ZoaZoa日記

気の向くままに書き散らしてゆきます。皆さまの考えるヒントになればと思います。

「この世界の片隅に」は無形文化遺産である

「でもアニメでしょ」と言う人に

 随分と大きく出たタイトルだが、既に作品を映画館で見ているなら「そうかもしれんな」と思った人もいるかもしれない。時間が経てば経つほど、「この世界の片隅に」の物凄さを実感している。既に「音の風景が広がる」「化学」の視点で私なりにこの作品について書いたのだが、その後、見た人の多種多様の様々な視点がほぼ無尽蔵に出てきて驚きの毎日である。こうの史代・片渕監督・素晴らしいスタッフの方々の当初の意図を徐々に超えて、多くの観客がこの作品へ養分を与えて育てている感すらある。

 もちろん真面目に「ユネスコ無形文化遺産に推薦しよう!」と言いたい訳ではない。この作品はそんな権威付けとは無関係だ。より多くの人が映画館に行ってこの作品を「体験」してくればいいのである。しかし、映画館に行かなければ始まらない。観客数が頭打ちになり、映画館での上映が次々と打ち切りになってしまう可能性は今でもある。

 

 ということで、私としては珍しくいろいろな人に「この世界の片隅に」を見に行くよう伝えているのだが、「でもアニメでしょ」と言われる事が案外と多いのである。そのような人に「アニメだけど、描写が本当に凄いんだよ、実写で出来ない事をやっているんだよ!」とあれこれ言葉を尽くしたところで、「でもアニメでしょ」と同じ返答がくるのである。そりゃあ、「この世界の片隅に」は正真正銘アニメーションである。そこは否定のしようがない。アニメーションと言う存在を生理的に受け付けないというのなら、致し方ない。しかし、ある年代以上で「アニメは嫌いではないが、映画館で見るようなものではない」と思い込んでいる方もまだ多いようなのだ。どうも、大昔に孫に付き合って見たアニメを基準として「アニメ=漫画=子供向け」という感覚で今まで来てしまっている可能性が大きい。当然、孫が成長した後はアニメなど全く見ない日々である。はっきりいってそういった世代の方々にこそ見てほしい作品なので非常にもったいない。

 ここで邪道かもしれないが権威を利用する事にしよう。すなわち「ユネスコ無形文化遺産になりうるアニメだよ」という殺し文句を繰り出すのだ。すべてではないにせよ、ある年代以上は、世界遺産とか無形文化遺産を妙に有難がる人が多い傾向がある。実際にそれぞれ価値のある事物だからそれらに感動する事は悪くはない。しかし、「富岡製糸場世界遺産に登録された」と聞いて、「是非行ってみたい!」などと衝動的に言いだす人を見ると「昔からずっとあそこにあるんだけど、、」とつい言いたくなる。どうも「権威」が付く事が重要な人もいるようなのだ。そこで映画館へ足を運んでもらうための方便としてユネスコの「権威」を使わせてもらうのだ。

 しかしながら、「そんなのはあんたが勝手に思っているだけでしょ。実際、認定された訳でないし」という反論が来る事は容易に想像がつく。そりゃそうだ。ということで、これから「この世界の片隅に」がユネスコ無形文化遺産になりうる根拠を書く。半分冗談だが半分本気である。

 

ユネスコ無形文化遺産の条件

 まず、ユネスコ無形文化遺産の定義を記すと

 

慣習、描写、表現、知識及び技術並びにそれらに関連する器具、物品、加工品及び文化的空間であって、社会、集団及び場合によっては個人が自己の文化遺産の一部として認めるもの

 

だそうだ。

 

 なんだか、解釈を広げれば、私たちの文化的な活動・生産物はすべて当てはまりそうであるが、当然、選定基準がある。選考基準は二つ。

 

 1.たぐいない価値を有する無形文化遺産が集約されていること

 2.歴史、芸術、民族学社会学、人類学、言語学又は文学の観点から、たぐいない価値を有する民衆の伝統的な文化の表現形式であること

 

 「誰が『たぐいない価値』を決めるのか」というツッコミはひとまず置いといて、映画「この世界の片隅に」が、これら選考基準に適合するか考えてみよう。

 

映画「この世界の片隅に」は無形文化遺産の選考基準を満たしているか

 選考基準の1番目は、映画を見た人なら言わずもがなであろう。まず「無形文化遺産が集約されている」という文言は、まさに映画「この世界の片隅に」そのものである。観客に「すずが実在している」と思い込ませるために、人々の記憶に微かに残されているあの時代の文化の様相が圧倒的なリアリティによって濃縮還元されているのだから当然だ。そして、口コミ中心でこれだけの観客を引きよせ、高評価な人が大半(11月23日時点で、yahoo評価は4.56 / 評価人数2000以上)な訳だから「たぐいない価値を有する」と判断してもよかろう。とはいえ、「アニメなんて」という人にとっては「それは単にお前の思い込みだろう」「高評価は流行に踊らされているだけ」と言われるかもしれない。

 

 そこで選考基準の2番目。具体的な基準を示そう。

 まず「歴史」「文学」の観点だが、本作品は第二次世界大戦(太平洋戦争)についての貴重な伝承文学と捉えることができる。語り部は言うまでもなく「すず」である。本編ではすずが見聞していない事はほとんど「伝言」「回想」でしか登場しない。あくまですずの近辺で起きた事を「自作の絵画」なども通して語ってゆくのだ。すずの語りがリアルであればあるほど「すずが実在したかどうか」は問題にならなくなる。それは伝承文学の大きな特徴である。そして伝承であるからこそ、リアリティが出てくる。

 民俗学」「人類学」「言語学の観点では、作品中で、当時の生活の中で存在したすべての事物を、音声や形態も含めてほとんど偏執質的に詳細に再現している点があげられる。それは日常の細々した生活道具や民家の建築様式などはもちろんのこと、その地域に伝わる風習・言い伝え(傘や箸の話)そして方言(呉と広島の微妙なイントネーションの相違)にまで細部にわたる。また、季節ごとの的確な自然環境の描写を盛り込む事で、その地域の自然風土に合わせた伝統的な祭りや生活様式・伝統的産業も巧妙に表現している。

 社会学の観点では、当時の家父長制や隣組(隣保班)および軍隊組織が実際の生活の中でどのように機能していたか、あえて説明的な台詞を一切使わず、些細なエピソードの積み重ねによって描写している。同時に、観客は現在の日常での人間関係を思いだし、「家父長制」や「隣組」そして「軍隊組織」の残渣が潜在的な構造として現在も継続している事を実感することになる。

 そして、「芸術」の観点。人をそれまでとは違った世界へ連れてゆく創作物を芸術と言うのなら、映画「この世界の片隅に」はまさに芸術以外の何物でもない。なぜなら、この作品を観る事で、観客の精神は「すずが本当に生きている戦前の呉・広島」へ連れて行かれてしまうのだから。

 

 これらの観点をまとめれば、この作品が「民衆の伝統的な文化の表現形式」として二重の意味で適合していることになるだろう。一つは日本で既に五十年以上の歴史を持つ「アニメーション」という「民衆の伝統的な文化の表現形式」である点。もう一つは「作品中での戦前の生活そのもの」が既に「民衆の伝統的な文化の表現形式」なっている点である。

 

 これだけでも充分なのだが、駄目押しをしておこう。ユネスコ無形文化遺産の選定では、選考基準の項目を満たした対象に対して、さらに考慮基準というものを付加して総合的に最終決定されるようである。その考慮基準とは、

 

 1.人類の創造的才能の傑作としての卓越した価値

 2.共同体の伝統的・歴史的ツール

 3.民族・共同体を体現する役割

 4.技巧の卓越性

 5.生活文化の伝統の独特の証明としての価値

 6.消滅の危険性

 

だそうだ。何かこの作品のために用意された様な考慮基準だ。

 

 「1」「4」については、こうの史代・片渕監督・優れたスタッフたちの卓越した創造的才能と超絶技巧を前にすれば、もうこれ以上何を説明しろというのかと言う感じである。

 「2」「3」「5」については、まさに映画「この世界の片隅に」こそが、そういった価値・役割を担っている本体そのものと言う事になろう。そして、この作品は、すずの人生を通した「時代の記憶」を世代を超えて伝播する強力なツールとなる事も間違いないだろう。

 そして「」。当面は、消滅の危機はないかもしれない。しかし、時が流れて数世代後、この作品は生き残っているだろうか。どれだけ優れた芸術作品でも、歴史の荒波の中で、あるいはもっと些細な積み重ねで、あっさり失われてゆく事は多いものである。NHKテレビで放映されていたある時期の秀逸なドラマが全話ごと消失している事などを考えても、全く油断はできないのである。

 

 以上のことから、映画「この世界の片隅に」はユネスコの「無形文化遺産」に選定される条件を充分に備えていると考えられる。

 

 「でもアニメでしょ」の人へ向けて、上記のような事を、多少尾ヒレをつけながら説明・説得し、「そこまで言うなら、見に行こうかな」となれば万々歳である(ここまで書いておいてなんだが、口頭で上記の根拠内容でそういった人を説得させる自信は私にはない。弁の立つ人、よろしくお願いします)。より多くの人がこの作品を観るために映画館へ足を運ぶ事が、遠い(あるいは近い)将来の「消滅の危険性」を低くする最善の方法である。

 

 そして、この記事を読みながら、まだ映画「この世界の片隅に」を観に行ってない人へ。

 

悪い事は言わない。

まずは、映画館へ足を運び、戦前の呉・広島に行って、すずの人生を体験して来て欲しい。