ZoaZoa日記

気の向くままに書き散らしてゆきます。皆さまの考えるヒントになればと思います。

四面体で観る「若おかみは小学生!」 -後編-

アニメーション表現についての三つの観点

 後編ではアニメーション表現についての観点を書く。別の言い方をすれば、おっこの成長と物理現象との関係性だ。この場合の三つの要素として「光」「音」「運動」を選んだ。あまりに基本的な要素であり、素人の語る事であるから勘違いしている所も多々あるであろうことはご容赦願いたい。これが正解というのでなく、あくまで私個人の雑感である。後編もネタバレありなので、また観てない人は注意されたし。

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「光」

 「光」を表現するのは実は意外と難しいように思う。何かが見えているというのは、反射した光を認識しているのだが、当たり前すぎていちいちそんな事は意識しない。そして光というのは、その光路は煙でも漂ってなければ見えないのである。

 光の存在を認識させる最も簡単な方法は、「光源(照明や太陽、光源の反射)を画面に入れる」ことであろう。しかし、「光がある」という事はわかるものの、直接的すぎて表現上の幅は案外と少ないような気がする。とは言え、真月が企画した夜間の青色イルミネーションは、おっこに三途の川(あの世とこの世の境界)を渡らせるような暗示と真月のハイスペックぶり(植物への青色光負担の考慮)を示す演出として効果的であり、「光源を入れるのは単調」と言っても創意工夫次第のような気もする。しかし、やはりかなり工夫しなければバリエーションは増やせないだろうから、光源を画面に入れてしまうというのは、ありきたりな記号になってしまう危険性と隣り合わせである。では、その他の方法でより効果的に光の存在を演出したい場合どうするか。

 

 まず「影」を使うということがある。光があればどこかに必ず影が生じる。つまりはポジとネガの関係性を利用するのだ。影の表現はかなりバリエーションがあり、影をうまく表現した作品は、奥行きがあり結果的に光の存在と方向性を観客に印象付けることになる。また、光源が太陽である場合、その影や色調の表現によっておよその時刻を示すこともできる。本作品でも、的確かつ効果的な数えきれないくらいの場面で影に語らせる表現があり、それを丁寧に追うだけでも気が遠くなるだろう。

 

 「反射」を使うというのもある。ここでいう反射は、主に鏡面状になった物体に何かが映り込む事を指す。そうした表現によってちょっとした異世界感を鑑賞者に意識させ光の不思議さを示す効果があるように思う。「若おかみは小学生!」では、鏡面を利用した表現が、鏡はもちろん、車窓・窓ガラス・陶器・蛇口・包丁・水晶玉・床などこれでもかと続々登場してただただ圧倒される。

 また、厳密には反射ではないが、光が微粒子に当たって散乱する事によっても、光の存在を示すことができる。微粒子とは、空中に漂う煙・埃や小さな水滴である。専門用語でチンダル現象という。雲の切れ目から伸びる天使の階段と俗に呼ばれる気象現象などがそれである。宿の裏に流れる清流に朝日が差し込む様などは、あの時間帯特有の爽やかさをさりげなく表現している。また、バーのマダムや稽古中のピンふりが着ているスパンコールのキラキラチラチラし続ける様はチンダル現象の疑似モデル化と言えなくもないだろう。

 

 「屈折」によって、光の存在を暗示させるという手もある。光は、一定以上の密度の物体を透過する時に屈折する。屈折の度合いは、その物質の性質や分量によって変わってくる。眼鏡の度数は主にレンズの材質と厚みによって屈折率が変わる事を応用している。公開当初から「眼鏡描写が凄い!」と騒がれているが、確かに度数の違いがわかるくらいに眼鏡の屈折表現が徹底しているのは感服するほかない。また、古い窓ガラスにありがちな微妙な歪みすらも再現しているのはかなり驚いた。他に、水晶玉から見える倒立像をあえて前に出すことで透明感のある夏の涼しさが良く伝わってくる。と同時に倒立像は「持てなす側ともてなされる側の逆転」のきっかけを提示する。また、氷やゼリーの半透過の屈折描写も素晴らしい。ともあれ、これほど光の存在を意識させるアニメーション作品はなかなかない。なぜ光にここまでこだわったのか。私としては、おっこの成長を導く「見えざる手」のような象徴存在の役回りを光に託したのかと感じた。

 

 

「音」

 「音」は連続した空気感を表現するために必須のものである。ある作品を完全な無音で鑑賞すると、画面上は動いていても何か生気がないように感じる事が多い。無音は、人間にとって生理的な緊張感を強いるのだ(もちろん、個人差はある)。

 

 そういった観点で見ると、グローリーとのドライブでフラッシュバックとなった時の、おっこの耳鳴り音のようなくぐもった聴こえ方の再現は経験のある人なら本当に胸が詰まる感覚になったのではなかろうか。また、両親の布団にもぐる回想において、最初の回想(夢)では、布団や服の擦れる音までが再現されていて、布団の中の温かみさえ伝わってくるリアルさがある。しかし、クライマックス直前に再びその回想が出てくるときは完全に無音なのである。無音ということは、それはもう「生の世界」ではなく「虚空の世界」である事をおっこ自身が腹の底から納得してしまった瞬間でもある。その無音の圧力によって、心の行き場を失ったおっこの激しい寂寥感が嫌でも観ている者へ迫ってくる。

 真月が耳たぶをつまむしぐさの音も、テレビアニメ版では戯化した効果音になっていたが、劇場版では抑えられた音になっている。ラジカセのカセットテープを巻き戻す音や畳の摺り音など、光の扱いと同様、環境音・効果音の使い方についても全編この調子で、実例をあげていくとキリがない。

 

 言うまでもなく声優さんたちの適材適所の名演技も忘れてられない。細密な写真よりも生の声の録音の方が人の体温のようなものを感じるように、声優のさりげない語りが登場キャラクターの実在感を確かなものにしてくれる。脚本上、「言葉による状況説明」は最小限に抑えられており、吉田玲子さん流の「身体性が感じられるセリフ」によって、生きるレジェンドともいえる一龍斎春水(麻下洋子)さん、山寺宏一さんら貫禄の演技を堪能でき、声優初挑戦の鈴木杏樹さんなどもしっかりとおさまる所におさまっている。

 そして、なんといっても主役の小林星蘭さんのおっこは、この年齢と才能が奇跡的にマッチングした圧倒的な名演としか言いようがない。これが10年後の星蘭さんだと、同じ声質だったとしても精神的な変化でいろいろ深く考えすぎてしまい、おそらく今回のようなキャラクター造形はなかったように思う。そこは星蘭さんが原作の愛読者であった事がやはり大きく、彼女なりのおっこのイメージが小学生の感性で身体にしみこんでいた結果であろう。単に同じ年代の小学生の役だからうまくできたという訳ではないのだ。星蘭さんは、ショッピングシーン挿入歌のジンカンバンジージャンプ(人間万事跳躍)も歌っており、振り切れたおっこの心の躍動感と完全にシンクロして、その道教的ともいえる歌詞をハイパーポップに絶唱している。

 鈴木慶一さんの音楽もまた、自己主張することなく、あくまで通奏低音のようにおっこに寄り添ったものであり、ほとんどの人はそれほど印象に残っていないのではないか。しかしながら、よく聴けば、おっこが一人の時のシンプルなピアノ、若おかみ修行開始時の神楽を崩したようなテーマ、真月の孤高の印象をチェンバロの音色で規定するなど、なかなかに工夫が凝らされている。ただ、ぱっと鑑賞した時に音楽が印象に残らなかった要因の一つは、クライマックスで情動を刺激する音楽が鳴り響かなったというのも大きいだろう。クライマックスに十分な自信のあった監督の指示だっただろうけれども、音楽担当としてはなかなかに勇気が要る所であったろう。

 そして、エンディングで藤原さくらさんの歌う「また明日」。直前の神楽のリズムから「また明日」のまったりとしたアフタビートへと続くのがなんとも心地よい芳醇な余韻を醸す。素直な歌詞も含めて、本編ラストの「ハレの日」のおっこから、これまでの事を回想しながら何気ない日常を歩んでゆく「ケの日」のおっこの姿を彷彿とさせてくれる。テレビアニメ版のエンディングソングの「NEW DAY」に続けて聴くとまた感慨を新たにできる。

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 ともあれ、「音」は言葉にならないおっこの内面世界を観客にダイレクトに伝える媒体として重要な役割を担っていると思われる。

 

 

「運動」

 そもそも静止しているものを動いているように見せる表現手法がアニメーションなのだから「運動」について今更何を言うのかという気もする。しかし、この作品に関しては、改めて運動表現について溜息が出てしまう材料が盛りだくさんなので、書かざるを得ない。とりあえず「無生物の運動」「生物の運動」「身体運動」に分けて書く。

 

 「無生物の運動」について。これは、重力やそのほかの力による物体の移動や回転・変形などを指す。例えば、春の屋の玄関で悦子さんによっておっこのスーツケースを倒れそうになる。その時、スーツケースはきちんと加速度を考慮した転倒の動き方になっている。同じように、康さんが卵焼きを包丁でさくさく切ってゆく場面。包丁の鏡面に卵焼きが映り込むところに意識が集中してしまうのは人情であろうが、運動の面でも凄いのだ。実は包丁が入った後の卵焼きの倒れ方が「包丁による傾け」と「包丁から離れた後の加速度も考慮した倒れ」が微妙に区別されつつもスムーズに連続しているのだ。また、おっこがおかみ修行中に玄関でひっくり返る時も、その振動で脇の行燈が飛び上がっている。この行燈の運動描写を入れる事で、式台が小学生の体重程度で揺れるような造りになっている事がわかる。

 

 ねじ式の窓のカギを緩めるときの窓枠の動きも、ねじ穴とねじとの摩擦が一気に解放される感じが見事に表現されていて、妙な快感を覚えてしまう。

 ユーレイのウリ坊だが、基本的に物理法則を無視しているようなしてないような曖昧な運動存在になっている。例えば、ウリ坊が指ではじいた鼻くそは投射運動の軌跡を描いておっこに向かって飛んでいる。一方、「おっこが若おかみになる」と聞いて、春の屋の屋根を通り抜けて数10m鉛直方向に舞い上がった時は、涙だけがさらに上方へ飛んで行く。本来、同じ速度で投げ上げた物体は質量に関係なく同じ高さまでしか行かないのである。涙だけがさらに上方に飛んでゆくには、幽体だけが途中で静止するしかない。つまりはどの程度の高さで止まるかはウリ坊自身がコントロールできるという事になる。となると、峰子のために流した涙は、実体化して現実世界の物理法則に沿って飛んで行ったとも解釈できる。

 

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 その峰子だが、少女時代に屋根から落ちるときの運動描写も凄い。スローモーションや心理的な描写をいっさいに使わずに高さと重力加速度から導き出される落下時間(およそ0.8秒)にあわせて、あっさりストンと落としている。実際に、0.8秒だったか計った訳ではないが、そんな時間感覚の落下であったであろう。一瞬の出来事にすることでウリ坊が突っ込む動きにも極めて臨場感がある。さらには、峰子の落下の軌跡の見事さに感嘆すると同時に、実体のあった頃のウリ坊の重量感もよく出ている。そう、この時は物理的存在として峰子を守ることができたのであり、ユーレイになった後は峰子に伝えられる事と言えば「おっこが春の屋を継ぐ」と聞いて流した実体化した嬉し涙くらいしかないのである(および、おっこと峰子がアルバムを見ている時の足音)。そして、ウリ坊がこの時に峰子を助けなければ、おっこも存在しなったかもしれないのだ。

 

 「生物の運動」については、春の屋玄関冒頭のジョロウグモニホントカゲのリアルな動きを堪能してもらえれば、この作品の生物への扱いが実感できる。クモの動きというのは、昆虫の三点歩行を拡張したようなかなり複雑な動きで、CGを使わずに作画するのはかなり骨が折れそうである。トカゲの緩急ある動き方も実に生き生きしていて良い。花の湯温泉駅で背中を掻く犬や温泉街を悠然と闊歩する白猫など、サイズは小さいながら隅々まで「生き物がいる」事を実感できて温泉街特有の雰囲気が伝わってくる。

 

 

 さて一番重要なのが「身体運動」である。この作品を観た多くの人が登場人物の「所作」「動き」に感嘆している。いったい何が凄いのかと言えば、「人の動作による情報伝達を最大限活用している」という事だろうと思う。

 優れた俳優は、平凡な服装・メイクであっても、その場に登場するだけで王様なら王様らしく、武闘家なら武闘家らしく見せることができる。「東京物語」の笠智衆などは当時49歳であったにもかかわらず、佇まいが完全に老人のそれである。名優は自分の身体の動かし方をいかようにもコントロールできるのである。

 

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 こうした事をアニメーションでやっているのがこの作品ということになる。クラスの同級生、鳥居くん、神田あかね、グローリー水領、木瀬翔太&文太、真月、調理人の康さん、中居の悦子さん、女将の峰子などなど、それぞれにその人ならではの特有の動きの演技をつけているのだ。といっても、ステロタイプな動かし方ではなく、そのキャラクターの背景すら透けて見えてくるように細心の注意を払って動かしているように感じられる。

 

 通常、自分自身が普段どんな姿勢でどんな風に動いているかは無自覚なもので、監視カメラに映った自分の姿を見て「え!?」となった経験は誰しもあるだろう。自分はともかく、他人の動きを少し意識して観察してみると、それぞれになんらかの癖がある事がわかる。それは自分も含めて各々の個性ともいえるし、効率的な動きからの「ブレ」という見方もできる。当然、それは年齢性別によっても変わる。

 

 そういった動きの「ブレ」を規格化するのが「所作」「型」というものだろう。おっこの女将修行では、子ども特有の自由で柔軟な運動を「型」にはめてゆく流れが極めて的確に描かれている。それは最初の着付けの「棒のような体勢」と木瀬を改めて迎え入れる時の「型がすっかり馴染んでいる立ち姿」とを比べれば一目瞭然であろう。そこに至る過程も、型を意識しすぎて身体運動がバグってしまう初期段階から、覚えた型をどうにか運用できるようになった中間段階も含めて本当に丁寧に描写している。個人的に深く感心したのは、おっこが木瀬の部屋から飛び出して、柱に寄りかかって泣き崩れる場面。精神的には乱れに乱れてぼろぼろになっている真っ最中にもかかわらず、身体の方は「型」を保持して、歌舞伎の女型のように非常に「綺麗に」泣き崩れているのである。

 「型にはめる」というと悪い意味にとらえる人も多いが、「型にはめることでかえって精神が自由に動ける」という逆説的な事も起きるのである。その辺は、たまたま最近映画となって公開された森下典子さんの「日日是好日」という作品の中でも言及されている。映画では黒木華さんがおっこよりも盛大にひっくり返っている。

 

日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ (新潮文庫)

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 同時に小学生としてのおっこの自在な動きも「型」と「型」の間に挿入させて「出来すぎた小学生」にならないようにバランスをとっている。特にショッピングのシーンでは、一切の抑圧から解放されたような奔放な身体の動かし方で、女将業との強烈なコントラストになっていて効果絶大である。

 

 コントラストといえば、徐々に身体運動の質が変わってゆくおっこに対して、峰子・悦子さん・康さん、そして真月は既に揺るぎない「型」を確立させていて、終始それは変わる事がない。春の屋の人々はそういった「型」の必要な職場にいる大人であるから当然として、おそるべきは真月である。花の湯温泉の将来を背負って弱音はいっさい外には出さないというスタンスを徹底しており、ある意味最も非現実的なスーパー小学生になっている。原作を通読するとここまで極端なキャラクターではないのだが、劇場版ではおっことの対比がさらに際立っているのだ。唯一、小学生らしいしぐさを見せるのは、耳たぶをつまむ場面と神楽の前の禊での独白場面だけではないか。しかし、ピリッとしたスパイスのようなその二つの場面だけで真月のキャラクターに奥行きが出ているのは見事言うほかない。

 

 ともあれ、「運動」の表現は、(おっこ自身はが自覚してない)おっこの成長過程を視覚的に観客に伝える手段として極めて巧妙に機能していると思う。

 

 

 以上、長々ととりとめもない事を書いてきたが、まだまだ書き足りない気分である。当然、私の雑感はこの作品の良さの百分の一も伝えていないだろう。言葉による説明が少ない分、解釈も限りなくあるだろう。すなわち「若おかみは小学生!」は「どんな解釈も拒まない、すべての解釈を受けいれ、癒してくれる」極めて懐の深い作品のように思う。

 

 今後もさらに多くの人がこの作品を鑑賞し、より多様な視点が汲みだされればいいなあと思っている。