ZoaZoa日記

気の向くままに書き散らしてゆきます。皆さまの考えるヒントになればと思います。

音の風景が広がる 「この世界の片隅に」前篇 

音は時間を作る

 NHK‐FMで「音の風景」という番組がある。様々な場所の音だけを流しつつ、それがどんな場所でどんな状況なのかを簡潔に説明するだけの内容である。音だけだから、その風景が実際にどんなものなのか、言葉で説明されてもほとんどわからない。しかしそれ故に、ながれる音に意識が集中し、おそらくはテレビなどで同じ場所を見た時よりもはるかに鮮明に印象に残る。これは人によるのかもしれないが、私はそこに存在する音こそが場のリアルな空気を伝えるものと思っている。

 空気を感じるというのは、言い換えれば微細に変化し続ける揺らぎをまとめて感知している状況ということになろう。完全に時間が止まっていれば、そこでの空気感はなくなるはずだ。感覚的に時間を認知する時に音は極めて重要な要素となる。無論、形や位置の変化を通して視覚による時間の経過を判断することもあるが、それはあくまで、「頭の中の理屈の上での時間の変化」だ。例えば漫画は1ページに存在するコマ数は有限であり不連続である。あるコマとあるコマの間の時間は部分的に断絶している。しかし、読んでいて気にならないのは、時間の経過を頭の中で適宜補足しているからである。原則、視覚は不連続な時間しか認知できない。なぜなら、視覚は脳が処理するには情報量が膨大すぎるので、純粋に連続して視覚情報がどんどん脳内に入ってきたら、脳はすぐにパンクである。よって、刺激として網膜に光が届いても、「見えてない」「見てない」事も多々ある。

 音はそうではない。耳に入る音は、連続的にダイレクトに脳内に入って来る。言語の意味を「聞き落とす」ことはあっても、言葉の「音自体」をカットすることはほとんどない。さらには、無音の中にも、何か連続性を感じている。いや、無響室のような特殊な場にいない限り、この空気に満たされた世界で、厳密に無音ということはありえない。意識がある時に、音は刺激として途切れることはない。聴覚は連続した時間を体感的に認知するのに必須の感覚である。そして、音楽が時間芸術と言われる所以である。

 

この世界の片隅に」と私

 前置きが例によって長いが、映画「この世界の片隅に」を見てきたのである。個人的に完成をずっと切に待ち望んでいた作品であり、クラウドファンディングに間に合わなかった事への後悔をずっと持ち続けつつ、どれだけ時間がかかろうとも良い作品になればいつまでも待っていようと覚悟していた作品であった。部分映像が徐々にPVで流れるたびに、「これは想像以上に凄いかも」と予感はしていた。コトリンゴの音楽付きのPVが流れる頃には、そのPVを見るだけで感極まる感じになっていた。

 

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 映画を観終わった今、ここまで到達してしまった作品にクラウドファンディングのチャンスを逃した過去の自分を激しく叱責したい衝動にかられている。そして、自分の想像をはるかに超えたこの上なく愛おしいこの作品に貢献してくれた人々に深く深く感謝したい。本当にありがとうございます。

 

 ということで、今、私のできるこの作品への貢献は、何度でも劇場に足を運び作品を見る事と、より多くの人にこの作品を紹介することだろうと思って、この記事を書いている。

 映画本体の話は後編でする。面倒な人は、そこから読み始めてもいいかもしれない。ただ、前篇・中編で語る、この映画の凄さを理解するための前提を知っていると、これから鑑賞する人にとっては参考になると思う。既に観た人もまた、違った視点でこの作品をとらえることができるかもしれないので、前篇・中編もお読みいただければ幸いである。

 

 こうの史代この世界の片隅に」の原作は雑誌連載時にリアルタイムで読んでいて、毎度毎度、多様な表現手法に圧倒されていた。と同時に、類を見ない(というか、こうの史代作品ではありがちな)主人公の能天気なキャラクター造形と詳細膨大な時代考証とのギャップもなんともたまらなく魅力的で、当初は深刻な事件は何も起きない戦中ほのぼの漫画として終わってしまうのかなと思っていたくらいである。しかし、そんな訳はないのであって、上中下コミックで言えば下巻での急展開に衝撃をうけた読者も多かったであろう。私もその一人である。彼女の「夕凪の街」は序章に過ぎなかったのだなと思った。

 

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

 

 

 

こうの史代の作品の特異性

 こうの史代の作品については、様々な人が詳細に論考しているので、今更私が何か書くのは気後れする。ただ、あえて私が感じている事を書くなら「こうの史代の作品は高度に昇華された紙芝居である」ということだ。もちろん、ちゃんと吹き出しもあるから、厳密な意味での紙芝居ではないかもしれない。しかし、説明的な台詞はほとんどなく、何か物語の背景を語りたい時は、人でなく、文字自体で語らせる事が多い。「この世界の片隅に」では他の作品よりも情報量が多いために、しばしば欄外に補足説明、および一次資料の模写、戦時かるた、当時の歌の歌詞などを縦横無尽に活用している。また定点観測的な描写が非常に多いのも紙芝居的だ。人物同士ががちがちに近寄ってあれこれするというシーンよりも、ちょっと引いた視点でのカットの連続が圧倒的に多い。そして、なんといっても手塚治虫以降の「運動性」が彼女の作品には希薄なのだ。躍動感あふれるコマというのは極めて少ない。登場するキャラクターはいきいきと存在しているのに、まるで田川水泡の「のらくろ」に先祖返りしたような平面的な表現手法も散見される。

 

 

 現在の大部分の漫画家は、多かれ少なかれアニメの申し子である手塚治虫の影響を受けているので、原作がアニメ化されて違和感を覚えると言う事はほとんどない。それは、原作の漫画の表現手法がすでにアニメの文法を内包しているからに他ならない。原作で描いてないカットもアニメの中では出てきているはずなのに、それは見ている人の印象に残らない。つまり、そういう約束事で原作も読んでいるので、アニメで原作の空白が埋められても、それは無意識のうちに省略されているのだ。人によっては、その作品をアニメで知ったのか原作で知ったのか曖昧になる場合すらある。

 逆に言うと手塚文法からやや外れた作家の作品は、アニメ化するのが難しいものが多い。例えば、オノナツメのような切り絵の集積のような作風の場合、アニメ化するためには、どこかで割り切って原作と違うテイストにするか、原作に近づけるためにとことんアニメの方を先鋭化させるかしかない。「さらい屋五葉」などは、卓越したクリエーターあってこそのアニメ化であっただろう。

 

 

さらい屋五葉 コミック 全8巻完結セット (IKKI COMIX)
 

 

  また、意外に思う人もいるかもしれないが、福満しげゆきの作品群もアニメ化しにくいと思う。本人が意識してか無意識かわからないが、はなから手塚文法から外れた過剰で特異な「運動性」が充満していて、あれをアニメに強引に落とすと相当に気持ち悪い事態になるだろう。あるいはアニメ化すると無意味になるネタも多い。例えば、近刊「妻に恋する66の方法」にある「浮遊妻」の話などは、アニメにしてしまえば「それって飛び越えてるだけじゃん」と言う事になって、全く面白くなくなる。

 

 

 

 そして、こうの史代の作品群もアニメ化するのは非常に難しい事は容易に想像がつく。もちろん、こうの史代の画風とストーリーで「動く絵」にするというだけなら出来るかもしれない。しかし、単に記号化されたアニメ文法にこうの作品が無理やり落としこまれるだけなら、彼女の作品に充満する「空気感」はほとんど失われてしまうだろう。それではアニメ化する意味はない。しかし、「空気感」は冒頭で述べたように「音」によって醸成されるのではなかったか。なぜ二次元の紙媒体であるこうの史代作品に「空気感」が宿るのか。中編に続く。