きなのである。そして、研究対象が自分の想像を超えれば超えるほどエキサイトする。研究そのものが面白ければ、社会的評価は気にならない。それがバリバリの理系である。方向性を間違えれば危険な人物だ。

 その二人とは、間 城北大学大学院生物圏科学研究所准教授と尾頭ヒロミ環境省自然環境局野生生物課長補佐である。閣僚の前でもマイペースを貫くクールビューティの尾頭、ひたすら自らの仮説を暑苦しく展開し続ける間と、その没頭の仕方は対照的だが、今ではほとんど絶滅危惧種と言えるバリバリの理系である。

 しかし、自然(ゴジラ)を真に理解するには、ある意味、研究対象に「なりきる」事も必要なのだ。ゴジラについてのブレークスルーが実質的にこの二人によってもたらされたのは、言い方は変だがゴジラと言う研究対象を誰よりも「愛していた」からだろう。なんといっても、尾頭は自然環境局野生生物の部局にいるのである。そして、熱核兵器の使用については「ゴジラより怖いのは人間ですね」とまさにゴジラ寄りの発言をする。そして、最後の最後、放射性元素半減期が思い他の短い事がわかって、おもわず笑顔がこぼれるのはもちろん復興が早まるという人道的な安堵感と同時にゴジラとの共存の可能性をも視野に入った事への彼女なりの喜びの表情だったのかもしれない。

 もちろん、彼らだけではゴジラへの対処はできなかったのであるが、彼らのアイデアがなければ対処のきかっけさえ得られなかった訳で、そう言う意味では非常に重要な役目を果たした二人と言う事になろう。

 

日本を救った文系の政治家

 理系が頑張らなければ本質的なゴジラ対策はできない。効果はまだ未確定だがヤシオリ作戦は準備万端だ。ところが、国際社会はそう単純ではない。ゴジラの原因を作ったアメリカ合衆国は、国連を通した熱核兵器によってゴジラをなかったことにしたい。日本の近隣の中国・ロシアとしては、動く自然災害「ゴジラ」は日本で熱却してほしいのは当然だろう。

 ここから先は、文系の世界だ。文理両刀の矢口・泉をパイプ役にして、赤坂が里見佑介内閣総理大臣代理を「もう好きにしたらよろしいかと」と説得する。おそらくは里見総理大臣代理も迷っていたのであろう。赤坂の言葉で決意を固める。そして、自らの進退を覚悟して、フランス大使に頭を下げて、どうにか攻撃の時刻を繰り下げることに成功する。この時、文系の登場人物が出ている場面で初めてBGMが流れる。冒頭の文系閣僚・官僚の会議シーンでは無音楽だったのとは対照的である。

 

文系でも理系でもない人々

 いろいろな人が既に指摘しているが、シン・ゴジラの大きな特徴の一つに「愚か者が出て来ない」という事がある。愚か者とは、その時その時の感情に振り回されて最悪の選択をする人々の事である。シン・ゴジラでは自らの職務を全うする人々しか出て来ないのである。もっと言えば、それなりに頑張って勉強してきた人しか出て来ない。ここで言う「勉強してきた人」というのは、学歴の事を言っているのではない。それぞれに専門知識を学び、深く自ら考え、世界を見据える軸のようなものを確立している事を指す。そうした軸があれば、文系理系問わず、ゴジラが来た時に何をすべきなのかは明確である。まあ、文系閣僚・官僚は前半ではブラックユーモア的に演出されてしまったが、冷静に見ればそれぞれの立場で出来うる事を精一杯やっていることがわかる。ゴジラと言う不測の事態であるが故に的外れになっているから滑稽なだけである。

 勉強してない人(軸のない人)は、残念ながら文系でも理系でもない。それは小学生を単純に理系文系に分けられないのと同じである。シン・ゴジラの中で、官邸前で「ゴジラを殺せ」「ゴジラを守れ」のデモをやっている集団が一瞬出てくる。このデモをやっている人々の中に、この文系でも理系でもない愚か者がいるのかもしれない。何がしかをそれなりに勉強し、自分の頭でそれなりに考える人なら、そんなデモをしても何も得るものはない事はわかるはずである。

 そういった愚かな人々がほとんど登場しないために「現実的でない」「感情移入できない」という評価も生じることになるのだろうが、ドラマを盛り上げるために愚か者を全面的に登場させたらこの映画はおそらくは収拾がつかなくなったであろう。あえて、軸のある人々だけを登場させて、流れるようなドラマの機能美を堪能するのがシン・ゴジラの鑑賞のコツかもしれない。

 

シンゴジラの音楽

 同じ映画を見ても、感じ方が人それぞれなのは当然ながら、シン・ゴジラほどその感じ方・捉え方が多種多様に分岐する作品もなかろう。公開後たった二週間程度でとんでもない数のコメント・感想・解釈・解説がネット上に溢れかえっているのは前回のシン・ゴジラの生物学に書いた通りである。

 

 

 

 今回はシン・ゴジラの音楽について感じる所・思う所を書いてみたい。当然、音楽の側面でもいろいろと様々な意見が出ている。旧作のゴジラの音楽を使ったのが素晴らしいと言う人もいれば、録音が古くて今の映画館では違和感があったと言う人もいた。また、エヴァンゲリヲンの音楽が多いのはいかがなものか、という声もそれなりに多く、鷺巣詩郎の曲は余計だったのではという手厳しい意見も見受けられた。

 

 

シン・ゴジラ音楽集

シン・ゴジラ音楽集

 

 

 

 私個人としては、上記の意見のどれにも与しない。というのも、たぶん上記の意見を書いている人達と私とではおそらく音楽的な背景がかなり違うと想像されるからである。

 

伊福部昭シン・ゴジラ

 まず、旧作のゴジラの音楽があまりゴジラ映画とつながっていないと言う事がある。私にとって、年少の頃より長年親しんだ怪獣映画といえば「ガメラ」なのである。ゴジラシリーズは相当に年齢を重ねていった後に見始めた。よって、映画館で見られたゴジラは、機龍二部作以降である。

大怪獣ガメラ [Blu-ray]

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 そう言う訳なので、ゴジラの音楽の認識順番としては、世間一般と逆で、まずはラベルのピアノ協奏曲の第3楽章ゴジラ(に似た)音楽初体験となる。18分30秒あたりである。無論、この曲を初めて聴いた時、ゴジラに似ているとは全く思ってない。

 

ラヴェル:ピアノ協奏曲

ラヴェル:ピアノ協奏曲

 

 

  次に出会ったのが伊福部昭のヴァイオリンとオーケストラのための協奏風狂詩曲である。これを初めて聴いた頃は、映画音楽でない方の伊福部昭の曲に夢中になっていて、9分11秒あたりの部分を耳にした時「ラベルの協奏曲そのまんまじゃん!」とずっこけた記憶がある。伊福部作品には他にもプロコフィエフのピアノ協奏曲3番冒頭にそっくりなフレーズが出ていたりして、近代音楽の部品を結構そのまま活用している事が多い。もちろん、部品であるだけで完全に伊福部節の中で同化してしまっているのだが。

 

楽 協奏風交響曲&協奏風狂詩曲~伊福部昭の芸術5

楽 協奏風交響曲&協奏風狂詩曲~伊福部昭の芸術5

 

 

 そして、ゴジラ映画というものをちゃんと見たことないので、一作目から見てみようと思ってビデオを借りてきたら、いきなり冒頭で協奏風狂詩曲(ラベルのピアノ協奏曲)が登場して「なんじゃこりゃ!」となったのである。無論、ゴジラの音楽よりも、協奏風狂詩曲の方が作曲時期は古い(もっといえば、映画「社長と女店員」「蜘蛛の街」でも既に使っている)。伊福部昭の音楽がすでに強く刻み込まれていた私にとって、「伊福部昭の音楽がゴジラという映画の伴奏として使われている」と言う感じで「ゴジラの音楽は伊福部昭」という感覚にはなれなかった。それは今でも変わらない。伊福部昭自身も「周囲から『映画音楽を作るなど作曲家として邪道』と揶揄された」と回想している通り、本業はやはり純音楽の作曲家という意識はどこかにあったように思う。

 と言う訳で、シン・ゴジラ伊福部昭の音楽が流れる事自体は、伊福部作品を愛する自分としては嬉しい事なのだが、それは「初代ゴジラの音楽だったから」でなく、「伊福部昭であるから」だ。本気を出した時の伊福部昭(別にゴジラの音楽が片手間だったという事でなく、情熱の方向性が違うと言う意味で)は、ピアノとオーケストラのためのリトミカ・オスティナータの終盤(17分00秒あたりから)を聴いていただければ充分であろう。こういった伊福部成分がゴジラの音楽に昇華されているというのが、私の感覚なのである。

 ということで、シン・ゴジラで伊福部音楽に改めて魅了された人は、彼の他の多様な側面にも注目してもらえれば幸いである。

 

 

ゴジラ

ゴジラ

 

 

現代日本の音楽名盤選5 伊福部昭・小山清茂・外山雄三 (MEG-CD)

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 伊福部昭シン・ゴジラの音楽について小室敬幸氏が「音楽から読み解く「シン・ゴジラ」の凄み」というタイトルで譜例も入れて実に楽しくきちんと解説して下さっている。音楽素人からすれば、なんとなく感じている事を具体的に提示してもらえてありがたい限りである。伊福部音楽=ゴジラ音楽という人が、どのようにシン・ゴジラの音楽を受容しているかをひじょうにわかりやすく解説してくれているので、目から鱗であった。また、鷺巣詩郎の仕事についても、推測を交えながらも解説してあり、シン・ゴジラという作品は、音楽もまた入念に設計された「仕掛け」が満載である事を実感できた。

 

 

鷺巣詩郎シン・ゴジラ

 「エヴァンゲリヲンの音楽を使いすぎでは」と言う指摘も、事実としては認知できるものの「そこに何の問題が?」というのが正直なところである。おそらくはエヴァンゲリヲンの音楽の刷り込みが強すぎて、その原初イメージに引きずられてしまう違和感があったのだろうと想像する。私の場合、エヴァンゲリヲンの音楽もまた、様々な音楽を想起させるもので、特にシン・ゴジラで多用された「ヤシマ作戦」の音楽は、エヴァンゲリヲンで初めて聴いた時には、いろいろ連想する曲が出てきたものである。

 

Shiro SAGISU Music from“EVANGELION:1.0 YOU ARE(NOT)ALONE”

Shiro SAGISU Music from“EVANGELION:1.0 YOU ARE(NOT)ALONE”

 

 

 まず、ジョン・バリー「007/ロシアより愛をこめて」の「セブン」。与える印象は微妙に違うのだが、似ていると言えば似ている。そして、だいぶん印象は異なるが、同じような傾向の音楽として大江戸捜査網のテーマ曲も出てくる。

 

007/ロシアより愛をこめて オリジナル・サウンドトラック

007/ロシアより愛をこめて オリジナル・サウンドトラック

 
大江戸捜査網 オリジナル・サウンドトラック
 

 

 以下、素人的に屁理屈を並べる。3拍というのは基本不安定で、偶数拍は安定感のある拍である。奇数拍と偶数拍が混在すれは変拍子である。最も単純な変拍子は3:2の5拍子だ。例として、倉橋ヨエコのロボットを上げておこう。なにか急かされている感じになり安定感はない。さらに2拍足して、「2:3:2」としても、奇数である事には変わりないので、プロコフィエフのピアノソナタ7番終楽章のように、疾走感は高まるが、無理やり前進させされているような不安定な感じになる。偶数拍だけだと「不安定さ」は出て来ないので、強制的にアクセントでも入れない限り、リズムだけで切迫感は出しにくい。といっても、上記の例を見てもわかるように奇数拍を入れればいいというものでない。解決策としては、小節全体で偶数になるように拍を設計すれば、不安定と安定とが遷移して、聴く者に何らかのアクションを誘導させることができる。

 

 

プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ 第2番,7番,8番

プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ 第2番,7番,8番

 

 

 その最も単純な解決案は「3:3:2」にするということだ。3拍の部分の不安定さが2拍の部分で落ち着く。その繰り返しで健全な前進性が生まれる。先のジョン・バリーの007、大江戸捜査網がこのパターンである。

 「3:3:2」の変形として、「3:3:2:2:2」というのもある。譜面上は2小節となっているのだが、レナード・バーンスタインの「アメリカ」が代表例だ。「3:3」でタメて「2:2:2」で弾けるという対比サイクルを繰り返す事で前進性というよりも、舞踏への勧誘を強く促す音楽となる。

 

 

 

 「3:3:2:2:2」の最後の2拍を省いた「3:3:2:2」とすると当然不安定感は増す。と同時に二拍で終わるから前進性はある。前進性はあるが、足りない拍は自分で補って突破せよというような感じになる。リズムを刻んで思いだした人もいるだろうが、このパターンは、スパイ大作戦のテーマである。

 

 

スパイ大作戦 ファイル1 ― オリジナル・サウンドトラック

スパイ大作戦 ファイル1 ― オリジナル・サウンドトラック

 

 

 

 さて、ヤシマ作戦の音楽であるが、これは、なんと「3:3:3:3:2:2」という拍になっている。不安定な3拍が4つ連続した後に、絞めで2拍が二つ。前進性はやや薄れるものの、複雑な不安定なプロセスが秩序だって順次進行してゆく時のBGMとして最適なリズム構造と思われる。

 

 このヤシマ作戦の音楽がシン・ゴジラの「巨大不明生物特設災害対策本部(巨災対)」のテーマになったことで、この曲のポテンシャルが最大限発揮されたと言っていいだろう。巨災対向けのカッコいい楽曲はおそらく他にもいろいろあるだろうが(例えば、マイティジャックのテーマ曲のような)、架空の秘密兵器の出て来ないシン・ゴジラにおいては、面倒で困難なプロセスを粛々と根気よく地道に進めてゆくほかない訳で、さらには情報量の多い台詞もこのテーマの拍に非常にうまくハマり、シン・ゴジラで中心的な役割を果たす「巨災対のテーマ」として、この「ヤシマ作戦」以外の音楽はもう何も思い浮かばない。

 そして、サントラである「シン・ゴジラ音楽集」を聴くと、この「巨災対のテーマ」は物語の進行ともに六回も巧妙に変奏され、盛り上がってゆく。この事を見ても、巨災対のテーマがシン・ゴジラの人間側の通奏低音のように作用していることがわかる。今後、シン・ゴジラの音楽と言えば、この「巨災対のテーマ」になるのではないか。ともあれ、日本映画史上に残る極めて効果的なBGMであると思う。

 

 

シン・ゴジラ音楽集

シン・ゴジラ音楽集

 

 

 

シン・ゴジラの音楽>

 最後にシン・ゴジラのために作られたオリジナルの音楽について書く。既に小室敬幸氏が鷺巣詩郎伊福部昭とのモチーフの共通性について考察しており、鷺巣さんが、この作品を通して洗練された形で伊福部音楽の種子を蒔いている事がわかる。

 その考察の中で、サントラのトラック3「対峙」の音楽(第三形態と自衛隊が初めて対峙する場面で使われる)とトッラク20,21の「特殊建機小隊」の音楽(ヤシオリ作戦の血液凝固剤注入場面)とが共通のモチーフで、同じ戦闘場面である「タバ作戦」では違う音楽が使われていることに疑問を呈している。

 個人的には、これは自衛隊の意識の差を象徴させたものであろうと推察する。最初の対峙は「自衛隊が初めて国内で国民がいるかもしれない場所で火器を使う」という「初体験」の緊迫感がある。一方、ヤシオリ作戦の方は、不確定要因が多く放射線被害も無視できない決死の作戦という別の意味での「緊迫感」がある。ともあれ、どちらも非日常の中のさらなる非日常の緊迫感だ。

 そして「タバ作戦」は、攻撃が政府から承認されていて、自衛隊としては「入念に計画された勝つ事前提の作戦」なのである。つまり正体不明なゴジラという攻撃対象ではあるものの、自衛隊としてやることは「通常業務」である。そこは非日常の中の「自衛隊の日常」があるだろう。と言う訳で、タバ作戦はゴジラへの攻撃にはかわりないが、自衛官の根底にある意識は違うと思われるので音楽も違うのであろう。といっても、徐々に情勢が不利になるので悲劇的な曲想になる事には変わりないのだが。

 また、伊福部モチーフを内在する音型をさらに変形させながら、トッラク1「上陸」、トラック4「報道1」、トッラク13「悲劇」、トッラク14「報道2」、トッラク22「終局」と適用し尽くす所はまさに職人である。特に、「上陸」「悲劇」と「報道2」、「悲劇」と「終局」とか強く関連付けられているのは、物語の潜在的な解釈を広げる上で非常に効果的である。

 また、トッラク13の「悲劇」には歌詞があり、その意味は様々な人が和訳してくださっているが、この哀歌を素直に受けとめれば、ゴジラは牧吾朗自身であるように解釈できて、あの美しくも悲劇的なシーンの見え方もまた違って見えてくるというものである。無論、解釈はヒト様々であって、自分なりに納得できる答えが別にあれば、あのシーンを改めて味わえばいい。ただ、歌詞を知らないで見るのと、知って見るのとではかなり違う事は間違いない。

 小室敬幸氏は終局の後半部分の弦楽合奏が示すモチーフが暗示的だと言っているが、私も同感である。映画を見た人は、あの謎のエンディングを映像的に知覚しただけでなく、おそらく音楽の側面でも潜在意識的になんらかの「余韻」として感じたはずだ。

 

 そして、その余韻をかき消すかのように、初代ゴジラのオープニングのテーマが相当に手の込んだ古い録音でエンドロールに流れる。これもまた見事な演出と言えよう。そして、最後の最後で「ゴジラVSメカゴジラ」で締めくくるので「いやあ、いいものを見たなあ」という達成感を嫌でも感じてしまう。最後まで誠にかゆいところに手の届く選曲である。

 この終曲の終曲を聴いていると、同じ監督で続編はないだろうなと思う。この終曲には、何か「すべてやりきったぜ」という監督の万感の想いが込められているように感じるのである。

 

ベスト・オブ・ゴジラ

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完全収録 特撮映画音楽 東宝篇10 ゴジラVSメカゴジラ

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シンゴジラの生物学

 現代文の大学入試などで、存命の作家の作品が使われる事がある。当然、入試後に原作者に著作使用の報告がいくのだが、その答えを見て原作者が「ええ?その解釈は違うんだけどなあ」とこぼす事はよくあるらしい。問題作成者としては、入試の前に「この解釈でよろしいですかねえ」と原作者に尋ねる訳にはいかないだろうから、なかなか難しい所である。というか様々な解釈できる作品の方がやはり名作は多いのであって、出題者を責める気にはなれない。あえて言えば、何とでもとれる中で正答をあえて考える受験生がちょっと気の毒に思うくらいである。

 

 なんでこのような事を書いているかと言うと、庵野秀明監督・樋口真嗣特撮監督のシン・ゴジラが滅法面白かったからである。はっきりいって日本映画史に残る大傑作となるだろう。とにかく、映像的にも言語的にも単位時間当たりの情報量が桁違いに多い。かといって、ある程度、情報をカットしても充分に楽しめるように構成されている。つまり、見る人にどのような視点・背景があるかによって、様々な解釈が成り立つ作品である。御親切に劇中でも「私は好きにした君も好きにしろ」という意味深な台詞を幾度か登場させ、観客を挑発しているので、公開後数日でネタばれを控えたうえでも相当な数の感想・解釈がネット上に溢れかえった。そして、時間が経つにつれ、徐々にネタばれを含んださらに膨大な感想・批評・解釈が出てきて、読むと本当に様々な視点があって、それぞれに一理あるので、読んでいるだけで楽しい。

 そこには演出や映像などの映画論もあれば、政治学や防災もしくは震災・原発についての社会学の視点もあり、さらには監督自身の内面をさぐる人もいる。つまりは非常に重層的な作品故に、いくらでも議論できる訳で、私個人も多方面にわたって書きたい事は山ほどある。が、あえて生物としてのゴジラに限定して書きてゆきたい。監督の意図がどこにあったにせよ、ここからさきは私なりに考えた生物としてのゴジラである。

 なお、ネタばれが含まれているので、まだ見てない人はなるべく読まない方がよいだろう。映画館で見た後に参考にしていただければ幸いである。また、私自身も映画館で見た曖昧な記憶を頼りに書いているので不正確な部分があるのは御了承願いたい。

 

 

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、ゴジラの生物学といっても、既に「ゴジラ生物学序説」という名著があるので、今更な気もするが、ただ今回のシン・ゴジラでは、様々な生物学的ヒントが映画の中で何気なく盛り込まれているので、架空のトンデモ生物としても考察するのが楽しい存在になっている。もちろん、架空の生物についてあれこれ考えても、フィクションはフィクションであるから無理があるし、何かの役に立つものでもない。ただ面白いから考えるのである。

 

 

ゴジラ生物学序説 (扶桑社文庫)

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新 ゴジラ生物学序説―骨粗しょう症の可能性からウイルス進化論まで

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 今回のシン・ゴジラにおけるゴジラには次のような特徴がある。

 

1.核エネルギーで活動している

2.極めて短時間に四段階の急速な変態(進化)を起こす。

3.人類がまだ発見してない新元素を体内で生成できる。

4.体内で発生した熱は血液循環によって放熱している。

5.外皮は極めて堅牢で自衛隊の火器はほとんど役に立たない。

6.ヒトの8倍以上の遺伝子を持っている。

7.背中、尾の先端と口らしき部分から超高温の熱線を出す。

8.後天的に周囲の飛行物体の存在を視覚以外でも捕捉する事ができるようになる。

9.無性生殖的に個体を増やすシステムがある。

10.極限微生物との共生で核融合核分裂を制御している。

11.既存の血液凝固剤によってゴジラの血液は凝固できる。

 

 これまでのゴジラと共通しているのは「核エネルギーで活動をしている」くらいである。

はっきりいって、1、3、7、10と4、6、11とは両立しない。いくか極限微生物と言っても、核分裂核融合の起こる温度で安定した構造を維持するのは困難であるし、ましてや既存の血液凝固剤はタンパク質との相互作用によって凝固するので、耐熱性のタンパク質を想定しても、もって数百度までである。そして、遺伝子がDNAもしくはRNAどちらでも、二重らせんの構造はとってないだろうし、体内の推定温度からしてタンパク質と同じく遺伝子として機能する形を維持できるとは思えない。つまり、劇中での御用学者が言っていたように「想定外の生物で何とも言えない」と言う事になる。しかし、それでは話は進まない。専門用語を勢いよく連射し、痺れる巨災対のテーマ音楽にのって「なぜ超高温と通常の生体反応の両立するのか」と言う疑問はなかったことにして、最後まで突っ走るしかないのである。

 

 と言う事で、全体としてみればゴジラは矛盾を抱えている存在なのだが、別個の事については結構、劇中で語られているので、そこだけに注目して考えられることを記す。以下、当然の事ながら多少の科学的見地を含めた私の妄想である。

 

<核エネルギーを使う存在としてのゴジラ

 まず体内で既存の元素を組み合わせて新元素を生成できるので、体内のどこかに核融合炉のようなあるいは微小な加速器のような構造があるはずである。それは極限微生物の作る特別な膜構造の集合体が局所的に超高磁場を作り、その中で生成していると思われる。無論、その詳細は不明。新元素が生じる場は非常に高温かつ高圧になっているだろう。そして、新元素と言う以上、ゴジラがまき散らした放射性物質は、原子番号119番ウンウンエンニウムから始まる第8周期以降の元素と言う事になる。119番以降は理論的には中性子の数から比較的崩壊寿命の長い「安定の島」の元素が存在すると予想されている。劇中で最後に半減期が20日程度と言う事が判明するので、おそらくはその「安定の島」の元素ということになるだろう。どちらにせよ、人工合成元素かつおそらくは金属元素である事には変わりない。

 新元素は当然の事ながら、どのような性質を持っているのかは全くの未知数である。少なくとも、ここまで原子番号が大きくなると、既存の元素の常識は当てはまらないかもしれない事は容易に想像が付く。自衛隊の火器では全く歯が立たない装甲も、この新元素の大きな特徴なのかもしれない。

 

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 また、急激な多段階にわたる変態(進化)も、一般的な生物の持つ骨格構造や筋肉構造では説明が付かないので、元素変換を連鎖的に行って身体構造を元素レベルで再構築させている事が考えられる。当然、大量の熱が発生するので、海中では周囲の海水は沸騰し、陸上では廃熱及び形態形成の余剰部分を排除するために血液らしきものをエラ状の孔から排出する。また、血液循環の放熱効率を上げるために背中に突起を発達させる形態的工夫も観察される。しかし、第三形態となれば、さらに元素変換は激しく進み、かつ体積に対する表面積の比が小さくなるので、陸上に居続けると体内が高温になりすぎると思われる。よって、冷却のため再び海中に戻る他なくなる。

 

 なお、文科省の安田が「破壊の規模から考えて通常のエネルギー源で活動しているとは思えない」と言う風な疑問を呈し、環境省の尾頭が「核エネルギーでは」となるシーンがあるが、怪獣映画でこういった純粋なエネルギー問題を語ったのはたぶん初めてなので、非常に感動した。徘徊した後の破壊状況を「地表に震源のあるマグニチュード5程度の地震」と同程度と大雑把に概算すると一回目の上陸でゴジラが放出したエネルギーは2×1012J程度と思われる。

 一般的な生命のエネルギー源はATPである。そして、1モル(507g)のATPからが最大限エネルギーを引き出した場合約3×104Jのエネルギーが放出される。つまりゴジラがATPをエネルギー源として活動していた場合、7×107モル(約35490トン)のATPを消費したことになる。通常の生物では体重当たりのATPの質量は数%以下である。もちろん、分解再生が繰り返されるので、活動時間に比例して消費ATP量は増えてゆく。しかし、第二形態・第三形態のゴジラの身体の推定重量と陸上での推定活動時間からしてATPが35490トンというのは生物学的に利用不可能な量であり、ゴジラがATPをエネルギー源として活動していたと考えるのは、安田が言うように確かに難しい。

 

 

 第四形態ではエネルギー放出の形態が三種類となる。まず一つは体内で生成した元素を比較的低温のまま微粒子(煙)として口腔状の開口部から放出。そして、続いて色温度から推測してだいたい4000K(約3800℃)の火炎として放出。これはおそらくは微粒子自体の発熱による発光であろう。そして、色温度から推測して20000K(約19800℃)以上のビームのような熱線が開口部だけでなく、背中の突起や尾から照射される。

 これは核融合反応を進めるために体内で発生させていたプラズマを一気に放出させた結果であろう。仮に20000K程度としたが、もっと高温かもしれない。

 自己防衛のためのエネルギーを放出しきれば、生命活動を維持する核エネルギーも枯渇するので、再びじっくりとミクロなレベルから周囲の既存の元素を素材として新元素を生成してゆくほかない。その過程は一見すると活動を停止したゴジラということになる。無論、充分な新元素および核エネルギーが蓄積すれば再び活動を始める。

 

 

プラズマ物理・核融合

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トコトンやさしい核融合エネルギーの本 (B&Tブックス―今日からモノ知りシリーズ)

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 ゴジラは最初に記したように、大気や海水中の元素を材料として新たな元素を体内で生成できるので、通常の動物のように外部から有機物を摂取する必要はない。よって、牙のある口のように見える開口部は、いわゆる食べるための口腔ではなくエネルギー放出のための放出口と考えるのが妥当であろう。よって、「血液凝固剤を口から入れても吐き出すのでは」という多くの人が抱く疑念も、あそこが体内環境につながっている唯一の開口部と考えれば、血液凝固剤を投入するのはあの穴しかないだろう。言うまでもなく、外皮は様々な火器が貫通しないほどの硬度なので注射という選択肢は始めからないと思われる。

 

 

<生物としてのゴジラ

 核エネルギーを利用すると言う時点で、既存の生物学の常識は通用しないのであるが、そこは無視して、ここでは劇中でかわされた生物学的な言及について考えたい。

 まず、遺伝子が人の八倍以上あるという話だが、仮に遺伝子が核酸の形であるなら、たしかに地球上で最も進化した存在と言えるかもしれない。ネット上では、「人よりも遺伝子が多い生物などいくらでもいる」と言っている人もいるが、おそらくはそれは遺伝子ではなくてゲノムと勘違いしているものと思われる。ゲノムで見ればヒトよりも多くのゲノムを持った生物は珍しくない。しかし、遺伝子となると話は別である。実際に発現し機能を発揮するタンパク質をコードしているのが「遺伝子」であり、その遺伝子が人の十倍以上あるということは、人よりも十倍以上も機能を持ったタンパク質をゴジラが有しているということである。それはより多様な環境に適応できる可能性を持つということでもある。もちろん、タンパク質の種類が多ければいいというものでもないが、単純に考えて生体内に持っている分子がより多機能な方が、様々な状況に対応できうるだろう。

 

ゲノムが語る生命像 (ブルーバックス)

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 例えば、周囲の飛行物体を感知するセンサーをおそらくは後天的に獲得しているのであるが、それも多様なタンパク質の発現が可能だからこそであろう。実際、微弱な電流や赤外線を感知する生物は実際にいるわけだし、あれだけ形態形成を繰り返すゴジラがいきなり新たな形質を発現させても、なんら不思議ではない。ただし、三次元的に移動する物体のみ感知するようで、直線的(二次元的)に動く物体(線路上を走行する列車など)は対象外だったようである。

 無性生殖的に様々な種へ分岐して拡散するというのも、生物の生存戦略としては極めて理にかなった方法である。おそらくは余剰にある遺伝子を自ら組み替えて、形態形成パターンや遺伝子発現のパターンを変えてゆき、身体の一部から出芽のように新個体を放出する生殖様式なのだろう。ゴジラの場合、一個体の中に、複数の個体が内在し、環境の変化に応じて小さな個体として分散、状況次第で再び集合するような「可塑性のある個体」という概念を確立させているのかもしれない。第二形態から第三形態への変化、飛翔形態もしくはヒト型形態の萌芽が身体の一部から生れているなどがその例である。すなわち、我々が長年イメージしてきた恐竜型のゴジラは、単に形式的な「はりぼて」に過ぎず、ゴジラの本質はその個体の可塑性にあるのかもしれない(だとすると、今後、映画としてはヒットにくくなるだろう)。

 

ヌカカの結婚―虫たちの不思議な性戦略

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昆虫は最強の生物である: 4億年の進化がもたらした驚異の生存戦略

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 さて、問題の血液凝固剤について。血液凝固剤というのは、血液凝固に関わる様々な因子(そのほとんどはタンパク質)に作用して、血球やタンパク質が凝集するように促す物質である。トロンビンのような天然由来のタンパク質もあれば、凝固反応の足掛かりを作るような無機物(シリカ、カルシウムなど)の場合もある。劇中では候補が数十種類あり、破壊現場から回収したサンプルから有効なものサーベイしている様子を示していた。要するに新たに開発するというより、既存の血液凝固剤を使うということである。となると少なくともゴジラの血液は脊椎動物と共通の成分を多く含む液体ということになる。そんな我々と大差ない体液が高温となっている体内で変性しないのかという疑問は脇に置き、あれだけの巨体に対してあんなタンクローリー車程度の血液凝固剤の量で足りるのかという疑問を持った人もいるだろう。そもそもゴジラの体循環系もはっきりしない(熱源の分布はわかるにせよ)のに、血液凝固剤の投与だけで冷温停止スクラムがかかるとどうして断言できるのか。

 そこは、矢口が大河内内閣の閣僚に「希望的観測は禁物」と苦言を呈したのと同じ程度には、「血液凝固作戦(ヤシオリ作戦)」にも大きな「希望的観測」が含まれている事は否めないだろう。環境省の尾頭も途中「確度をあげるしかない」と言うあたり、それなりにやけっぱちな方法論である事は自覚していると思われる。しかし、他に妙案がない以上やるしかないのである。

 さて、血液凝固剤あんな量で足りるのか、もしくはあんな入れ方で効果あるのかという疑念であるが、実際に効いてしまった以上、次のような事が考えられる。

 まず血液循環による冷却機能は、相当な血流速度によって維持されていたと言う事がまずある。言うまでもなくあの巨大なサイズ全体に冷却のための血流を送りだすにはとんでもない圧力によって血液を輸送しなければならない。単純に100m以上の高度に何トンもの血液を引き上げるだけでも大変なのに、効率的に冷却しなければならないのでゆっくり循環していたのではその場その場で茹だってしまう。逆に言えば、ちょっとでも遅滞すると全身に大きな影響が出てくると言う事である。それは、全量凝固剤を投入する前からゴジラの動きが鈍くなっている事からも推測できる

 また、莫大なエネルギーを利用して生命を維持しているために、その制御の揺れによってぶれるエネルギーの単位が半端ではない。下手すれば自分自身が核エネルギーによって溶解してしまう危険性もある。よって、アクシデントが生じた場合はシビアに対処が出来るようにシステムが構築されていると考えられる。よって、血液凝固によって少しでも通常の冷却系のシステムに反故があった場合、すぐさまもっと強力な冷温停止状態を強制的に執行することになる。ATPによるエネルギー生成系の私たちの身体では、どんなにエネルギー生成系が暴走したとしても、体液が沸騰するようなことはない。だいたい36℃プラスマイナス5℃に収まっているのが私たちの身体である。しかし、ゴジラは違う。下手すると簡単に数千℃も体内温度が急上昇することもありうる。

 これは逆に考えれば、全身の血液が凝固しなくても部分的な血栓のようなものが生じるだけでも冷却抑制効果が出てくるということであり、あの程度の血液凝固剤で充分だったということだろう。

 もう一つの疑問、「あんな入れ方で大丈夫なのか」だが、あの噴出口から超高温の熱腺が放出されていた訳であるから、最も冷却しなければならない部位に直結している事は疑いの余地はないだろう。そこに直に血液凝固剤が入ると言う事は、いきなり本丸の血液が冷却不全を起こすと言う事で、最も効果的な投入部位ということが言えるだろう。

 また、今回の血液凝固の作用を見る限り、ゴジラは毛細血管で成り立つ閉鎖血管系ではなく、部分的に血管がなくなる開放血管系の循環系であると推測される。もし閉鎖血管系であれば、それこそ「飲ませる」のでなく「注射」しなければ効果は期待できなかっただろう。

 

 

考える血管―細胞の相互作用から見た新しい血管像 (ブルーバックス)

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 なお、スクラム冷温停止にとなっても、周囲の気温が10~30℃である以上、徐々にゴジラの体内の温度も気温に近づいてゆくと思われる。スクラムはあくまで緊急停止措置であって、充分に冷却できれば生命活動を再開するのは時間の問題であろう。矢口が最後、遠景のゴジラを見ながら、浮かない表情を浮かべたのも、今回の対処が多かれ少なかれ時間稼ぎに過ぎない選択だった事をかみしめていたからかもしれない。

 

 余談ながら国連決議で、熱核兵器(いわゆる水爆)で熱却する選択肢も出てくる訳だが、言うまでもなくゴジラは核弾頭が身体に着弾する前に迎撃するものと予想される(というか一般的に熱核兵器は上空で炸裂させる)。熱核兵器核融合の連鎖反応によって形成する火球の内部は、瞬間的に数億度になるが、派手に爆発する段階にはかなり温度としては低下してしまう。実際に、ゴジラに降りかかる熱線はせいぜい10,000℃弱にすぎないであろう。通常の生物ならそれで十分すぎるほどだが、元々数万℃の温度環境を制御するゴジラにとって、10000℃程度では熱却することはできないと思われる。と言う事で、熱核兵器を使用した場合、二重三重に日本へのそして世界へのダメージが大きかったと思われる。

 

核兵器のしくみ (講談社現代新書)

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 最後にゴジラの行動パターンについて。巨災対では「意志があるようには見えない」という見方をしていた。確かに一回目のルートには何かの必然は感じられない。ただ、試しに陸に上がって、どうも放熱がうまくいかないから海へ戻ったと言う風な感じである。

 しかし、二回目の上陸は政府中枢を目指して進行している事は明らかで、これは単なる徘徊とは違うであろう。もしかすると、一回目の上陸も目的地はそこで、途中で断念したのかもしれない。一回目の上陸の被災地を訪れた矢口が「あとちょっとで首都中心に到達する」と言う台詞がそれを物語っている。

 と言ってもゴジラになんらかの「自由意思」があるとは思えない。その生殖形態からして、おそらくは中枢神経は全身に分散していると思われる。いわば昆虫の神経系をより発達させたような情報処理がなされているのではないか。つまり、ゴジラとして発生した時点で目標地点がプログラミングされていると言うのが妥当な線であろう。そして、目的地でエネルギーを放出して火の海にしてから、新たな複数の形態となって、全世界に飛散するという予定だったのかもしれない。それは凍結後の尾のアップの映像が示唆している。

 では、そうした行動プログラムはどうして生じたのか。それは科学の視点では何とも言えない。もしかすると、牧吾朗博士が設定したのかもしれないし、生物として元々そのようにできているのかもしれない。物語としては、牧吾朗設定説が盛り上がる訳だが、監督自身はその答えを明かす事はなかろう。

 

 

モンシロチョウ―キャベツ畑の動物行動学 (中公新書)

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孤独なバッタが群れるとき―サバクトビバッタの相変異と大発生 (フィールドの生物学)

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ともあれ、「科学的な視点」で好きに論じてみた。いろいろ計算・概算等が間違っているかもしれないが、ご指摘あれば幸いである。

生命科学と水素水

 何をやっていても、自分が関わっている事が世の中の中心になってしまうのは当然のことである。日常でいつもその事を考えているから、その事を通した世界を見ている。人間というのは、一回きりの人生しか歩めない訳だから、途中、多少の修正は入ったとしても、その人なりの視点でしかこの世界を捉える事はできないとも言える。何かを研究している人々は、自分の研究テーマを軸に物事を深く考察するために、特にその傾向は強い。大抵は、自分の研究テーマに意義があるから研究をしている訳で、自分のテーマがこの世界の中でたいした意義がないのであれば、研究のやり甲斐もないであろう。

 しかし、生物という極めて多面的な存在を研究対象にした場合、一人の人間が生物全体を完璧にすべてを把握理解することは困難である。というか不可能。となると、人間も含めた生物を研究する人は、生物のごくごく一部分を研究しているに過ぎなくなる。生物を理解するために、何がどれだけ重要かというのは、現時点では(そして、たぶん将来も)何とも言えず、誰も本当の答えは知らないはずである。しかし、それでは寂しいので、「自分のやっている事は生物を理解するうえで極めて重要な部分を担っている」と思えた方が精神衛生上好ましい。と言う事で、生物を研究する人の論文やレポートは「~は、生命を維持する上で極めて重要である」「~は~のために重要な役割を担っている」と言う風な文言はだいたい入っている。まあ、嘘ではないが、がっちりどこから見ても真実であるかと言えば、それも断言はできない。研究の進展によって、その重要度はそれなりに変わってくる。つまり、正しく「重要度」を判定できる人は未来にもたぶん現れないであろう。

 

 「水素分子が体内でなんらかの生理作用を及ぼす」というのは、現時点では生化学の教科書には載ってないし、その特性を応用した医薬品もまだ公的には認可されていない。しかしながら、「水素分子にはなんらかの作用がある」と考えて今現在、研究を行っている人々は「水素分子の有用性」をほぼ確信して、様々なやり方でその有用性を証明しようと精進しているであろう。今、巷で話題の「水素水」については、他の似非科学と違って、水素分子の効果を「示唆する」論文がまっとうなジャーナルにおいて、すでに多数出ている。ま、論文が出ているから間違いないと言う事では全くなくて、他の似非科学よりはマシと言う事である。それに水素水の難しいところは、ビタミンなどと違って、水素分子が作用する際の身体条件及び摂取条件が極めて流動的なので、なかなかカッチリしたデータを出すのは難しいように感じる所である。しかし、そんな事を言っていたら進歩はないので、コツコツと臨床データを積み上げてゆくほかなかろう。

 

 物理・化学系の人は、この「水素水」の生理的な効果について否定的にとらえている場合が多い。「水素ガスの水への溶解度から考えて、到底効果を示すとは思えない」というのが主な根拠のようである。物理・化学系の人の発想の根幹には、やはりラボアジェから続く「量的な関係」があるから、「そもそもの水素分子が微量では体内で反応する量もたかが知れるから、生理作用も期待できない」ということなのだろう。さらには特定の活性酸素種だけと反応するのも疑問を呈している。いろいろ言いたい気持ちはよくわかる。

 生物系の人からは、「腸内細菌がそれなりの量、水素を生産していて、それが体内にも吸収されているから、新たに外から水素を取り入れる意味はない」という異議も出てくる。これも、水素水など飲まなくても、実際に呼気に水素が含まれる場合もあるからもっともな説明である。水素水を飲まないのに、なぜ呼気から水素分子が出てくるかと言えば、現時点では「腸内細菌が生産したから」としか説明のしようがない。

 

 水素水を販売する素人さんではなくて、実際の水素分子の生体への影響を研究している人はこういった矛盾点をどう考えているのか。ここ数年の文献(やたらに日本人が多いが)のデータを信用するならば、「水素分子は何らかの情報分子として機能していて、最もよく効果を示す濃度があり、そこを超えると機能しなくなる」というような事になっているらしい。個人的には、「情報分子としての水素」ならば納得のできることが多い。ただし、現状では、水素分子のレセプターは何か、具体的にどのような情報伝達が行われるのかは全くわかっていないので、相当にアバウトな仮説であり、まだまだ研究の蓄積が少なすぎる。

 しかし、過去には、一酸化窒素(NO)のような例もある。一酸化窒素は本来有毒ガスなのだが、ある濃度において様々な生理作用をコントロールする情報分子として機能する。当然、初めの頃は「そんな有毒ガスがなぜ?」という見方が大半であったろう。しかしながら、研究の進展によって無視できない因子として認識されるようになり、ノーベル賞の対象にもなった。生物系の研究では、思いもよらない事がしばしば発見されるのであるが、発見された後でも「なんで、こうなんだろう?意味わかんね」「そうなっているから、そういうもんなんだろう」としか言いようのない事が多々ある。物理や化学のように、「根本原理からは外れず、その延長に新知見がある」と言う風には必ずしもならないのが生物系の研究の難しいところだ。そして、物理化学系の人々がかなり強硬に水素水を否定しているのを見ると、こういった生物特有のシステムについての感覚が希薄な場合も多いのかもしれない。

 

 ただ、個人的には、「水素分子が本当に情報分子として機能するなら、体内に水素分子を合成する系がないのか?」という疑問が生じる。でないと、微妙な生理機能をコントロールする際、腸内細菌の状況に依存することになり、それでは不安定でしょうがない。言うまでもなく、水素水を飲むと言うのはあくまでオプションであって、情報分子であるなら元々、体内で水素分子濃度が状況に応じてコントロールされていなければならないだろう。一酸化窒素以外でも、硫化水素(HS)なども有毒ガスではあるものの、重要な情報分子として機能しており、各組織で合成される。と同時に、腸内細菌も硫化水素を生産する。そのような気体分子がある以上、「水素分子がなんらかの機能を持っている」と言われて「そんな事は絶対にありえない」とは私は断言できない。ただ、その作用は一酸化窒素や硫化水素に比べると穏やかであるように感じる。すなわち、域値を超えると作用しないというのは、過剰にあっても無毒なガスと言う事なのである。一酸化窒素や硫化水素が過剰に体内にあれば、明確な副作用が発生する。

 

 ともあれ、現在は、水素水を「カラダにいい!」と信じ切って常飲する人もいれば(たぶん、こちらが多数派であろう)、「水素水は完全なインチキだからあこぎな商売をするな」と訴える人(こちらは少数派)、両方いる。ハッキリ言って、現状の研究段階でここまで商売を拡大するのは「見切り発車」のような気もするし、効能をはっきり打ち出すのもかなり問題がある。御多分にもれず、詐欺商品も後を絶たない。私としては、現状の価格で水素水を購入する気には全くなれないし、人に勧めるつもりもなければ、「インチキだから絶対に買うな」とも言う気もない。それよりも、水素分子が実際に体内でどのような作用を引きおこしているのかの方が私にとっては重要である。世間の雑音に惑わされずに、粛々と研究を進めてほしい。

こどものせかい

 何かの作品を見たり読んだりしていると、ふと「ああ、これって、アレに似ているなあ」と一瞬、思うものの、あまりに違う世界であるために「ううん、似ていると言うべきなのか」と戸惑う事がよくある。これは自分だけの内面的な相似なのか、あるいは単にそれなりに普遍的なものなのかは何とも言えない。具体的に似ている項目を上げれば、たしかに共通項はあるものの、全く違う作品どうしだから、やはり人に説明する時に違和感はぬぐえない。というような事を、最近、こどもが主人公の作品について感じる事が多かった。どの程度の普遍性があるのか、試しに書き出しておく。基本的に、どれも非常に好きな作品である。

 

 まずは、スウェーデンの児童作家、アストリッド・リンドグレン「やかまし村の子どもたち」シリーズ。これは原作も映画もどちらも時々無性に見たくなる・読みたくなることがある。月並みな言い方なら、癒しの作品群である事は間違いない。何も重大な事件は起きない。ただ、淡々と田舎の子供たちの日常が描かれてゆく。それだけなのに、ついついこの世界に何か吸い込まれてしまうのである。

やかまし村の子どもたち (岩波少年文庫(128))

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やかまし村の春・夏・秋・冬 (岩波少年文庫)

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やかまし村の子どもたち [DVD]

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 で、あっと原作のアニメ「のんのんびよりを見ていたら、やたらに「やか まし村の子どもたち」がフラッシュバックしたのであった。似ている所は、田舎である事と、何か重大な事は起こらないと言う事だけで、他は全然違う設定なの だが、私が勝手に設定している「空気感」がやはり同じなのだろうか。やはり、ついつい、見てしまう。

 

のんのんびより 1 (MFコミックス アライブシリーズ)
 

 

 「のんのんびより」、ある意味、現在の日本の山村地のリアルではあるのだが、たぶん近い将来、集落の維持は困難となり消えてなくなる運命だろう。つまりは、まさに「かってのやかまし村」のような話になるかもしれない。在りし日の楽園である。そんな事も、「やかまし村」と「のんのんびより」をつなげる要因になっているように思う。「のんのんびより」の唯一の難点は、皆、自然児過ぎる点だろう。実際の田舎の子どもたちは、あそこまで自然には詳しくはない。そんな「今はそんな子はいないよなあ」という所も、「かってのやかまし村」感が出ているように思う。

 

 

 ビクトル・エリセ監督「ミツバチのささやきは、ゆるぎない名作として不動の地位を保っており、日本では「となりのトトロ」の原型映画としても、知られている。一度見ただけでは、よくわからない映画ともよく言われる。まあ、製作時のフランコ政権末期の状況からして、そんなわかりやすい映画ではまずいのだが、そんな事よりも、やはりアナ・トレントの内面世界を詩的な風景・情景でこれでもかと表現し尽くしているのが素晴らしい。ともあれ、彼女の瞳が全てを物語るのだ(演じた本人は、深い事は考えてなかったと述懐しているらしい。ま、子供だから当たり前か)。

 

ミツバチのささやき HDマスター [DVD]

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  さて、どういう訳だか安部吉俊「リューシカ・リューシカを読んでいると、「ミツバチのささやき」の様々な場面が想起されるのである。

 

リューシカ・リューシカ 1 (ガンガンコミックスONLINE)

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 リューシカ・リューシカの方は、オールカラーでキャラ的にも全然、「ミツバチのささやき」とは違うのだが、リューシカの子どもの視点というのが、やはり自分が普段忘れている何かなんだろうなと思うと、やはり「アナ・トレント」のあの瞳にいきつくのである。たぶん、「ミツバチのささやき」が本当に好きな人、より深く理解している人には、「随分と表層的な解釈しかできないのね」と言われそうだが、まあ、私自身、そんな程度なのでいたしかたない。

 

 

 スペインからスウェーデンに戻る。同じく、リンドグレンの「ロッタちゃん」シリーズである。こちらは大人と子供との絶妙なズレが主題であって、少々、強情っぱりなロッタちゃんが、いろいろやらかす話である。これもまた、ついつい見てしまう・読んでしまう作品群なのだが、何が面白いのか自分でもよくわからない。落ち着いて見れば、ちょっとひねくれた面倒くさい子供の話なのだが、その「不確定要因」な部分がまさに「子供」という存在を体現しているようで、怖いもの見たさで夢中になってしまうのかもしれない。

 

ロッタちゃんのひっこし (世界のどうわ傑作選( 1))

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ロッタちゃんと じてんしゃ (世界の絵本)

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ロッタちゃん はじめてのおつかい [DVD]

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ロッタちゃんと赤いじてんしゃ [DVD]

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  そして、同じような感覚になってしまうのが、あずまきよひこよつばと!である。「やっぱりきたか!」と思った人も多かろう。

よつばと! 1 (電撃コミックス)

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  まあ、よつばは、ロッタちゃんよりも「素直」かもしれないが、子供ならではの「不確定要因」は満載であって、そこをギャクとして楽しむ人も多いのだろう。私もその面はある。が、やはりあの小憎らしいロッタちゃんのフィルターが入って、読んでしまうのである。そう思うと、よつばも、随分と邪悪な存在のように思えてくる。周囲の大人との距離感というのも、絶妙に「ロッタちゃん」を思い出させてしまう。日本と北欧とでは、家庭環境の雰囲気も随分と違うはずなのだが、どんな共通項を見出してしまっているのだろうか。自分でもよくわからない。

 

 

 いきなりロシアに飛ぶ。まだ日本ではそれほど知られてないし、日本語版もまだないのだが、フル3DCGアニメーションの「マーシャと熊」

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 これが滅法、 面白い。小さなマーシャが熊の家にいって、やりたい放題やって熊が事態をおさめるというパータンの話なのだが、マーシャの容赦なさが本当に凄まじい。と同 時に、熊がいろいろ小言を言う割には仏のように優しい。それは、おそらくはマーシャには全く悪気はなく、「子供のすること」と認識しているからだろう。 マーシャは、ただ、自分のやりたいように振舞っているだけ。それにしても、全能感が全開である。

 

  これを見ていて、すぐに思いだされたのが鳥山明Dr.スランプアラレちゃん」である。全然、タイプが違うのに、マーシャの超人的なハチャメチャぶりが何か、ロボットであったアラレちゃんが不本意にも怪力でトラブルを起こしていた様を想起させる。マーシャの方は、フルCGで髪の毛一本一本の動きまで微細に表現しているが、アラレちゃんも、髪の毛、結構細かかったなあというのも思いだす。あの時代なら、セル画作るの大変だったろう。ともあれ、「マーシャと熊」はやく日本語版を出せばいいと思う。と同時に、アラレちゃんのフル3DCGも良いような気がしてきた。動きが激しい分、ドラえもんとかより、合っているような気もする。

 

 

 

 

 

 最後は、フィンランドである。ノボラ姉妹原作、カイサ・ラスティモ監督「ヘイフラワーとキルトシュー」。公開当時は北欧らしいオシャレな家具や小物が注目された映画なのだが、内容はまあ奇妙キテレツである。まず、まともな大人が登場しない。唯一まともなのが、小学校入学間近の姉のヘイフラワー。妹のキルトシューは悪意満載の我儘し放題な子供。周囲の大人も、ヘイフラワーの困難をまっとうに解決する気はない。つまり、ヘイフラワーにとって「不条理な世界」がオシャレで奇妙な背景(なんせ、極彩色の発酵セラピーまで登場するのだ)で展開する訳である。はっきりいって、妹のキルトシューは、子供と言えども、張り倒したくなるくらいに憎たらしいキャラクターになっていて、ヘイフラワーの悲劇性がより浮き彫りにされる。

 

ヘイフラワーとキルトシュー [DVD]

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  さて、この「ヘイフラワーとキルトシュー」、あらゐけいいち「日常」「はかせ」「東雲なの」のやり取りを読んでいて(見ていて)、ついつい思い出してしまうのであった。はかせは、数々の発明はするものの、実質的に菓子やオムライスの好きな幼児である。そして、東雲なのを作った当人である。そう、東雲なのはロボットなのだ。そして、はかせは、気まぐれに不条理な事を、なのに断りもなく押しつけて(改造して)ゆく。しかし、なのは、抗議は続けるものの、はかせの日常の世話を親か姉のように行うのだ。学校でも、東雲なのの周囲はおかしな人々ばかり。ある意味、ロボットであるという状況以外は、東雲なのは、「日常」で登場するキャラの中で、最も「常識的」である。なんか、そんな健気さもヘイフラワーを思い出させる。ともあれ、どちらも常識的なようでいて、奇妙な世界が展開していると言う点で、共通項があるかもしれない。でも、見かけは全然違う。

 

日常 1 (角川コミックス・エース 181-1)

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日常 DVD-BOX コンプリート版

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はかせの好きなのなの

はかせの好きなのなの

 

 

 以上、こどものせかいを描いた作品で、リンクしてしまう作品群をあげてみた。さて、どの程度、共感されるものなのだろうか?まあ、連想と言うのは人それぞれだから、全くの見当違いに思われるのかもしれない。