ZoaZoa日記

気の向くままに書き散らしてゆきます。皆さまの考えるヒントになればと思います。

四面体で観る「若おかみは小学生!」 -前編-

劇場版を観るまで

劇場版「若おかみは小学生!」。

この作品を初めて観た時の衝撃からだいぶん時間がたち、心持ちもかなり落ち着いてきたので、今現在に想う事をとりとめもなく書いていきたい。

 

 

小説 若おかみは小学生! 劇場版 (講談社文庫)

小説 若おかみは小学生! 劇場版 (講談社文庫)

 

 

令丈ヒロ子さんの20巻+αの原作はだいぶん前に読んでいたのである。ストーリーは王道。そして、読者サービス満点で、しかもそのサービスが物語の中で巧みに機能していて、全く飽きずに一気に読み切ってしまう面白さがあった。石崎洋司さんの「黒魔女さんが通る‼」と並ぶ人気シリーズというのもうなずけた。しかし、「黒魔女さんが通る‼」が早い時期(2012年)にアニメ化されたのに対して、これだけの人気作がアニメ化されないのはちょっと不思議ではあった。いろいろ事情があったのだろう。

 

そして、今年(2018年)となって、テレビアニメの放映・配信が始まり、毎回、楽しく鑑賞した。原作の良さを非常に丁寧に再現していて、登場人物の作り込みやリアルな背景などは原作のイメージをさらに拡張したもので、アニメーションにした意味を実感できる充実した内容だった。

 そして、「テレビアニメとは別に劇場版も同時制作中で、アヌシー出品作品となっている」と聞いて、今となっては原作者にも監督にも大変失礼な話であるが「何故にアヌシー?」と正直思ってしまった。まだ観てもいないのに「カンヌ映画祭若大将シリーズを出品」のような違和感を持ってしまったのである。

 

そして、劇場版のPVが流れるようになり、どうも90分の尺の中で「ウリ坊、美陽、鈴鬼が全員登場。さらには、ウリ坊たちがおっこに見えなくなる所まで入っている」ということがわかってきた。原作を知っている人からすれば、これらのキャラクターが全員揃い、おっこに彼ら(鈴鬼は除く)が見えなくなるまでにそれなりの巻数(時間経過)が必要なので、劇場版は相当な圧縮具合になっている事が推察された。

 

という訳で、劇場版のノベライズを早速購入して、読んだのである。

 

 読んでいる途中、何度も「うわ」「そうきたか…」「なんと!」「えー!」といちいち変な声を上げてしまった。これは原作からすればもう並行世界の物語である。同時に、より普遍性のある底光りのする揺るぎない物語だ。しかし、間違いなく「若おかみは小学生!」のエッセンスがみっちり詰まっている。言い方を変えれば「若おかみは小学生!」の新たな読み方を与えてもらったという感じだ。これならアヌシー出品も納得である。吉田玲子さんおそるべし!ただ、劇場版を鑑賞した後だと、この大胆なプロットの大筋は高坂監督が作り、吉田玲子さんがそのプロットを名刀として完璧に研ぎあげたという感じではないかと思っている。まあ、どちらにせよ吉田玲子さんは凄いのだが。

 

映画を観る

こうなると、劇場版を観ないという選択肢は私にはない。この骨太なストーリーをあの高坂監督がアニメーションとしてどう仕上げたのか、劇場でじっくり味わいたい!

という事で、公開して二日後に観てきた。観客は私の他は数人であった。

 

 結末は既に知っている訳だから、それぞれの場面でどのような表現となるのか、まばたきも惜しんで冷静に観ていこうと思ったのだが...。開始5分でギブアップである。もう、あっさりと完全におっこの日常に入り込んでしまった。そして、劇場が明るくなるまで、花の湯温泉の世界からログアウトできなくなってしまった。

 

 映画館で涙が出てきたのは久しぶりである。それこそ「この世界の片隅に」以来だろうか。観た直後は、この涙をどう言語化していいものか全く見当がつかず「諸君、帽子を脱ぎたまへ。傑作だ」とか苦しまぎれにシューマンのパロディを心の中でなぞる他なかった。

 数時間後にはさすがに少し落ち着いたので、「『千と千尋の神隠し』の不条理さと『魔女の宅急便』の解放感を濃縮還元させて、見事に昇華させた作品」というような言葉を並べてみたものの、それではあまりに表層的だろう事は自分でも重々自覚していた。

 

若おかみは小学生!」は摘草料理である

 その後、監督による「最後の神楽のシーンはデザートのようなもの」というコメントを知り、どうも監督は極上のコース料理のようなアニメーションを観客(特に小学生)に提供しようと思って頑張ってきたのではないかと思った。さて、ではどんな料理か。

 西洋料理のフルコースのように向こうから無条件に圧倒的な迫力で観客を振り回すという感じではない。かといって、違いのわかる人しか味わえない嗜好性の強い料理を不愛想に出してくるというのでもない。

 どうも、この作品のコンセプトは「生きる活力を与えてくれる摘草料理のようなアニメーション」という気がしてきた。摘草料理とは、春の屋旅館のモデルとなった京都花脊の美山荘が供する創作料理のことである。摘草料理は、茶懐石の雅さと野趣とを融合した、旬の素材の良さを最大限生かすように創作される料理である。一品一品の量は少ないものの、食べ進めるうちにそれぞれの品どうしが相互作用を起こして、最終的に静かな調和と感銘をもたらすように設計されている。何も考えずにバクバク食べても当然、美味しく充足感がある。しかし、嗅覚や視覚も少しばかり鋭敏にして摘草料理を味わえば、それぞれの素材の盛り付けや彩り、薫り、周囲の環境とリンクした季節感、そして雑味のように思えた複雑な味の奥行などを感じる事ができるだろう。つまり、献立自体が重層的な趣を持っているのである。

 

若おかみは小学生!」も同じような構造を持っている。単純にストーリーを追うだけでも十分に楽しめ感動できる作品である。しかし、それだけでいいならノベライズを読めば終わる話なのだ。そのストーリーからより多くの感興を観客から引き出すには、アニメーションならでは様々な要素を重層的に明瞭に機能させていかなければならないだろう。ストーリーを追っているだけの人でも、無意識のうちにその細かい要素を情報として取り込んでいて、自らの感動を結果的に拡張する事になっているはずだ。だからこそ、「言葉にできないけど、とにかく良い!」と人に言いたくなる作品となっているのではないか。そして、初見で何気なく通り過ぎたシーンも、改めて鑑賞するごとに、あるいは思い返すごとに新たな発見があるはずだ。

 「見どころは?」と尋ねられた監督が「すべてです」と答えているが、至極正直な答えと思う。おそらくは、無駄はすべて切り落とし、何重にも交錯する膨大な数の個々のピースがすべて完璧にかみ合って初めて全体が完成するように綿密に設計された作品なのだ。

 

すなわち「若おかみは小学生!」は摘草料理のような作品と言ってもいいのではないか。

 

料理の四面体

 ここまで考えて、ふと玉村豊男氏の「料理の四面体」の事を思い出したのである。結構有名な本であるし、定期的に話題になるのでご存知の方も多いだろうが、どんな内容か簡単に説明する。この本は、玉村氏が世界各国で出会った様々な料理をその構成要素に分解して、いったいどんな要素があればその料理が成立するのかを論じたものである。一見すると全く違うように見える料理でも、同じ要素で成り立つなら同じ種類の料理と考える訳である。

 

料理の四面体 (中公文庫)

料理の四面体 (中公文庫)

 

 

そして、玉村氏は、すべての料理は「火」「水」「空気」「油」の四つの頂点で構成される四面体の上にあると結論付けるのだ。四面体とは正三角形が四つ組み合わさった立体である。「水」「空気」「油」で底面(正三角形)を作り、そこを「生ものの領域」として、そこを加熱することで様々な料理ができてゆくと考えるのである。

例えば、底面の「水」から「火」に向かう線分上には、下から順番に「汁物」→「煮物」→「蒸し物」となってゆく。要は火の要素が強くなれば水分は飛んでゆくわけだ。「空気」から「火」に向かう線分上なら「干物」→「燻製」→「直火焼」となる。「油」からならば、「揚げ物」→「炒め物」ということになる(玉村豊男「料理の四面体」からの図)。

 

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 摘草料理の献立は、この料理の四面体の表面を趣深く周遊するように構成されているように思える。摘草料理の場合、素材が原型をとどめていないような極端な加工はなされずに、自然の風情を感じられるように節度をもって調理され、様々な料理が絶妙のタイミング・順番で出てくる。すなわち、摘草料理には、刹那の味覚の快感だけでなく、料理全体の趣向を俯瞰する事で生じる感興も重要視するのだ。

 

若おかみは小学生!」は摘草料理なのだから、この「料理の四面体」の発想で、この作品を観るヒントにも結び付けることができるはずである。無理は承知で、モデルを考えてみよう。

 

四面体の頂点は「おっこの成長」 

 まず四つの要素をどうするか。とりあえずは料理の四面体において変化を促す「火」にあたるような共通の頂点のようなものを決めて、それを不動のものとして、残りの三要素を鑑賞する側が恣意的に選んで底面を作るのが良いだろう。

 

 そこで、「若おかみは小学生!」の四面体上の頂点を「おっこの成長・変化」とする。無論、そばかすグローリーや自然描写だけを何度も味わいたいという人もいるだろうが、やはり人間が主人公の物語であるから、主人公の変化(成長)のあり方を観るのが鑑賞する上での一般的な前提であろう。特に児童文学のほとんどは「主人公が旅(経験)をして成長する」という内容なので、監督もそこは遵守していると思われる。

 

 ということで、「おっこの成長」という頂点に向かって、残り三つの要素がどう機能してゆくかを鑑賞する際の「視点」としよう。頂点に向かって進むと言っても、成長しきってしまうと、神様というか聖人の域になってしまうので、ほどほどのところまでしか行かない。しかし、底面からの出発であるから、必ず変化(成長)はあるのである。そして、主人公のおっこには常にその三つの要素が自ずと内包されているという事になる。

 

 続く中編では、監督が想定したと思われる三要素を示したのち、私自身が考えた三要素について二つ例を示す。そして後編ではアニメーション表現におけるこの作品の三要素についての個人的雑感を書く。なお、中編からはネタバレ内容が入ってくるので、まだ劇場で観てない人は、要注意である。できれば、鑑賞後に読むことをお勧めする。

 

ー 中編へ続く ー