ZoaZoa日記

気の向くままに書き散らしてゆきます。皆さまの考えるヒントになればと思います。

「君の名は。」と震災

人は見たいものを見る

 普段、何気なく見ている風景も、何かのきっかけで、それまで全く存在すら気付いていなかった物が急に見えてくる事がある。例えば、「歯が痛いなあ」などと感じて街を歩いていると、「こんなに歯医者の看板ってあった?これでは町じゅう歯医者の看板だらけだな」と言うような不思議な感覚になる。別に、私の歯が痛くなったから、歯医者の看板が出現した訳ではなく、単に「見えていても、見てなかった」「見たいものだけを見ていた」と言う事であろう。

 

 いろいろ気になる事も多かったので、再び「君の名は。」を見てきた。ハッキリ言って、「一回目、一体自分は何を見ていたのだ、お前の眼は節穴か!」と思った。まさに「見たいものだけを見ている」状態だった。こんな調子だと、まだまだ見落としている事、見えてない事が多々ありそうな気がする。が、とりあえずは二回目の鑑賞で「見えた」事を備忘録的な意味合いも含めて、列挙しておく。新海誠ファンや「君の名は。」に心酔している人にとっては、今更ながらの「常識」ばかりだろうが、こういう間抜けな人もいると言う事で暖かく見てほしい。何かまだ勘違いがあったらご指摘いただければ幸いである。

 

1.オープニングが記憶以上に作品要素を濃縮していた。

 組み紐やムスビのイメージは当然として、竜のモチーフや三つの時代(八年前・五年前・現在)の服装の変化、舞台の変転などがすべて凝縮されていた。全編をわかった上で見ると、本当に無駄なショットがない。

2.宮水神社の神楽舞で使う神楽鈴のデザインが「竜」。

 竜は言うまでもなく「彗星」の象徴。

3.瀧の通う高校の名前が「神宮高校」。

 神宮を名乗れる神社は限られているので、それが瀧の通う高校名というのは象徴的。

4.頻出する戸の開閉カットに法則性があった。

 ムスビがつながる時は開き、ムスビが途切れる時は閉まる。

5.瀧のバイト先の店名が「il giardino delle parole」だった。

 直訳すると「音声言語の庭」つまり、新海誠の前作品「言の葉の庭」になる。

6.神楽舞で三葉が彗星本体、四葉が分裂する彗星核を象徴する?

 これはあくまで推測だが、竜をかたどった神楽鈴を使いつつ、あの二人が分離してゆく舞の流れはたぶんそうなのだろう。

7.都会の風景は彩度が落ちたのでなくて、漂う粒子状物質の靄を表現。

 遠景でなく、雑踏などのカットでその効果が使われている。

8.糸守町の長閑な鮮やかさは湖畔の水蒸気によるうっすらとした霞で表現。

 逆に、糸守町の風景では、俯瞰的なカットでこの効果を使っている。

9.彗星が落下する10月4日は、人類が初めて人工衛星スプートニク)を発射した日。

 たまたまかもしれないが、新海誠の素材に天文関係が多いので、わかって使っている可能性は大。「秒速5センチメートル」では、ロケット発射が絶縁の象徴。

10.テレビの解説でロシュ限界の言及があった。

 ここまで語らせているなら、やはり彗星軌道の誤りはもったいない。

11.彗星衝突の入射角が約70°だった。

 これは「秒速5センチメートル」のロケット発射角度とほぼ同じ。

12.瀧と奥寺先輩とのデートの「懐かしの風景」写真展で「三陸」地域の展示もあった。

 三陸は、言うまでもなく東日本大震災津波により街が失われた地域。つまり、そういう写真展ということ。

13.瀧と旅館に泊まっている時の奥寺先輩の下着の色は黒。

 「だから何」と言われても困るが、奥寺先輩っぽいなと。

14高山ラーメンのおじさんが瀧に渡す弁当が「おむすび」。

 言うまでもなく、三葉たちが神体に向かった時の弁当と同じ。つまりは、お「ムスビ」。

15.瀧と三葉が心身共に邂逅している山頂シーンで、瀧が写っているカットでは彗星落下後の湖面が、三葉が写っているカットでは彗星落下前の湖面が背景になっていた。

 これは、二人が邂逅している特異点(半径数m)以外は、時間も空間も交錯していないと言う事を示唆している。

16四葉は彗星衝突の8年後に東京の高校生になっていた。

  成長していてわかりにくいが、組み紐を結んでいるから間違いなかろう。

17.最後の「決め台詞」のシーンで彩度が上がったように感じたのは錯覚。

  駅の雑踏から外の晴れあがった風景へ移行していく中で徐々に彩度があがってきているので、最後の最後で急に上がった訳ではない。

 

 他にもきっと見落としている事がいろいろあるとは思うが、これくらいが私の限界である。小説版やスピンオフ小説で物語の背景を仕入れても、こんなものだから、情けない事限りなし。で、二回目で実は涙がでそうになったシーンがいくつかあった。自分でも「え?」と思ったのだが、その「涙」は、どうやら「震災」との個人的な連想がいろいろ結びついた結果であるように思えた。ということで、「君の名は。」と震災について書く。

 

君の名は。」と震災

 既に非常に多くの人が「君の名は。」と震災との関係性について語っている。「震災後の気持ちの整理の一つの方向性を示した」という肯定的な意見もあれば、「こうも綺麗にまとめてしまっては危険だ」と言う手厳しい評価を語る人もいた。しかし、私自身は、一回目を見た時に「震災について意識しているな」と感じた部分もあったが、それほどに露骨でもなかったので、「震災映画」という印象は持たなかった。実際、被災者でもない限り、「君の名を。」を一回見るだけで自動的に震災についてのメッセージを強烈に受け取るというのは、なかなか難しいだろう。そもそも、誰が見てもわかるような直接的な震災メッセージが入っていれば、私自身、一回目の鑑賞で純粋にエンターテイメントして楽しめなかったはずだ。

 

 とはいうものの、新海誠が震災について全く意識せずに「君の名を。」を作り、この作品から震災を読みとるのは見る側の勝手な思い込みだ、というのはいくらなんでも無理な話であろう。もちろん、震災なんて何も考えずに楽しめる作品ではあるが、そんなに底の浅い作品ではないと私は思うのである。二回目を見た今、それを確信している。まあ、確信しているのは私なのであって、それが新海誠の真の意図なのかは定かではない。ここから書く事は、例によってあくまで私の個人的な考えである。

 

 ほぼ同時期にヒットしている「シン・ゴジラ」は、やはり震災の中でも「原発事故」を想起させるように構成されていると思う。ゴジラそのものが人間の生み出したもので、それが暴走して制御できないと言う状況の作品だからである。奇しくも、赤坂が「自然災害とは違う。対処できる」旨の発言をしている。無論、「シン・ゴジラ」もまた、そんな事を考えなくても、徹底的に楽しめる作品である事は「君の名は。」と同じである。

 

 一方、「君の名は。」の方は、「津波被害」を象徴しているということになろう。彗星衝突という人間の力では回避不可能な自然災害を扱っており、それなりの周期性もある。さらに写真展で「三陸」をあえて入れているし、彗星衝突の際に想定される糸守湖による津波被害などがその根拠である。男女のロマンスであると同時に、そういった自然災害を通した物語が「君の名は。」である。

 二回目鑑賞で涙が出そうになったのは、物語の「構造」が見えて、私個人の震災関連の経験とリンクした瞬間があった事が原因だ。だから、非常に個人的な話になり、普遍性はない。というか、震災経験に普遍性などもともとないので、ここに書くことに意味があるのかどうかはわからない。が、ともあれ書いておきたいので書く。

 

君の名は。」の三層構造

 「君の名は。」を二回見て強く感じたのは、この作品は三つの層構造になっているのではということである。

 まず「表層」に「瀧と三葉のロマンス」がある。これはまあ、誰が見ても分かる男女の物語であって、音楽で言えば主旋律(ソプラノ)に当たる。基本的に八年前から現在に至る物語だ。当然、ここだけに着目していても充分に楽しめるように新海誠は入念に設計しており、多くの人のハートを射止めた部分もこの二人の世界の物語だろう。

 一方、「深層」、音楽で言えば「バス」にあたるのは、糸守湖を形成した「1200年前の彗星衝突をきっかけに発生した伝承」である。彗星という災厄に対して、未来へどう対策してゆくか。近代化以前であるから、ご神体を祀り祈祷する他なかろう。そして起こった災厄を後世へ忠実に伝えていかなければならない。これは、途中「繭五郎の大火」で文字情報としては失われるのであるが、糸守の伝承行事として形式的に受け継がれてゆくことになる。そして、そのベースがあるからこそ、瀧と三葉の時空を超えた物語が始まる訳で、「深層」と言っても極めて重要である。

 そして「中間層」、音楽で言えば「中声部(アルト&テノール)」にあたるのが、糸守町およびそこに暮らす人々である。糸守町は、「深層」の伝承と「表層」の瀧と三葉をつなげるためにはなくてはならない「場」である。そして、彗星が衝突する前、すなわち三葉が生きる「8年前の糸守町」は、田舎ながらも戦後から近代化が進んできたほぼ同じ価値観を共有する歴史ある共同体であった。その中で三葉が育った。つまり、三葉自身がいくら都会にあこがれると言っても、三葉は糸守に根(ルーツ)がある人間であり、宮水家だけでなく糸守町に住む人々すべてによって、三葉の存在は支えられていたのである。まとめると、

 

   表層 :瀧と三葉

   中間層:糸守町とその町民

   深層 :昔から受け継がれている伝承

 

 ということになる。

 そして、それぞれの層の横のライン、つまり表層なら「瀧と三葉」、中間層なら「一葉と四葉」(もしくは、テッシーとさやちん)、深層なら「彗星衝突と神事様式発生」がある。それと同時に、表層と中間層「三葉⇔一葉」、表層と深層「伝承⇔三葉」、中間層と深層「一葉⇔伝承」のように層ごとの縦のラインもある。横のラインも縦のラインも、すべては「ムスビ」である。

 ということで、それぞれの層で私が感じた事を記す。

 

表層:瀧と三葉

 この層を中心に話は進むので、この層の流れだけを追っても充分にハラハラドキドキして面白い。というか、初めてこの作品を鑑賞する観客の大部分はそうだろう。私も実際、一回目はそうだった。

 しかし、二回目の時、瀧と三葉のあれこれを見ながら、ふと「この二人は特別な『ムスビ』によって出会えた類稀なる幸運な特例なのだな」となぜか思ってしまったのである。まあ、特別な「ムスビ」にロマンがあり、時空を超えた「愛」に多くの人々は感動しているのは言うまでもない。しかし、逆に言えば、ちょっとした手違いで「三葉が助かった時間軸」が成立しなかったら、三葉はこの世におらず、瀧のもやもやした感覚が続くだけで、二人は8年後に出会う事もないのである。

 東日本大震災が起きた当時、新聞に掲載される死亡者名簿をかなり懸命に見ていた時期がある。なぜ懸命に見ていたのかと言えば、知り合いがいないか探していた訳なのだが、若い世代、特に十代の名が目に入るたびに、胸が締め付けられる思いがした。知り合いでもないのに「生きていればこの子にはどのような縁・未来があったのかな」とついつい考えてしまうのである。

 瀧が図書館で糸守町死亡者名簿を閲覧し、宮水三葉の名を見つけるシーンで、そんな震災当時の自分の事を思い出した。「もし、東日本大震災津波で命を落とす事がなければ、上京して、瀧のような男性に、もしくは奥寺先輩のような女性に出会う『縁』があった若人もいたに違いない。亡くなったのは彼らの責任ではない。男女交換の時空を超えた瀧と三葉のような特別な『ムスビ』がなかったとしても、何らかの『縁』によって導かれた男女がいたなら、もっと….」と考え始めて、なぜか涙が溢れそうになった。そんな事を考えてもどうにもなる訳ではない。場合によっては、こんな「もしも」を考えるのは、前を向いている遺族に失礼であるのは重々承知ながら、やはり瀧と三葉を見ていたら考えてしまったのである。

 しかし、逆に考えれば、あの被災地に居ながら、様々な「縁」に導かれて、津波に呑まれることなく、今も生きている若人はきっと沢山いることだろう。もしかすると上京して運命的な出会いをしている人もいる事だろう。震災から五年経ったのである。その出会いは、瀧と三葉のような特別な『ムスビ』ではなかったかもしれないが、生きているからこそ実現している「縁」である。夢想を広げれば、意識に登って来ないだけで、実は夢の中で瀧と三葉のような事が多くの若人に起きていて、普通はそれが強烈に「忘却」されしまっているだけのかもしれない。つまり、それこそ溝口俊樹と宮水二葉のように、いずれ出会うように、無意識に行動を選択していたのかもしれないのだ。

 

中間層:糸守町とその住民

 私が「君の名は。」の中で最もリアリティを感じた登場人物は、「高山ラーメンのおやじ」である。他の登場人物はやはりこの作品のために造形されたキャラクターであり、アニメーションと言う世界の枠の中で生きている。しかし、「高山ラーメンのおやじ」は、ある意味この作品の中では「異質」である。私がリアリティを感じた理由は、同じような境遇と雰囲気を持った人物が具体的に思い浮かぶからである。住んでいた故郷が津波で失われ、他の場所で店を始めている人はそれなりにいて、普段は震災の事などは口にせず黙々と仕事をしている。不躾な客が津波の事などを尋ねても、遠い目をして、淡々と答えるのみ。はっきりした感情を表に出す事はまずない。

 

 高山ラーメンのおやじは、彗星衝突時には既に糸守町にはいなかっただろう(だから、生きている)。そして、彼が帰るべき故郷はもうこの世にはない。そんな彼が、瀧のスケッチを見て「良く描けている」としみじみ言うのである。そして、失われた故郷がどうにかなる訳でもないのに、瀧を龍神山まで車で案内し、弁当まで手渡す。そして別れ際に「良く描けていたから」とまた言うのである。写真でなく、糸守の風景を「誰か」の視点で描かれている事に、高山ラーメンのおやじは、「郷愁」と同時に「何かただならぬ事」を感じ、この青年には何かをせずにいられないと思ったのである。そう思ったら、ここで、涙腺が緩んだ。実はこの高山ラーメンのおやじがに瀧が出会わなければ、瀧は何もつかめないまま東京へ戻ってしまう結果になっていたはずだ。そうなれば、三葉と瀧が出会うと言う未来もない。高山ラーメンのおやじもまた「ムスビ」の一つである。

 なお、高山ラーメンの店や弁当の包み紙に描かれていた「さるぼぼ」は、安全や安産祈願の飛騨高山の民芸品である。基本的に「のっぺらぼう」なのが大きな特徴で、「誰かはわからない誰か」を瀧が探している場面で出てくるのは、なかなか象徴的である。

 

 瀧と三葉だけを見ていると忘れがちだが、瀧の行動によって三葉が彗星被害を免れる時間軸になったとしても、糸守町が消滅する事には変わりない。すなわち、糸守町の人々は全員助かったとしても、宮水神社はなくなり、あの即席カフェもなくなり、被災者として他の場所で生きてゆく事になるのだ。宮水一葉や宮水俊樹がどうなったかは描かれていないが、とりあえずテッシーとさやちんは8年後には、婚礼に向けてウキウキなようである。さやちんが飽きもせず(ちょっと高級になった)ショートケーキを頬張るのも微笑ましいし、テッシーがいかにも土建屋な服装なのも相変わらずだ。

 そして、8年後の宮水四葉。姉に「口噛み酒を売り出せば?」などと無邪気に進言するようなちょっとオマセな小学生だった彼女は美しく成長して東京で高校生をやっている。授業を受けている表情は、決して暗い訳ではないが、どことなく虚ろである。こういう表情は私自身、何度も見た事がある。故郷を失い、根っこのない新天地で懸命に学校生活を送る生徒たち。普段は明るいし、地元の子達ともワイワイやっているのだが、ふとある瞬間に寂しげな顔になる事がある。彼ら・彼女らが本当の所、何を想っているのかはわからない。しかし、「故郷がない・生まれ育った故郷へ戻れない」という動かせない事実に、何も想わない・感じない訳はないだろう。ともあれ、高校生になった四葉のあの表情を見たら、そんな事があれこれ思い出され、やはりぐっとこみあげるものがあったのである。

 

 

高山ラーメン 醤油5食

高山ラーメン 醤油5食

 
飛騨のさるぼぼ NO.9 (赤:さるぼぼ柄)

飛騨のさるぼぼ NO.9 (赤:さるぼぼ柄)

 

 

 

深層:昔から受け継がれている伝承

 ある人がそこに実在すれば、意識する・しないはともかく、その人の中には間違いなく、遠い祖先から受け継がれた遺伝子がある。無からいきなり人間が誕生したりはしない。

 しかし、文化の伝承となると不確定要因が多い。受け継がれる文化を「ミーム」などと言ったりするが、時間の経過の中に埋もれて、発生した当初の「意味」がわからなくなっているものは、糸守町に限らず、多々ある。

 震災後、すっかり有名になった「津波てんでんこ」。「津波が来たら、人の事などかまわず、各々の判断でとにかく高台に向かえ」という教訓なのだが、この言葉も、大震災レベルまでいかなくても、比較的短周期で起こる中規模な津波被害が繰り返されたからこそ、伝えられてきた言葉であろう。しかしながら、それが沿岸住民全員に身についていた言葉だったのかと言えば、なかなかそこは難しいところだろう。そうした教訓が身に染みる経験に昇華されるには、一人の人間の生涯はあまりに短い。つまり、深い意味も理解したうえで、子孫へ伝えていく強靭な意志が継続しなければ、そのような伝承は簡単に失われてゆく。

 大震災直後、沿岸の被災地に赴いて、放射線の測定や津波による動植物の状況を見に行った事がある。その時に気付いたのは、津波到達地点ぎりぎりの所に、示し合わせたように大小の神社がある事であった。標高差のそれほどない、何気ない田んぼのど真ん中にある神社も、本当に津波到達点ぎりぎりに建立されていた。地図で広範囲に調べると、本当にことごとく津波到達地点ぎりぎりに神社があるのだ。おそらくこれは偶然ではない。千年以上前にM9クラスの貞観地震が起きた時に到達した大津波の災厄と関連して、その場所に建立されたのであろう。しかし、その神社がその場所にある意味は長い年月の間に失われてしまったのである。これは私個人だけの妄想でなく、本としてまとめた人もいる。糸守町の彗星もまた、千年周期の出来事だ(この辺の設定、新海誠はやはり巧い)。

 「君の名は。」では伝承の縁起(記録)は「繭五郎の大火」で失われてしまったと言う事になっているが、仮に記録が残っていたとしても、「彗星の破片が再び同じ場所に落ちる」なんて事は、まっとうな科学者であれば想定しないだろう。しかし、文化的な伝承の中には、未来への教訓として無視できない内容が含まれている事もあるかもしれない。フィクションの中とは言え、瀧と三葉、糸守町の人々は、その伝承によって救われた事は間違いないのである。

 

 

利己的な遺伝子 <増補新装版>

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津波てんでんこ―近代日本の津波史

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神社は警告する─古代から伝わる津波のメッセージ

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 長々とあれこれ書いてきたが、実は「君の名は。」の中で、新海誠は上記のような三層構造の世界観をある場面でコンパクトかつスマートに提示している。どの場面かと言えば、瀧が口噛み酒を飲んで、様々なイメージ群が現われてくる所である。あの幻想的な映像の中に、ここに書いたような三層を構成する要素がすべて詰まっていると言っていい。実は、ここでもちょっとウルッと来てしまった。作品の中で、宮水一葉が「すべてはつながっている」と語る所がある。いろいろと思い返せば、本当に「ムスビ」はいたるところにあり、「無縁」と言うことはないのがこの世界なのである。その事を、この作品を通して改めて感じる。

 

 

 パンフレットの中で、新海誠は「観終わった後に、一曲の音楽を聴いたと思えるものを作りたい」と語っている。私自身が三層構造の説明に音楽の例えを出したように、「君の名は。」は極めて音楽的な作品である。というより、新海誠の作品は元々、「音楽的絵画」の側面が強い。ただ、「ほしのこえ」から始まり「言の葉の庭」至る彼の作品群は、あまりに抒情的な部分が勝っているが故に構成上の弱さがあり、「ソナタ」というよりも、上質な「歌曲(リート)」のような印象を与えるものであった。

 しかし、「君の名は。」は、前記事及び本記事で書いたように、いくつかの要素を有機的・重層的に組み合わせて壮大なドラマを作る事に成功している。そして、形式に縛られながらも、彼独自の抒情性は失われてはない。

 すなわち、「君の名は。」という作品は、新海誠が満を持して完成させた「交響曲」なのである。

 

9/13追記:

瀧の名字「立花」だが、「橘」とすると、古今和歌集の「五月待つ花橘の香かげば昔の人の袖の香する」という恋人を追慕する有名な歌を思い出すのだが、やはり新海誠はこの歌を意識して「たちばな」にしたんだろうか?ありうると言えばありうる。そして、「タチバナ」は日本書記では「非時香菓(ときじくかぐのこのみ)」と記され、不老長寿の妙薬として珍重されたらしい。時を超える主人公の名前の由来として「非時」という文字列があるのが、また暗示的だ。