ZoaZoa日記

気の向くままに書き散らしてゆきます。皆さまの考えるヒントになればと思います。

人は理系として生まれる訳ではない

 世の中の人間を文系と理系に分けて考える人がいる。そんな単純に人間の種類を大雑把に二分するのは乱暴である事はたぶん言っている本人も重々承知なのだろうが、あまりに物の考え方が違う人と接すると「自分とは違う人種だな」と感じるのであろう。自分と同じ土俵で話が出来る人ばかりであれば、あえて「人を類型化する」という作業はしないだろうから、やはり「根本的に自分とは違う人間がいる」という認識が「文系・理系」という大きな二分法を強化しているように思える。

 

 あるいは、高校時代に学校側から「理系と文系」にレッテルを貼られて、その肩書きをなんとなく保持しているという人も多い。しかし、高校時代の「理系・文系」は、ほぼ数学の出来不出来によって決定するので、非常に視野の狭い見かたではある。とはいえ、数学の成績によって「君は理系」「あなたは文系」と学校側から言われたら、十代の若者の多くは「そういうものかな」と思うほかないだろうから、その文系・理系の違いの基準(もしくはイメージ)から生涯自由になれない人も多いだろう。よしたに氏の描く「理系の人々」などは、その典型のように思う。これを読んで「いるいる、こういう人」と共感する人も多いだろうが、「ううん、これが理系って言われてもねえ」という人もたぶん少なからずいるはずである。私個人の感覚からすると、「理系の人々」の中身は、よしたに氏個人の性質というべきもののように思う。まあ、それでも世間ではそれほど割合は多くはない人種ではあるので、「ええ?」と驚く内容は沢山あるということだろう。

理系の人々

理系の人々

 

  そもそも「理系・文系」という分類自体が日本独自のものであるとはよく言われることである。本当にそうなのかは、それほど海外の知り合いがいないのでよくわからない。が、例えば極端な話、読み書きそろばんがほぼできないような発展途上国の若者100人をその場で理系・文系に分けられるかどうか、という思考実験を考えてみればよい。もちろんその若者たちの潜在能力はそれぞれあると仮定して、ほとんど何も学習してない状況で、どういう基準で文系・理系を判断するのか。文字は読めないので、図形だけで解けるような知能検査的なテストで論理的判断力や空間把握の成績を比べる。まあ、知能の差は判定できるかもしれないが、それが文系理系の差と言うなら、文系と理系のどちらかが知能の低い人ばかりという事になってしまう。当然、そんな事はないだろう。要するに、教育のない所に文系も理系もない。つまりは、どだい人間そのものによって理系・文系に二分するのは無理であろうことは容易に想像がつく。ボーヴォワールの第二の性ではないが、「人は、生まれながらにして理系(文系)なのではない。教育と社会生活の中で理系(文系)になる」のである。

決定版 第二の性〈1〉事実と神話 (新潮文庫)

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  それでは、人は、教育と社会生活の中で「偶然に」理系もしくは文系になるのであろうか。その側面は確かにある。例えば、高校時代、数学の先生が嫌いで、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いで、数学は好きになれなかった。好きでないから勉強しない。当然、成績が悪い。進学校では2年時の文理選択で、数学の成績が悪ければ大抵、強制的に文系クラスに入れられる。こういう人は、もしかすると相性のあう先生に巡り合えていたら、理系クラスにいたかもしれない。あるいは逆に古典の授業がちんぷんかんぷんで、古典の授業が嫌だから、古典よりはマシな数学の成績によって理系クラスになった人もいるかもしれない。そんな要因で理系・文系のクラス分けはなされる事はあるから、本当に後から考えればちょっとした違いである。というか、自分自身が理系なのか文系なのか判然としなくて悩んでいる高校1年生は全国に非常に多くいると思う(というか明確な進路先を決めてない高校生のほとんどはそうかもしれない)。

 

文系?理系?―人生を豊かにするヒント (ちくまプリマー新書)

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 また、育った家庭環境・地域も無視できないだろう。幼いころより、我が子の興味関心に敏感に対応しつつ書籍や教材などを可能な限り与え続ける家庭と自分の子どもの知的発達にほとんど興味がない家庭では、やはり差はでてくるだろう。また、その地域に子どもを様々な体験に駆り出すだけの要因が多ければ多いほど、子どもは家庭・学校以外からも様々な刺激を受ける。様々な選択材料があれば、子どもは理系的な事柄にたまたま興味を持った時に、それを子どもなりに発展させやすい。しかし、最初から選択肢がなければ、興味を持つ事すらないのである。子にとって、家庭環境や育つ地域は選べないから、これも「偶然」である。

「つながり格差」が学力格差を生む

「つながり格差」が学力格差を生む

 

  さて、それでは、幼年時より理科的な書籍や教材を与えられ、自然の中での体験も充分にでき、工場見学や科学実験講座なども積極的に参加させてもらって、圧倒的に尊敬できる数学・理科の教師に出会い、そういった機会を充分に理解できる知能があれば、その人は必ず「理系」になるのであろうか?理系になる可能性は大きくなるかもしれないが、たぶん絶対ではない。どんなチャンスに恵まれていても、理系にならない人はならない。理系か文系か、偶然に左右される部分はかなり大きいが、それだけで決まる訳ではないだろう。持って生まれた興味関心の傾向というものも無視できないように思う。その興味関心の傾向とは何か?それは「人間以外に興味関心があるかないか」である。

 

 人は社会生活を前提として成り立っている生物であるから、「互いに興味関心を持てる」すなわち「共感能力」というのは、最も基本的な性質であろう。もし、これがなければ、互いにバラバラに行動し、天敵から身を守れずに、人類発祥から早い時期に絶滅したと思う。すなわち人類が生物として生存する最低条件としての「共感能力」は、今で言う「文系」の根幹を支える原理である。だから、どんな人であっても、原型は「文系」である。「人間には全く興味がない。他人とは何も共感できない。共感したくもない」と言う人がいれば、それは社会病質者であり、真の意味で社会の中に溶け込む事はできないであろう。仮に、そういう人が、次に書く「理系」的な興味関心だけを持つならば、人類にとっては最悪の結果を生む。

良心をもたない人たち (草思社文庫)

良心をもたない人たち (草思社文庫)

 

 

 いろいろあって、人類がある程度安定した社会集団を作ると、それまで感覚的に把握するだけだった「自然」というものを、客体化する人が出てくる。時間の概念と計画的な狩猟、文字言語の獲得、そして農耕。それらは、自然をある程度抽象的に捉えないと成立しようがない。これが、今で言う「理系」の始まりである。つまり「理系」とは、「人間以外に興味関心を向ける傾向」のことである。人間のベースは「文系」であるから、はっきりいって、この「理系」の傾向だけで生きている人は、滅多にいない。もしいれば社会生活は困難である。まあ、日常の社会生活がやや困難になっている理系の人々がいない訳ではないが、それも程度問題である。つまりは、ベースが「文系」で、そこに「理系」的な性質が加わることで理系かどうかが決まる訳だが、その理系の比が多ければ多いほどに、社会生活は段々と難儀になってゆく。なぜなら、文系とほとんど話が通じなくなるからである。普通、心の病気でない限り、そういう状況になった時点で「文系的」な努力をまがりなりにもするから、おおむね完全な理系的人間は実社会では見かける事はないだろう。まあ、円城塔のように、あえて文系に理系的な挑戦状をつきつけるケースもあるが、書籍が無事出版出来ていると言う事は、実際にはまっとうにごく普通の社会生活が送れているという証であろう。

これはペンです (新潮文庫)

これはペンです (新潮文庫)

 

 

 逆に考えれば、世間一般には「文系」と呼ばれてはいるが「理系」的な要素が強いもの、もしくは「理系」と呼ばれてはいるが「文系」的な要素が強いものも数多くあるはずだ。例えば言語学などは、一見すると文系的要素が多いように思えるが、限りなく理系に近い文系であろう。なぜなら、言語というすでにそこにあるものを対象にして、その普遍性と特異性を客観的に分析するのが言語学だからであり、その研究手法は自然科学のそれに近い。

教養としての言語学 (岩波新書)

教養としての言語学 (岩波新書)

 

 一見、理系に見えて、限りなく文系な例としては「医学」がある。人間の身体と言う「自然」を対象にしているものの、あくまで「治療」が目的である。「原理」よりも「手段」に重きが置かれる。「原理はともかく治癒できた事実」が重要なのだ。治療が目的と言う事は、あくまで人間第一なのであり、典型的な文系の思考法である。そこにいる人間の存在は無視して、病変の謎解きに終始するDr.HOUSEもしくは天久鷹央のような存在は、医療の現場では少数派であろう(というか、沢山いたら大変だ)。もちろん、臨床には直接関与しない基礎医学の分野は理系寄りの領域になる。

天久鷹央の推理カルテ (新潮文庫nex)

天久鷹央の推理カルテ (新潮文庫nex)

 

 

 医学ほどではないが、やや文系寄りの理系としては、工学、農学、獣医学、薬学、家政学がある。これらも人間生活に役立ってナンボの世界である。まあ、「もやしもん」や「工学部ヒラノ教授」での大学生活での人間模様などを思い描いてくれれば実感できるだろう。ただし、人間そのものを扱う訳ではないので、ちょっと壁一枚程度の距離感がある。これらの分野の人々は典型的な理系と間違われる事も多い。なぜ間違われるかと言えば、理系的な要素をそれなりに持ちつつ文系との接触が多い集団であるから、それだけ摩擦というか感覚のズレを文系側に生じさせる機会が多いからである。つまりは、理系という内輪で盛り上がっているだけでは成り立たない分野だから、目立ってしまうのだ。

もやしもん(1) (イブニングKC)

もやしもん(1) (イブニングKC)

 
工学部ヒラノ教授 (新潮文庫)

工学部ヒラノ教授 (新潮文庫)

 

  

 それでは典型的な理系とはどんな人々なのか。それは、文字通り、大学の理学部にいる(いた)人々である。物理学、化学、生物学、地学。原則、これらの人々のやっている事は、現時点では、人々の生活には全く役に立たない。もし何か役に立つ事をやっているなら、それは厳密には理学ではなく、工学とか医学とかの境界領域であろう。本当の理学の人は、純粋に自然に興味があり、それにのめり込んでいる、場合よっては生涯を賭けている人々である。有名人であげれば湯川秀樹牧野富太郎でイメージとしてわかるだろう。

牧野富太郎自叙伝 (講談社学術文庫)

牧野富太郎自叙伝 (講談社学術文庫)

 

  

 さて、理学部の中に「数学」というのを入れなかった。数学は理系ではないのか?理系でないなら、文系なのか?これは私個人の考えに過ぎないが、応用数学などは除いて、純粋な数学は、ある意味、人間からも自然からも最も離れた所にあるように感じられる。つまり、「数学」は「哲学」と同じく、理系でも文系でもない分野だと思う。

 文理選択に数学の成績が重要視されるのに、なぜ数学が理系でないのか疑問に思うかもしれないが、高校で扱う数学と、最前線の数学とは、根本的な「質」が違うようである。

 私個人の印象として、応用数学などを除いた、純粋な最前線の数学というのは、数学者による筋道の通った妄想のようなものに思える。なぜ妄想かといえば、本当に一握りの同業者しか、その数学言語が正しいのか理解し合えないからである。世間一般では、普通それは「妄想」という。偉大な数学者たちの神々しい業績を「妄想」と書くのには抵抗はあるが、実際、現在、最前線で難問に格闘している数学者の頭の中にあるものは、おそらくその数学者以外、誰も理解できず、凡人からすれば「妄想」と区別はつかないのも事実である。ただ、いずれは世界を変える理学的ツールになるかもしれないという信用があるのみだ。実際、数学者の伝記が妙に破天荒なものが多いのは、そういった数学者の特異性を象徴しているように思え、やはり普通の自然科学者の生き方とは違うものを感じる。こういった純粋な生き方は、ある意味羨望の念さえある。

 

文庫 放浪の天才数学者エルデシュ (草思社文庫)

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完全なる証明―100万ドルを拒否した天才数学者 (文春文庫)

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ビューティフル・マインド: 天才数学者の絶望と奇跡 (新潮文庫)

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 しかし、最先端の数学者のその妄想がいつしか人々に共有されるようになると、自然を記述するのに極めて有効な道具として再発見される(ことがある)。今現在、普通の人が理解できる数学の世界は、そういう再発見された「道具としての数学」の側面が大きい。むろん、高校レベルの数学は近くても数百年前の妄想が完全に整理整頓された体系として提示され、自然をより深く理解するための道具として機能する。ただし、実際に道具として使うようになるのは、理系の大学に入ってからである。高校では、道具の使い方をひたすら学ぶだけだ。だから、高校数学は、理系の象徴のような大きな顔をして高校生を苦しめている訳である。そして、高校で数学の学習終了の人は、ドラマ「探偵ガリレオ」や「ナンバーズ」に出てくる「道具としての数学」を鮮やかに駆使する様子(フリ)に対して「いかにも理系」という印象を持ってしまいがちだ。そして、「自分は文系だから関係ない世界」という思いを強化して、ますます数学などが縁遠いものになる。言い方悪いが、ああいうのは、大工が金槌を使っているのと大差はなく、あれが理系の本質ではない。自然を理解したいという想いが、理系である証なのである。

ガリレオ [DVD]

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ナンバーズ 天才数学者の事件ファイル シーズン1<トク選BOX> [DVD]

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4種類の質問

 今年は終わってしまった「夏休み子ども科学電話相談」。子どもたちから寄せられる質問および相談にもいろいろなものがあり、「質問箱」ではなく「相談」となっているのが良く理解できる。子どもからの質問は、おおむね「対処法についての質問」「存在の有無についての質問」「メカニズムについての質問」「理由についての質問」の4種類に大別できるようだ。もちろん例外もあり、答えのないような質問もある。

アイヴズ:ホリデー・シンフォニー、答えのない質問、宵闇のセントラルパーク

アイヴズ:ホリデー・シンフォニー、答えのない質問、宵闇のセントラルパーク

 

 

 まず「対処方法についての質問」。「~なってしまったのですが、どうしたらいいですか?」「~したいのですが、どうしたらいいのですか?」といった類。基 本、ある現象が進行中、もしくはある現象を引き起こそうとしている時に、これからの対応を問うのである。あるいは今後の対策のために、過去の失敗の原因を 問う場合もある。今年もこの手の質問(と言うより相談)は結構あって、「ばあちゃんの作っていたパプリカが台風15号で倒れてしまった。どういう風に対策 を立てていればよかったのですか?」あるいは「カブトムシを強くしたいのですが、どうしたらいいのですか?」などなど。ほとんど園芸相談・飼育相談であ り、こういうのを科学の質問と言うかは別として、世間一般でも、おそらく最も解答への需要が見込まれる種類の質問と思われる。  

爬虫類本飼育完全マニュアル VOL.1 (サクラムック)

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食虫植物栽培マニュアル

食虫植物栽培マニュアル

 

 

 というか、出版されている書籍のうち安定して売れ続けるのは、こういう「どうやったらいいのか」を解説したハウツー本であろう。特に料理本は基本「どうしたらいいか」しか書かれていない。さらに発展させれば、官公庁の文書、法律は基本、この手の質問に応えるために存在していると言ってもいいだろう。しかし、世の中、こういう質問ばかりになると、あらゆる事象についてのマニュアルが溢れかえる事になり、自分なりに考えて試行錯誤する機会が減るので、あまり好ましくないように思う。まずやってみて、失敗の中から学ぶ事も多い。

 

The基本200 (ORANGE PAGE BOOKS)

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糖質制限の「主食もどき」レシピ

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ポケット六法 平成27年版

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 「存在の有無についての質問」。「~は、いるのですか?」あるいは逆に「~は、いないのですか?」といった類。場合によっては過去・未来について「~は、昔いたのですか?」「~は、将来、出てくるのですか?」というのもある。さらには「~は何ですか?」「~はどれくらいですか?」という変種もある。解答する先生にとっては、これが一番簡単に答えやすいかもしれない。今年は「星に火山はあるのですか?」「虫にも脳みそはありますか?」「フクロウの首がくるっと回るのは本当ですか?」「ダイヤモンドより固いものはありますか?」「長崎の原爆には何が入っていたのですか?」「太陽はどれくらい大きいのですか?」などの質問が寄せられた。存在が確認されていれば、それを詳細に説明すればいいし、確認できてないなら「まだ見つかってないからわからない。これから見つかるかも」と言えばいい。ただ、答える方としては物足りないかもしれない。これもまた、正しい状況判断をするために大人はよくする質問であろう。「この地域に熊はいるのか、いないのか」「この薬は効くのか効かないのか」「明日、雨が降るのか降らないのか」「大昔に津波はここまで来たのか来なかったのか」「駅まで何kmか」「入試まであと何日か」もっと広げれば「凶器はあるのかないのか」「内部文書はあるのかないのか」「その時刻・場所に容疑者Bはいたのかいなかったのか」「時効まであと何年か」とかね。つまり、この質問は実は、司法の現場で最も多くなされるものである。そして、科学においては「ないことへの証明」は極めて難しく、現時点で確認できないものは、「存在するかもしれない」としか言えない。が、司法の立場からすれば、それでは納得いかないのである。しばしば、科学の視点でみれば、無茶苦茶な判決が出るのも、このような司法と科学との相性の悪さに起因するのである。くれぐれも、裁判で勝ったからと言って、それが科学的に正しいとは限らない事を忘れてはいけない。

ダンゴムシに心はあるのか 新しい心の科学 (PHPサイエンス・ワールド新書)

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プルトニウム―超ウラン元素の正体 (ブルーバックス)

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法律家のための科学捜査ガイド その現状と限界

法律家のための科学捜査ガイド その現状と限界

 

 

 「メカニズムについての質問」。「~は、どうやって~をしているのですか?」「~はどんなしくみなのですか?」「~は何なのですか?」の類。今年は「金属アレルギーは金属の何に対してアレルギーを起こしているのですか」「ヤゴはどこで呼吸をしているのですか?」「太陽はどうやってできたのですか?」などの質問があった。実は鉄板の質問の定型文の「なぜ(どうして)~なのですか?」というのも、解答者がこの「メカニズムの質問」に「翻訳」して解答する事になる事が多い。例えば「どうしてコアラはのんびりしているのですか?」という質問に対して、「コアラのユーカリの消化機構について説明する」といった感じである。つまり、子どもたちからの質問は「メカニズムについての質問」に分類されるものが圧倒的に多い。これは、科学のメインストリームの質問であり、おそらく、解答する先生方も、一番説明しがいのあるもので、この手の質問が沢山来ればいいなあと思っているに違いない。

Dr.菊池の金属アレルギー診断室

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うまれたよ! ヤゴ (よみきかせ いきものしゃしんえほん9)

うまれたよ! ヤゴ (よみきかせ いきものしゃしんえほん9)

 
恋するコアラはなぜやせる?―コアラ飼育10年のエピソード

恋するコアラはなぜやせる?―コアラ飼育10年のエピソード

 

 

 とはいえ、子どもの立場からすると、「理由」を尋ねているのに、いつのまにか「メカニズム」の説明になっていて、解答者の説明に今一つ納得いかないパターンになる事が多い。それは、やはり解答者の勝手な「翻訳作業」に起因する事が多い。科学的に正しい説明であっても、子どもは必ずしも納得する訳ではない。子どもは子どもなりに、期待する答えがあるのである。しかく納得いかないながらも、新たな物の見方が増えればいいと思う。

 ただし、生物についての質問において、「目的論」で解答してしまう例が結構あって、これは功罪あるのかなと思った。例えば、「どうしてセミのオスは鳴くの ですか?」と言う質問に「メスにアピールするため」という解答は、子どもにとってはわかりやすい半面、生物の存在を「すべて目的があって存在している」と 言う風に誤解してしまう可能性もある。「人間にとって害しかない生物も絶滅から守る必要があるのですか?」というような質問も、今年はあり、これは目的論 をつきつめれば、「目的がわからないものは、存在しなくていいのでは」という発想になる危険性を物語っている。

セミたちの夏 (小学館の図鑑NEOの科学絵本)

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動物哲学 (岩波文庫)

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生物多様性とは何か (岩波新書)

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 最後に「理由についての質問」。これは、「メカニズムの質問」にも落としこめない、本当に根源的な理由を問うもので、解答者が最も苦悶する質問である。ハッキリ言えば、科学者としての解答というよりも、解答者自身の思想もしくは人生観を吐露せざるを得ないものになるだろう。あるいは、やむを得ず、強引にメカニズムへ持って行ってしまう事も多々ある。今年も、「なぜ昆虫はいるのですか?」「なぜ生き物は死ぬのですか?」「なぜ人間は宇宙に行くのですか?」というような壮大かつ根源的な質問がいくつかでていて、解答者はそれぞれに苦戦していた。こういった質問はどうしても科学の領域を超えた解答にならざるをえない。

昆虫はすごい (光文社新書)

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ヒトはどうして死ぬのか―死の遺伝子の謎 (幻冬舎新書)

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完全図解・宇宙手帳―世界の宇宙開発活動「全記録」 (ブルーバックス)

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 世間一般では、そういう問いは「そうだからそうなんだ。考えても無駄」と言う事で済ます事が多い。例えば、会津藩の藩校である日新館の什の掟に「ならぬことはならぬものです」というものがある。什の掟は優れた藩士を輩出した根幹である事は間違いないが、同時に、意地悪な見方をすれば、思考停止の呪文と言えない事もない。安定した時代では、こうした規範をゆるぎないものにする事は有用だろうが、時代が動いている時は、パラダイムの変換についていけずに、かえって命取りになりかねない。

会津武士道―「ならぬことはならぬ」の教え (青春新書INTELLIGENCE)

会津武士道―「ならぬことはならぬ」の教え (青春新書INTELLIGENCE)

 
パラダイムとは何か  クーンの科学史革命  (講談社学術文庫 1879)

パラダイムとは何か クーンの科学史革命 (講談社学術文庫 1879)

 

 

 明確な解答が得られないとしても、この問い持ち続ける事がなければ、新しい考え方もしくは新しいシステムは生まれようがない。この「なぜ?」という根源的な問いがあるからこそ、「現状維持が最善ではないかも」と言う発想に至るからである。しかし、この「なぜ?」という問いは、問いの対象が「個人」であると、場合によっては「誇大妄想」に発展する危険性もあるので、注意が必要である。「なぜ私は生まれたのか?」「なぜ私より彼女が美人なのか?」などなど。できれば、科学や社会システムの分野で存分に「なぜ?」を発した方が無難であろう。

 

私とは何か さて死んだのは誰なのか

私とは何か さて死んだのは誰なのか

 

 

 最後に、ちょっと毛並みの違う質問を紹介する。「江戸時代にコガネムシスズメガの蛹になって、アブラゼミの幼虫になって、アブラゼミの成虫になったと考えられてたらしいですが、本当ですか?」質問しているのは小学生である。科学というよりは、民俗学および科学史の質問である。解答者は、「種は成長の途中で変化しない。でも、そういった考えは大正時代まで一般的ではなかった」と言う風に答えていた。科学相談としてはまっとうな解答であり、「昔はいろいろ誤った認識があった、例えば」と具体的事例にも触れていて、「いきなり、この珍妙な質問にも答えられるとはさすが」と感心した。

昆虫食先進国ニッポン

昆虫食先進国ニッポン

 
和漢三才図会 (1) (東洋文庫 (447))

和漢三才図会 (1) (東洋文庫 (447))

 

  感心したのだが、ふと、この小学生は「書いてある事の科学的真偽」ではなく「書いてある事の文献的真偽」を尋ねているのでは、とも思うようになった。つまり、「読んだ本にこのように書いてあったが、江戸時代にそんな記録が本当に残っているのか」という科学史的・博物学的な質問なのではないか。改めて受け答えの空気感を読み取るに、そんな気がする。ところで、私が何よりも気になっているのは、小学生が読むような本に、そのような「コガネムシアブラゼミ」の記述を入れるようなものがあるのかということである。いったい、どんな本なのか?全く見当がつかない。もしかすると小学生が読むような本ではないかもしれない。どちらにしても、気になるので、出典を是非とも知りたいところである。誰かご存じないですか?

電話・夏休み・子ども・相談・科学

 とりたてて難解な用語がある訳でもないのに、正式名称をなかなか覚えられないものがある。私の中では、「夏休み子ども科学電話相談」がその筆頭にあがる。NHK第一ラジオ放送において、夏休み限定で毎年放送されている生放送番組の名前である。これを書く時も、改めて番組表で正式名称を確認してしまった。「子ども夏休み科学電話相談」でもなければ「夏休み子ども電話科学相談」でもなく「夏休み電話子ども科学相談」でもない。書いていて、段々とわからなくなってきた。「夏休み子ども科学電話相談」である。なぜ覚えられないのかと言えば、それぞれの単語が何かを修飾している訳でもなく、番組の内容を表すキーワード「夏休み」「子ども」「科学」「電話」「相談」をただ並べただけだからであろう。つまり、並べた方を変えても、番組の内容は伝わるので、どういう順番で言っても誤解を与える番組名にはならない。たぶん、普通の会話の中ではどういっても互いに通じるであろう。しかし、正式な番組名は「夏休み子ども科学電話相談」である。

 

SONY FM/AMポータブルラジオ ICF-801

SONY FM/AMポータブルラジオ ICF-801

 

 

 どのような番組かは、説明を必要としないだろう。放送を聞いた事がない人であっても、なんとなく想像はつくと思う。全国の子ども達(言葉を喋れる幼児から 中学3年まで)からNHKにかかってくる科学に関する相談の電話に各分野の専門家がその場でリアルタイムに答えてゆく、という恐るべき番組である。放送開 始は1984年。これだけ情報検索手段が発達した現代においても、こういう番組が必要なのかと思う人もいるかもしれない。実際、同じような形式番組であっ たTBSラジオ放送の「全国こども電話相談室」は2008年に終了、後継番組であった「全国こども電話相談室・リアル!」も2015年3月に放送終了して いる。50年の長きにわたり放送され、ある年代以上なら、無着成恭永六輔荻昌弘の名解答を記憶している人もいるだろう。これだけの長寿番組がなくなる というのも、やはり現代的な事情があるのだろう。

山びこ学校 (岩波文庫)

山びこ学校 (岩波文庫)

 
大往生 (岩波新書)

大往生 (岩波新書)

 
男のだいどこ (光文社文庫)

男のだいどこ (光文社文庫)

 

 

しかし、個人的には、なんでも簡単に調べられる今だからこそ、この「夏休み子ども科学電話相談」の存在意義はますます高まっていると思う。私が今後も続いてほしいと熱望する放送番組である。この番組の何がいいのか。その存在意義、あるいは面白さは、ほとんど番組名に内包されていると言ってもいい。

 

 まず「子ども」である。子どもというのは、社会的にはまだ存在様式が未確定であるから、明確な「立場」というものがない。だから、嘘でも本当の事でも、とにかく言いたいように言う。中には「子どもの立場」というのを客観視して、「大人受け」を考えて注意深く発言する場合もない訳ではないが、それとて「子どもの視点で見た」立場であるから、微笑ましいものである。ともあれ、子どもの多くは好きなように喋る。子どもは何を言ってくるかわからない。あるいは、何も喋らないかもしれない。つまり、不確定要因が多い。公共放送においては「不確定要因」はなるべく排除したい。生放送であれば、編集ができない分、なおさらである。

よい子への道

よい子への道

 

 

夏休み子ども科学電話相談」では、しばしば、電話がつながっても、なかなか喋り始めない子どもがいる。生放送である。無音である。聞いているこちらも緊張してくる。喋り始めても何を言っているのか分からない場合もある。発音自体が不明瞭、ラジオが電話の近くにあってハウリングを起こす、携帯電話からの通話で音質が悪すぎる、うまく言語化できずに意味のある内容を喋れない、など様々なケースがある。また、子どもが喋っているうちに、徐々に話が脱線してしまい、子ども自身も自分で何を言っているのかわからなくなる事も多々ある。子どもに優しくフォローしつつ、それらのトラブルを「質問内容を提示させ、先生方に答えてもらう」ところまでにとにかく修復させる臨機応変な司会のアナウンサーの手腕は毎度毎度、感心すると同時に、極めてスリリングである。

 質問内容も全く解答者の意表を突く事が多い。子どもであるから、感じたまま、思ったままを質問するのである。これは解答者にとっては、大いに楽しみな部分であると同時に、戦々恐々の不確定要因でもあろう。研究者というのは、ある体系の中で、自分の立ち位置というものを自覚しながら日々、研究活動をしている。そして、自分の専門に限ってみても、次々に立ち現われる些細な疑問・現象についてすべてを研究の対象にする訳ではない。そんな事をやっていたら、時間がいくらあっても足りないのである。数限りない現象の中から、より本質的な事項を抽出して、研究を続けるのが常である。そういう生活を続ければ、「研究としてはどうでもよい」と判断される事柄は、無意識のうちにフィルタリングされて、存在しない事になってしまいがちである。しかし、子どもはそんな事はお構いなしなので、日常でひっかかった事を「生」のまま提示してくるのである。解答者としては、そういった質問は目から鱗で興味深いに違いないのだが、それをその場で「子ども」にわかりやすく「音声のみ」で説明しなければならない緊張感は半端ではないと想像する。

 そう、音声情報しかないのである。子どもとのつながりは「電話」の音声のみ。今時、何か複雑な事を説明するのに、これだけわかりにくい伝達手段があるだろうか。図もグラフも使えない。迫力ある映像もわかりやすいCGもいっさい使えない。文字すらも見せられない。ついでに言えば、解答してくれる先生の表情や身振りも見えない。そんな状況でどうやって、遺伝子について、音の伝わり方について、説明できようか。解答する先生がぼそっと「図があれば一発で説明できるんだけどね」とつぶやく事があるが、そのもどかしい気持ちはよくわかる。どだい音声のみで説明するなど無理な話なのである。しかし、無理を承知で、先生方は最善の説明をその場で脂汗をかきながら考え抜き、子どもへ真摯に、ある時は過剰ともいえる言説によって伝えるのである。言うまでもなく、子ども相手だから、専門用語は使えない。それどころか、場合によっては日常語彙さえままならない未就学児への説明をしなくてはならない場合もあるのである。繰り返しになるが、その場で、である。子どもたちも、生の電話に極度に緊張しつつ、聞いた事もない言葉や概念も想像力で補いつつ(中には、残念ながら途中で力尽き果てて、生気のない返事に終始する子どももいる)、解答者から発せられる言葉の一言一句を聞き逃すまいと必死でついてくる。このやりとりは、ある意味、子どもの知的衝動と研究者の矜持とをかけた真剣勝負に他ならない。

 

 当然の事ながら、「相談」と言いつつも、先生が必死の想いでひねり出した解答を、子どもたちが正しく理解・納得できたかと言えば、そこは微妙であろう。「わかりましたか?いいですか?」と司会に尋ねられて「はーい」と答えている子ども達のたぶん5割くらいは「すっきりしない、消化不良のまま」電話の受話器を置いていると想像する。あるいは、司会者や解答者の勢いにのまれて、自分が本当に尋ねたかった質問は違っていたと思っているかもしれない。人生相談だったら、解答者からの説明が消化不良であったら、金返せという事になるだろう。しかし、個人的には「夏休み子ども科学電話相談」では、子どもたちがある程度「消化不良」であっていいと思う。

 そもそも、すっきりしないのが「科学」である。すべてが「すっきり説明できる」なら、科学は必要ない。よく「サ ルでも わかる~」とか「マンガでわかる~」とかいう解説書があるが、だいたい「イメージ図でわかったような気になる」だけのものが多く、この「夏休み子ども科学 電話相談」のような言葉を尽くした真剣勝負ではない。この「わかったような気になる」というのが曲者で、科学においてそれを続けると、だいたい碌でもない 似非科学にひっかかる事になる。説明を聞いても「消化不良」というのが、実は科学の本質であって、子どもにとっては特に「先生は一生懸命説明してくれたけ ど、なんだか簡単には答えが出せない難しい事がありそう」と思える事が大切である。学校教育の中では、理科でさえ「答えは必ずあるもの」として扱われる。 まあ、そうでもしておかないと点数がつけられないし、最低限の概念や用語を理解できなければ、スムーズに情報交換ができないから、やむを得ない所である。 しかし、それが「科学」であると思われると困る。

 

サルでもわかるTPP―入るな危険!「強欲企業やりたい放題協定」

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マンガでわかるフーリエ解析

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科学的とはどういうことか―いたずら博士の科学教室

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科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)

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 最後に「夏休み」である。なぜ、夏休み限定の番組なのかは、言うまでもなく、夏休みの宿題の定番、「自由研究」に悩む子どもたちを助けるというコンセプトがあるからだろう。科学に夏休みもなにもないのであるが、やはり現実問題として「自由研究」という子どもたちにとっての重荷をどうにか楽しいものにしたいという意図は多少あるに違いない。実際、この番組を通年やったとしたら、今の時代、民放の「全国こども電話相談室」と同じ末路になるような気もする。しかし、相談する子どもの声を聞いている限り、その内容は多岐にわたり、「夏休みの自由研究」のテーマについての相談は想像以上に少ない。もしかすると通年放送しても一定の子どもたちの需要はあるのかもしれない。

  いろいろな人にこの番組の素晴らしさを伝えようと思っても、夏休みが終わってしまったら放送されてない。番組の放送内容は、ほぼ毎年、書籍としてまとめられている。が、質問内容が整理整頓されて文字になってしまうと、比較的わかりやすい児童向けの科学啓発書と言う感じとなり、あの放送時の熱狂はなかなか伝わらないのである。

NHK子ども科学電話相談スペシャル どうして?なるほど!  地球・宇宙のなぞ99

NHK子ども科学電話相談スペシャル どうして?なるほど! 地球・宇宙のなぞ99

 

 

また番組のサイトには、解答した研究者の肉声による質問解答の音声ファイルがあるが、これは後から録音し直したもので、先生方も落ち着いた口調で語っており、すでに放送大学風な雰囲気になっている。やはり、生で聞かないと「夏休み子ども科学電話相談」の凄さは分からない。ほとんどひと夏の幻のような番組である。そして、今年の夏も終わってしまった。

言っている事がわからない原因について

 相手が何を言っているのかさっぱり分からない。自分の知らない言語であれば当然そうなるが、母国語でも全くわからないとなると、いくつか原因が考えられる。

 まず音声言語に関する脳の部位に傷害があれば、音声を耳がとらえていても「言葉として」が認知されない事が考えられる。何か声が聴こえることはわかるが、意味がとれない。単語の意味はとれるが、言っている内容の全体がわからない。まあ、本当にそこまでの傷害が生じて明晰な意識があるのかわからないが、想定としてはありうるだろう。あるいは、精神的なストレスによって難聴になる場合(機能性難聴)もあるが、これも感覚器としての聴覚の機能が失われている訳ではなく、脳内の処理の問題のように思われる。

 

言葉と脳と心 失語症とは何か (講談社現代新書)

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 次に考えられるのが、特定の人たちの間でしか使われていない単語のみで話をしている場合だ。同じ日本語であっても、そこで自分の知らない単語が一定以上含まれていると相手が何を言っているのかわからない状態になる。例えば、それなりに年配の津軽弁の人と鹿児島弁の人とが会話をしようと思っても、ほとんど意思疎通がはかれないであろう。まず、単語に共通項が薄いし、高低アクセントも違う。しかし、同じ日本語の構造を持っているし、母音子音の発音システム自体は共通項があるので、なんかわかりそうな気もするのだ。でも、何を言っているかわからない。冷静に考えて見れば、津軽弁と鹿児島弁、デンマーク語とアイスランド語くらいに違うような気もする。デンマーク語もアイスランド語も同じ北欧語として文法構造はほぼ同じである。ともあれ、津軽弁と鹿児島弁は、その語彙の相違からして、少なくとも、日本語を母語としない人にとっては全く違う言語の様に聴こえる事は間違いないであろう

かごしま弁入門講座―基礎から応用まで

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うっちゃんの今すぐ話せる津軽弁

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北欧世界のことばと文化 (世界のことばと文化シリーズ)

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 方言ではないが、女子高生の間でときおり交わされる「仲間内だけの会話用」に「ばび語」が用いられることがある。これは、通常の言葉の母音の後に「ば行」の音を挿入して、元の単語の「音声言語的な構造」を破壊する試みである。「うなぎ」だったら、「うぶなばぎび」、「ありがとう」なら「あばりびがばとぼうぶ」といった具合である。文字に起こすと勘のいい人なら、どういう規則かはわかってくるだろうが、音声で聴いているだけだと本当に宇宙人の言葉かと思われるくらいに全く意味が取れない。しかも、それまで普通に日本語を喋っていた女子高生たちが、いきなりこのような意味不明な言葉を発するようになるのは衝撃的である。やたらに長くなるから無駄ではないかという気もするが、話し言葉はこれくらいの冗長化は問題にならないらしい。むしろ、互いの結束を高める方が女子高生には重要であろう。この「ばび語」は、ずいぶん昔の山岸涼子の「妖精王」と言う作品にも登場する(山岸涼子の創案ということでもないらしい)。他にも第一音節のみに「のさ」を入れる「のさ言葉」というものもあり、それなりに歴史は古いらしいが、普遍的に誰もが知っているとは言い難い。基本、一時期の「言葉遊び」で通過する類のものであろう。これらは音声ノイズの入った日本語にすぎず、文字言語としては解読することは容易である。しかし、音声言語となった途端に全くわからなくなる。しくみがわかった後でも、聞くだけではなかなか意味が取れない。つまり、「ばび語」は、言葉を耳でとらえる時に、いかに音節のまとまりの聴こえ方で意味を認識しているかを痛感できる事例である。

 

妖精王 1 (山岸凉子スペシャルセレクション 11)

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 他に「周波数(Hz)」および「音量(dB)」が要因となって、言っている事が聞きとれなくなると言うのもありうる。いわゆる難聴というものである。といっても、音という音が全く聴こえなくなるということは滅多になく、ある周波数が聞き取りにくくなると言うことである。人間の可聴周波数の範囲はだいたい20Hz~20000Hz程度である。同じ音量ならば、一般的に加齢とともに、可聴周波数の範囲は狭くなってゆく。個人差はあるだろうが、若い人ほど高い周波数の音が聴こえる事になっている。50才を超えたら、まず16000Hz以上など聴こえない。よって、年寄りには聴こえないモスキート音と呼ばれる17000Hz程度の音を出す機器で若者だけを不快にさせる(または様々な動物を撃退する)試みがなされているようだが、少なくとも、私にはよく聴こえないので、その音が不快かどうかはわからず、本当に効果があるのかはよくわからない。余談だが、夏の寝室で耳元に聴こえる本物の蚊の羽音はせいぜい600Hz程度であって、よほどの難聴でない限り、年齢に関係なく聴こえる。歳を取ったからと言って聴こえなくなる事はない(現に、余裕で私も聴こえていて、腹立たしいことこのうえなし)。よって、モスキート音というのは、あの不快な音を象徴した名称なのだろうと思う。ただ、確かに蚊の羽音は昆虫の中では高い音だと思う。

 

モスキート/MOSQUITO -大人には聞こえない音-

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ユタカメイク GDX‐M ガーデンバリア (ミニ)

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 言っている事がわからない話に戻す。人の音声言語には母音と子音がある。母音は、主に声帯を振動させて発生するので、比較的低い周波数成分の多い音になる。もちろん性別や年齢によって、その高さは変わるが、声帯の振動がメインであることには変わらない。ところが、子音の多くは唇や舌、歯ぐきなどの破裂音・摩擦音によって生じるために、高い周波数成分を含む事が多くなる。となると、加齢によって、子音の明瞭な聞き取りが徐々に難しくなって、老人性難聴、いわゆる「耳が遠い」と人から言われる状況になってゆく。それは音として聴こえてはいるが、子音が部分的に欠落した、穴埋め問題のような言葉になっている状況なのだ。しかし、老人性難聴の人に話しかけた若者は、相手に意味が通じてないと分かると「何も聴こえてないのでは」と思ってしまう。そこで、大声でゆっくり話す事になる。しかし、わからないのは子音なのである。母音の部分を大声で喋っても、うるさいだけだろう(あくまで想像)。子音のみ明瞭に大きくゆっくり発声してほしいのだ。

 

「魅せる声」のつくり方 (ブルーバックス)

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声のなんでも小事典―発声のメカニズムから声の健康まで (ブルーバックス)

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 このように相手が何を言っているのかわからない状況は、「音声が聴こえていても」起こりうることである。ただし、自分自身の言語理解力の不足についてはこの限りではない。すなわち相手の言っている事が明確に言語としてトレースできても、それがその場においてどのような意味を持ち、どんな文脈の中で語られているのか分からなければ、こちら側から正しい返答はできない。そのような判断は日々、他者とのコミュニケーションを通じて鍛えるほかない。

コケカキイキイと日本脳炎

 ある言葉の語感が与える印象と言うのは、想像以上に大きいものである。どのような語感がどういう印象を与えるかは、人によって違うだろうが、「意味のわからない言葉は、語感がすべてである」と言う事はほぼ言えるのではないか。語感が今一つならば、その言葉を覚える事はなかなか難しい。例えば、「モホロビチッチ不連続面」と「和達ベニオフ面」とでは、暗記しやすさと言う点で、やはりモホロビチッチ不連続面に軍配があがるのではないだろうか。あるいは、意味はちゃんとあって、正しく学習すれば推測できる言葉であっても、語感が強いと、違った意味に解釈してしまうことがある。例えば、「うさぎおいしかのやま、こぶなつりしかのかわ」を「うさぎ美味しかの山、小鮒釣り師かの川」と解釈してしまうような類である。

もういちど読む数研の高校地学

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ベスト・オブ・唱歌&抒情歌/赤とんぼ~ふるさと

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 小学校の頃、どこからか「コケカキイキイ」という言葉を聞いた。どんな意味なのか、さっぱり見当がつかない。つかないが、聞いたら、忘れようがないインパクトのある語感である。国語辞典にも載っていない。大人に聞いても誰も知らない。それ以上進展がないので、しばらくは意識にでてこなかった。ところが、中学生の頃に様々な昆虫が媒介する病気について本で読んでいたところ、ふと「コケカキイキイ」が思い出されたのである。大した根拠もなく「コケカキイキイ」は、「苔蚊(コケカ)」という特別な蚊が媒介する風土病で、その風土病に感染すると「きいきい」うめきながら苦しむ、と言う風なイメージが確立したのである。そう思うと、「コケカキイキイ」という語感は、「ツツガムシ」とか「ツェツェバエ」よりも強力なような気がした。別に、そんな事が書いてある資料は存在しないのだが、非常にマイナーな風土病であるから、世間一般に知られてないと考えれば納得する。そんな印象で、「コケカキイキイ」は風土病の名前であるようにぼんやりと思い続けていた。本来の意味を知ったのは大学を卒業してからである。

寄生虫病の話―身近な虫たちの脅威 (中公新書)

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 蚊で思い出したが、「日本脳炎」もまた、小学校低学年までは、なんとなくぼんやりと「二本農園」と言う風にイメージしていたのである。なんか、梨狩りと葡萄狩りとが同時に二本立てでできる農園のような事を想像していたのだ。蚊が媒介するとか、怖い伝染病だとかの意識はあまりなかった。そもそも周囲に発症している人はまずいないので、感染症としての実態も把握しようがない。教科書的に学ぶまでは、明確にどんなものなのかはわかってなかったと言ってもいい。ただ単純に、予防接種の時に、ささやかれる言葉から勝手にイメージを膨らませていたのである。しかし、語感で考えた場合、「にほんのうえん」というのは、いかにも長閑で平和である。これが「極東痙攣熱(きょくとうけいれんねつ)」とかであったら、語感的には実際の病原体が引き起こす症状をかなり反映するような気がする。

 

ちいさい・おおきい・よわい・つよい no.85―効果は?安全性は?ヒブ、肺炎球菌、日本脳炎、ポリオ・ワクチン

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 蚊つながりでいえば、殺虫成分の「ピレスロイド」とか「アレスリン」とかいうのも、いかにも昆虫を粛々と抹殺してゆきそうな語感である。やはり、「ス」の音が効いているのである。サ行の音が入ると、なにかその物質に殺傷能力が出てくるような気がする。「サリン」「ストリキニーネ」「ムスカリン」「シアン化ナトリウム」「テトロドトキシン」「ダイオキシン」などなど。単純に「サ行」が入っている毒物を例にあげているだけの様な気もするが、あくまで印象であって、深い意味はない。「酸素」だって、サ行じゃないかと言われればそれまでである。しかし、「ピレスロイド」が「ピレフロイド」とかなっていたら、なんか料理名のような感じになる。あるいは、「アレスリン」が「アレポリン」とかなったら、アイドルグループ名のようにしか聞こえない。やはり、それほどに語感は重要なのである。今の子供たちなら、きっとピロリ菌の「ピロリ」を勝手にNHKの教育番組に出てくる歌舞音曲担当キャラクターのような存在を想像しているような気がする。

 

マイクロアトミック 200ml 安全性の高いピレスロイド系殺虫剤

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毒物雑学事典―ヘビ毒から発ガン物質まで (ブルーバックス)

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 ところで、「コケカキイキイ」であるが、これは水木しげるが創案した現代文明を警告する生物のキャラクター名である。死期の迫った老婆、捨てられた赤子、公害で弱った老猫、その猫にとりつくシラミが合体して、コケカキイキイという新たな生命体が誕生した。そして、コケカキイキイは人々の不満を食べて成長する。1970年頃の作品であるが、このインパクトのある名前自体は、実は1930年代には紙芝居の作品の中に登場しているようである。じゃあ、オリジナルはそちらにあるかといえば、たしかに「名前」自体はそうかもしれなしが、キャラクターとしては、水木作品とは全く違うものである。水木しげるの代表作である「ゲゲゲの鬼太郎」にしても、戦前から「墓場奇太郎」として、紙芝居界では定番の話を、水木が受け継ぎ、独自のキャラクターとして発展させたものだそうだ。コケカキイキイも、おそらくは水木しげるが「温故知新」の精神で、古い紙芝居の題材に新たな命を吹きこんだキャラクターなのである。それにしても、コケカキイキイの語感の無駄な鋭さは、本物の奇怪な風土病の名称にいつか活用した方が良いと思う。

 

すべての動物は虫である

 動物、と聞いて何を連想するか。動物に関しての選択基準がどうやらこの世には二つの流派があると気付いたのは、それなりに大人になってからである。その二派とは「哺乳類・鳥類=動物」派と「動く生物=動物」派である。「動物と言えば、猫、犬、ウサギ、鳥の類」と言うイメージしかわかない人がことの他多いのである。本や学校などで学習した事が一応、知識として頭に入っていたとしても、厳密な定義上の話をしている訳ではないので、日常のイメージで想定される動物は、そういう人々の頭の中では「哺乳類・鳥類」なのである。「哺乳類・鳥類=動物」派の拡張されたバージョンとして「脊椎動物=動物」という人もいるが、そういう人はいろいろ事情があってそういう結果になっているので、滅多にいない。幼年時代より「動く生物=動物」派の私にとって、「哺乳類・鳥類=動物」派が実は社会では多数派であると分かった時の衝撃は忘れる事ができない。

 

 しかし、「哺乳類・鳥類=動物」派の視点でこの世を見てみると、確かに「哺乳類・鳥類=動物」という事でも抵抗がないようになっているのだ(まあ、これは順番が逆だろうが)。例えば、「動物園」。動物園といえば、確かにメインは哺乳類・鳥類なのである。もちろん、爬虫類や両生類も展示している動物園はあるが、哺乳類が全くいなくて爬虫類しかいない施設を「動物園」とはまず言わないであろう。なによりも子供用の図鑑において「動物図鑑」というのは、哺乳類がメインなのである。載っていても爬虫類・両生類までで、鳥類・魚類・昆虫の類はそれぞれ別個の図鑑になる。そんな別個にするなら「哺乳類図鑑」とすべきだろう。そうならないのは、暗黙の了解として、「動物=哺乳類・鳥類」という社会的な通念があるからに違いない。余談になるが、最近の学習図鑑は各社とも本当によくできている。子供だましなところは全くなく、学術的にも最新の成果を反映させて、より専門的な学びにも誘導させてくれるような配慮が随所にみられる。大人が読んでも充分に勉強になる。

DVD付 新版 動物 (小学館の図鑑 NEO)

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DVD付 動物 (講談社の動く図鑑MOVE)

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動物 (学研の図鑑LIVE(ライブ))

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 私個人の印象にすぎないのではあるが、「哺乳類・鳥類=動物」派は小さいころからあまり自然と直接コンタクトしてこなかった人が多いように思う。基本、毛の生えている恒温動物しか日常で認知していない。というか、それ以外は「認知したくない」ように見えることもある。そういう人は、動物と言えば、まっさきに思い浮かべるのが、哺乳類・鳥類のペット(主に猫か犬、インコ)だろう。さらにつっこめば、彼らの頭の中では、知識としてはあるにせよ、牛や豚さえも、感覚的には「動物」じゃなくて「肉」という分類になっているような気もする。

知っておいしい 肉事典

知っておいしい 肉事典

 

 

 一方、「動く生物=動物」派は、幼いころより自然の中で活動し、様々な動く生物を採集してきた人が多いと思う。採集の対象は、主に昆虫、爬虫類、両生類、魚類である。海辺であればもっと種類は増えるであろう。しかし、子供たちにとって、哺乳類や鳥類が採集の対象になる事は、それほど多くはない。というのも、その辺の野山には子供にそうやすやすと捕まる哺乳類や鳥類はいないし、そもそも一部の鳥類を除き個体数自体が少ない。それに、今となっては法的に鳥獣を勝手に捕獲することは許されないだろう。

 食品成分表によれば、「肉類」と言えば、食品の分類上は毛の生えた動物である鳥類・哺乳類の筋肉・臓器がほとんどである。分類上は、ぎりぎり、爬虫類・両生類(他に昆虫である「いなご」も入っている)の筋肉も含まれるが、まあマイナーであろう。そして、同じ筋肉であっても、魚介類は「肉類」とは呼ばれない。クジラが魚介類ではなく、「肉類」に分類される所を見ると、単純に流通上の分類ではなさそうである。

食品成分表2015

食品成分表2015

 

 

 さて、学問上、動物とは何かと言えば、「後ろについている鞭毛で前進する細胞を持ち、かつ多細胞な生物」ということになる。何を言っているのかわからないかもしれない。「後ろに鞭毛があって前進する細胞」とは、つまりは「精子」のような細胞のことである。オタマジャクシのような形態をイメージしてもらえばいい。なおかつ、複数の細胞が組み合わさって体ができている。現在では、動く事は、動物であることの証明にはならない。だから、単細胞であるゾウリムシやアメーバは動物ではない。

普及版 やさしい日本の淡水プランクトン図解ハンドブック

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淡水微生物図鑑 (原生生物ビジュアルガイドブック)

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 そういう定義での最も原始的な動物は、海綿動物である。海産の動物で、動きもしないので、一見すると得体のしれない苔のように見える生物である。といっても、日常で生きている姿を見る事はほとんどないだろう。ただ、その海綿の抜け殻がスポンジ用品として普通に売っている。そもそも海綿動物の英名が「sponge」である。細胞があった部分は腐敗して抜けてしまって、空洞になっている。その細胞を支えていた部分がスポンジとして機能する。さて、その海綿動物を作っている細胞の中に、襟細胞(えりさいうぼう)というものがある。鞭毛が生えている周囲にまるでフリルのような襟の構造がついている細胞である。海綿動物自体は、動かないが、この襟細胞そのものは盛んに鞭毛を動かして、水流を作り、海中の成分を濾して、吸収している。

【業務用】天然海綿10個組

【業務用】天然海綿10個組

 

 

 そういった、海綿動物の襟細胞に酷似しているのが、単細胞生物の一種である襟鞭毛虫である。海綿動物の細胞群をばらばらにしたら、もうそのまま襟鞭毛虫になるくらいに似ている。見かけだけでなく、遺伝子の類似性から見ても、相当に近いグループであることがわかっている。以前は、鞭毛がある単細胞生物ということで、鞭毛虫という大きな分類があり、その中の一つとして襟鞭毛虫があった。しかし、今では最新の研究によって、襟鞭毛虫は動物の直系の祖先として特別な位置を占めている。動物の祖先は「虫」であり、そこからあらゆる動物が進化してきた。つまりは、すべての動物は元は虫であるといっても、大きくは外していない。その辺の動物の進化の最新成果については、長谷川政美著「系統樹をさかのぼって見えてくる進化の歴史」ベレ出版が圧倒的にわかりやすい。少々、値がはるが、その情報量からすると、コストパーフォマンス大変良い本であるので、「自分はどこから来たのか?自分の祖先は何?」という想いがあるのなら、是非ご覧になっていただきたい。

系統樹をさかのぼって見えてくる進化の歴史 (BERET SCIENCE)

系統樹をさかのぼって見えてくる進化の歴史 (BERET SCIENCE)

 

  ただ、「虫」というのも、人によってイメージするものが違うので、なかなか難しいところである。昔の中国においては、鳥獣類と魚類以外は、ヘビでもカエルでもすべて虫である。日本では、おそらく「虫」といえば、日常で食用としてない無脊椎動物全般をさすように思われる。人によっては「昆虫」に重きを置く場合も多いだろう。ただ、ここで言う「虫」とは、学術的には「zoa」と記されるものである。決して、「insect」や「worm」ではない。私は動物であるので、このブログ名のzoazoa日記はここからきている。

選択基準の罠

 誰しも自分が感じている以上の事を発想するのは難しいものである。ある人が感じている事というのは、ある人の目や耳などの感覚器から入った外部情報すべてではない。外部情報をすべて保存できるほど、私たちの脳の容量はない。私たちは外部から様々な情報を選択的に取り入れている。外部情報のうち何を「選択」するのかは、人によって全く違う。なぜ違うのかと言われても、それはその人の「個性」としか言いようがないので、答えようがない。理由を考えるとしても、その理由を考えるのも、また人間であって、その理由の考察に「選択」がかかるから、ますます訳のわからないことになる。

 選択された情報は、脳内にストックされ、他のストックされた情報と組み合わさり、新たな情報を取り入れる時の「選択の基準」となる。その繰り返しで、年齢が重なれば重なる程に「選択の基準」は強化されてゆく。「選択の基準」が強化されすぎると、何を見せても聞かせても同じような解釈しかできず、「頭が固い」などと言われるようになる。しかしながら、その選択の基準が全くないと言う場合、この世界はあまりに不確定である。いったい、外部情報をどう処理していいものかわからない。世間一般では処理できない情報を「訳がわからない」という言葉で表現する。この世界が「訳のわからない事」だらけだったら、とてもじゃないが、平穏安心して生きてゆく事は難しい。

 さらに言うなら、ある程度はその「選択の基準」が互いに共有される必要もある。人間は、やはり社会の中で生きているので、「最低限の選択の基準が共通である」という前提でなければ、社会生活はなかなか困難であろう。互いに全く理解不能な「選択の基準」しかないなら、コミュニケーションは辞書で定義されている言葉上のやりとりに過ぎず、各個人が持っている「実感」を持って情報のやり取りが出来ない事になる。話しが通じているようで、通じてないというのも、こういった「選択の基準」が微妙にずれているために起こるような気がする。誰にも理解できない、その人だけの「選択の基準」のことを妄想と言い、その妄想が社会生活を送る上で大幅に障害となった場合は、統合失調症のような状況ということになるのであろう。

 

ボクには世界がこう見えていた―統合失調症闘病記 (新潮文庫)

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 かなり大昔にNHKで連想ゲームという番組があった。チームが二つに分かれて、キャプテンだけがお題を見る事ができる。そして、キャプテンがそのお題から連想される言葉を提示して、各チームの回答者がそのお題を当てると言う流れである。今思えば、非常に地味な番組である。当然のことながら論理的に導き出されるヒントは駄目である。例えば、お題が「5月」だった場合「4月の次の月」とかいう類い。つまり、連想される言葉というのは、辞書で機械的に調べられるものでなく、同じ文化圏で育った人々にそれなりに共通の「選択の基準」から導き出されるのである。しかしながら、その連想の幅は、すなわち選択の基準は人によって微妙に違う。違うから、いくらヒントを出してもわからない場合がある。そこで、他の回答者が正解を言うと、分からなかった回答者は「あ!そういう見方もできたか!」と気付く訳である。そこにゲームとしての面白みがある。

ペアペア連想ゲーム 完全日本語版

ペアペア連想ゲーム 完全日本語版

 

 

 

 さて、ここで究極の連想ゲームが展開される映画を紹介したい。「ユージュアル・サスペクツ」。見た事がある人ならいろいろな意味で「究極の連想ゲーム」という言い回しに納得していただけるかと思う(というのも、私の「選択の基準」がある程度は共有されるだろうという見込みで書いている)。題名の意味は「お決まりの容疑者」ということであるが、すでにこの題名からして見る人の「選択の基準」を誘導している。どんな話かといえば、コカインの取引現場が襲撃され、唯一の生存者キントの尋問が始まる。この尋問がリアルタイムの現実の出来事で、キントの証言はすべて回想で表現され、それを軸として事件の真相に迫ってゆく。基本、キントの語る回想を映像で再現する訳だが、その回想シーンこそが、見ている者の各々の選択の基準へと誘導してゆく罠なのである。

ユージュアル・サスペクツ [DVD]

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  映画(に限らず、コミック、小説、演劇)には、「結末がほぼ見えているけれども、何度見ても感激する作品」と「結末は予想できない、もしくは全く予想外の結末になり、一旦結末がわかってしまうと二度目からは興奮が半減する作品」とがある。前者は「ヒーロー・ヒロインもの」「恋愛もの」のような「様式化」した物語である。話の途中でいろいろあってハラハラドキドキしても、結末はほぼ決まっている。車寅次郎は結婚しないし、ジェームズ・ボンドは死なないし、出会うことなく男女がすれ違ったまま終わるラブストーリーもない。結末は決まっているので、そこ至る過程での様式を楽しむのである。

 

第1作 男はつらいよ HDリマスター版 [DVD]

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  後者はミステリーやサスペンス(場合によってはSF)作品がこれに該当する。そういった一つの典型例として、「猿の惑星」1968年版がある。ある宇宙飛行士が不時着した惑星は、言葉を操り文明を築いている猿の惑星だった。そして人類は猿以下の存在だった。最後に主人公はどういう現実を知ってしまうのか。という、知っている人には、今更な作品ではあるが、まだ見た事のない人は、そんなに注意い深く伏線を追わなくても一瞬でわかるオチなので、最初に見る時の新鮮な驚きを味わってください。わかってしまえば、この驚きは二度と味わえないので、見る前にネタばれサイトを覗くのは厳禁である。

猿の惑星 [DVD]

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  さて、「ユージュアル・サスペクツ」である。この作品の場合、衝撃の結末を知ったとしても、二度目が興醒めになるかといえば全くそんなことはない。というよりも、何度見ても新たな発見がある作品であって、よほどに練られた脚本である事がよくわかる。後者のタイプの映画ではあるが何度でも楽しめる例外中の例外な作品と言える。ハッキリ言って、これほどに人間の選択基準の隙をついた作品はなかなかない。ということで、まだ見ていない人は、これもまたネタばれサイトなどは一切見ずに、鑑賞してみてください。そして、自分の「選択基準」によって、どのようにミスリードされていったのかを2回目、3回目鑑賞するたびに確認してみると楽しいと思う。

 自分の力で、自らの選択基準を変える事は難しい。強制的な外的環境の変化、もしくはこのような映画などによって、自らの選択の基準の脆弱性に気付くが多い。仮にこのような映画や連想ゲームを媒介しないでも、普通の日常生活の中で「選択の基準」の見直しができるような人がいるとすれば、社会との関係性を保ちながら常に新しい世界が見えているということであるから、人生が毎日新鮮で楽しいと思う。しかし、人間の脳の特性として、なかなかそういう境地には至れないようである。