ZoaZoa日記

気の向くままに書き散らしてゆきます。皆さまの考えるヒントになればと思います。

世界の国からコンニチハ

 SFなどで、知的文明のある地球以外の惑星に行くと、多くは地球とは比べ物にならないくらいに「単一な文化圏」を持った種族として表現される事が多い。「高度な文明を築いて」という説明なら、その惑星には、もっともっと多様な文化があってしかるべきだろう。しかし、時間やページ数の関係上、そういった他惑星の多様な文化圏までの詳細な描写というのはなかなか出て来ないものである。逆に考えて、仮に、異星人が地球に来た場合、誰が、どの国が、「地球代表の文化」を提示するのか。やはり大抵の超大作映画のようにアメリカ合衆国が「地球代表」になってしまうのだろうか。

 

 真面目な話、本当に外部惑星から人類以外の知的生命体が地球へやって来た場合、しかも地球に定住したいという申し出があった場合、どうするのであろうか?SF映画などでは、その星に住むと言う流れになったら「その星のどこに住むのか」という話はまあ、ほとんど出て来ない。とりあえずカメラが回っているような場所に住むのだろうなあと言う事になる。しかし、実際に異星人が現在の地球に来た場合、「無国籍」な訳だから、地球上のどの国に着陸しても、「難民」もしくは「移民」の扱いになるのではないか。しかし「地球人ではない」という重い事実に対し、国連等で暫定的な明確な処遇が決定されるかもしれない。まさか、「どこの領有地でもない南極の居住は認める」というような、極端な事にはならないだろう。異星人が、寒さに適応できる身体の持ち主であったとしても、南極に押しやる事の方が、資源問題等でややこしいことになりそうだ。

緒方貞子―難民支援の現場から (集英社新書)

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わかりやすい国連の活動と世界〈2005年度版〉

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南極越冬記 (岩波新書 青版)

南極越冬記 (岩波新書 青版)

 

 

 仮に「異星人を国連で定める所の人権を持つ存在として認める」「異星人は地球のどこにでも自由に居住できる事とする。国連の加盟国は、異星人の居住を拒否できない」「ただし、異星人は居住する国の法令は順守する事とする」と言うような取り決めとなったら、その異星人は、そして国連に加盟する各国はどうするだろうか。各国とも、様々な問題を抱えている。財政が破綻している国もあれば、内戦状態の国もある。難民や移民を大幅に制限している国もある。さらには深刻な飢餓が定常化している国もあろう。

人権宣言集 (岩波文庫 白 1-1)

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世界紛争地図  角川SSC新書

世界紛争地図 角川SSC新書

 

 

 中には、街おこしならぬ、国おこしとして「異星人の招聘」を強力に推し進める国も現れるかもしれない。様々な法令を微調整せざるを得ない官僚機構の発達した大国をしり目に、小回りのきく何の資源もない小国などは、あっさり「異星人受け入れ」の流れになる事もあるだろう。異星人の方も、国連から提供される各国のデータなどを見て、どこの国が良いのかじっくり検討するものと想像する(ま、想像と言うより「妄想」だが)。

 

 

丸腰国家―軍隊を放棄したコスタリカの平和戦略― (扶桑社新書)

丸腰国家―軍隊を放棄したコスタリカの平和戦略― (扶桑社新書)

 
世界国勢図会〈2015/16〉

世界国勢図会〈2015/16〉

 

 

 異星人、国連からの膨大な各国資料を読みこむが、やはりそれは「取りまとめたデータ」だろう(勝手に決めてつけているが)から、各国の本当の「雰囲気」というのはわからない。リアルタイムで刻々と変化する各国の状況を知りたい。となった時に、とりあえずテレビなどをつけて得られる情報源は何かと言えば、通信社による報道であろう。しかし、言うまでもなく、報道というのはその時に国際的に注目されている国々しか報道されないから、偏りがある。そもそも、報道する側の主観は入るから、世界各国のリアルを正当に知る事が出来るかどうか疑問だ。ニュースには登らなくても、世界には国連に加盟している国だけでも193カ国(2016年現在)あり、それぞれの国でそれぞれの国民は生活している訳である。そこまで細かくならなくても、大国についてだって、すべてが報道されている訳ではない。

 そうなると、その異星人が特殊な能力の持ち主でない限り、インターネットで様々な情報収集ということになろう。しかし、インターネットの情報は玉石混交である。何を信じたらいいかわからない。そんな中で、その国の政府が発信している情報はまずチェックする必要があろう。もちろん、それぞれの国の事情で意識的に虚偽の情報を流す場合もあるが、おおむね、大規模なデマを流すような事は出来ない。あえて言えば、「その国としての解釈」と釈明できる程度の情報の揺れ幅であろう。

 そういった時に意外と重宝するのが、各国大使館のツイッターである。その国の存在をアピールするために、ツイッターのアカウントを作ったんだろうから、日々、新たな情報が更新される(今一つされない国もあるが)。無機的にニュースを流すだけだと、飽きられてしまうから、硬軟取り混ぜて、より多くの人が定期的に身に来てくれるように工夫がなされている事が多い。というか、そういう国でなければ、異星人としても魅力は感じないだろう。いや、異星人が何について魅力を感じるのかわからないが。

 

 ということで、いくつかの国の大使館のツイッターを紹介しよう。中には、観光局のツイッターもあるが、継続的に見ていると、やはりそれぞれの国の雰囲気と言うものが伝わってくるものである。なお、一応、日本にある大使館のものにする。異星人が日本語を読解できるかは、とりあえず忘れてほしい。

 

twitter.com

 やはり、ツイッターとして、ここは外せない。政治、文化、生活、日本におけるフィンランド情報、些細なフィンランド豆知識、など実にいろいろ取り混ぜて、ずっと読んでいると「フィンランドで生活する」と言う事が、どんな感じなのかイメージできるようになっている。意図しているのか、自然とそうなってしまうのかわからないが、ともあれ、見ていて楽しいツイートが多い。中の人の「人柄」のようなものがなんとなく伝わってくるのもいい。寒い国だけれども、ツイッターを見ている限り、ここなら住んでもいいかもという感じを受けるだろう。

 

 

twitter.com

同じ北欧でも、かなり雰囲気が違う事は実感できると思う。とにかく、ちょっとした事でもデンマークに関する事なら、統計でもなんでも、どんどん掲載と言う感じで、ずっと読んでいると相当にデンマークに詳しくなる。しかし、知識偏重というか、言葉にならない「生活感」というものは、ちょっと感じにくい。何か、ビジネスライクという印象も受ける。

 

twitter.com

大の親日国、ポーランド。まあ、親日かどうかは異星人には関係のない事だろう。ただ、親日国だからこそ、政府観光局も力を入れてツイッターをしている。ポーランド直行便のリアルタイムな状況を定期的にツイートしている。なんか、田舎の学校の修学旅行で地元の放送局が、生徒たちの乗った交通機関の発着情報を放送するのに似ている。同時に、旅に役に立つのか立たないのかよくわからない情報も多数。他の国の政府観光局よりも「私たちの国に来てください!」いう熱意が強い気がする。

 

twitter.com

正式な大使館のツイッターはあるものの、もう一つ、居候ネコによるツイッターがドイツにはある。正式版と何が違うかと言えば、語尾が「~ニャう」となっている事と、やたらにサッカーの話題が多い事。これはこれでいいのかもしれないが、ドイツというよりもほとんど「居候ネコ」のツイッターになっている。しかし、ドイツと言うと堅苦しいイメージがあるが、こういう存在を生みだす国でもあるという意味では、なかなか生きた標本のようなツイッターかもしれない。

 

twitter.com

最新情報も更新しつつ、いろいろとためになる知識も満載なのだが、何か微妙に、本当に微妙にズレているのがこのフランス大使館である。何がズレているのかは、なかなか言葉にしにくいのであるが、一つはときおり入る「豆知識」の説明をフリップの画像データで提示している事。まあ、分かりやすいと言えば分かりやすいのだが、そのデザインが何か「中国製商品の怪しい日本語説明」と「ヴェンチャー企業のプレゼンデータ」が混在したような妙な雰囲気なのである。

 

twitter.com

はっきり言ってフランス大使館以上に何と言ったらいいかわからない存在だ。本気なのか冗談なのか、何を言いたいのか言いたくないのか、なぜその写真なのか、なぜ今、その話題なのか、なぜタグの嵐なのか、自虐なのか非難なのか、微妙な「訳語」はわざとなのか、天然なのか、フリップのフォントがなぜ読みにくい明朝体(しかも、ときどき縦書き)なのか、本当に掴みどころがない。

 

 異星人としては、各国のツイッターをみたら、かえって混乱するかもしれない。やはり、ゆっくりと各国を旅して、現地の「リアル」を肌で感じた方がよいだろう。

 しかし、世界を旅する事のままならない私などは、世界の国から、ツイッターを通して、様々な形、様々な温度で、私たちに向けて「コンニチハ」と言葉は発せられているのは事実なのだから、各国大使館のツイッターを日々、眺めて、いろいろな国々へ精神的な旅行をしたつもりになっている。当たり前だが、やはり、その国の事は、その国の人が、一番よく知ってるのであるから、リアリティがある。

 

 

 

 

 

 

 

日本酒の音楽

 幼い頃は「大人になったら違いの分かる人間になりたい」と本気で思っていた。別にカフェイン飲料の宣伝に感化されていた訳ではない。「些細な差異が判別できるようになるには長い年月が必要なのだから、違いがわかると言う事は、大人であることなのだ」という単純な「大人への憧れ」であった。

 

ネスカフェ ゴールドブレンド 90g

ネスカフェ ゴールドブレンド 90g

 

 

  ところが、それなりに年を重ねてみて、違いがわかるようになったかと言えば、全くそんな気がしない。知識さえ積み重ねれば判別できる違いについては、まあ年の功である程度「わかる」ようになっている所もある。例えば、魚市場に置かれているシロサケ、ベニサケ、キングサーモンカラフトマス、ギンザケの違いなどは、小さい頃はさっぱりわからなかったが、今では見れば容易に判別できる。

 

サケマス・イワナのわかる本

サケマス・イワナのわかる本

 

 

 とはいっても、そのサケの仲間の魚たちが切り身となり、「味だけで判別せよ」となると、正直言って、どれがどれかを当てる自信はない。味と言うのは感覚であり、知識としては客観視することは難しい。仮に味の違いを感じたとしても、その時の自分の感覚のみで、どんな状況でも、ピタリと該当の魚種を当てるというのは私には至難の業である。つまりは、仮に違いがわかっても、それを第三者に伝える術を持たないということである。

 

 利き酒というものがある。日本酒の銘柄などをその味だけで当てるというものだ。利き酒師のような人が、蛇の目のぐい飲みから日本酒を口に含み、淡々とした面持ちで銘柄を当ててゆく様を見ていると、到底、私が及びもつかない世界だと思う。仮になんとなく違いがあると認識できても、それがどの銘柄なのかはたぶんわからない。そして、味を表現する語彙もない。そもそも、語彙があったとしても、その言葉がどの味に当てはまっているのか、私にもわからないだろうから、人に伝える事は出来ない。

 

蛇の目 利き酒 1合ぐい呑

蛇の目 利き酒 1合ぐい呑

 
日本酒の教科書

日本酒の教科書

 

 

 正直に告白してしまうと、日本酒を飲んで「不味い。これ以上、絶対に飲めない」と本気で思う事は滅多にない。「飲みにくい」とか「癖がある」などは感じたことはあるものの、それは私の中では不味いというものではない。微生物が醸したある種の個性だと思っている。不味いというのは、ドリアン羊羹(ペースト)とかサルミアッキ(塩化アンモニウム)の飴のようなものを言うのである。まあ、それでも、それらの罰ゲームみたいな味も慣れれば不味いと言うほどのものではなくなるのだが。

 

ドリアンペースト

ドリアンペースト

 

 

  不味い食材はともかく、日本酒はその製造工程の複雑さから、不確定要因が多々ある。だから、一口に日本酒と言っても本当に様々な個性が発生することになる。よって、人から「お勧めの美味しい日本酒を教えて?」と言われても困る。というか、なぜ利き酒師でもなく、普段、日本酒について語る事もない私に尋ねるのかわからない。まあ、尋ねてくる人も「絶対に美味しい日本酒を飲まなければ!」という壮絶な決意で私に尋ねている訳ではなく、「誰かいい人いない?」という程度の軽い気持ちで言ってくるのだろう。そこで、「いい人とは何か?善をなす人のことか?性格が良い人か?あるいは、結婚する条件として好適という意味か?」などと真面目に考えるのがあほらしいのと同じように、日本酒のベストを考えるのも徒労であろう。だいたい、そんなのその人の詳細な味覚がわからないと判断しようがないだろうし、そもそも他人の味覚などわかるのか。

  とはいえ、これだけ多種多様な日本酒があるのに、一般的には二つの指標、「重さと香り」や「濃淡と甘辛」の組み合わせで、淡麗辛口とか濃潤甘口などと味の表現をしているようだ。ただ、私自身、いくらそのような説明がされていても、飲んでみるまでは、その味については全く想定できない。正直、人を血液型で四分類にしているような無理やりな感じを受けるのも事実だ。では、では、それぞれどう違うのか、なかなか言葉にできない。言葉にできなので、音楽に託すことにする。

 

 ということで、いくつかの日本酒に音楽を添える。そんな事をしても、誰にも理解を得られないだろうし、日本酒の味について何も伝えられない自己満足の所作なのは重々承知であるが、何かの(何の?)日本酒についてのきっかけになれば幸い(誰に対して幸いなのだろうか?)と思ってあえて書く。なお、諸般の事情により、紹介する日本酒は、東北・新潟のものが多くなる事を予めご了承願いたい。また、あてる音楽も日本酒の特性上、ピアノ曲が多くなる。

 

小原酒造 純米大吟醸 蔵粋 管弦楽

純米大吟醸 管弦楽 蔵粋 角200ml

純米大吟醸 管弦楽 蔵粋 角200ml

 

  音楽と言えば、この喜多方の蔵であろう。なんせ、もろみの時にモーツアルトを聴かせているそうだ。モーツアルトを聴かせると、発酵の勢いが変わってくると言う。なぜモーツアルトなのか?シュターミッツあるいはJ.C.バッハでは駄目なのか?そもそも微生物に聴覚がないのにどのように音楽を認知しているのか?とまあ、いろいろ疑問点はあるのだが、酒自体は、モーツアルト臭(どんな臭いだ?)もなく、普通に美味しい。どのような感じかと言うと、モーツアルトというよりも、シューベルトの即興曲Op142-2に近い雰囲気だ。

シューベルト:即興曲(全曲)

シューベルト:即興曲(全曲)

 

 

次行こう。

金紋秋田酒造 熟成古酒山吹六年

金紋秋田酒造 熟成古酒 山吹6年 720ml瓶

金紋秋田酒造 熟成古酒 山吹6年 720ml瓶

 

  さすがの私も、この酒の味が他とは全く違うのはわかる。というか古酒だから当たり前と言えば当たり前である。先入観が入るので、色とかはまずは無視しよう。純粋に味だけで判断しても、もう強烈な味である。どう強烈かと言えば、スクリャービンのピアノソナタ第5番のような感じである。なんせ味が複雑であって、これを日本酒と呼んでいいのかさえ迷う。

スクリャービン:ピアノ・ソナタ集 1(グレムザー)

スクリャービン:ピアノ・ソナタ集 1(グレムザー)

 

 

 さて、次は新潟県から。

白瀧酒造 上膳如水 純米吟醸

白瀧酒造 上善如水 純米吟醸 瓶 1800ml

白瀧酒造 上善如水 純米吟醸 瓶 1800ml

 

 

  新潟の酒は淡麗辛口が多いとは言われるが、私自身は「そうかなあ」と思う事の方が多かった。あれだけ酒蔵があるのだから、そんな単純に割り切れるとは思えない。「秋田には美人が多い」というのと大して変わらない言説のように思う。つまりは、多かれ少なかれ主観(思い込み)が入るのである。そういうものだと思って飲むと、そう感じる。が、さすがに先入観抜きにして、この純米吟醸酒は「淡麗辛口」の意味がうっすらとわかるような気もする。こういった酒には、シベリウスのソナチネ1番しかなかろう。

 

ソナチネ第1番嬰へ短調作品67-1 第1楽章 アレグロ

ソナチネ第1番嬰へ短調作品67-1 第1楽章 アレグロ

 

 

 同じく新潟県から

越の華酒造 純米原酒 カワセミの旅

越の華酒造 純米原酒 カワセミの旅 瓶 箱入り 720ml

越の華酒造 純米原酒 カワセミの旅 瓶 箱入り 720ml

 

  チョコレートに合う日本酒として売り出しているもの。確かに合うような気もする。淡麗辛口とは相当に違う事は、さすがにわかる。これもまた、インパクトのある味ではあり、単純に甘いというよりも、なんだろう、それだけではない何かある気がするので、まあ音楽なら、ラフマニノフの前奏曲Op32-5のような感じである。

ラフマニノフ:前奏曲集

ラフマニノフ:前奏曲集

 

 

再び秋田に戻る。湯沢の蔵だ。

木村酒造 福小町 純米吟醸

純米吟醸 福小町 720mL

純米吟醸 福小町 720mL

 

  個人的にかなり好きな酒である。なにがどう好きなのかと言われると非常に困るのだが、なんとなく相性がいいというか、すっと身体に入ると言うか、飽きないというか、長くつきあえる友人のような趣がある。音楽で言えばラベルのピアノ協奏曲の2楽章な感じである。

ラヴェル:ピアノ協奏曲集

ラヴェル:ピアノ協奏曲集

 

 

 最後は福島の郡山の蔵。

仁井田本家 金宝 自然酒純米原酒

仁井田本家 金宝 自然酒純米原酒720ml
 

  この日本酒なら飲めると言う人がいる一方、これはちょっとと言う人も多い銘柄である。一言で表すなら「味が濃い」のだろうが、そう言う単純な話でもないような気がする。通常、あまり日本酒に燗を付けたりしないのだが、この酒だけは、ちょっと温めた方が良いように感じる。単に私の思い込みかもしれない。しかし、ちょっと暖かな温度で飲むこの酒は、何か仄かににぎやかな味がするのである。とか書くと通ぶった感じになるが、ともあれ、特徴的な酒である事は間違いなく、頭の中ではバルトークのソナチネが鳴っている。

Bartók: Complete Solo Piano Works

Bartók: Complete Solo Piano Works

 

  

 と書いたところで、やはり、ほとんどの人は全く日本酒の内容が想像もつかなかったであろう。まあ、講釈を聞くより先に、何はともあれまず日本酒は飲んでみないと分からない。そして、飲んでみて、自分なりのしっくりくる音楽を見つけるのも酒の肴になるのではないか。ともあれ、日本列島には数限りない酒蔵があり、それぞれに違った個性の日本酒が今日も醸されているのである。

 

勝手にBGM選手権

 NHKFMの番組に「きらクラ」というものがある。クラシック音楽を様々な企画に絡めて柔らかな切り口で紹介してゆく番組であり、「おしゃべりクラシック」→「気ままにクラシック」に続く番組である。「きらクラ」とういうのが「気楽にクラシック」の略かと思えば、どうもそればかりではないらしい。似たような番組に「小澤幹夫のやわらかクラシック」というのが昔あったが、これはNHKFMではなくて、FM東京の番組である。ただし、番組の内容というか企画自体はほとんど変わらない。

 その「きらクラ」であるが、BGM選手権と言うコーナーがある。様々な詩や小説を朗読して、その朗読にしっくりくるクラシック音楽をあてるというものだ。司会のふかわりょう氏がなかなか情感を込めて朗読してくれる所にBGM候補となる音楽が投稿されてくるのだ。私自身も、だいたい「これなんかいいかな」という目星は案外とつくもので、実際に放送時に同じような曲が採用されると「皆、考えている事は一緒だなあ」と感心する。中には「これはないだろう!」と言う場合もあるが、まあ音楽に対する感性は人それぞれと言う事だろう。

 ということで、今回は私が勝手にいろいろなコミック作品に対してBGMをつけていこうと思う。勝手にBGM選手権である。別にクラシックに限らない事とするが、まあクラシックが多くになるような気がする。それだけ、クラシックの方が多様性があるからしょうがない。賛同できるものがあれば、幸いである。というか、何が幸いなのか。

 最初は、石川雅之もやしもんである。ご存じの方も多いだろうが、バクテリアや菌類、ウイルスを肉眼で識別できる農大生が主人公の発酵青春マンガである。結構長い連載で、沖縄に行ったり、ヨーロッパに行ったり、合衆国に行ったりと随分様々な事が起こるのだが、実は1年間の話という、夏目漱石の「こころ」も真っ青の充実したキャンパスライフの作品だ(別に誰も死なないが)。主人公の視点で様々な微生物がキャラクター化されて日常生活の中で飛び交うわけだが、その可愛い微生物たちの活躍のBGMがアニメでも実写でもちょっと物足りないというかほとんどない事が多い。寂しい。と言う訳で、勝手にBGMであるが、もやしもんで微生物たちがわんさか活躍する場面で、合衆国の折り目正しいミニマリストである ジョン・アダムス(John Adams )のフードゥーゼファー(HooDoo Zephyr)という曲を当てたい。微生物たちが縦横無尽に自由に飛び回っている様が手にとれるようにわかる。興味がわいたら、ミニマル・セレクションのトラック8のリンク先の試聴で確認願いたい。

 

 

もやしもんDVD-BOX【初回限定生産版】

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ライヒ、グラス&アダムズ:ミニマル・セレクション

ライヒ、グラス&アダムズ:ミニマル・セレクション

 

 

 

 二番目。高野文子「ドミトリーともきんす」。この作品は、科学と芸術とを幸福に結ぶ近年まれにみる傑作だと思う。高野文子の作品にはある意味「体温」というものがない。ないから、こういった極めて科学な内容を手品のような巧みさで表現できるのだろう。この作品で問題になっている科学の事をゼロから理詰めで理解しようとしても無駄である。しかし、どういった雰囲気のものなのか、それをそっとそよ風のように触れさせてくれるのがこの作品の良さで、考えるのでなく感じるのである。となるとBGMはあまり情動的なものでは馴染まない。というか、私はこの作品のページを開いた時から、ある音楽がずっと鳴っていたのであった。それは、パウルヒンデミット(Paul Hindemith)のピアノのためのソナタ第二番の第一楽章。このヒンデミットの乾いた感じと高野文子の作風が妙にマッチするのである。

 

 

ドミトリーともきんす

ドミトリーともきんす

 
ヒンデミット:ピアノ・ソナタ集

ヒンデミット:ピアノ・ソナタ集

 

 

 三番目。作者自身が「このBGMで描いていた」と伝えてくれる山田芳裕の「へうげものだ。といっても、作者が紹介してくれる音楽は、作品に合わせての音楽というより作業BGMにちかいものだろう。実際、作品そのもののBGMにはなりそうにない音楽ばかりである。この作品は、古田織部の生涯を相当な誇張表現とギャグを交えてドラマチックに紹介する作品である。いろいろ戦国時代の史実も出てくるが、やはり面白いのは織部なりの「ひょうげた」感性をここぞという時にプレゼンする時であろう。皆が緊張した面持ちで織部がどんな事をするのか見守っている中で、いきなり既定の常識を覆す作品(パーフォーマンス)を披露し、場は脱力する。そして、織部は意気揚々と去ってゆく。その場面では、私としては倉橋ヨエコのアルバム「婦人用」の中の「土器の歌」が高らかに鳴り響いている。この曲は、ショパンピアノソナタ3番の4楽章から始まり、途中にいきなり曲想が変わりドンドコと土器の歌的なものが流れる。戸惑っいつつも、その原初のリズムに乗ってくる頃に再びいきなりショパンのフィナーレで終わるという珍妙な作品である。そもそも古田織部の作風が前衛的かつ原初的なのだから、案外とこんな変な曲でも似合うのだ。とくに「へうげもの」では、その側面が強調されているから、なおさらである。

 

へうげもの(1) (モーニングコミックス)

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婦人用

婦人用

 

 

 

最後は、(原作)ひじかた憂峰、(作画)松森正の「湯けむりスナイパーに登場してもらおう。遠藤憲一主演でテレビドラマにもなったので、それなりにメジャーになったとは思うが、鄙びた温泉旅館に真面目に勤める元殺し屋「源さん」とその温泉街の人々の日々を淡々と愚直に、あまりに愚直に描き切る、知る人ぞ知る名作である。ほんのかすかにNHKドラマの「夢千代日記」に似たところもあるが、やはりこちらはもっとありえない設定なのだけれどもリアルと言うか、もっと生々しいと言うか、濃厚な作風である。この「湯けむりスナイパーのサウンドトラックか?」と思うほどに、作品世界とリンクしてしまうCDがある。それは、アルノ・ババジャニアン(Arno Babajanyan)作品集。ババジャニアンはアルメニアの作曲家。ハチャトリアンの仲間だ。もうこのCDに収められているどの曲を聴いても、この作品のいろいろな場面が思い浮かぶ。一応、クラシック系のCDなのだが、一曲目から「なんか買ったCD間違えた?」と思うほどに、思いきり強烈である。ほとんど昭和時代の昼ドラのムード音楽なのである。音楽をスマートにまとめようなんて気はさらさらなく、とにかく暑苦しく迫ってくるのだ。まさに、湯けむりスナイパーの世界である。なぜアルメニアの音楽と日本の鄙びた温泉街がここまでリンクしてしまうのか全く不可解だが、とりあえず私が勝手に「源さんのテーマ」と名付けている「ピアノとオーケストラの為の小品『夢』」リンクをはっておこう。湯けむりスナイパーをまだ知らない人には、「この物語の主人公の源さんは、この音楽のような人物なのだ」と強く言いたい。何かこの音楽に感じるものがあったなら、是非とも作品を読んでほしい。

 

湯けむりスナイパーDVD-BOX(5枚組)

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湯けむりスナイパー1

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作品集 ババジャニアン(p)マヴィサカリアン&アルメニア放送管弦楽団、他

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  と言う事で、四つの「勝手にBGM選手権」だった訳だが、はっきり言ってそれぞれ私個人が感じている事にすぎず、共感できる人がどれくらいいるかは全くの未知数だ。ともあれ、皆さんも自分が読んで面白いと思った作品に、「これだ!」というようなBGMを当ててみる事を勧める。「ピッタリな音楽を見つけた時の快感」は、他では得られない感覚だし、何より自分なりの音楽をあてると、その作品が何か自分のためだけにコーディネートされたような感じがして楽しいものなのだ。お試しあれ。

消えてゆく言葉

 何か創作の物語を作る時に、未来を舞台にすればまだ誰も知らない訳だから、どんな設定でも構わないが、過去を題材にした場合、それなりに時代考証をしなくてはならない事になる。人事ながら、結構これは大変なのではなかろうか。物品の類は、「存在するかしないか」でまあ感覚的につかめる部分もあり、資料にも当たりやすいが、「言葉」となると結構厄介だろう。誰もが言語学者や歴史学者ではないので、現在使っている言葉の延長線上に「雰囲気」だけで、江戸の世を描写する事も多い。私も当然の事ながら、昔の言葉などほとんど知らないし、その言葉がいつから使われているのかもよくわからない。なんせ、言葉は生き物であって、文献にあるからといって、一般に使われていた言葉かどうかは定かではない。現在だって「フランス落とし」となんて単語が建築業界人以外の日常会話で出てくるかと言えば微妙であろう。ま、見れば誰もが知っているモノなのだが。

 

中西産業 フランス落し DC-824

中西産業 フランス落し DC-824

 

 

  過去の人物が現在にやってくる物語と現在の人物が過去にゆく物語と、どちらが多いのか定かではないが、なんとなく最近では「過去の人物が現在にやってくる」というパターンが多くなってきたように思う。まあ、これは過去の人物も、現代に慣れてしまえば「言葉の時代考証」を厳密に考えなくてよくなる、という面もあるのかもしれない。

 しかし、実際、本当に過去の人間、特に江戸時代の人間が現代にやってきたら、そう簡単に価値観を転換させることは難しいだろうし、長年の習慣を変える事も大変だろう。その辺、これまでの「過去から現代へ」の創作は、すぐに現代に馴染んでしまう感じを受ける。例えば、荒木源「ちょんまげぷりん」などは、なにか良い意味で現代に適応しすぎのような気もする。まあ、案外、そういうものかのかもしれないとも思う。

 

ちょんまげぷりん [DVD]

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ちょんまげぷりん (小学館文庫)

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  しかし、黒江S介「サムライせんせい」の主人公は、頑固になかなか現代に馴染まないので、ある意味、妙なリアリティがある。確かに、想いがある人が現代にやってきたら、そうだろうなあと感じさせる場面が結構出てくる。やはり、元の時代に戻りたいとまずは強く願うのが自然であろう。一人の人間を描く時、単に習慣の違いだけではなく、帰属意識というのは無視してはいけないのだ。

 

 

サムライせんせい (クロフネコミックス)

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サムライせんせい (二) (クロフネコミックス)

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逆に、「現代から過去へ」の場合、「過去の世界でそこの住人になりきる」か「未来人として振舞う」か、でかなり雰囲気が変わってくる。例えば、前者の例は村上もとか「仁jin」であろうし、後者は半村良戦国自衛隊」であろう。前者は結構、時代考証も苦労している跡があり、なんといっても圧倒的なドラマで多くの人を感動させた作品である事は間違いない。そんな作品にも歴史に詳しい全国の「歴史おじさん」から「これは当時なかった物ではなかろうか」「その時代ではありえない事ではないか」と結構くるらしい。そこは難しいところで、「史実に忠実だったら物語として面白いか」という話なので、有る程度、時代考証をしているんであれば、大目に見てもいいように個人的には思う。それを言ったら、現代の医者がタイムスリップする訳ないんだから。一方、後者の「戦国自衛隊」は荒唐無稽すぎて時代考証云々を言うのは野暮というものである。でも「仁jin」とは別方向にふっきれていて面白い。たぶん、戦国自衛隊に関しては馬鹿らしくて歴史おじさんのクレームも出しようがないだろう。そう言う意味では、アニメになるが「伏 鉄砲娘の捕物帳」で描かれた江戸の風景もまた、完全なる荒唐無稽と史実とが絶妙にミックスされて、絶対にありえ得ないはずなのに、そんな江戸があったかのように錯覚させる質感を伴ったリアリティがある。色彩も見事だ。

 

伏 鉄砲娘の捕物帳 Blu-ray

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戦国自衛隊  ブルーレイ [Blu-ray]

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 といっても、まだ歴史を学んでいない子供が「江戸時代の陸奥の田舎娘が手持ちのガトリング銃を持っていた」と思い込むのも多少問題もあるので、やはり根っことなるものは押さえておいた方がいいだろう。そこはやはり大森洋平「考証要集」の出番である。時代考証と一口に言っても、その対象は森羅万象に至る訳で、それをすべて把握する事は容易ではない。これまで過去を題材に創作された物語の中にも多々、間違いがあったに違いない。しかし、最低限、これくらいは押さえておこうと言う事がこの本には書かれてあるようである。読み進めると、この本は本当に便利であって、単純に豆知識として知るだけでも愉快である。この本は、別に時代劇にクレームをいれるための本ではない。

 

  

 ここで「考証要集」に掲載されている言葉をピックアップして、言葉が時代を遡るにつれて消えてゆく様を見て行こう。言葉は生き物であるから、有る瞬間からその言いまわしが発生したと言う事は特定できないので、ざっくりと時代区分をしてみた。

 

まず、

太平洋戦争までの昭和時代にはなかった言葉。

「意外と」「生き様」「医食同源」「ブス」

 

 他にも多数あるだろうが、なんとなく感覚的に「戦後だろうな」というものは載っていないのである。カタカナ語の大部分は、戦後生まれであろう。それにしても、ブスと言っても戦前では通じないのである。「意外と~だね」と言い回しも、戦前にはないのだ。ちなみに、「生き様」はないが、「死に様」はある。そして、例によって昭和元年~20年の間で新たに作られ、現在も使用されているものは少ないようである。多くは、昭和20年を境に「死語」となってしまったのであろう。

 

明治時代にはなかった言葉

「放送」「栄養」「牛耳る」

 

 要は大正時代に生まれたらしい言葉。「牛耳る」なんてねえ、もっと古いような気がする。「放送」も「栄養」も、科学と技術の進歩にあわせて一般化した言葉だろう。

 

 

江戸時代にはなかった言葉

「演説」「階段」「家族」「簡単」「希望」「教会」「切り札」「空気」「結局」「こっくりさん」「自覚」「時間」「刺激」「事件」「社会」「自由」「条件」「常識」「象徴」「神経」「青年」「責任」「存在」「太陽」「単純」「突撃」「生意気」「拍手」「万歳三唱」「必要」「不可能」「保険」「友情」「連絡」

 

 いったい江戸時代以前の日本人はどうやって会話していたのかと思うかもしれない。しかし、江戸時代の人間が現代にやってくるというのは、こういう基本的な語彙がない人がやってくると言う事で、もう全く違う世界の住人である事を改めて実感する。語彙が違いすぎれば、いくら文法が同じでも、考えている根本が違うはずなのである。少なくとも、現代社会で込み入った「大人の会話」はできないだろう。何気に、私たちは明治期以降に作られた言葉の中で社会生活を送っているのである。まあ、現代人と江戸時代の人との会話も、小学生低学年レベルの会話、すなわち情動を主にした関わりならたぶんできるだろう。しかし、ちょっと高度な事を話し合おうとなったら、埒が明かない場合の方が多いはずだ。改めて、明治時代の爆発的な「訳語」の普及が、その後の日本の国家建設に重要な役割を果たしたことが実感できる。とりあえず、母国語で大学まで学べるというのがアジア諸国の中で日本の強みと言えるような気がする。

 

戦国時代にはなかった言葉

「改革」「ぐにゃぐにゃ」「こんにちは」「人間」「マジ」「野菜」

 

 これは江戸時代の間に使われ始めた言葉らしい。「マジ」が今も生き残っているのが面白い。擬音語・擬態語もそれなりに命脈を保っている。まあ、黄表紙とかそんなのばかりだし。戦国時代にいくと、挨拶に「こんにちは」は使えないのである。なんとなく、もうそこは日本ではないような感覚に陥るのは私だけであろうか。さて、最後。

 

戦国時代には既にあった言葉

「突然」「時代」「調達」

 

 なんだか、妙に納得する言葉である。しかも硬派な言葉だ。なんせ、戦国時代ですからね。明日はどうなるかわからない。なんか、調達とか時代とか、明治時代に作られてもよさそうな言葉である。どうのこうの言って、戦国時代は変革期だったのだ。

 

 言葉に関しては、他にも星の数ほどあると思うし、それぞれの専門家がもっと詳細に調べていると思う。が、気になった人は、古語辞典でも紐解いて、今の言葉とのつながり(必ずしも、古典作品に出てくるような重要語でなく)をちまちまと調べて見るのも面白いだろう。ともあれ、はっきりしている事は明治は新しい言葉のバブル時代だったのである。しかも、一部の知識階級だけの話ではないのだ。おそらく、明治時代以降、日本人の語彙は、爆発的に増大したはずである。

 

ベネッセ全訳古語辞典 改訂版

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20年ずつさかのぼる

 タイムスリップものでお決まりのお楽しみといえば、時代の違いで風俗が大幅に変わってしまって主人公たちが当惑する場面だろう。まあ数週間とか数年とかの時差であれば、それほどに注目される事はないが、やはり十年以上離れると過去でも未来でもいろいろ世の中は変わる(世界が滅亡していたとかいう激しいのは除き)ので、元いた時代との違いに驚くというのが定番な訳である。今年、2015年はバックトーザフユーチャーが目指した未来が来てしまったと言う事で、様々に盛り上がったようである。予想よりも進みすぎているテクノロジーもあれば、全く進歩がないものもある。

  

 スタートレックの劇場映画第4作目「故郷への長い旅」(1986年)では、エンタープライズの乗組員が未来人として現在にやってくる設定で、技術主任のチャーリーがAppleMacのマウス(今見ると、骨董品レベルのMacである)をマイクだと思ってコマンドを喋るシーンがある。公開当時は「そんなことできるか!」とお笑いネタだった訳だが、既に音声入力など普通になった現在、この映画の未来人に我々は一歩近づいていると言う事になる。まあ、まだまだバルカン人は地球には来ない事になっているのだが。

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 逆に過去に行く場合、どの程度の時間差なのかが重要になる。あまりに遠い過去だと人間の寿命は限られている訳だから、当時の状況を知る人もいなくなってくる。例えば、戦国時代にタイムスリップなどと言ったら、今生きている人にとってはどれだけ歴史に詳しくてもやはりファンタジーの世界であって、多少の時代考証のほころびがあったとしてもさして気にならないだろう。

 ところが微妙に近い過去となると、当時を生きた世代がどの程度存在するかによってリアリティが変わってくる。例えば、2007年の映画「バブルへGO!タイムマシンはドラム式」では、1990年へさかのぼるのだが、さすがに当時はたった17年前の事だから鮮明に1990年の状況・空気感を思い出す人も多く、「これはちょっと違う」とか「これはあったねえ」とか非常に些細な事でそれぞれ独自に時代考証する人も多かった。今、高校生の人は、この映画を見ても何ら「実感」はわかないであろう。2010年版の「時をかける少女」では、1974年にタイムリープする(しかし、この作品、映像化されるたびに原作の筋と違うな)。この1974年というのが非常に微妙な時期で、この映画を見た人のうち、「うわ懐かしい!」と感じた人と「こういう時代もあったのか。へえー」と醒めて見た人とは半々くらいじゃなかろうか。しかし、筒井康隆の「時をかける少女」原作は1965年の中3コースで連載が始まったと言うから驚く。まさに50年近くの時をかけ続けている訳だ。

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時をかける少女 〈新装版〉 (角川文庫)

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これが第二次世界大戦ものとなると、今となっては非常に微妙なものになる。なんせ、すでに太平洋戦争が終わって70年である。リアルに感じられる世 代は少なくなり、徐々にその作品の「演出の巧さ」で実感するほかなくなってくる。また、戦争当時子供だったという人は、戦後の生活の方がはるかに長い訳だ から、70年以上前の記憶と言うのも相当に脚色されているように思われる。そして、人間は細かい事は忘れるものなのである。名古屋空襲の日常を膨大な資料 から再現した、いとうゆきの「あとかたの街」などは、「何気ないモノほど記録が残ってないので苦労した」旨を語っている。当時は当たり前の些細なモノで も、時代が変われば本当に何も残らない訳である。それは空襲があったから資料が散逸したという事情だけではあるまい。残そうと言う意志がなければ、残らな いのである。原一男監督の「ゆきゆきて神軍」などを見ると、モノよりも、リアルに「戦争」を体現して生き続けた人間の存在の方が戦前の空気を今に伝える事 を実感する。戦後の本当に平和な長閑な情景の中に、普段は礼儀正しい奥崎謙三という人物が、非日常的な裂け目(暴力)をいきなり持ち込むのである。戦後に 生まれ育った人間からすれは「えー、それはないだろう!」という仰天するシーンばかりなのだが、戦後を一切ごまかさなかった奥崎謙三という存在は、「戦場 の空気を持ち続けた人間」ということなのであろう。いや、まあこの人、戦争がなくてもおそらくはこうだったとは思うのだが、戦争があったから益々狂気に火 がついた事は間違いないだろう。

 

あとかたの街(1)

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 ともあれ、今は当たり前と思っていても、時代が変わればいつの間にか違うものになっていると言うのはよくある事ながら、時間と言うのは連続していて、とびとびではないので、なかなか日常が変わってゆく事に気付かないものなのである。しかし、人々の生きざまや社会制度などは評価も人によって違うのでなかなか落ち着いて捉えることが容易でない。よって、モノに限定して考えて見たいと思う。モノなら具体性があるからわかりやすいであろう。

 と言う事で、備忘録の意味も込めて、今現在、家にあるモノ(自分の家にあるとは限らない)で20年さかのぼる毎に何が消えてゆくかを見てゆきたい。食べものの具体的商品名が多いのは、単に調べやすかっただけの話である。

 

20年前:1995年にタイムスリップすると消えるモノ

スマートフォン液晶テレビ、USBフラッシュメモリー、SDカード、デジタルカメラ、DVDデッキ、DVDソフト、LED電球サイクロン式掃除機、ハイブリッド自家用車、家庭用ドラム式洗濯機キシリトールガム、じゃがりこ

 

 はっきり言って、これらがすべて存在しない家というのは今でもあると思う。二十代以下の世代にとっては、これらがない生活は考えられないだろうが、高齢者にとっては全くあってもなくてもいいモノばかりである。まあ液晶テレビが微妙だろうか?しかし、テレビならなんでも良いと思うので液晶じゃなくてもいいだろう。あと、菓子のヒット商品が少ないのは、商品企画が飽和状態にあるということであろう。もう無理して新しい商品を作らなくてもいいと思う。

 

40年前:1975年にタイムスリップすると消えるもの

パーソナルコンピューター、プリンター、携帯電話、ワープロ、電子ゲーム機、CD、CDプレーヤー、ビデオ、ビデオデッキ、石油ファンヒーター、家庭用ファクシミリ、赤外線リモコン、IHクッキングヒーター、蛍光灯電球、ポストイット、ウォシュレット、使い捨て紙おむつ、使い捨てカイロ、イソジンうがい薬、ウーロン茶、ガリガリ君、おーいお茶、果汁グミ、おっとっと、雪見だいふくパイの実コアラのマーチ、トッポ、たべっこどうぶつ、カルビーポテトチップス、カントリーマーム、ポカリスエット六甲のおいしい水、いちご大福、カロリーメイト、ペットボトル、アルミ缶、バーコード付きの書籍、無印良品すべて

 

 他にもなくなるモノは沢山あるような気もするが、たぶん大したモノではない。今から見ると何とも言えないモノが多い。パソコンの存在がやはり大きいので、それ関連の情報機器は必要と言えば今でも必要ではあり、その後の生活様式の方向性を決めた重要なモノも多いのだが、なんだろうか、このもやもや感は。何か地に足がついてないというか、はっきりとした存在感がないというか。やはり、途中にバブル期があるせいだろうか。食べものも、何か王道ではなくデザインや健康志向になってゆく感じをうける。

 

60年前:1955年にタイムスリップすると消えるもの

電気冷蔵庫、電気掃除機、電気洗濯機、電気炊飯器、電子レンジ、電気こたつ、ガスコンロ、クーラー、テレビ、自家用車、キャッシュカード、電卓、デジタル時計、プッシュホン、アルミサッシ、ステレオ式のオーディオ、ステレオ録音のLP、カセットテープ、石油ストーブ、サインペン、筆ペン、ジャポニカ学習帳、ピット(スティックのり)、テイッシュペーパー、安全ピン、ナプキン、コンタクトレンズバファリンパンシロン、ブリーチ、ママレモンクレラップごきぶりホイホイ、ベープマット、タッパーウエア、ポリタンク、ポリバケツ、レジ袋、使い捨てライター、のりたま、インスタントコーヒー、コーンフレーク、エンゼルパイ、チョコフレーク、チョコボールきのこの山、マーブルチョコレート、チェルシー、クールミントガム、ガーナチョコレート、ホワイトロリータルマンドプッチンプリンプリッツ、ポッキー、かっぱえびせん、カール、柿ピー、缶コーヒー、ネクター、コカコーラ、ファンタ、チキンラーメン出前一丁サッポロ一番カップヌードル、オロナミンC、ボンカレー、シーチキン。

 

 おそらく1955年~1975年の間にこの世に出てきたものはこの他にも数限りなくあると思う。それこそ延々と。というか、今の家庭から、この間に登場したものがいっさいなくなれば、ほとんど何も残らないのではないか。高度成長時代という言葉をさんざん聞かされ「はあ、そうですか、所得倍増の時代なんですねえ」とか知ったような口を聞く人も多い訳だが、こうして具体的なモノを並べると圧巻である。いや、本当に家から何もなくなるくらいに、今の生活の基盤となっているモノが多い。菓子・食品類だけを見ても未だ王道を邁進しているものが勢ぞろいである。さて、次の20年間はどうか。

 

80年前:1935年までタイムスリップすると消えるもの

インキ消し、写真用フィルム、ブラジャー、ナイロンストッキング、セロテープ、ボールペン、LPレコード、三菱色鉛筆、ポスターカラー、ギターペイント、ホッチキス、マジックインキ、絆創膏、ほ乳瓶、トイレボール、キンチョール、オロナイン軟膏、白元アリナミン、ルル、トラベルミン、パイン飴、明太子、ヤクルト、フルーツ缶詰、サントリー角瓶、黄金糖、江戸むらさき、魚肉ソーセージ、パラソルチョコレート、カンロ飴、バターボール、アーモンドグリコ

 

 上記にあげたほとんどは1945年~1955年の間に登場したものである。1935年~1945年の間はほとんどなにも消えるものはない。その間は、破壊と我慢の時代だったので民生用の新しいモノは何も生まれてないのである。ともあれ、それはそれでこれまた微妙なものがなくなってゆくものである。何か、一応、何かやろうと思った時の必需品もあるのだが、ちょっと本筋から外れているというか、なんというか。さて、さらに次の20年はどうか。もう、はるか彼方である。

 

100年前:1915年までタイムスリップすると消えるもの

電球ソケット、ゴム底地下足袋、輪ゴム、クレパスハクキンカイロ、カネヨクレンザー、ハエ取り紙、ロゼット洗顔パスタ、牛乳石鹸バスクリン、トクホン、メンソレータムケロリンキンカンパブロン強力わかもと、オブラート、粉ミルク、キューピーマヨネーズ、カルピス、昆布茶、森永ミルクチョコレート、サイコロキャラメルボンタンアメ、グリコおまけ入りキャラメル、カルミン、マリ―、都こんぶ

 

 医薬品、食品が多い。それも今でいえばヨーロッパあたりの地味な雰囲気のモノが多い感じである。仮にこれらの物品がなくても、特に生活には大きな支障はないような気もする。何か、去年あたりに「新発売!」とかでも普通に通じそうな品々ばかりだ。輪ゴムも、元々なければいろいろ工夫すると思うし、その中で輪ゴムが新発売になったら、「お、これ便利!」という事になりそうだ。「なぜ、今までなかったのか?」という新商品はまだまだあるので、意外と輪ゴムというのは、たまたま初期に思いついたと言う事のような気がする。ただ、電球が使えないのはちょっと困るかもしれない。それから、ゴム底の靴がないのもなかなか辛いだろう。というか、1955年~1975年の山を超えている訳であるから、本当に今あるモノはほとんどない世界なのである。その中で、カルピスとかキンカンがあったら、遠い未来へつながってゆくような何かとてつもなく懐かしい感覚に陥るのではないだろうか。まあ、瓶のデザインとかはえらく違うとは思うが。

 

 ついで言うと、1915年に戻っても、まだ消えてないモノ。つまり、1915年時点で既にあるモノは、

 

腕時計、任天堂トランプ、亀の子たわし、渦巻き型蚊取り線香、正露丸、仁丹、味の素、森永ミルクキャラメル、三ツ矢サイダーリボンシトロン、赤玉ワイン、銘菓ひよこ、二〇加煎餅、中村屋クリームパン、三菱鉛筆、小岩井純良バター、カゴメトマトソース

 

などなど。

 

一部、ローカルなものもあるが、まあやはり食品・医療品が大半で、なんとなく威厳もしくは情緒のあるものが多い。

 

 ということで、モノに焦点を置いたタイムスリップの物語があれば、非常に面白いように思う。というか、商品名がどんどん出てくるのはフィクションとしてはちょっと微妙だろうか?

健康食品は嗜好品の一種である 後編

 健康食品が本当に必要かについて書く前に、必須栄養素について次の事を考えて見よう。それは、生命活動を維持するために必須の栄養素だけを摂取できれば人間は生きてゆけるのかという問題だ。タンパク質(実質アミノ酸と言ってもいい)、脂質、ビタミン、無機物(ミネラル)、場合によって糖質。これらだけを、食品からではなく、純粋な物質として摂取し続けた場合、何か身体的な不調は出てくるだろうか?食べる楽しみがなくて味気ないという精神的な部分はとりあえず置いておく。私自身もさすがにそんな事をした事はないから、断言はできないが、とりあえずは死にはしないはずである。もし、それで死んでしまうなら、栄養点滴をやっている医者の立場がなくなるし、栄養学が根本的に間違っていると言う事になる。しかし、そのような必要最小限の栄養補給のみで、全く普通の健康状態を維持できるかどうかと言えば、それは個人差が非常に大きいように思われる。

 

 

  人間の体は試験管ではない。人間の体内というのは、化学実験のように、ある物質を投入すれば、間違いなく一定の物質が生成すると言う単純なものではない。もちろん必須の栄養素がなければ生命活動を維持するのは難しいが、その栄養素がどのように消化吸収され、どのように利用されるかは、その人の身体の状況に応じて柔軟に変わってゆく。ある程度の道筋ははっきりしているものの、実際の所どうなっているかは、人によってまちまちなのである。例えば、数日間何も食べていない人と一日に四食も食べている人とでは、同じ栄養を摂取したとしても、その後の成り行きは全く違ってくるだろう。そもそも各々の遺伝的な違いというものもある。つまり、人間の体は、不確定要因だらけの存在と考えて良い。

 

 必須の栄養素だけを食べたらどうなるかを考えて見たが、普通に生活していればそんな極端な事はしない。日常で私たちが食べている物は、原則「生物まるごと」又は「生物の一部分」である。例えば、牛肉を食べたとする。牛肉は、タンパク質・脂質を効率的に摂取するためには優れた食材である。しかし、牛肉は、タンパク質・脂質「だけ」で構成されている訳ではない。牛肉を食べた時、私たちは必須栄養素以外の様々な物質を同時に摂取している。その様々な物質が何種類に及ぶかはまだ誰にもわからない。まだ発見されていない物質もあるかもしれない。

 

 また、人間は牛や山羊ではないのに野菜を食べている。栄養士によれば、それはビタミンを摂取するためだと言う。しかし、野菜の多くは、ビタミンの含有量よりも、その他の物質の方が圧倒的に多い。植物は、一般的に動物に比べて、二次代謝によって極めて多様な化合物を産生する。しかも、それは植物の種類によってかなり違っている。つまり、いろいろな野菜を食べると言う事は、必須栄養素以外の物凄い種類の化合物を摂取するという事でもある。その中で、ある程度、身体への効果が期待できている植物由来の化合物はまとめてファイトケミカルと呼ばれている。健康食品は、このファイトケミカル由来のものが非常に多い。しかし、そういったファイトケミカルは植物が合成する化合物のほんの一部である。植物が作る様々な化合物が人間の体内でどのようにふるまい、どのような作用を起こすのかは、わかってない事の方が多い。というか、個人的な印象をあえて言うなら、「何もわかってない」。つまりは、私たちが何気なく食べているものも、不確定要因だらけの存在と言える。

 

植物の体の中では何が起こっているのか (BERET SCIENCE)

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  身体の不確定要因と食物の不確定要因が合わさって、ある人の身体状況が生じる訳だから、データの蓄積のある必須栄養素でさえも、「~を食べて、~になる」というのは単純に結論付けられるものではない。人によって、食べ方によって、もしくは食べた状況によって、摂取した栄養素の作用は変わってくる。ましてや、必須栄養素でもない健康食品について「~さえ食べれば、健康になる」というのは、どう考えても乱暴な結論である。

 

 となると「健康食品というのは、すべてインチキであり、効果なんて期待できない」のか?もちろんそんな事はない。健康食品には「その食品の摂取と効果の因果関係が明確なもの」「その食品の摂取と効果が統計的に明らかなもの」「その食品の摂取と効果になんら根拠のないもの」の三種類あるのだ。

 

 健康食品のうち最初の「食品の摂取とその効果との因果関係が明確にあり、そのメカニズムもわかっている」という例は極めて少ない。というか、前述したが、そういうものは、健康食品というよりも限りなく「薬」に近い。実際、「生薬」と呼ばれるものは、作用の強さの程度によるが、ほとんどここに含まれる。例えば、コーヒーを飲んだら眠れなくなった、といった場合、その原因はカフェインである事がほぼ確実である。実際に、純粋なカフェインを服用しても、同じ効果が期待できるし、なぜ眠れなくなるのかの作用のメカニズムもある程度わかっている。あるいは、トウガラシを食べたら、身体がホカホカしてくるのは気のせいでなくて、トウガラシに含まれるカプサイシンが温度を感じる受容体に作用するためである。あれだけ身体が火照って、汗も出ているのに、実は体温は上昇していない。カフェインもカプサイシンもその確かな薬理作用によって実際に医薬品としても使用されている。

 

コーヒー「こつ」の科学―コーヒーを正しく知るために

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とうがらしマニアックス

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  しかし多くの健康食品は二番目の「その健康食品を一定数以上の人々に摂取させたら、統計的に見て、摂取していない人に比べて効果が認められた」と言う様な疫学的調査を根拠にしたものである。なんでそのような効果があるのかはわからない事がほとんどである。よって、統計的に効果があったとしても、あなた自身に効果があるかどうかは全くわからない。もしかしたら効果が期待できるかもしれない。そこは不確定要因の二乗だからいたしかたない。効果があればラッキーというものである。

 

宇宙怪人しまりす医療統計を学ぶ (岩波科学ライブラリー (114))

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  そして最後の「統計上も全く有意差がないのに、何か効果があるような事を謳って健康食品としているもの」。因果関係も統計的な有意差も認められないのだから、これは「鰯の頭も信心から」つまりは「思い込み」以外の効果は期待できない。とはいえ、人間の身体の不確定要因は、その「思い込み」もまた無視できない。強い思い込みが身体の状態を変えてゆく事は普通にありうる事である。脳がいかに身体と深くリンクしているか、脳がどれだけ身体感覚の錯覚を起こすかは、ラマチャンドランの「脳の中の幽霊」を読むとよくわかる。

 

脳のなかの幽霊 (角川文庫)

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  最後のケースについては「明らかに根拠のないものを健康食品として売るのは問題では」と言う人もいるが、まあそういうのは薬事法68条に違反してなければ、あるいは明らかな健康被害等が生じない限りは、何をどのように売ってもいいと私は思う。逆にいえば、「明晰で厳密な根拠があり、効果もはっきりと確認されている」方が問題は大きい。それはもう事実上、限りなく「薬」なのだから、摂取する量や、禁忌とする条件などをちゃんと設定しないと過剰に摂取した場合、副作用が起こる危険性がある。あるいは、それほどの激しい効果がなくても、信心極まって健康食品に依存しすぎて、通常の食事がおろそかになってしまっては本末転倒である。いくら自動車のエンジンに高級なオイル添加剤を入れても、オイルそのものを入れなければエンジンはうまく機能しないのである。そういった健康食品に依存するような状況をフードファディズムといい、髙橋久仁子の「食べもの神話の落とし穴」に詳しい。

 

「食べもの神話」の落とし穴―巷にはびこるフードファディズム (ブルーバックス)

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 ともあれ、ほとんどの健康食品はあってもなくても特に通常の生活に問題のないものであろう。繰り返しになるが、もし問題が生じるなら、それは「必須栄養素」もしくは「薬」であって健康食品と言うには無理がある。食生活の中でのオプションとして健康食品を考えればちょうどいいと思う。すなわち、健康食品は嗜好品の一種である

健康食品は嗜好品の一種である 前篇

 世に流布している健康法の中で「何かを食べる」というのは定番中の定番であろう。「何か」はポリフェノールであったり、酵素(?)であったり、コラーゲンであったり、アガリスクだったり、まあよくもこれだけ様々なものを「健康」と結び付けられるなあと感心する。そういう「何かを食べて健康になる」いわゆる「健康食品」というのを聞くたびに疑問に思うのは、「そのあるものを食べると、どのようなメカニズムで健康になってゆくのか」ということである。そもそも「健康」とは何か。

 国際保健機構(WHO)の定義する「健康」は「完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない」らしいが、そんな事をいったら、本当に「健康な人間」などかなり限定的になってしまうので、まあ、常識的に「病気せず、いつまでも若々しく、気持ちも充実している状況」を「健康」としよう。そういう「健康」なら「あるものを食べたら、なんか調子が良くなった」という実感さえあれば、当人は「健康になった」と思えるであろう。とにかく気分は良くなったのは事実だから、どんな変化が起こったメカニズムなど当人にとっては、どうでもいい事かも知れない。結果第一。理屈をいくら言っても、実感ができなければ存在しないも一緒なのであろう。ということで、新聞のチラシ広告などによくある、どう見ても無茶苦茶な原理説明の図やグラフなども、それに疑問符をつける人はそうそういない。それよりは「体験談」の文章中のリアルな言葉の方が重要なようである。実際、効いている人がいるのだから、自分も試してみようと言う事になるのだろう。

 

 しかし、私は納得がいかないのである。仮にAという食品を摂取して、何か身体の変化がすぐさま起きたとする。そうなったら、それは食品というよりも薬理作用のある物質、すなわち「薬」に近いものであって、人によっては副作用が出るものかもしれず、それなりに慎重に摂取しなければならないような気がする。逆に、なんらかの身体の変化がすぐには起きないならば、それは事実上、通常の食品と変わらないとも言える。例えば、人参だってずっとしつこく毎日食べ続ければ、肌の色だって変わってくるのである。では、人参は健康食品か?やはり、いわゆる健康食品とはちょっと違う様な気がする。健康食品というのは本当に必要なものなのだろうか。普通の食事をしていればいいのではないか。

 さて、普通の食事と書いてしまったが、何が「普通」なのかは案外と難しい話である。地域や国が違えば、食べる物の種類が根本的に違うし、世代間でも食の好みは変わってくるだろう。時代によっても変わってくる。あるいはライフスタイルによっても全く違った食生活が展開することもありうる。それは北岡正三郎「物語 食の文化」に大抵のことが書いてあるので、参照されたし。この本は、食べると言う事に人類だがどれだけ貪欲に工夫してきたを実感できる良書である。

 

物語 食の文化 - 美味い話、味な知識 (中公新書)

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  しかし、いくら食の多様性があるとしても、共通する事は、何かしら食べているから人間は生きているという事である。私たちの身体状況を形作る大きな要因として、日常の食事がある事は言うまでもない。ときおり断食を続けているとかいって、数年間も何も食べてないと言う人もいたりするが、あれは実際の所どういう原理で生きているのかよくわからない。なぜ即身仏とならずに、普通に生きていられるのか。その数年間の生活の様子を一秒たりとも空白を作らずにビデオ記録して欲しいものである。 

 

日本のミイラ信仰

日本のミイラ信仰

 

 

 余談になるが、それなりに肥満な人が「そんなに食べてないのになんか太っちゃうんだよねえ」とか言っていて、「そんなアホな」と馬鹿にしたら「本当に食べてないんだって。普通だって」と強調するので、「そういう体質の人もいるのかな」と無理に納得しようと思ったのであるが、別の目的で数日間一緒に生活を共にしたら、やはり食べる時はやたらに食べていて、それが当人にはあまり意識に登っていないようであった。人と接する日常の中では、食べる量に何か抑制がかかっているようであるが、一人になると地道に無意識のうちに食べ続けていると言う印象である。こういった肥満の人の盲点とも言うべき部分を指摘したのが岡田斗司夫のレコーディングダイエットである。その過程は「いつまでもデブと思うなよ」に詳しい。とにかくその日に食べた物を記録してゆくという手法で、肥満な人でなくても、人は案外と一日のうちに何を食べたのか曖昧なものである。ともあれ、無から有は生じないのである。

 

いつまでもデブと思うなよ (新潮新書)

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  話を戻すと、人間は動物であるから、自分の身体が維持できるような物を食べて生きている。身体の維持というのには二つ意味があって、一つは生物として活動できるようなエネルギーを得ると言う事。もう一つは、身体の構造を形成し続けるという事である。つまりは、私たちは、身体のエネルギー源と素材を食事から得ているということになる。まあ、当たり前すぎると言えば当たり前の事なのだが。ちなみに、物質的に言えば、そのエネルギー源とは糖質と脂質である。そして、素材はタンパク質、脂質、無機物(ミネラル)である。糖質、脂質、タンパク質、無機物を三カ月以上1ミリグラムたりともいっさい摂取しなければ、冬眠できない恒温動物である私たちは、生命活動に必要なエネルギーも得られず、新たに細胞を作る事もできず、死んでしまうだろう。

 初期の栄養学においては、この三大栄養素+無機物がどのように身体に消化吸収および利用されるかが研究された。しかし、それだけではどうも身体を健康に保つには足りない事が段々とわかって来た。三大栄養素+無機物を充分に与えても、様々な身体不調が起こる場合があるのだ。他に何か身体を維持するのに必須の要因があるのではないか。様々な食品の有無によってどんな物質が身体を維持するのに必要かが調べられた。そして、生命活動をより円滑に進めるために微量でも摂取しなければならない有機化合物があるらしい事がわかってきた。そのような微量でも身体維持に寄与する有機化合物をビタミンと呼ぶ

 最初に発見されたビタミンは、チアミン(ビタミンB)と言う物質で、物質そのものは鈴木梅太郎が最初に同定した。1911年、明治44年の事である。このビタミンが不足すると脚気になる。チアミンが多く含まれる玄米を食べれば脚気の症状は軽くなるので、当時「脚気を改善する奇跡の健康食品!」として、玄米を大々的に売り出せば大儲けが出来たかもしれない。実際にはそういう商売をした人がいたという記録はない。当時は玄米などありふれた食材だったから、普通に米を食べていればいいだけだったからだろう。その後、様々な役割をもったビタミンが発見され、現在では約13種類程度存在する。一般的に微量で必要十分なので、現代の通常の食事をしていれば根本的に不足する事はない。しかし、極端に偏った食生活を送っていると、何らかのビタミンが全く摂取できずに身体の不調が出てくる場合もある。

 

脚気の歴史(やまねこブックレット)

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ビタミン・ミネラルの本 (Tsuchiya Healthy Books―名医の診察室)

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  通常、糖質、タンパク質、脂質、無機物、ビタミン、いわゆる五大栄養素がそのまま健康食品となる事は少ない。それらの栄養素(最近になり糖質はそれほど重要ではない流れに世の中はなりつつある)を摂取しなければ身体を維持できないのであるから、ある意味「健康にする」のに大いに寄与しているはずなのだが、お節介な健康オタクから「卵は身体にいいからどんどん食べた方がいいよ」とはまず言われない。それは、よほど非常識な食事をしない限り、通常の食生活で摂取できる食品であるから、改めて「健康食品」と言うまでもないからであろう。例えるなら、自動車を走らせるのに「ガソリンは車にいいから、ガソリンを入れた方が良く走るよ。あとオイルも入れておけばエンジンがスムーズに動くよ」と言う様なものである。ガソリンもオイルも自動車には必須のものであって、自動車を走らせる前提となるものである。

 

図解雑学 自動車のしくみ (図解雑学シリーズ)

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 すなわち健康食品は、必須栄養素を含む食品ではない。場合によっては、必須栄養素が過剰に含まれている事が売りになっている場合もあるが、それは健康食品というよりも、栄養補助食品すなわちサプリメントと呼ばれるもので、純粋な健康食品とは言えないような気がする。さて、必須栄養素でないとするなら、健康食品は人間が健康な身体を維持するために必要なものなのだろうか?

後編に続く。