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ZoaZoa日記

気の向くままに書き散らしてゆきます。皆さまの考えるヒントになればと思います。

数式で表す「この世界の片隅に」

 「また珍奇な事を」と思っているかもしれない。確かにこの作品そのものを数式で表そうなど、無理筋な話だ。ただ、映画「この世界の片隅に」について考えていると、頭の中で様々な要因が交錯し、さらに作品への想いが強くなってゆくのを日々実感する。「これはいったいどういう事が私の中で起きているのか」と個々の要素を分離してあれこれ考えていたら、何やら数式のようなものが浮かんできた。それを整理してみたのが、下になる。

すなわち、

 

 映画「この世界の片隅に」の評価( K )を数式で表すと次のようになると思われる。

 

    K = a(x + y) + b(x + y) – c

  ただし、

  x は「映画を観て言語化できる事柄」、

  y は「映画を観て言語化できない事項」、

  a は「映画を観た後に気付く事項」、

  b は「こうの史代の原作」、

  c は「先入観」

  

  である。以上5つはすべて変数であり、かつ0以上である。

 

 

 まあ、お遊びと言ってしまえばそれまでで、厳密な数式ではない事は百も承知である。「宇宙にどれほど文明が存在するか」を示すドレイクの方程式の劣化版みたいなものだ。ただ、映画「この世界の片隅に」をどのように受け止めているかを頭の中で整頓するには少し役立つような気もする。順番に、解説していこう。

 

x y

 多くの創作物というのは、「言語化できる事項」と「言語化できない事項」とが足し合わされて成り立っている。小説などは当然の事ながら「言語化された事項」の部分が大きいジャンルだが、それでも創作者が伝えたい事がすべて言語化されている訳ではない。もしそうなら、それは小説というよりも「報告書」もしくは「論文」と呼ばれるものになろう。また、「音楽」は「言語化できない事項」の部分が非常に大きいジャンルだ。無論、楽曲分析もできるし、曲の構造などを言語化できるが、実際の音楽体験はそれだけで説明できるものではない。

 基本的に創造的な活動をする人々はこの「言語化できない事項」を鑑賞者へどれだけ多く伝えられるかを目標としていると思われる。といっても、言語化できない事項だけで成り立つ創作物はほとんどないだろう。なぜなら、創作者と鑑賞者との間に言語化できる何かがないと、互いに何を感じているのか共有するのが困難だからだ。

 言語化できる事項は、映画においては「ストーリーと設定」「小道具・セット・背景・色彩」「登場人物の名称・キャラクターや台詞」などがある。これらは別の言い方をすれば「客観的な鑑賞データ」と言う事が出来る。

 一方「言語化できない事項」は、「鑑賞者の感情がその映画によってどのよう動かされたか」である。その感情の揺れは「言語化できる事項」の組み合わせと、映画から受け取った言語化できない綜合的な情報(音楽、雰囲気、空気感など)とが合わさって醸成される。そして、その感情の揺れを「言葉にする」事はあっても、それは主観的であるが故に仮の「言語化」であって、感情の揺れそのものが言語化された訳ではない。

 一般的に「言語化できる事項」の割合が多い作品は「理屈ぽい」と言われ、「言語化できない事項」の割合が多い作品は「訳がわからない」と言われる事が多い。どちらにせよ、映画作品の個々の基本的な作風は主に式の (x + y) として示される部分だ。

 そういった視点で言うと「この世界の片隅に」は、まず「言語化できる事項」の情報量が通常の映画よりも桁違いに膨大である。この作品に隅々まで満たされているのは、戦前の呉・広島のすべてを圧縮した客観的事実の集積である。記録や証言、つまり「言語化された」ものを全部まるごと映画の中で再構築させたものだ。情報が膨大と言う事は、感情の揺れを作りだす「言語化できる事項」の組み合わせも無尽蔵にある。さらには映画から無意識に受け取る「雰囲気・空気感」なども、遠近感も含めた音響効果や登場キャラの微細な運動のアニメーションによって、非常に濃密なものになっている。すなわち「言語化できない事項」の情報量も半端ではない。

 通常、ある人が認知する情報がその人の許容量を超えると、オーバーフローしたぶんの情報は無意識のうちに適宜カットされる。しかし、本作品ではアニメーションという記号化された表現形態と言う事もあり、情報の許容量を超えても、その人へ「入ってきてしまう」ようである。

 その結果、この作品を初めて鑑賞した人の多くが「感想は言葉にできない」「感動したなどと安易に言えない」としか言えなくなってしまう。人によっては「どういう訳か冒頭から涙が止まらない」「映画終わっても席から立ち上がれない」「映画館から出てしばらくしてから涙があふれてきた」というような状況になる場合もあるようだ。それは、感情を揺れ動かす桁違いの情報をダイレクトに受け取ってしまい、これまでに経験した事のない感覚に戸惑い、どう脳内で処理したらいいか見当がつかない結果であろう。つまり、仮の「言語化」をも不可能にする精神状態に陥ってしまうのだ。

 この x y の部分だけでも、とんでもない作品なのだが、まだ先がある。

 

a b

 娯楽作品と呼ばれる多くの映画作品は、観終わった時、「あー面白かった」という感じで数分後には映画を見た事さえ頭の中から霧散する事が多い。一方で、観終わった後の余韻がずっと残り続ける作品もある。

 「この世界の片隅に」は言うまでもなく後者の典型であって、「言語化できない何か」が残像のようにいつまでも心に逗留し、ぼーっとしているとつい作品の事を考えてしまう。そして、「あれはもしかしてそういう意味?」「これはそれだったのか!」「あれは結局どういう事だったのか?」などと映画を観ている時には気付かかなった事が立ち上って来る事もある。また、インターネット上の様々な人の感想や見解を知るごとに「そういう見方もあったのか!」「えー!そうだったの!」と目から鱗状態になる事もしばしばだ。

 すなわち「映画を観た後に気付く事項」が極めて多いのも「この世界の片隅に」の大きな特徴だ。もともと作品自体の情報密度が大きいので当然の成り行きである。そして、後に気付く事は大抵「言語化できる事項」であり、最初に観た時に「言語化できた事項」の追加情報だ。そして、その追加情報によって、新たな「言語化できない事項」、すなわち「心を揺り動かされる要因」も増える。すなわち、映画を観てない時でも、この作品は心の中で変化し続けると言う事になる。これは式の a(x + y) の部分だ。

 そして、「こうの史代の原作」という項目も加わる。本作ではこれもまた非常に重要な要因だ。通常、原作のある映画というものは、「原作を忠実にトレースする」「原作を凌駕する」「原作の良さが失われる」の3パターンがあるように思う。通常は、b=1である。原作を超えるか超えないかが問題になる訳だから、原作が基準値となるのだ。一般的に原作を凌駕すると言われる作品の場合、(x + y) の数値が高くなる。そして、原作を知らずに鑑賞すればb=0である。

 しかし、「この世界の片隅に」はそれらのどれでもない。あえて言えば、「原作が映画を補強し、映画が原作に新たな命を吹き込む」という相互に作用し合う極めて動的な関係性だ。つまり、事実上、b >1という不思議な状況になるのだ。

 原作未読で映画を観た人の中には「映画館からの帰路、速攻で原作全巻を買った」という事もしばしば聞く。確かに原作で確認したくなる仕掛けが映画本編にも仕組まれているし、それに気付かずとも「とにかく原作を読みたい衝動」にかられるようである。増刷も随分とかかっているようだ。原作をすでに知っている人は改めて隅々を読み返す事になる。そして、映画において原作から省かれた部分、逆に映画で追加された部分を照らし合わせているうちに、作品の奥行きを改めて実感する。

 すなわち、映画を観た時に既に認識していた「言語化できる事項」及び「言語化できない事項」について、原作と映画の比較によって、それまで見落としていた事をさらに発見し、それぞれの意味合い・作者の意図の深さを痛感することになるのだ。そうした事を通じて、「どこまで考え抜かれて創作されたのか」「この作品をすべて理解し感じ尽くす事は可能なのか」という気分になってくる。これらは、式の b(x + y) の部分となる。

 

 ともあれ、様々な要因の変数が加算されてゆくことで、「この世界の片隅に」への評価は鑑賞後の時間が経過すればするほどに上昇してゆくのである。そして、二回目三回目と映画館へ足を運ぶたびに、さらに理解が深まる。理解が深まれば新たに得た視点で原作を再読し、また映画を観に行きたくなるというサイクルになる。

 

そして c

 映画をより有意義に鑑賞しようとする時に、最も障害になる要因が「先入観」である。まあ、完全に一切の先入観を排除すると言うのも至難の業だが、どんな名作でも観る前の勝手な先入観によって、映画を鑑賞する目が曇ってしまう事は意識しておかねばならない。

 言葉で説明し難い「この世界の片隅に」と言う作品について様々な賢い人々が言及していて、それぞれに「うまい事を言うなあ」と感心する。そんな中で、岡田斗司夫氏が「泣いてはいけない映画である。泣いてしまえば、その時点で単純な感情に支配されてしまうから」という趣旨の事を言っていた。

 すなわち、「泣ける映画」と決めつけて「泣くつもり」で映画を観にゆくと「泣きどころ」を探すことに意識が集中してしまうのだ。その結果、この作品のディテールをすっぽり「感じ忘れてしまう」危険性がある。そうなると「なんか退屈な話だった」「特に泣けなかった」と言うざっくりし感想しか出て来ないかもしれない。あるいは「泣けそうなシーン」を予め設定して、気持ちを無理に盛り上げて涙を絞り出し、表層的な物語のみで「まあ、もっと泣ける作品はあるけどね」という感想になってしまうかもしれない。岡田氏が「泣くな」というのは、そういう「泣く事で白痴化する」事への注意喚起だろうと思う。泣くという行為そのものによって「これは悲しい話なのだ」と自分を納得させる方向へ堕ちてしまうのだ。つまり、「泣いてはいけない」というより「泣くつもりで行くな」ということだろう。観に行った人が流した涙は「目的」ではなく「結果」である。

 「先入観」には、監督や配役・配給会社に対するもの、映画のテーマ(この作品の場合「反戦」など)に関するもの、評論家の批評などがある。どれも映画そのものへの純粋な評価を困難にする。すなわち、cは作品への評価をマイナスに持ってゆく唯一の要因である。「この世界の片隅に」と言う作品に対して、現時点では、ほとんどの人が非常に高い評価を与えている。しかし、かなりの少数派ではあるが、極めて低い評価をつけている人もいる。

 この作品をどう評価しようと自由だし、映画の作風の好みも人それぞれだろう。ただ、xyab の値に比べ、c の値が大きくなりすぎて低評価になっている可能性もある。もしかすると、原作未読で b=0かもしれない。もしそうなら、非常にもったいない。そういう人は、先入観を拭って(それがまあ、難しいのだが)、改めてもう一度、まっさらな気持ちで「この世界の片隅に」を観てほしいと個人的には思う。

 

 上記の数式が「この世界の片隅に」を観た後の心の置き場作りに役立つ部分があれば幸いである。