ZoaZoa日記

気の向くままに書き散らしてゆきます。皆さまの考えるヒントになればと思います。

食べ物で観る「この世界の片隅に」 ④ ‐菓子・果物‐

<菓子>

 豊かな時代の食の象徴といえば、菓子類はその典型であろう。「実物の」菓子が登場するのは、すずの少女時代と周作の浦野家訪問の時、そして戦争が終わって進駐軍が来てからだ。すずさんが呉に嫁に行ってから終戦まで実体としての菓子はなくなる。

 

 

カップ印 きび砂糖 750g

カップ印 きび砂糖 750g

 

 

 というのも、そもそも、菓子作りに必須の砂糖が大変な貴重品なのである。怖いオッサンが闇市で「砂糖一斤20円。今買わんとまだたこうなるで」と脅す事からわかるように、需要があり益々供給が減るから高値で取引されるのだ。ちなみに、1斤は約600g。換算基準によって異なるが、これは今で言うなら600gの砂糖をだいたい2~3万円で買うと言う感覚である。600gがピンとこないなら、角砂糖1個がだいたい100~150円と思っていただければよい。そんなものをドバドバと菓子に使えないのである。

 

 当時の砂糖は、北海道のテンサイ(甜菜・Beta vulgaris ssp. vulgaris )由来もない訳でもないが、多くは台湾や南洋諸島サトウキビ(砂糖黍・Saccharum offcinarum )に依存しているので、戦況が悪化して制海権がなくなるにつれて致命的に不足してゆくのだ。何もかも不足の時代と言っても、そこはサトウキビと内地で生産できる作物とでは事情が異なる。実際、一人当たりの年間砂糖消費量は1939年で16.28㎏もあった(これは2000年とほぼ同じ)のに1946年には0.2㎏にまで激減している。終戦後、製糖工場のあった南方の占領地を完全に失ってしまって、ない袖は振れない状態だったのである。と言う訳で、戦時下、特に1945年時点での菓子というのは、ほとんど幻のような存在だったと思われる。無論、戦争が終わっても国産の菓子復活までには時間がかかった。それゆえに菓子は海外からやってくる。故に「Give me chocolate」だった訳である。菓子受難時代をはさんで登場した菓子について書いていこう。

 

 キャラメルは、言うまでもなく、すずさんと周作をつなぐ重要なアイテムである。物語冒頭、眠ってしまったばけもんに周作がキャラメルを持たせる。すずさんはそんな周作を少し不思議な気持ちで眺め、家でキャラメルの香りを嗅ぎながら、夢のような出来事を思い出す。その印象がほぼ10年後の周作の浦野家訪問時、周作が持ってきた何箱ものキャラメルでよみがえる。嫁にもらいたいと来た人が誰かははっきりとわからないながらも、既にずいぶんと口にしてないであろうキャラメルを見て、ばけもんにさらわれた幻のような記憶を連想したのであろう。味覚の記憶・連想というのはそういったものだ。そして、呉に嫁に来たあと、キャラメルは路上へ描かれることでリンさんを引き寄せる。原作を知っている人なら、リンドウと帳面の切れ端がリンさんと周作を結び付ける重要なアイテムであることは認識しているとは思うが、映画版だけ見れば、今のところ、キャラメルこそが「すずさん‐周作‐リンさん」を結び付けるアイテムということになる。

 

 チョコレートは、すずさんの海苔のお使いの中島本町の駄菓子屋で登場(船着き場の森永チョコレートの看板もあり)したあとは、すずさんが子どもと間違われて進駐軍から「Hershey Tropical Chocolate」を貰うという事で再登場する。実は戦況が悪化する以前から国内ではチョコレートは非常に手に入りにくい状況になっていた。というのも、1937年にはカカオ豆の輸入が制限され、1940年にはチョコレート製品の製造が全面禁止(軍需用は除く)なっていたためである。つまり、おそらく晴美さんはチョコレートを一度も食べることなく亡くなってしまったはずなのである。そう思うと、すずさんが晴美さんの亡くなった場所へチョコレートをお供えするのも、進駐軍にチョコをねだる子どもたちをみて径子が「晴美もしたんじゃろうか…」とつぶやくのも少し意味合いが変わってくる事だろう。

 

 アイスクリームは、すずさん‐径子さん‐リンさんを密かにつなげるアイテムである。すずさんはアイスクリームを知らない。そして、すずさんは径子さんにアイスクリーム(とウエハース)がどんなものかを教えてもらう。径子のアイスクリームの記憶はモガ時代のものだ。そして、第二エンディングの回想場面では、喫茶店でアイスクリームを食べたであろうモガ時代の径子さんカップルの隣の席に少女時代のリンさんもまたアイスクリームを食べている。つまり、リンさんと径子さんが回想するアイスクリームはほぼ同じものなのである。しかし、すずさんはそんなつながりがあるとは知らない。戦後、すずさんが、福屋百貨店の食堂あたりで本物のウエハーつきのアイスクリームをはじめて食べた時、どんな感想をもらすか聞きたいものである。

 

 そして、リンさんとの路上絵に登場するハッカ糖わらび餅も肝心の砂糖が統制下であるから、作りようにもいかんともしがたい状況であっただろう。リンさんが「絵だけでも見たい」という気持ちになるのはよくわかる。特にハッカ糖は使用原料のハッカ(薄荷・Mentha canadensis )の減反が強制されている時期であるからなおさら幻の菓子となっていたと推測される。

 

 

<果物>

 食生活で菓子の代わりに「甘さ」を求めようとすれば、やはり「水菓子」の異名でわかるように「果物」ということになろう。この作品で象徴的な果物と言えばやはりイカ(西瓜・Citrullus lanatus )である。草津の家ではスイカ運搬と少女時代のリンさんとの邂逅があり、闇市で久々の実物再会、そして朝日町でリンさんと再会した時に路上の絵として登場する。サトウキビと違い、国内でもスイカ栽培は可能である。ではなぜ闇市ですずさんが「スイカは畑で禁止のはずじゃが」と言っているのか。これは1944年にスイカが不要不急作物としても統制されたためである。多くの果物が樹に生るのに対し、スイカは畑で採れる果物なので転用作物として狙われたと思われる。「スイカでなくカボチャを作れ」と言う訳だ。すずさんたちは、戦争が終わって何回目の夏にスイカを心置きなく食べられるようになったのだろうか。なんとなく翌年には食べていたような気もする。

 スイカと同じくらいに重要な果物といえば、すずさんと周作の初夜に登場する干し柿(柿・Diospyros kaki )だろう。すずさんが持ってきた本物の蝙蝠傘が干し柿をとるために使われるという不思議な展開が見る者の気持ちの置きどころを迷わせる。「すずさん、傘をもってきっとるかいの」から「昔もここへほくろがあった」への、あの一連の流れの緊張と弛緩の配合は本当に絶妙としか言いようがない。余談ながら、すずさんが闇市で「どちらにしようかな」の〆台詞の「かきのたね」をやる場面でも、カキは言葉の上で登場する。

 そして次に私の頭に浮かぶのは、すずさんを見舞いに来たすみちゃんが持ってきたビワ枇杷Eriobotrya japonica )だ。ビワの姿かたちは出てこないにも関わらず妙に印象に残るのは、おそらくはすずさんの故郷の江波山の長閑な風景をなんとなく想像してしまうからだろうか。実際、広島測候所(現・江波山気象館)は今も往時のまま残されている。

 1944年2月にすずさんが呉に嫁入りする時、汽車の中で浦野キセノがウンシュウミカン(温州蜜柑・Citrus unshiu )を食べている場面もでてくる。何気ないシーンではあるものの、(当時の東北ではまずない)瀬戸内海沿岸ならではの光景が逆に印象に残る。

 柑橘類Citrus sp )といえば、水原哲が北條家訪問の手土産として持ってきた缶詰にキンカン(金柑・Fortunella crassifolia. )があった。おそらく甘露漬けで、あの状況下ではまさに垂涎の逸品であったろう。他に刈谷さんの物々交換のリアカーにもやや大ぶりなウンシュウミカンもしくはハッサク(八朔・Citrus hassaku )らしき柑橘が乗っていた。物々交換の家の庭にあった樹木に実っていたのはもうちょっと大きい柑橘類だったように思うので、庭から採ってきたという訳ではないようだ。そして、その柑橘類を積んだリアカーは、1年前にキンカンを持ってきた水原哲の後ろを通り過ぎる。

 原作では、風邪でダウンした北條家の面々に闇市で買ってきたサボン(文旦・Citrus maxima )をすずさんが分け与える様も描かれている。すずさんは風邪をひかないのが取り柄なのである。

 ともあれ、果物は戦時下では「甘み」を味わえる宝石のような存在だったであろうし、稀に手に入ればビタミンC供給源として密かに重要であったと思われる。

 

 ⑤では、魚介類・食肉類について書いてゆく。