ZoaZoa日記

気の向くままに書き散らしてゆきます。皆さまの考えるヒントになればと思います。

KUBO 日本ではない日本的なものへの憧憬

 KUBO 二本の弦の秘密 を観てきた。

 

 あくまで個人的な意見ではあるが、表現手段と物語が完全に表裏一体化したおそらくは歴史に残る傑作であろう。この作品に関しては、ストップアニメーションの気の遠くなるような超人的な制作過程が宣伝でも解説でも強調される事が多い。しかし、言うまでもなく「物語を表現するためにストップアニメーションがあるのであり、ストップアニメーションの特性を最大限生かすためにこの物語がある」のである。優れた作品はおおかた結果的にそうなるものだが、この作品ほどこの事を思わずにはいられないのである。

 

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 もしかするとストップアニメーションというものに不確定要因を感じ「DVDが出てから家で時間のある時に見よう」とぼんやり思っている人もいるかもしれない。しかし、この作品は是非とも映画館で見てほしい。というのも、KUBOは、映画館で見なければわからないことがあるのだ。 

 人間が何かを注視している時の中心視野はせいぜい20°程度しかない。その角度の範囲に観賞モニターがおさまった場合、KUBOの本当の動きやテクスチャーはよほど目の解像度が良くなければ感じとる事はできないであろう。原理的にはモニターにより近づけばよい訳だが、そうなるとモニターの画素の方が気になってくる。KUBOはあまりに超絶技巧な仕上がりになっているので、家の小さなテレビやモニターなどでぼんやりと観ると「CG映画」と感じてしまう危険性がある。

 この危惧は映画館の大きなスクリーンで観賞する事でほぼ解決する。よほど視力がわるくない限り、もしくはよほど後部の座席に座らない限り、鑑賞者はスクリーン上の登場キャラクターの動きやテクスチャーの圧倒的な実在感に息をのむに違いない。折り紙や被服の微妙な皺、わずかなムラが煌めく金属光沢、様々な物体の不確定な落下運動。すべてデフォルメされた存在であるはずなのに、すぐ目の前にあるかのような実在感がある。すべて実物を動かしているのであるから、リアリティがあるのは当たり前と言えば当たり前である。しかし、その当たり前の事を本当に実現させるのが一番大変なのである。

 

 いきなり話はとぶが、中世日本、もしくは近世日本の「雰囲気」というものを私たちはどのようにして実感する事ができるだろうか。結論から言えば、それは現代を生きる人には本当に「実感することはできない」のである。しかしながら、今の日本は、歴史の積み重ねによってある訳だから、資料を駆使して(場合によっては妄想によって)様々な人が過去の「空気」の再現を試みている。しかし、どれだけ時代考証をしたとしても、その時代の「空気」について何が正解は結局わからない。

 KUBOの前半部分で登場する村の風景が出てきた時に、ふと思い出したのが渡辺京二「逝きし世の面影」である。

 

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

 

 

 この本は、明治期に日本に来た様々な西洋人たちの日本の印象の言説を引用しながら、失われた日本の「空気」の再現を試みたものである。あたかも当時の「雰囲気」をリアルに感じてしまうような筆致なのだが、現代人がその時代にタイムスリップして本当にそのような「雰囲気」を感じとれるのかどうかは定かではない。

 しかし、KUBOにはそのような疑念が浮かぶ暇もないほどに現代日本ではない「逝きし日本の面影」が迫って来るように私には感じられるのである。そう感じてしまう要素は様々だろうが、一番大きいのはゼロから作り上げた人物造形に依る所が大きいだろう。KUBOの芸に集まる村人たちは、一人一人がそこに生きていた実在の人々のように見える。当然、モブではない。村人の誰か一人をピックアップしても余裕で物語が作れるのではないかと思うほどに、生き生きした「なり」をしているのだ。KUBOと親密に会話をかわすカメヨ婆の存在感も非常に懐かしい感覚を覚える(吹き替え版では、このカメヨの声を小林幸子がやっているのだが、これがまた妙にはまっている)。

 ふと、明治期に活躍した風刺画家、ヴィクトル・ビゴーの描いた庶民の素描も思い出す。明治期の庶民の写真は、数は少ないが残されていて、それを頼りに当時の雰囲気を想像する事も可能である。しかしながら、写真は事実関係を検証する資料としては貴重だが、リアリティという観点では、写真はビゴーが描いた当時の人々の生き生きとした素描には到底かなわない。

 

ビゴー日本素描集 (岩波文庫)

ビゴー日本素描集 (岩波文庫)

 

 

 人によってはKUBOを観て「これは日本ではない。西洋人のオリエンタリズムにすぎないのでは」と感じる可能性もあるだろう。確かに日本の伝統芸能や工芸への造形が深ければ深いほどに、登場する被服・小道具、建築などは一見すると珍奇で奇抜なデザインに見えてしまうかもしれない。

 しかしながら、今となっては「現代を生きる私たち日本人」と「日本に思い入れのある現代西洋人」とで中世日本の精神性への理解に差はあるのだろうか。日本人側は中世の「日本の伝統様式」はある程度は継承したかもしれないが、その精神性を本当に受け継いでいるのか。もしかすると、その形だけの「伝統様式」をもって「日本的」と思い込んでいるだけかもしれない。極端な事を言えば、西洋人が様々な資料を参考にして思いめぐらす中世日本の世界観と日本人であるというだけで勝手に想像している中世日本の姿とは実質的にはそれほど大きな差はないのかもしれない。

 もしそうなら、どの国の人間であろうと、日本の中世への想いの強さが大きければ大きいほど、創作したモノに多くの命が吹き込まれる事になろう。実際、それぞれのキャラクターやテクスチャーのデザインは、彼らが存分に夢想した中世日本のエッセンスが見事に昇華していると私は思う。

 例えば、亡くなった人の魂を運ぶ鳥として鷺を使うのである(「この世界の片隅に」ファンなら、あのシーンを思い出すことだろう)。これは製作者の完全創作かといえば、そうとも言い切れなくて、江戸期の怪異として鳥山石燕の著作に登場する夜に白く発光する鷺、いわゆる「青鷺火」を参考にした可能性がある。しかし、怪異というよりも、最終的に救済の存在として活用されるのである。

 クワガタというお調子者のキャラクターも登場する。鍬形の全形と兜の質感が融合したような造形である。手足も六本あり、関節部分も昆虫のそれである。と同時に鋭角的なデザインは単なる昆虫の模倣ではない事を示す。あくまで「武士の装束」なのだ。戦国時代にはかぶいた兜が多数作られたが、その中の一つとしてあってもおかしくない。

 分かりやすく言うと、KUBOに登場する様々なデザインは日本的なものへの想いを生涯捨てなかった日系人イサム・ノグチのデザインした照明「Akari」のような作品に似た存在と言えるように思う。

 

イサムノグチAKARI10A

イサムノグチAKARI10A

 

 

 KUBOの物語は少年の成長物語の王道のようでいて、最後の最後で一気に極めて現実的な着地点に到達する。そこが単なる冒険譚とは違うとも言える。乱暴に言ってしまうなら、KUBOの物語の骨子はパウロ・コエーリョの「アルケミスト ~夢を旅した少年~」に近いかもしれない。一方で、KUBOの物語は、途中のある点からエンディングの直前までKUBOが片目で見ていた白昼夢のようなものだったと強引に解釈することもできよう(まあ、それではいろいろ矛盾は生じるのだが)。どちらにしても、「人間にとって物語とは何か」という根源的な問いを物語に内包させている事には変わりない。

 

アルケミスト―夢を旅した少年 (角川文庫―角川文庫ソフィア)

アルケミスト―夢を旅した少年 (角川文庫―角川文庫ソフィア)

 

 

 

 三味線が第二の主人公のようなものだから、音楽は当然の事ながら五音階が効果的に使われている場面が多い。充分に聴き取れたか自信がないので間違っているかもしれないが、その五音階も「ド‐♭ミ‐ファ‐ソ‐シ」の民謡音階と「ド‐♭レ‐ファ‐ソ‐♭ラ」の都節音階の両方を使っているのが本格的である。とはいえ、コルンゴルド風(ジョン・ウイリアムス風とも言う)の壮大な音楽も活劇場面では使われ、これが合衆国の作品であることを思い出させてくれる。

 エンディング曲は「While my guitar gently weeps」。ギターならぬ三味線でやる訳で、なかなか狙った選曲である。吹き替え版では、三味線を吉田兄弟が下の音源よりもパワフルに演奏している。

 

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 演出に関しては、監督自ら「黒沢明宮崎駿の影響を受けた」と言っているように、場面転換のテンポ、アクションの遠近法、自然現象も含めた多様な運動の対比などなど、先人の技法を取捨選択して最大限活用しているように見える。私だけかもしれないが、クワガタの様々な動きなどは黒沢作品に登場する三船敏郎のそれを連想してしまう。また、折り紙が宙を舞う場面などでは、飛行体の卓越した描写に定評のある宮崎駿作品の様々なカットを思い出す。

 そして、何と言っても製作者はおそらくは辻村寿三郎の存在を意識していたに違いない。どの程度、参考にしていたかわからないが、彼の存在を知らないというのはちょっと考えにくい。ある年代以上なら、KUBOを観て、1974年からNHKで放映されていた人形劇「新八犬伝」「真田十勇士」を連想するかもしれない。若い人のために説明すると、辻村寿三郎はそれらNHK人形劇に登場する人形を製作していた巨匠なのである。彼の製作する人形は、表情が変わるしくみにはなっていないにも関わらず、ドラマの中では表情が刻々と変容するように見え、当時としてはかなりな視聴率を記録したのである。辻村寿三郎がKUBOを観たならば、どのような感想を抱くのか非常に興味がある。

 

NHK人形劇クロニクルシリーズVol.4 辻村ジュサブローの世界~新八犬伝~ [DVD]

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 ということで、ネタばれしないように留意しながら、いろいろと思いつくままに書いた。

私にとって、KUBOは「日本ではない日本的なるものへの憧憬」を日本人である私に様々に抱かせる大切な作品となった。日本に生まれ育った人ならば、是非とも映画館でやっているうち観てほしい作品である。

 私の個人的なこれらの感想が観賞のなんらかのきっかけになれば幸いである。