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ZoaZoa日記

気の向くままに書き散らしてゆきます。皆さまの考えるヒントになればと思います。

音楽で観る「この世界の片隅に」

コトリンゴで良かった

 「この世界の片隅に」の音楽がコトリンゴで本当に良かったと思う。というのも、こうの史代作品の中での「音の風景」をアニメーションで実現するには「空気感を作る成分として無駄なくひっそりと機能する音楽」がなにより大事で、その「空気感」を作るアーティストとしてコトリンゴこそベストだと勝手に思っていたからだ。既に映画を見たならば、これだけの説明でわかる人も多いと思う。

 

 さて、そんなコトリンゴによる「この世界の片隅に」の音楽について、無謀にも譜例なども参照しながら、音楽素人なりに語ってゆきたい。もうそうせずにはいられないのだ。専門の方からすると楽典上の間違いや根本的な勘違いもあるとは思うので、あまりに目に余るよう出れば、ご指摘いただければ幸いである。なお、譜例はあくまでメモ程度のもので、調や拍子が正確である保証はない事は予めお断りしておく。原則サントラに沿って書いてゆく。太字はサントラでの曲名を示す。サントラを聴きながら読むと、私が伝えたい事もわかりやすいだろう。

 そして長い記事なので、目次をつける。気になるところからお読みいただければ幸いである。

 そして、さすがにネタバレなしでこの作品の音楽について語る事はできない。ここから先、相当なネタバレを含むので、まだ映画をご覧になってない方は、一度(以上)映画館で「この世界の片隅に」を鑑賞された後に読む事を強くお勧めする。

 

劇場アニメ「この世界の片隅に」オリジナルサウンドトラック

劇場アニメ「この世界の片隅に」オリジナルサウンドトラック

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目次

・「讃美歌」から「悲しくてやりきれない」へ

・「讃美歌」から「みぎてのうた」へ

・すずさんの生活音楽

・新しい日常への律動

・真空の音楽と歪んだ世界

・「周作さん」のテーマの変容

・「たんぽぽ」から未来へ

 

 

 

 

「讃美歌」から「悲しくてやりきれない」へ

 すずさんが海苔を背負って船に乗る冒頭のシーン。長閑な風景に寄り添うように、すでに和やかな音楽が流れ始めている。しかし、それが讃美歌111番神の御子は今宵しも」の前奏であった事を知れば、多くの人は「おや、クリスマス?」と自然に感じてしまうことだろう。この讃美歌は今でもクリスマスシーズンの空気を彩る音楽の一つである。

 

讃美歌111番「神の御子は今宵しも」

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 現代を生きるほとんどの人は、戦前と聞けば、「クリスマスなどという浮かれた事は全くない重く暗い時代」というイメージがドラマや映画を通じて刷りこまれているだろう。そういったこれまでの戦前の暗いイメージは、この冒頭の讃美歌と広島の街の生き生きとした賑やかな風景によって見事に払拭される。観客は、戦前にもクリスマスはあり、あの赤い衣装のサンタクロースさえ街を闊歩している事に気付く。音響と視覚により、昭和9年の広島が全くの別世界でなく、今現在のこの世界へと連続している事を鑑賞者は実感するのである。

 当然、海苔のお使いではあるものの、すずさんもそんな街の雰囲気に浮足立っている。しかし、浮かれるのもつかの間、すずさんは迷子になり、大正屋呉服店にもたれかかり、道端をぼーっとながめている。そこで、耳元で囁かれるようにコトリンゴの歌が始まる。「悲しくてやりきれない」である。

 コトリンゴは定石通りにはこの歌を始めない。空虚五度らしき持続音を含めつつ調性を曖昧にしたまましばらく保持し、観客に少しばかりの不安定感を与える。そして、青空にクレジットが浮かぶあたりで和声的に解決して、ほっと一安心。観ている側はある種のつり橋効果で無意識のうちに、いつのまにか作品世界へ引き込まれてしまう。その後も単純な伴奏というより「声楽付き室内交響楽」といった感じの極めて凝った編曲で曲を盛り上げてゆく。コトリンゴの歌とこの編曲は、原作を知っている人にとっては「すずさんという人を体現させたような曲だなあ」と感覚的に共感できるだろうし、原作を知らない人は少なくとも「何かふわふわした雰囲気の作品なのかな」と予感することだろう。ザ・フォーク・クルセダーズの原曲をよく知っている人なら、この曲の成り立ちや歌詞まで深読みして、もっといろいろな事を連想したかもしれない。なお、映画本編では、サントラの楽曲を短く編集した形で流れる。

 と言う事で、冒頭五分間程度は「讃美歌」で時代感覚を馴染ませた後、「悲しくてやりきれない」ですずさんのキャラクター及び雰囲気を刷り込み、音楽によっても観客をこの作品の世界観へどっぷり浸かるような流れになっている。見事だ。

 なお「悲しくてやりきれない」の作詞者、サトウハチローは広島の原爆で弟を亡くしている。また作品中の呉の街角風景の電柱看板で登場する「清酒千福」の戦後のCMソングの作詞もサトウハチローである。

 

 

 「讃美歌」から「みぎてのうた」へ

 冒頭の讃美歌はもう一つ重要な役割を担っているように私は思う。この讃美歌の歌詞は「神の御子はベツレヘムでうまれたもう」なのである。つまりはマリアさまの処女懐胎。それは、子供に恵まれなかったすずさんの右腕へ孤児が寄り添ってくるあの場面を連想してしまう。

 実際、そういった宗教的なイメージは本編終曲の「みぎてのうた」で再び登場する。「みぎてのうた」の歌詞の大元は、原作の最終回におけるすずの右手からの「しあはせのてがみ」の文面である。原作を読んでいた時は、淡々とした、しかし強い意志を持った愛の叙事詩のように受け取って、「悲劇からの静かな歩み」を表すような曲(例えばマイケル・ナイマンの「if」のような感じの曲)を勝手に想定していた。「みぎてのうた」を知った後だと、この選曲は非常にありきたりすぎて自分のセンスのなさを痛感する。

 マイケル・ナイマン if

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 コトリンゴと片渕監督は原作の歌詞を整理しつつ「みぎてのうた」を、まるでオラトリオの一場面のようなフルオーケストラの壮大な曲にした。異論は承知で言うと、「みぎてのうた」の曲の流れ自体は、規模も曲想も歌詞もすずさんの右手の身の丈には全くそぐわないものの、グスタフ・マーラーの「復活」終楽章後半、合唱が入る20分40秒あたりからの展開を連想してしまう。また、「みぎてのうた」の旋律が少し山田耕作の「この道」に似ているのも、再生の象徴として考える上でも良い感じだ。無論、映画の中では前面にじゃんじゃん鳴り響く訳ではないが、「ありふれた静かな物語が実は奇跡に他ならない」というある種の宗教的な高揚感を「みぎてのうた」がしっかりと支えている事は間違いない。

 なお、サントラでは終始伴奏がついているが、映画本編では戦災児のヨーコが焼け野原で歩くあたりから無伴奏になるので、ヨーコのポツンと何の支えもない状況がさらに際立っている。

 

グスタフ・マーラー 交響曲第二番「復活」第五楽章

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山田耕作 この道

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 なお、サントラでおまけのように付いているビックバンドジャズ風の曲「New Day」は、注意深く聴かないとわかりにくいが、この「みぎてのうた」のジャズバージョンである。「原曲」からそれなりに変形されているので、全く違う曲のように聴こえる。いったい映画のどこに使われていたかと思っていたが、三回目鑑賞でどうやら進駐軍の場面でうっすら流れているようだ。つまり、進駐軍がもたらした俗世での物質的・食欲的な「奇跡」を最後のシーンの前に密かにすべり込ませているという事なのかもしれない。

 

 

すずさんの生活音楽

 この作品は、「悲しくてやりきれない」「みぎてのうた」の印象が強いので、一回観たくらいでは、他にどんな音楽が映画の中で流れていたかを明確に思い出せる人はそう多くないだろう。かろうじて「讃美歌」「隣組」があった事を思い返すくらいだろうか。

 なぜそうなるのかと言えば、おそらくはコトリンゴの作った音楽が、エリック・サティの「家具の音楽」のような性質を持ったものだからだろう。「家具の音楽」とは、乱暴に言ってしまえば「音楽自体をじっくり聴かせる目的のない音楽」すなわち本来の意味でのBGMである。

 「この世界の片隅に」は、原則的にすずさんの視点のみで構成されている作品だ。すずさんが見てない事・想像してない事はほとんど描写されない。つまり、この映画の音楽のは、すずさんの日々の心象風景を補佐する存在と言ってもいいだろう(ただし、本編最後の「みぎてのうた」は、すずさんから失われた右手の視点によるあの世からの音楽だ)。

 すずさんは、外に向かって何かを強く主張する事はない。外見上はいつもぼーっとしているように見える。ところが、内面は当然のことながら様々に揺れ動いている。すずさんの気持ちの変化は、テンポよく展開されるエピソードやちょっとしたカットの変化で様々に表現されているが、やはりなんといってもすずさんの心情を直接的に表現できるのは音楽である。それを活用しない手はない。

 といっても、音楽の専門家でもないすずさん個人が心の中で壮大な交響楽を奏でていたら、それは誇大妄想な人になってしまうだろう。やはり、家族との風景も含めてすずさんの生活に寄り添った音楽とするためには室内楽で表現するのが適切だ。サントラをじっくり聴くとわかるが、これがまた単なる効果音楽にとどまらない、機知にあふれ洗練されたコトリンゴらしい曲たちなのだ。

 例えば、(富田勲の「きょうの料理」でも使われる)マリンバを使った「ご飯の支度」など、ジャン・フランセを思い起こさせるような、本当に楽しい描写音楽である。包丁で何かを刻んでいるようなリズムは実際に「菜箸」を使っているらしい。

 

富田勲 きょうの料理

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 ジャン・フランセ クラリネット五重奏 二楽章

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 「隣組」の編曲も、原曲にある戦前歌謡臭さをそぎ落とし、間奏部にカノンやハミングを挿入して、一筋縄でいかないコミカルソングに仕上げている。こうの史代の原作では「隣組」の歌詞を並列させた紙芝居構成だったのが、映画では、このコトリンゴ版「隣組」のおかげで見事にドタバタミュージカルに仕上がっていて、すずさんの間抜けさ加減(身体凶器?)がより引き立てられている。

 

隣組

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 新しい日常への律動

 生活音楽の中には、同じようなテーマが繰り返し使われる場合がある。一つは、後述する「周作さん」のテーマ。もう一つは、「朝のお仕事」のテーマだ。

 「朝のお仕事」は、北條家に嫁いだすずさんが初めて迎える一日目の朝に流れる音楽だ。譜例にあるように、同じリズムが繰り返され、見知らぬ地でのすずさんの新たな日常へのぼんやりした不安が現れているように思える。一歩一歩自分の力だけで歩む事が出来ず、二歩目(二分音符)からは周囲の流れに任せる様を示しているような感じだ。

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  全く同じリズムは、周作さん見送る時の「お見送り」でも登場する。今度は戦争が激しくなり、最も頼りにしている周作さんが家から居なくなってしまう事への寂しさを暗示しているように聴こえる。デートの時よりもお化粧が上手くなっているのもある意味、切ない。そして言うまでもなくその直後に起こる「喪失による新たな日常」の予感の音楽でもあり、リズムは同じでも旋律は暗い色調へ変化してゆく。

 

  すずさんの内面における次の新たな日常は、さらに玉音放送のあの日に訪れる。それまで周囲に流されて生き、我慢を重ねてきた日常の根底が失われ、自分自身への後悔に押しつぶされそうになるあの瞬間に流れる「飛び去る正義」だ。譜例にあるように、すべてピアノによる四分音符となり、弦楽器がそれまでのリズムを刻みながらも、ついにすずさんは心身共にボロボロになりながらも一歩一歩自分の足で歩み始め、走り出すのだ。

 

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真空の音楽と歪んだ世界

 順番が前後したが、すずさんの右手と晴美さんは時限爆弾によって失われる。その時のシネカリアニメーションは、完全に無音と言う選択肢もあったように思う。右手が失われるあの空白の時間は、魂が真空になったような状況であって、下手に煽情的な音楽を入れれば視覚効果が台無しになる危険性がある。原作を読んだ時点でも、私の中ではあのコマの空白は「無音」であった。しかし、コトリンゴは「あの道」でそこに余白の作曲家モートン・フェルドマン風の音楽をあえて入れたのである。音に歪みも加え、シネカリアニメーションの示す息苦しさ・窒息感が嫌でも立ちあがって来る。続く真空状態の精神を強調する「良かった」もまた心象風景を単純な図式に納める事を許さないある種の脅迫的な響きを保持している。

 

モートン・フェルドマン 5つのピアノ

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 そして、自己表現の手段であった右手を失ったすずさんの歪んだ世界へ「左手で描く世界」が差し込まれる。厳密な十二音音楽ではないだろうが、調性感が出ない様に配慮された無調のフラグメントで、すずさんの歪んだ心象風景をよく表している。あえて言えば、ニコライ・ロスラベッツ程度の無調感だろうか。

 

ニコライ・ロスラベッツ 3つの練習曲

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 「周作さん」のテーマの変容

 すずさんにとって、やはり周作さんは一番大事な人である。だから、心象風景でもちゃんと周作さんのテーマがある。それは、浦野家へ訪問した周作さんを、すずさんが窓越しに目にした時に流れる。サントラでの題名もずばり、「周作さん」。こんな感じのテーマだ。

 昔どこかで会ったような、キャラメル味が想起されるような青年への淡い乙女心をうまく表しているテーマだと私は思う。

 

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 このテーマは、その後もすずさんが周作さんと関わる場面で登場する。まず、周作さんが誇らしげにすずさんへ戦艦大和を紹介する「戦艦大和」。東洋一の巨大戦艦だから、もっと壮大な音楽が出てきてもよさそうだが、すずさんにとっては戦艦大和であろうと周作さんとセットの呉の風景である。よって、水鳥が優雅に着水するような雰囲気の音楽になっている。そして、呉の街中を周作さんと徘徊する時に流れる「デート」。こちらは単純に家から解放されて花の都パリを凱旋しているような「夢の時間」を素直に表現した音楽になっている。

 

 さて、その後、いろいろ互いに大変な事があり(映画では登場しないが、リンさん関係もいろいろあり)、それも乗り越えて「受け身」だったすずさんが一人の人間として、妻として周作さんと関われるようになる。その一つの終着点を表すテーマが「最後の務め」だ。

 

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 周作さんのテーマとは別物のように見えるが、聴けばどことなく雰囲気は残っている。違うのは、(仮であるが)一小節目が元のテーマと違い単純に上昇音型になっている点と、続く小節の音が引き延ばされている事だ。これは右手を失い、様々な闇を胸に秘め、自分の意志で歩めるようになったすずさん自身の姿であり、同時にそんな変容したすずさんが周作さんを夫として眺める視点のように思える。

 

ここからは単なるこじつけである可能性が高いが、聴いた個人的な印象として記す。

 

 

 この後、本編最後に登場する、「みぎてのうた」の一部の音型もまた、「最後の務め」の一小節目の変形のように思う。譜例を示す。

 譜面上はリズムも音高も違うのであるが、どことなく似ているような気がするのだ。つまり、すずの分身である「あの世の右手」のテーマということになる。それは「最後の務め」の合わせ鏡となるようなテーマであると同時に地上のすずさんたちを見守る天界の音楽と捉える事も出来る。

 

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 さらに、クラウドファンディングの二番目のクレジットで流れる「すずさん」もまた、「みぎてのうた」「最後の務め」から誘導された音型のように聴こえる。ここでは、あの世から観客へ向けて、映画では語れなかったリンさんとの事を、すずさんの右手が紅を絵具として描いてみせる所だ。少し寂しげではあるものの、「最後の務め」に比べると随分と滑らかなで自在闊達な音楽である。そして、本編に完全に没入してしまい我を失った観客への「魂の冷却材」として、これほど適切な音楽はないだろう。

 

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 「たんぽぽ」から未来へ

 「みぎてのうた」で感動的に本編は終わり、続いてアルベルティ・バスに乗って「たんぽぽ」が始まる。同時に戦災孤児だったヨーコのその後が紙芝居形式で描かれてゆく。久夫くんも登場する。つまりは、すずさんの視点ではなく、ちょっと引いた場所、すなわち段々畑のたんぽぽ(及び、たんぽぽの綿毛)の視点から北條家のその後を見せてくれていると言った感じだ。この「たんぽぽ」、旋律的に大きなヤマやサビがないのに、妙に前進性を感じる曲ではなかっただろうか。聴いていると何か、前向きになれるというか。

 それはこの曲が、おそらくミクソリディア旋法を使ったものだからだろう。ミクソリディア旋法は、昔はアイルランド民謡等で多用された旋法だが、それが移民と共にアメリカ合衆国へ渡り、ブルーグラスやカントリー音楽、ロックなどに応用されて現在に至っている。「たんぽぽ」に合わせて音階を表すとこんな感じだ。

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 長調でも短調でもないその独特な響きは「色々あっても前を向いてやっていこう」と言うような力強い曲想によくマッチする。具体例として、Old Joe Clark、イーグルスのSeven bridges roadをあげておこう。

 

Old Joe Clark

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 イーグルス Seven bridges road

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 つまり、この「たんぽぽ」は、すずさん及び北條家の未来を明示する役割と同時に、鑑賞者自身の「これから」についても、そっと後押してくれる曲でもある。もちろん、歌詞もそういった内容になっている。「たんぽぽ」の綿毛は、今「この世界」に生きている喜びを私たちに与えながら、未来へ飛んでゆくのだ。

 

 

 以上、音楽素人の個人的な雑感を書いてきた。あまりにすずさんとベストフィットしたコトリンゴのセンスと音楽的なイディオムの豊富さに改めて感嘆せざるを得ない。まだまだ気付いてない事もあるだろうし、根本的な思い違いをしている所もあるかもしれない。が、音楽の観点でも「この世界の片隅に」を鑑賞するきっかけになれば私としては大変嬉しい。

 

*映画本編を再び観に行ったら、いろいろ勘違いしている部分があったので、修正した。「お見送り」を晴海・径子さんのお見送りとなぜか思っていたのだった。周作さんには申し訳ない事をしたと思っている。人の証言はあてにならない事の生き証人になってしまった。

 

追記(2017/1/17)

サントラには入ってないが、劇中で使われた曲は他にもいくつかある。例えば、すずさんが径子さんを見送りに行く時にすれ違う女子挺身隊の隊列が歌っていたのは「勝利の日まで」。この曲も、作詞はサトウハチローだ。そして、A応Pが歌っている。まさに適材適所。

すずさんと晴美ちゃんが草を摘みながら歌っていたのが「空の神兵」。これを歌っている時に敵機から狙われるのだから皮肉である。そして、エンジンの解説をしながら寝てしまう円太郎が寝入りばなに歌うのが、言わずと知れた「軍艦行進曲」。戦後、パチンコ店のテーマ曲みたいになってしまったので、「隣組の歌」と並んで人口に膾炙している歌だろう。

また、海軍病院で蓄音器から鳴っていたのは、言うまでもなくグレン・ミラー・オーケストラのムーンライトセレナードアメリカ合衆国の楽団なので、当然「敵性音楽」。