ZoaZoa日記

気の向くままに書き散らしてゆきます。皆さまの考えるヒントになればと思います。

食べ物で観る「この世界の片隅に」 ⑥ ‐番外編‐

 ⑥では、直接食べる訳ではないが、身体にかかわるあれこれを記しておく。もう、完全に備忘録であるが、最後までおつきあいいただければ幸いである。

 

 

大島椿 60mL

大島椿 60mL

 

 

 

 <タバコ(煙草・Nicotiana tabacum

 タバコほど社会の扱いが昔と今とで変化した嗜好品もないであろう。少なくとも戦前なら「煙草は大人になったら吸うもの」というのが共通認識だったのではないか。なにせ未成年の喫煙が法律で禁止されたのは1900年からなのである。つまり、浦野十郎や北條円太郎が生まれた頃は子どもでも煙草を吸っていた時代な訳だ。

 「この世界の片隅に」では、すずさんの海苔のお使いの砂利船の船頭さん、そして「砂糖一斤20円」の闇市のおっさんがどちらも煙管(きせる)でタバコを吸っている。今ではよほど酔狂な人以外は煙管で煙草を吸わない訳だが、当時はまだまだ紙巻きタバコは都会の特定の階層のもので、田舎もしくは肉体労働者は煙管が一般的だったようである。実際、私の祖父も最晩年に横着になってセブンスターなどを吸うようになるまでは煙管を使って吸っていた。当然、昔は刻みタバコの銘柄も多数あった。ただ、船頭さんも闇市のおっさんも、おそらくは一番安い「みのり」もしくは葉屑を集めて吸っていたような気がする。

 ここで、またしても水原哲が紙巻きタバコの「」を周作に差しだしたりする訳で、全くもってキザな水兵さんである。この「光」という銘柄、昭和初期の発売当初はオレンジ色のかなり派手なデザインの箱だったようだが、この頃には随分と淡白なデザインになっていることがわかる。「光」と言う銘柄自体は、戦後の1950年代くらいまで生き残った。 

 参考までに1946年から今に至るまで生き残っている国産の煙草銘柄は「ゴールデンバット」と「ピース」のみである。「ゴールデンバット」は1940年~1948年の間、敵性語追放のあおりをうけて中身は同じでも「金鵄(きんし)」と言う名称になっていた。

 本題に戻ろう。やはり煙草のとどめは進駐軍の残飯雑炊に入っているラッキーストライクLUCKY STRIKEだろう。今に続く「赤丸に黒字」のデザインは1942年からで、軍用物資として大量に供給されたそうである。かつてはハイカラでモガな径子さんも初めて見た煙草だったに違いない(というか、シンプルなデザインに煙草の包み紙と思っていなかったかもしれない)。ラッキーストライク、銘柄自体は1916年からで、これまた奇しくも「この世界の片隅に」の公開年の2016年が百周年だった訳である。1942年のパッケージデザインはほとんど変わることなく現在でも売られている。

 

 <ユーカリEucalyptus melliodora

 北條家の庭にあるそれなりに大きな樹木である。ユーカリと一口に言っても沢山の種類があり、北條家のユーカリが何なのか、コアラの餌になる種類なのか定かではないが、「蚊遣り」に使うような精油成分がある事は間違いないようだ。ユーカリ広島市の爆心地近くの被爆樹木としても有名である。北條家のユーカリはもうないかもしれないが、原子爆弾の熱線を浴びたユーカリは今もまだ広島城の二ノ丸やで生い茂っている。広島から飛んできた障子が北條家のユーカリの木にひっかかっているシーンでふとそんな事を思い出した。

 

 <口紅(紅花・Carthamus tinctourius

 周作さんを見送る時にすずさんがつかった口紅はテルちゃんの遺品としてリンさんから二河公園の花見の時に貰ったものである。というのは、原作を知らない人は何のことかわからないだろうが、完全版ができればきっとその辺の所のエピソードは入ると思うので、心待ちにしたい。

 都会の一部の層を除きスティックタイプの口紅はまだ普及してない頃なので、朱肉入れのような容器に紅が入っている。紅花(べにばな)で作った本物の高級な艶紅(つやべに)は、実は赤色でなく玉虫のような緑色(赤の補色)に見え、御猪口のような容器に何層も塗り重ねられている。それを薄く唇へつけると鮮やかな赤色となるのである。すずさんの使う紅はそのような高級品ではないと思われるので、見かけはほとんど朱肉のような感じになっている。おそらくは基材に染料(もしかすると鉱物顔料)を混ぜた固形紅だったろう。そして、機銃照射で紅が砕け散る時にも「粉っぽさ」を感じさせる質感で表現されている。

 

 <白粉>

 白粉は有毒な鉛白(2PbCO3・Pb(OH)2)を使う時代ではさすがになくなっていただろうが、径子さんに怒られながらすずさんがパタパタやっていたのが、酸化亜鉛(ZnO)か酸化チタン(TiO2)か、あるいはタルク(Mg3Si4O10(OH)2)だったのか、なんとも判断しようがない。タルクや酸化チタンであれば、現在も普通に化粧に使われている材料である。

 

 <ツバキ(椿・Camellia japonica

 1938年2月にスケッチ(図画)を通した水原哲との逢瀬をし、そして1943年12月に周作・円太郎が迷い込んだ江波山。その江波山にツバキが咲いている。言うまでもなく冬の花である。海岸に自生しているツバキであるから、おそらくはヤブツバキであろう。そして、すずさんの婚礼衣装の柄もツバキ。髪飾りもツバキ。さらにいうなら、赤いツバキの花言葉は「気取らない優美さ」。英語の花言葉だと「You are a flame in my heart」だそうな。そこは各人、意味するところをいろいろと想像していただければと思う。

 なお、ツバキの種子は、ツバキ油の原料としても重要である。ツバキ油は、オレイン酸の割合が多く酸化されにくい不乾性油なので、食用・化粧品・薬用にも使えるような汎用性があり、言ってみれば、地中海沿岸のオリーブオイルのような位置づけと言える。そして、今でも根強い愛用者は多い。

 

 <ヘチマ糸瓜Luffa cylindrica

ヘチマは、北條家の浴室の「へちまたわし」として登場する。「すずさん‐晴美さん‐リンさん」のラインは同じウリ科のスイカやカボチャでつながる訳だが、ヘチマもまたウリ科である。すなわち、ヘチマはウリ科ラインの背景脇役としてひっそり出てくる訳である。

 

 <飾り物>

 どれも、料理の飾りとしてお盆の草津ではササ、婚礼の膳ではマツセンリョウササ使われている。プラスチック製のバランなどはない時代であるから、すべて本物の植物なのである。呉は沿岸部である事からマツクロマツ(松・Pinus thunbergii )を使っているだろう。マツは精油も多く含まれていて燃えやすいので、こくば(種火燃料)としても最適であり「そいじゃ、うち、こくば拾うてくるわー」とすずさんが江波山へ拾い集めに行く訳である。

 センリョウ(千両・Sarcadra glabra )はマンリョウ(万両・Ardisia crenata )とセットで正月の縁起物として使う事も多い。つまりは赤い実は1月頃についているのであり、すずさんの婚礼の時期も2月であるから料理の飾りとして活用したのであろう。「時節柄すべて簡便に」といいつつ、そういった所は目出度くしようとしているのだ。

 ササは、沿岸部の優勢種であるメダケ(雌竹・Pleioblastus Simonii )ではないかと推測するが、実際何を使ったのかは画面だけではわからない。ササは、料理飾りの側面もあるが、抗菌作用もあるので、食中毒防止の観点でも寿司などによく使われる素材である。

 

 <鉄(Fe)

 日本人の「鉄分補給」において鉄瓶や鉄鍋が密かに重要な役割を担っていた時代があった。大昔の栄養成分表も鉄鍋で調理したデータが載っていたりして、同じ食品でも鉄分含有量が今とは大きく異なっていたりする。その鉄瓶であるが、すずさんが呉に嫁入りする1944年2月頃には画面からほぼ姿を消している。言うまでもなく、金属類回収令によって出されてしまったためであろう。画面に出てくる最後の鉄瓶は、1943年12月の草津の家である。鉄瓶のみならず、北條家の箪笥の取手の金具なども画面上は1944年5月あたりからすべて紐になっている。なお、原作を知っている人ならご存知の事と思うが、第一エンディングの最後で円太郎がもたれかかっているは1945年9月17日、枕崎の台風の時に退職金代わりに円太郎が広工廠から「強奪」してきた金属材料により鋳造してきたものである。すなわち、人を殺す兵器になるはずだった鉄が円太郎の一存で北條家の畑作効率化のための農機具へ変容したのである。

 

 カブトガニ(兜蟹・Tachypleus tridentatus

 すずさんたちが草津に向かう干潟にカブトガニがいたことに「おや?カブトガニは岡山の天然記念物では?」と思った人も多かったことだろう。カブトガニもアゲマキガイと同様に戦後の沿岸開発によって、広島県では見る事ができなくなった生物種である。瀬戸内海に干潟が数多く残っていた頃には、カブトガニは普通にいる生物種だったようだ。

 戦後、カブトガニの血液から細菌やウイルスを高感度で凝集する成分(細胞)が見つかり、生物汚染チェックの検査キットに応用された。今では迅速な検査に医療現場ではなくてはならないものとなっている。干潟に昔いた何気ない生物にそのようなポテンシャルがあるとわかったのはずっと後であるから、開発を進めた時代の人々を攻めるのは筋違いである。当時の人にしてみれば、カブトガニはいるのが当たり前で、食用にもならず、いてもいなくても気付かない空気のような生物だったに違いない。その時代ごとの日常とはそうしたものなのである。

 

 「番外編」と言いつつ、なにか事実の羅列のような退屈な内容になってしまった。おそらくは、ちまたで噂の「片渕ファイル」にはもっともっと沢山の情報が詰まっており、私の書いた内容もいろいろ間違い・勘違い・足りない点があるかもしれない。ともあれ、「この世界の片隅に」は私にとって、あの時代への「窓」である。と同時に、その「窓」はあの時代のすべてを見渡せる訳ではない事も痛感している。しかし、「窓」がなければ、何もわからないのである。

 

 本稿をきっかけにして「この世界の片隅に」に濃縮されている膨大な情報と情緒の海に身と頭をゆだねて、さらなる作品の楽しみ方や発見をそれぞれが模索していただければ幸いである。