四面体で観る「若おかみは小学生!」 -中編-
中編・後編はネタバレが含まれるので、また劇場で本作品を観てない人は、観た後に読むことを勧める。中編からは「おっこの成長」を頂点とした四面体における他の三要素について書いてゆく。
まずは監督による三要素からいこう。
「現在」「未来」「過去」
パンフやインタビューで監督が言及しているので間違いないと思うが、おっこの中にこの「現在」「過去」「未来」の要素を常に混在させて、場面ごとに出し入れさせながら成長の過程を描くというのがこの作品の基本コンセプトになっているようである。
「現在」を象徴するのが、最初の客の「神田あかね」である。同年代で、ほぼ同じようなタイミングで同じ境遇となった人物のわがままぶりに、おっことしては自分では制御できない感情が噴出すものの、「相手の気持ちを誰よりもわかっている」からこそ「なんとかしてあげたい」という女将としての第一歩が結果的に踏み出される。
「未来」を象徴するのが、二番目の客「グローリー水領」である。占い師にはいろいろな人が相談しに来る。どんな相手でも、その人にとって最善の選択を提供しなければならない。まさに女将業との類似点が多い職業であり、それはおっこの未来の姿とも重なる。おっこの境遇を直観で察知したグローリーは強引におっこをショッピングに連れ出す訳だが、そこで女将修行の型の中で閉じ込めていた過去の事故の客観的な触感(フラッシュバック)が顔を出す。しかし「未来のおっこ」ともいえるグローリーからのオーラを吸収して、客観的な触感からは強制的に解放される。
そして、過去を象徴するのが、三番目の客の一人「木瀬翔太」である。小学生にも上がらないくらいの年齢の翔太の服装は、丁寧にもおっこが春の屋に最初に来た時とほぼ同じである。両親に育まれていた過去のおっこの象徴が翔太であり、同時に過去と正面から対峙するために絶対に必要な存在でもある。タイミングよく未来のおっこであるグローリーの介助も得られ、おっこは女将としてのアイデンティティを確立させるきっかけを掴むのである。
これら三つの観点にからめた巧みな演出の数々は、書き出したらキリがないので鑑賞者が各々発見するのがよいだろう。
ここから、私なりの三要素の例を示す。
「死」「境界」「生」
飛行機事故で奇跡的に生き残った乗客たちがありえない事故で順番に必ず死んでゆくという「ファイナル・ディスティネーション」という後味の悪い作品群があるのだが、「若おかみは小学生!」はその逆パターンで、生き残ったおっこが奇跡的な様々な縁に助けられて「生」を取り戻す「喪の仕事」の物語ともいえる。脚本上も「生と死の境界の世界」から「生の世界」へ生還する「無感覚→抗議→失意→受容」という過程を90分の中で丁寧に拾い上げている。
その生と死の境界の世界において、重要な役割を果たすのが、ウリ坊、美陽、鈴鬼である。この生と死の境界の存在たちには、それぞれにおっこと出会うべくして出会う因縁がある。ウリ坊→おっこの血縁である峰子を通した過去、美陽→おっこのライバル真月を通した未来、鈴鬼→おっこの母を介した現在、という風に象徴されるだろう。やはり女将修行が順調に進んだのは、峰子や中居さんのけじめある暖かな受容もさることながら、これら境界世界のウリ坊たちの存在が大きいのは言うまでもないだろう。死の世界は、言うまでもなくおっこの夢や幻覚に登場してしまう亡き両親の姿である。
お約束ながら、あの世とこの世の境界にいるウリ坊たちは鏡には映らない。実は、おっこの身長は物語が進むにつれて徐々に伸びてゆくのだが、ウリ坊は成長しないので、ウリ坊の背よりもおっこの方が最終的に少し高くなる。おっこの生理学的な成長をウリ坊という存在で示すのも心憎い演出だ。
そして、徐々におっこにウリ坊と美陽が見えなくなるのは、おっこにとっての「両親の死の受容」が終わりを告げていることを意味しているのは間違いない事だろう。最後におっこが神楽を舞う中でウリ坊と美陽が昇天するシーンは、まさにおっこが「生の世界」に戻ってこられた祝福の舞のように思える。 実は、木瀬一家を若女将として迎え入れた時から神楽までは数か月の間がある。つまり、紅梅咲く神楽を舞う頃にはおっこはその地に生きる揺るぎない存在として舞殿を踏み鳴らすのだ。
なお、おっこ、ウリ坊、美陽(および鈴鬼)のその後がどうなったのかが気になった人は、原作の「スペシャル短編集1」を読むとよい。劇場版とそこそこうまくつながるので、お勧めである。
「自然」「伝統」「革新」
人は誰でもある環境の中で生きている。多少、説教臭い言い方をすれば「生かされている」と言ってもいい。
自然を忘れそうになる都会に生きていても、台風が来れば嫌でもその存在を意識せざるをえないであろう。伝統とは人間がこれまで作り出してきた風習すべてである。そして、革新とはこれまでなかった事物を新たに作り出してゆくことである。
まず「自然」。この作品では、要所に様々な事項を暗示させる自然描写が入る。自然が単なる背景ではなく、なにかの意味を含有している事をさりげなく提示してくれるのだ。ニホントカゲ一匹にしても、おっこが最初に出会って驚ろかれる個体がまだ尾の青い幼体であるのに対して、木瀬翔太が悪戯している個体は完全な成体で、おっこも難なく触れるようになっている。トカゲの成長とおっこの成長がリンクしている訳だ。他にも、ジョロウグモ、イボタガ、ニホンジカ、イノシシの親子、カワセミ、ウグイス(本来はメジロがいそうな場所だが)そして四季を彩る客室や庭の花々など、さりげなく描写される自然のそれぞれの意味あいをあれこれ考えるのも楽しいだろう
また、原作ファンはわかっているかもしれないが、登場人物や設定が何気に四季を表している。すなわち「春」→春の屋・ウリ坊(猪のこども)、「夏」→美陽(太陽)、「秋」→秋好旅館、真月(中秋の名月)、「冬」→鈴鬼(節分)といった具合である。
そして、なんといっても最大の自然の恵みは温泉であろう。季節を問わず、どんな存在でもいつでも受けて入れてくれるのが花の湯温泉なのだ。おっこが再生できたのも温泉を含めたこの豊かな自然環境に育まれた事は大きいだろう。
「伝統」に関しては、旅館における「おもてなし」の所作や心構えを尋常でない細かさの身体運動描写や名脚本によってわかりやすく表現している。「普通のお客様なんていないんだよ。それはお客様の事を何も見てないのと一緒だよ」などというセリフも、合理化マニュアル化された接客業から出てこない、まさに格式のある旅館の伝統を象徴する。自我をひとまず置いて、伝統の型に自らをはめ、他者のために考え体を動かしてゆくというのも、不安定な精神状態のおっこを守る鎧としての役割を持っていたのかもしれない。そして、その型は1年前に他人事のように感じていた神楽を舞う事へと昇華し、自らの身体に同化してゆくのだ。
「革新」の象徴はやはり真月であろう。花の湯温泉を限界集落温泉にしないために、常に未来の「おもてなし」の事を考えて行動する。原作にない大胆な企画も登場し、さらにはハラリの「ホモ・デウス」の原書まで読み(まあ、読むふりだけだったかもしれないが)、人類の未来にまで想いを馳せているのだ。
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おっこも、真月の革新的な発想の助けを借りながら若おかみとして成長する。監督によると、花の湯温泉街は地熱発電でエネルギーを得ていて、温泉街を走る自動車は外部客のもの以外はすべてEV車なのだそうだ。見かけによらずに先進的な温泉街なのである。
とはいえ、それぞれが互いに補い合う事が重要で、伝統と自然があって初めて革新が生まれるのであり、革新と自然によって伝統もやがて更新され、伝統と革新は常に自然に支えられているのである。という訳で、最後の神楽は「自然」「伝統」「革新」が晴れやかに交差したお目出たい瞬間と観る事もできるだろう。
後編ではアニメーション表現に関する三要素について、個人的雑感を記す。中編と同様、ネタバレが含まれるので注意されたし。
後編に続く