ZoaZoa日記

気の向くままに書き散らしてゆきます。皆さまの考えるヒントになればと思います。

「この世界の片隅に」 すずさんの戦後日記

 「この世界の片隅に」を映画館で最後まで見終わって、「あの後、すずさんたちはどうなったんだろうなあ」と思った人は、おそらく私だけではないだろう。そして、「今でもすずさんは生きています!」という片渕監督の言葉も感覚的な真実味を帯びていると思った人も多かろう。

 私個人も何度か映画を見ているうちに、すずさんのリアリティをさらに体感したい欲求を抑えきれず、「すずさんが戦後、ずっと日記をつけていたら、どんな事を書くのかな」と勝手にあれこれ妄想していた。それをまとめたのが、この「すずさんの戦後日記」である。

 はっきりいって、全国のすずさんファンの中には「こんなのすずさんじゃない!」と憤慨する方もおられようが、あくまで私個人の妄想であって、「すずさんはこうでなければならない」と私が考えている訳ではない。人それぞれに、それぞれの「すずさん」が心の中に住んでいるだろうから、それを否定するものではない。

 すずさんの二次創作においては、広島弁というのは「すずさんらしさ」を出す重要な要素である事は間違いないのだが、この日記では原則的に広島弁は使わない事にした。理由は二つあり、一つは「私自身が広島出身でないので、いいかげんな広島弁は広島出身の人から見ればストレスになるであろうこと」、もう一つは「原作において、書き言葉に方言は出て来ないこと」である。「広島弁でないとすずさんらしさが出ない」と感じる方は、それぞれの頭の中で広島弁に変換してお読みいただければ幸いである。

 また、淡々と戦後の日々を綴っていくと単調になる気もしたので、わざとらしく思われるかもしれないが、あえて片渕監督、こうの史代作品関連によるスター・システムをかなり強引に採用した。また、わかりにくい事項はリンクを貼ってある。

 書いてみて、戦後70年と一口に言われてしまうが、本当に長い年月であることを実感した。そして、人が90年以上生きるというのはこういう事なのだとも思った。ともあれ、長くなるので、気になる年代からお読みいただければ幸いである。

 言うまでもなく、本編のネタばれ満載なので、まだ映画本編を見てない人は、注意されたし。

 

 

 

すずさんの戦後日記

 

 

 

 

 

 

 

・1946年(昭和21年)~1955年(昭和30年)

 1946年(昭和21年)すずさん21歳

 戰争も終わって一年以上過ぎた事だし、いつまでも書きものが不自由だと不便なので、左手で文字を書く訓練として日記をつけやうと思ふ。それにしても、いくら左手と言っても我ながら蛞蝓がのたくりまわったやうな文字で不甲斐ない。

 

 1947年(昭和22年)すずさん22歳

 生まれて初めて選挙というものに行く。勝手がわからなくて、周作さんに誰の名前を書けばいいのか訊いたけど、すずさんの好きな人でいいと言うので、武田キヨさんに一票入れた。せっかく入れたので当選して欲しい。

 

 1948年(昭和23年)すずさん23歳

 いきなり久夫君がうちに来た。晴美さんに会いたくて家に黙って来てしまったようだ。下関に連絡して、何日か泊る事になった。お義姉さん、ずっと穏やかな優しい表情で、久夫さんにあれやこれや世話をしていて母親なんだなあと思った。それはそうと、久夫君のためにお義姉さんが買ってきたくれたアンドーナツみたいな菓子に呼ばれたがのだが、ほっぺたが落ちるほどに美味しかった。生きていてよかったと思う。晴美さんにも食べさせてあげたかった。

 

 1949年(昭和24年)すずさん24歳

 広島に野球のチームが出来ると聞いて、すごく興奮している。名前は広島カープカープは英語で鯉の意味らしい。とても縁起の良い名前だ。これからずっと応援する事を心に誓う。

 

 1950年(昭和25年)すずさん25歳

 今度は、本当にオメデタみたいだ。周作さんと話し合って、男の子なら文民政治が続くようにと「文夫」、女の子なら高台院のように逞しい女性にと「ねね」にしようと決めた。ヨーコさんは最近覚えた洋裁で赤ちゃんの服を作るとはりきっている。

*:「文夫」=フッ素(F)、「ねね」=ネオン(Ne)である。フッ素とネオンは隣同士の元素である。

 

 

 1951年(昭和26年)すずさん26歳

 ルース台風でまた家の屋根が吹き飛んでしまった。お義父さんが言うには、子供も三人になり、家を二階建てに建て直した方がかえって安上がりかもしれないとのこと。街中も新しい建物がどんどん建てられて、昔とは全然違う感じになってきている。

                           *:結局二卵性双生児だったようだ。

 

 1952年(昭和27年)すずさん27歳

 お義姉さんが子供たちの面倒を見てくれるので本当に助かる。何か、港の方が随分と賑やかになっているようで、とても大きな船を作っている。周作さんに聞いたら石油を運ぶ船で、タンカーというらしい。世界一の大きさだそうだ。どれだけの石油を運ぶ事が出来るのか、想像しただけで気が遠くなる。

 

 1953年(昭和28年)すずさん28歳

 最近、子供たちのお守をしながらラジオで「君の名は」を欠かさず聞いている。橋の上での出会いなんて、うちと周作さんみたいだ。それにしても、ついこないだまで空襲の放送を聞いていたのにこんな男女の話が同じラジオから聞こえてくるのは不思議な感じ。

 

 1954年(昭和29年)すずさん29歳

 評判になっていた「ゴジラ」を観てきた。一緒に観に行った文夫は途中で泣きだしたが、ねねは街が破壊される様子をワクワクして見ていたようだ。うちは島の影からゴジラがにゅっと現れるのがとても怖くて、この怖さに覚えがあると思ったら、鬼イチャンだ。そうか、鬼イチャン、南の島でゴジラになったのか。

 

 1955年(昭和30年)すずさん30歳

 周作さんのお供で防府天満宮に行く。近くを散歩していたら、地元の子供たちが川を堰き止めていた。何をしているのかと思ったら、金魚をそこで飼っているらしい。ちゃんと島などを作り竜宮城のように飾り付けもしていて結構本格的。

 

・1956年(昭和31年)~1965年(昭和40年)

 1956年(昭和31年)すずさん31歳

 「もはや戦後ではない」という台詞を周作さんから聞いた。戦争の後の事を戦後と言うのに「戦後ではない」というのはどういうことだろう?と尋ねて、周作さんからいろいろ説明を聞いても、何か狸に化かされたようにますます意味がわからなくなった。

 

 1957年(昭和32年)すずさん32歳

 広島の平和記念公園インドの首相のネルーさんが来た。周作さんやすみちゃんの話だと、凄く大勢の人が公園に集まってお祭りみたいだったそうだ。前に、日本へ象も贈ってくれたし、今度はわざわざ広島まで来てくれるなんて、ネルーさんはきっととても優しい人に違いない。

 

 1958年(昭和33年)すずさん33歳

 文夫がフラフープを買って欲しいというので、買ってあげたはいいが、すぐに飽きてしまい納屋に放置してある。ためしにうちもやってみたけど、案外難しくてうちの身体が回るだけで、フラフープはうまく腰の所で回らない。悪戦苦闘している所をお義姉さんに見つかってしまい、お義姉さんに貸すと、あっさり曲芸師のように回し始めて、さすがモガだった人は違うなあと久々に感心した。

 

 1959年(昭和34年)すずさん34歳

 今日は家に誰もいなかったので、テレビで好きな番組を存分に見られると思って、チャンネルをガチャガチャ回していたら、つまみが取れてしまい、NHKしか見られなくなってしまった。焦っているところに、貧相な顔をした男の人が家にゴム紐を売りに来た。話を聞いていると戦争で大変な苦労をしてきたようで、可哀そうだったので、少し高かったけど買った。その話をお義姉さんにしたら、それは「押し売り」というものらしく、久々に長々と小言を言われた。買ったゴム紐、たしかに短い。でも、テレビのチャンネルの事は誰も気付かない。シメシメ。

 

 1960年(昭和35年)すずさん34歳

 ねねがダッコちゃんを欲しいというので街で探してみたが、呉ではなかなか売ってない。困っていたら、お義姉さんのツテであっさり手に入った。ありがたい。ねねは妙にお義姉さんと気の合う所があって、外見もなんとなく似てきた気がする。ねねは周作さん似だから、当然と言えば当然かもしれない。

 

 1961年(昭和36年)すずさん36歳

 お義姉さんがヨーコさんのお見合い相手の写真を持ってきてくれた。まだ早いのではと思ったけど、うちも考えて見れば今のヨーコさんより若い時にここに来たのだった。相手の人も身寄りがなく、この家に来てくれるらしい。そうか、ヨーコさん、もうお嫁さんか。まあ、まだ決まった訳ではないけど。

 

 1962年(昭和37年)すずさん37歳

 お義姉さんが久夫君と一緒に暮らす事になった。久夫君、跡取りと聞いていたけど、もう大人だし、結局、呉で造船技師として働く事になった訳だから、親子一緒に住むのは当然と思う。この家からお義姉さんがいなくなるのは、寂しいような嬉しいような心細いような清々しいような複雑な気持ち。

 

 1963年(昭和38年)すずさん38歳

 うちもこの歳でついにお婆ちゃんになってしまった。ヨーコさん、お疲れ様。女の子でした。名前は、お義父さんから一文字とって、円(まどか)ちゃんだそうだこんにちは赤ちゃん♪この家も賑やかになる。

            *:言うまでもなく、北條家の伝統に則って、円に関係する名前である。

 

 1964年(昭和39年)すずさん39歳

 アベベと言う人は前のオリンピックでは裸足でマラソンに出たそうだ。今回の東京オリンピックでは靴を履いて走っていたけど、ゴールした後でも余裕があって、靴も買えなかったような貧乏な国から来た選手はさすが鍛え方が違うなと思った。

 

 1965年(昭和40年)すずさん40歳

 文夫が家の中でやたらに、大声でオーオー唸っているので、何かと思ったらジャングル大帝の主題歌だという。音が全く外れていて歌である事すらわからなかった。音痴な癖に大声で歌うのは円ちゃんも怖がるし、近所迷惑だからやめてほしい。

 

・1966年(昭和41年)~1975年(昭和50年)

 1966年(昭和41年)すずさん41歳

 最近、テレビによく出ている山本リンダという歌手がねねと同じ歳と知って、かなり驚いている。同じ16歳でこうも違うものか。でも、うちの16歳の頃と比べればねねの方がはるかに垢ぬけている。時代が違いすぎて、比べるのは虚しいというか無駄のような気がする。

 

 1967年(昭和42年)すずさん42歳

 円ちゃん、サンタクロースが本当にいると信じていて可愛い。リカちゃん人形が欲しいそうだ。ちょっと貫禄が足りないけれども、サンタクロース役はお義父さんに今年もやってもらおう。ヨーコさんは、大きな毛糸の靴下を編んでいる。

 

 1968年(昭和43年)すずさん43歳

 文夫、てっきり広島大学を受験するものと思っていたら、山口大学教育学部に行きたいと言う。なんでも藻類の研究で偉い先生がいるそうだ。理科の先生になるのかな。ねねの方は、お義父さんの英才教育のおかげか、東京の工学部のある大学に行って自動車を作りたいらしい。合格すれば、二人ともこの家を出る事になるので、寂しくなる。そして、うちらの財布もさびしくなる。

 

 1969年(昭和44年)すずさん44歳

 亀の映画がみたいとすみちゃんがいうので、久々に広島までお出かけ。すみちゃん、前より綺麗になって若返っている気がした。なぜ結婚できないのか世界の七不思議だ。可愛い亀が出てくると聞いていたのに、出てきたのはとてつもなく大きな亀で口から火を吐いたり回転して飛んだりして、ほとんど怪獣だ。しまいには、包丁のお化けみたいなやつも出てきて、すみちゃんに騙された気分だ。すみちゃんが何故こんな映画を見たいと思ったのか分からない。何かあったのだろうか?でも、同時上映の時代劇は可愛い化け物がいっぱい出てきて面白かった。

 

 1970年(昭和45年)すずさん45歳

 今思い出してみても、大阪万博は夢の中のおとぎの国に行ったような出来事のように思える。でも、手元にはお義姉さんから渡された「迷子ワッペン」の半分(しかも子供用?)があるので、確かに行って来たのだ。未来の服を着た案内の人に連れられて行った迷子センターは子供ばかりで大人はいなかったので、ちょっと恥ずかしかった事も夢の中の出来事ではない。でも、あの会場は大人だって迷子になってもちっともおかしくないと思うよ、周作さん。

 

 1971年(昭和46年)すずさん46歳

 帰省した文夫にボーリングを誘われたので行ったけれども、初めての事で勝手がわからず大変だった。球は重いし、前に転がす事がなかなか出来ず、思わぬ方向へ飛んでゆく。周りの人にかなり迷惑をかけてしまった。一緒に行った周作さんは意外と上手だった。昔、海軍の下士官兵集会所でちょっとやらせてもらった事があるらしい。あんな大変な時代に本当?

 

 1972年(昭和47年)すずさん47歳

 円ちゃんは、最近、テレビでアニメばかり見ているせいか、うちにムーミンやハゼドンの絵を描くようにせがんでくる。うちの頼りない線で描いても円ちゃんが喜んでくれるので嬉しいけれども、勉強しなくて大丈夫かな。まあ、うちも円ちゃんの年頃の頃は絵ばかり描いていたけどね。ふと、晴美さんと魚の絵を描いていた事を思い出す。

 

 1973年(昭和48年)すずさん48歳

 最近、どんどん物の値段があがって、このままでいくとまた配給になるのではと不安だ。周作さんのコネでトイレットペーパーなどは大丈夫だけど、そのうち「仁義なき戦い」に出てきそうな闇市の怖いおっさんの所へ買い物にいかなければいけなくなるのだろうか。それにしても、ああいう任侠映画で呉が有名になるのは正直、複雑な気分だ。

 

 1974年(昭和49年)すずさん49歳

 円ちゃんの見ていたアニメで、干上がった海に昔沈んだ戦艦大和が出てきたので、少し懐かしくなって、大和が海に浮かんでいる所をお父さんと昔に見たと言うと、大和と言う名の戦艦が本当にあったことに驚いていた。呉に住んでいながら知らない方が驚きだが、考えてみれば戦争が終わってからもう30年も経とうとしているから無理もないのかもしれない。アニメでは、大和は宇宙船になって地球を救うために一年間の旅にでるらしい。宇宙では食事とかの補給はどうするのだろうか。

 

 1975年(昭和50年)すずさん50歳

 やった!!カープ、リーグ優勝!ついにここまで来た。新幹線に乗って、後楽園まで応援しに行った甲斐があった。それにしても、新幹線、あまりに速くて景色がどんどん流れてゆき本当に映画の早回しのよう。何と言っても同じ日に広島から東京まで行けてしまうなんて、煤まみれで汽車に乗っていた頃からすれば夢のようだ。

 

・1976年(昭和51年)~1985年(昭和60年)

 1976年(昭和51年)すずさん51歳

 日本で初めて五つ子が生まれたそうだ。うちらは双子だっただけでも本当に人様よりも倍大変だったのに、それが五つ子であればどんな苦労になるか想像もつかない。五つ子だと、ミルク代も月に三万円もかかるのだそうだ。経済的にも大変だが、五人の面倒をいっぺんにみるのは聖徳太子でも無理ではないか。文夫は地元の教員採用試験になかなか受からないので、東京都を受験するらしい。また寂しくなる。

 

 1977年(昭和52年)すずさん52歳

 文夫が東京から帰省した折に紹介したい人がいるというので何事かと思ったら、どうやら文夫にもついに「いい人」ができたらしい。お世話になった教授の娘さんで光子さんというらしい。今から会うのが楽しみ。ねねは相変わらず、結婚なんてしている暇はないと言っている。

 *光子(みつこ)=光子(こうし)=フォトンである。陽子の崩壊によって生じる素粒子でもある。

 

 1978年(昭和53年)すずさん53歳

 ようやく我が家にも電子レンジがきた。これで、コンロがなくても温め直せる!さっそく朝に作ったゆで卵をいれてスイッチオン。でも、しばらくしたら物凄い音がして、中で卵が爆発していた。いったい何が起こったのかさっぱりわからない。下手に触ってまた爆発したら怖いから、誰かが帰って来るまでそのままにしてある。

                *すずさんがやったからといって、決して真似をしてはいけない。

 

 1979年(昭和54年)すずさん54歳

 ついにカープ日本一だ!!と嬉しくてテレビの前で衝動的に踊っていたら急に立てなくなってしまった、気持ちと身体が混乱して、家族に心配をかけてしまったが、どうやらこれが世に言うギックリ腰というやつらしい。

 

 1980年(昭和55年)すずさん55歳

 やった!また日本一だ!でも、今度は周作さんの監視下の元、衝動的に踊ったりせず、静かにテレビを見ていましたよ。見ていたのに、なぜか立てなくなってしまった。どうやら、興奮して無意識のうちに身体がいつもと違う動きをしていたらしい。また家族に迷惑をかけてしまった。

 

 1981年(昭和56年)すずさん56歳

 光子さんが元気な男の子を産んでくれた。名前は「元気」だそうだ。男の子らしい名前だ。光子さんが山口に里帰りする途中で、呉にも寄ってくれるそうだ。元気くん、早く見たい。

 *:元気=ゲルマニウム(Ge)である。ゲルマニウムは炭素、ケイ素、すず、鉛と同族である。

 

 1982年(昭和57年)すずさん57歳

 周作さんがいきなりギターを習いに行くと言う。仕事が忙しくて諦めていたけど、退職した今が最後のチャンスだと思ったそうだ。そう言えば昔、納屋に弦の張ってないギターが隅にあった気がする。ただ、ギター教室の先生が若くて綺麗な女の人なのが少々腹立たしい。

 

 1983年(昭和58年)すずさん58歳

 円ちゃんが通っている大学の島津先生という人は清少納言が研究テーマで、平安時代の事を見てきたように講義するので大層人気らしい。円ちゃんもその先生の研究室に入り浸っていたら、なんとその先生、どうやら光子さんの事を知っているらしい。小さい頃、光子さんのお姉さんとよく遊んだそうだ。どこでどんなつながりがあるかわからない。

 

 1984年(昭和59年)すずさん59歳

 久々にカープ日本一!今年は勢いがあったように思う。それはそうと、久夫君が西鉄時代からライオンズのファンなのでお義姉さんも実は「隠れライオンズファン」だった事がわかりびっくり。この地でよく今まで隠し通してきたなあと家族に話すと、皆はずっと昔から知っていたらしい。例によって、うちだけ知らなかったのか。

 

 1985年(昭和60年)すずさん60歳

 周作さんのギターの発表会に行った。本当に立派な演奏で感動したので、先生にお礼を言いにいったら、手放しで周作さんの事を絶賛してくれてうちの事のように嬉しい。それに対抗する訳ではないけど、うちも絵画教室に通う事にした。先生にしっかり習って、下手でもいいから左手でちゃんとした絵を描きたい。やはりうちは絵を描くのが好きなのだ。

 

・1986年(昭和61年)~1995年(平成7年)

 1986年(昭和61年)すずさん61歳

 レンガ通りで、円ちゃんが若い男の人と手を組んで歩いているのを目撃してしまった。少し後をつけてみたけど、かなり進展している仲のようだ。何故かどきどきしてしまって、ヨーコさんに報告しようかと思ったけど、円ちゃんも考えて見ればもう大人なのだから暖かく見守る事にした。ともあれ、こんな歳になっても、周作さんとリンさんの時のようにドキドキしてしまう自分に驚いた。

 

 1987年(昭和62年)すずさん62歳

文夫が担任している6年生のクラスで去年に転校してきた野球の得意な活発な女の子がいるそうで、なんとその子、カープの大ファンだと言う。東京でもカープファンがいるとは、とても嬉しい。でも、その女の子、名字が石川なので「ごえもん」と呼ばれているらしい。石川といえば、石川さゆりだっているのに、なぜ「ごえもん」になってしまったのだろう。

 

 1988年(昭和63年)すずさん63歳

 ねねがエンジン開発チームのリーダーに抜擢されて広島に転勤してくることになった。凄いなあ。難しい事はわからないけど、とにかくねねが近くに来てくれて嬉しい。それにしても、ねね、お義父さんの血筋をしっかり受け継いでいるなあ。でも、機械の話を始めると止まらない所は受け継がなくてよいです。

 

 1989年(平成 元年)すずさん64歳

 とうとう昭和が終わってしまった。今年が何年かわからなくなる時は、自分の年齢を思い出せばよかったけれど、これからはそうもいかなくなったので困ったことだ。そうだ、もう歳を取らなければいいのだな。永遠の64歳、北條すず。

 

 1990年(平成 2年)すずさん65歳

 今日は円ちゃんの結婚披露宴に行ってきた。天井からお婿さんが登場したり、ケーキの上に花火があったり、様々な出し物が次から次へと続いたりで全く飽きない。うちと周作さんの時からすれば、同じ国の結婚式とは思えない。でも、円ちゃん、衣装を着替える時はちゃんと席をはずすので、偉いなあと思った。

 

 1991年(平成 3年)すずさん66歳

 カープ、本当に久しぶりのリーグ優勝。でも、日本一になったのもついこないだのように思える。さすがに、もうギックリ腰にはならない。そこは、年の功というものだ。と余裕でこの日記を書いていたのだが、どうも何か怪しい。今、周作さんに助けを求めているところ。

 

 1992年(平成 4年)すずさん67歳

夏休みで元気くんが遊びに来てくれているのだが、小学校5年生とは思えないくらいに絵が上手い。うちを描いてくれるというので、半分冗談で若く描いて、と頼んだら、十代の頃のうちを想像で描いてくれて、それが大昔にうちが描いた絵にそっくりで、ふいに涙が溢れてしまった。こういうのは隔世遺伝というのだろうか。

 

 1993年(平成 5年)すずさん68歳

 とうとうひいお婆ちゃんになってしまった!円ちゃん、お疲れさま。元気な女の子で名前は、球美(たまみ)にしたそうだ。最近の子供の名前は外国の人のような名前が流行っているけれど、素直に良い名前だと思う。お産の時には、旦那さんも側についていてくれたそうで、世の中も随分と変わったものだ。

                        *:円を立体化して「球」にしてみたのである。

 

 1994年(平成 6年)すずさん69歳

 早いもので、うちがこの家に来てからもう50年になる。今から50年前は、お義父さん、お義母さん、晴美さん、そしてうちの右手もこの家にいて、それから本当にいろいろな事があって、新しい家族が増えて、今もこうしてこの家でうちが生きている。何か不思議な感じだ。

 

 1995年(平成 7年)すずさん70歳

 神戸で大きな地震があって、街が焼け野原になっているような状態で、婦人会でヨーコさんが現地にボランティア(?)に行くという。ボランティアというのは、勤労奉仕みたいなものらしい。うちも家で何もしないでいるよりも炊き出しで何でも手伝いがしたいと思って、ヨーコさんに連れて行ってほしいと言うと、年寄りはかえって足手まといになるから駄目と言われた。何か大昔に同じような事があったような気がする。

 

・1996年(平成     8年)~2005年(平成18年)

 1996年(平成 8年)すずさん71歳

 たまちゃん、まだ小さいのに名犬ラッシーに夢中らしい。毛の長い犬を見ると、全部ラッシーと呼ぶそうだ。そのうち犬が飼いたいと言ってこないかと円ちゃん心配している。犬くらい飼ってあげればいいと言ったら、最近は外で大きな犬を飼うのも気を使うのだそうだ。

 

 1997年(平成 9年)すずさん72歳

 絵画教室で風景の写生会があり、見晴らしのいいところで、新しく入って来た若い女の子とあれこれ話をしていたら、なんと、その子はりっちゃんのお孫さんだった!りっちゃん、広島で元気に暮らしているらしい。りっちゃんが生きている事がわかって、うちが小学校だった時のいろいろな風景や出来事がいきなり鮮明に思い出された。すぐにでも会いに行きたい。それにしても、どこでどんなご縁があるかわからないものだ。

 

 1998年(平成10年)すずさん73歳

 すみちゃんが東京の病院に入院したというので、元気くんに会いたいのもあるので、東京までお見舞いに行って来た。病院の近所の花屋さんでお見舞い用の花を買おうと思ったら、なんと菊しか売ってない花屋さんでびっくりした。すらっとした美人さんと穏やかそうな眼鏡の店員さんがいたが、病院に菊を持ってゆく訳にもいかず花を買うのは諦めた。お菓子だけ持って病室に行ったら、すみちゃんのベッドの周りは既に花でいっぱいだった。モテる人は違うなあ。相変わらず、担当の看護師さんが研修医のお兄さんといい感じになっているとかの話で盛り上がる。やはりおばあちゃんになってもすみちゃんはすみちゃんだ。

 

 1999年(平成11年)すずさん74歳

 久々に帰省した文夫と話をしていたら、文夫の勤める小学校で、学校に鶏を連れてくる女の子がいるらしくかなり困っているそう。学校でも鶏を飼育しているのだから、いいのではと言ったら、その鶏は学校の鶏に攻撃するから問題なんそうだ。いまどき、随分と野性味のある子供もいたものだと感心した。

 

 2000年(平成12年)すずさん75歳

 元気くんが雑誌の新人賞で入選したそうだ。でも、元気くんの漫画が載っている雑誌を本屋で探したら、表紙が若い女の人の裸同然の水着の写真で、ちょっとレジに持ってゆくのが恥ずかしかったので、文夫にその雑誌を郵送で送ってくれるように頼んだ。届くのが楽しみだ。

 

 2001年(平成13年)すずさん76歳

 歳のせいか最近、伝えたい言葉がでてこなくて、アレとかコレとか言ってしまう事が多い。知っている言葉を言い間違える事もあって、ブロッコリーの事をブッコロリーと言ったりして、たまちゃんに大笑いされる。ついにうちもボケてきたのだろうか。周作さんは、すずさんは元々ボケているから大丈夫と言っているのだけど、何が大丈夫なのだろうか。こんな事を考えているのはボケているからなのだろうか。

 

 2002年(平成14年)すずさん77歳

 たまちゃんが家に来て、魔女とか宝石とか指輪とかぶつぶつ呟いているので、何かと思ったら学校の出し物で「アリーテ姫の冒険」と言う劇をやるんだそうだ。たまちゃんは魔女の役。聞いた事がない題名だったので、白雪姫みたいな話かと聞いたら、去年、アニメにもなったような比較的新しい話らしい。たまちゃんにあらすじを聞いたら、わくわくするような面白さだ。三つの願いが叶う指輪があったら、うちなら何に使うだろうか。うーん、減らない絵の具、洗わなくていい筆、何枚でもめくれるスケッチブックがあったらいいなあ。

 

 2003年(平成15年)すずさん78歳

 文夫からいきなり電話が来て、交通事故でお金が急に必要になったけど、今手持ちがないから困っていて、すぐに現金が欲しいというので、すぐに銀行へ行って文夫の口座にお金を振り込んだ。気が動転していたので、振り込んだ後になって、銀行に行けないから困っているのではと思って、文夫の勤める学校に電話したら、お金には困っていないという。狐につままれた気分だが、後で周作さんに話したら、それは最近流行っているオレオレ詐欺ではないか、という事だった。なんでこれが詐欺なのかわからない。

 

 2004年(平成16年)すずさん79歳

 外に出るのも段々と億劫になって来たけど今日はすみちゃんに付き合って久々に広島の平和記念公園に行った。すると木陰でゲロを吐いている女の人がいたので声をかけたら、平和記念資料館で気分が悪くなったらしい。友人の父親追跡に付き合ってわざわざ東京から来たそうだ。随分と友達想いな人だ。どことなくリンさんに似ていた気がする。その友達の父親というのは広島出身なのだろうか。聞きそびれた。

 

 2005年(平成17年)すずさん80歳

 文夫の勤める小学校で、教室で大きなナメクジを飼う女の子がいて困っているらしい。そのナメクジのせいで学校に来なくなる児童もいるそうだ。学校に来たくなくなる程のナメクジはどんな大きさなのか、都会にはそんなナメクジがいるのか、そっちの方が気になってしかたがないので、想像で絵を描いたら、円ちゃんからナメゴンの絵?と言われた。

 

・2006年(平成19年)~2017年(平成29年)

 2006年(平成18年)すずさん81歳

 千鶴子ちゃんとこの礼花ちゃんがいきなり東京からこっちへ帰って来て、帰省理由も話さずに、海岸でワカメをひたすら拾っているそうだ。心配した向こうの家のお義父さんもお孫さんと一緒にわざわざこっちまで駆けつけたらしい。いったいどうしたんだろう?もしかすると、二人目ができたのかな。

 

 2007年(平成19年)すずさん82歳

 南の島で海賊になって、海賊の敵になったお義姉さん向かって銃を派手に撃って清々する夢を見た。なんでこんな珍奇な夢を見たのかと思ったら、ブラックなんとかというアニメを円ちゃんの家でたまちゃんと一緒に何となく見ていたせいだろう。

 

 2008年(平成20年)すずさん83歳

 文夫の小学校では動物の飼育はいろいろな事情があって止める事になったらしい。そして成り行きで、学校で飼っていた鶏二羽を引き取ったそうだ。光子さんは小さい頃に家で飼っていた事を思い出して、名前もつけて可愛がっているらしい。元気くんも独り立ちしたことだし、文夫さんももうすぐ定年なんだから、夫婦水入らずで鶏の世話をするのもいいと思うよ。

 

 2009年(平成21年)すずさん84歳

 光子さんのお姉さんの新子さんの小説を元気くんが漫画にするのだそう。長期の本格的な初めての連載になりそうで、元気くんはりきっている。元気くんの絵は、うちの若い時の絵と良く似ているから、いつもうちが漫画描いているのかと思ってしまう。うちも、今みたいな時代に生まれたら漫画家になっていたような気がする。

 

 2010年(平成22年)すずさん85歳

朝のドラマのゲゲゲの女房を見ていたら、水木しげると言う人は、戦争で片手を失っても漫画家として頑張ってきたみたいだ。いくら利き手と言っても大変な苦労をしたと思う。うちも、もっと早い時期に頑張っていれば漫画家になったのかもしれないと思った。

 

 2011年(平成23年)すずさん86歳

 今日ようやく東京にいる文夫と電話でつながった。全員無事で家も大丈夫とのこと。ただ、飼っていた雌鶏が今回の大きな地震で驚いたせいか、壊れた小屋から飛び出していなくなったらしい。ともあれ、三人とも無事でよかった。

 

 2012年(平成24年)すずさん87歳

 文夫によると、今度は雄鶏の方がいなくなったそうだ。元はつがいだったらしいから、相棒を探しに旅に出たのではないかな。文夫も光子も鶏が餓死していないか心配しているみたいだけど、鶏の餌となるものは意外と野山や街にあるから心配しなくていいと思う。うちもその辺の野草を食べて過ごしていた事もあったし。

 

 2013年(平成25年)すずさん88歳

 円ちゃんのうちに行ったら、たまちゃんが部屋に籠って何かをやっていた。円ちゃんに聞くと同人誌というのを作って東京へ売りに行くらしい。産直みたいなものだろうか。居間に降りてきたたまちゃんに、どんなものを作っているのか見せてほしいと言ったら、絶対に人には見せられない類のものらしい。人に見せられないものを売っていいのかと思ったけれども、きっと東京なら買ってくれる人がいるのだろう。何日も徹夜しているそうで、大変そうだったけど熱中しているみたいでいいことだ。若いというのは羨ましい。

 

 2014年(平成26年)すずさん89歳

 パソコンなんてうちには縁がないものと思っていたけど、たまちゃんにペンタブと言うのを教えてもらって、減らない絵の具、洗わなくていい筆、何枚でもめくれるスケッチブックがうちの生きているうちに実現していて感動している。いくらでも描き直せるし、色も塗り直せるので、面白くてしかたがない。昔、すみちゃんのために描いた漫画をまた本当に描いてみたくなってきた。

 

 2015年(平成27年)すずさん90歳

 たまちゃんがいろいろやってくれたおかげで、うちの描いた漫画がコミケで完売したそうだ。まあ、「人気漫画家・北條元気のお婆ちゃん」という事で興味本位で買った人が大半だろうが、それでもうちの絵が多くの人に見てもらえてうれしい。好きな事をやってこうして人様に売る事が出来るなんて、今は本当に良い時代だ。何かぼんやりと抱いていた夢がかなったような気がして、もうこの世に思い残すことはないと思った。

 

 2016年(平成28年)すずさん91歳

 いろいろな人から、すず婆ちゃん映画に出てたよと言われる。いくらボケているといっても、自分が映画に出るはずもない事くらいわかる。だいたい女優でもなんでもないこんな死にかけのお婆さんがどうして映画に出ていることなんてあるだろうか。しかし、たまちゃんまでそんな事を言い始めて、ポポロに連れて行ってくれるというので、すみちゃんも誘って、明日、その問題の映画を観に行こうと思う。ポポロなんて、もう何年も行ってないな。

 

 2017年(平成29年)すずさん92歳

 昨年は、カープもリーグ優勝したし、うちとしか思えない主人公のアニメ映画が大変な評判になったりして、本当に夢のような年だった。「この世界の片隅に」。本当に懐かしい人達に直に会えた気がして、いろいろ大変だった事も鮮明に思い出して、今まだこの世界に生きている事に感謝したい気持ちで一杯だ。そして、映画のおかげで、うちの昔の話を孫たちも聞きたがるようになった。そんな訳で先に逝った人達への冥途の土産話はもう少し待ってもらおうと思う。ともあれ、とてもいいものを作ってくれて、原作者のこうの史代さん、監督の片渕須直さんには感謝の念しかない。

 

補足:

1970年(昭和45年):大阪万博に招待してくれたのは久夫君である。久夫君のいる系列会社がパビリオンを出展していたのである。言わば、新し物好きの径子さんへの久夫君なりの親孝行である。

1988年(昭和63年):その後、ねねは、開発にかかわったエンジンをのせた車に最晩年の円太郎を乗せることになる。その時、円太郎が呟いた台詞。

「鳴らしとるのう...ねねの二百馬力がええ音鳴らしとる。チャターマークとの戦いから始めて、ここまできたかのう」

どのメーカーのどんなエンジンかはわかる人はわかるだろう。世代を超えてエンジニアの魂は受け継がれていったのである。

 

本編から私の妄想の戦後日記における人間関係を図として下にまとめた。

クリックすれば拡大する。参考になれば幸いである。

 

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