ZoaZoa日記

気の向くままに書き散らしてゆきます。皆さまの考えるヒントになればと思います。

音の風景が広がる 「この世界の片隅に」中篇 

微かな揺らぎも時間を作る

 ロボット工学の言葉に「不気味の谷」というものがある。ロボットをなるべく人に似せて作ってゆくと徐々に親近感がわいてくるのだが、どこかで「人に似ているが故の不気味さ」が感じられ親近感が一気に低下(谷)するという現象である。その原因はいろいろ言われており、いかんせん人間の感性の問題であるから、はっきりした理由はわからない。

 私の個人的な感覚で言うと、単に見かけがそっくりになるだけでは不気味の谷は感じられない様に思う。その人間そっくりのロボットの動きが人間のそれでない事が大きな要因のように感じられるのである。どれだけ細密に正確に人の動きを模倣しても、現時点では生身の人間の本当の動きにはならない。何が違うのか。それは、人の動きの中には常に微かな揺らぎがあるのだ。ロボットにはそれが全くない。それは単に規則的あるいはランダムにロボットを微かに振動させればいいというものではない。実際の生身の人間の揺らぎは極めて複雑である。生きた人間の「微かな揺らぎ」は通常は意識されてないし、見ている側も気付かない。しかし、驚く事に私たちの視覚はその微かな揺らぎを何気なく認知しているようなのである。

 それは、私自身の体験では、生身の人間がロボットやアンドロイドの動きを模倣する時に痛感した。どれだけ上手に模倣したとしても、本物のロボットと比べるとすぐにわかってしまうのだ。単純に「静止している」というだけでも、私たちは生身の人間の「微かな揺らぎ」を感じとってしまう。無論、遠目に見たら区別はつかないかもしれないが、ちょっと近づくとすぐにわかる。多少、視力がわるくてもわかる。つまり、物体の外見の詳細の違いでなく、「動き方」で人間であるかどうかを峻別しているのだ。

 前編で「視覚は理屈の上での時間の経過を認識する」と書いたが、どうやら「微かな揺らぎ」を認知するような「意識に上がってこない視覚」と言うものもあるようなのである。これは誰にでもあるのかどうかはわからない。とりあえず、私にはあるらしい。そうでなければ、視力のあまりよくない私が人間そっくりのロボットをロボットとして一瞬で判別できる根拠がない。そして、その「微かな揺らぎ」はどうもその物体の「空気感」を醸しているようなのだ。すなわち体感できる生きた時間が発生する。別の言い方をすれば「生物の実在感」である。その実在感こそが、生物と非生物を区別する決定的な要素のように私には感じられる。そして、当然「微かな揺らぎ」には時間の要素も含まれる。

 

こうの史代の微かな揺らぎ

 いいかげん本題の映画の話を始めたらどうか言われそうだが、もう少しこの作品の凄さの前提を語るのを許して欲しい。こうの史代の描く人物もしくは生き物に、私はこの「微かな揺らぎ」をかなり強く感じてしまう。頼りないラフスケッチのような線によって構成されるのが「こうのタッチ」の特徴だが、そのタッチの揺らぎが読み手の私へ伝わってきて、落ち着いて見ていれば、しっかりした造形の人物や生物なのに、読み進める中でそれぞれのキャラクターが実際に微妙に動いているかのような錯覚に陥るのである。

 無論、読み進めるのをやめて、その人物なり生物なりをじっくり凝視すれば、そもそもダイナミックな「運動性」のないのが彼女の作風であり、絵そのものに躍動感はあまりないから、静止しているのに決まっているのだ。しかし、再び作品として読み始めると、動いているような感じになるのである。もっとベタな表現をすれば登場人物が「生きている」。それはあの「不気味の谷」の原因となったものとは全く逆の「リアリティの山」、すなわち生きている存在の「空気感」が彼女の作品には何気なく築かれている事に他ならない。特に「この世界の片隅に」では、当時の市井の人々の生活を忠実に再現しようという作者の執念が宿った作品なので、その「微かな揺らぎ」具合が半端でない。つまり、「この世界の片隅に」で表出されるこの「微かな揺らぎ」による「空気感」をアニメーションとしてどう表現するか。素人目にも極めてハードルの高い課題のように思える。では、空気感醸成の大きな要素となる「音」の方はどうか。

 

こうの史代の音の風景

 漫画においては台詞以外の音は一般的に擬音や音符によって表現する。もちろん、様々な工夫によって音の存在を示す手法はあるものの、読者の感覚によっては目的とする音響が想起されない危険性もあり、擬音を使わずに音を表現するのはそれなりに冒険である。

 そうした一般則の中で、こうの史代の作品における音の扱いは独特である。まず擬音はよほど必要に迫られない限り使わない。かといって、特定の音を想起させるような意図的な試みもほとんどない(ように見える)。だからこうの史代作品をぼんやり読んでいると、彼女の作品全般が本当に静謐な印象を受けるのだ。はなから音の部分は放棄しているようにさえ見える。まさに紙芝居を無言で見せられているよう。

 ところが、少し読む速度を遅くして、じっくりとこうのタッチを味わいながらコマを眺めると大きな音ではないかもしれないが、そのカットでの音の風景が立ちあがって来るのだ。それはなぜかと言えば、第一の理由として、こうの作品においては「登場人物が何かの作業をしている場面が非常に多い」事があげられる。何かの作業をしているということは、そこには爆音ではないかもしれないが、間違いなく何がしかの生活の音が生じているのである。ちょっとゆっくりした読み方をするとその「音の日常風景」が脳内に補完されてゆく。第二の理由として「ワイドレンジで風景を切り取られる事が多いために、風の音、草や葉のすれる音、鳥のさえずり、人々の微かな足音など生活環境の中での様々な音がその微かな揺らぎのタッチから漂ってくる」事もある。ともあれ、ちょっとした読み手の意識の違いで、静謐だった全体の雰囲気が途端ににぎやかになってゆく。そこもまたこうの史代作品のマジックである。

 こうした「この世界の片隅に」の音の風景も、アニメ化する場合、どう処理するかなかなか難しい所があるだろう。シーンに合わせて効果音を詰め込めばいいと言う単純な話ではない事は、私でも何となくわかる。単なる音でなく「空気感」を漂わせないといけないのだ。

 さて、いよいよ映画本体の話に移る。はっきりいってこの作品の持つ情報量は常軌を逸したものがある。客観的な情報に限っても、原作以上に膨大な資料に裏打ちされた隅々まで入念に描かれた日常の事物・風俗の数々、こうのタッチと融和しつつも細密かつ正確な描写の兵器群、主人公のいる場として完全に溶け込んでいるにもかかわらず原作以上に存在感のある建築群および自然景観、などなどいちいち語っていると際限がない。こういった客観的な事項は私よりもはるかに詳しい方がいるだろうから、そちらに任せることにする。私はこの作品のベースにある「音の風景」と「微かな揺らぎ」について書いてゆく。後編へ続く。

 

「この世界の片隅に」公式アートブック

「この世界の片隅に」公式アートブック