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ZoaZoa日記

気の向くままに書き散らしてゆきます。皆さまの考えるヒントになればと思います。

「君の名は。」の科学 前篇

高校生が羨ましい

 今の高校生は幸せだと思う。なぜなら、大林監督の「転校生」「時をかける少女」、梶尾真治クロノス・ジョウンターの伝説」の成分を含みながら、物語のおおまかな枠組みは映画「オーロラの彼方へ」で、全編にわたって「秒速5センチメートル」が組み込まれている、そんな贅沢な作品、新海誠「気の名は。」をリアルタイムに映画館で体験する事ができるのだから。特に、最初にあげた作品をほとんど知らない高校生がいたら、なおさら映画館でこれまで味わったことない深い感動に浸っている可能性は高いだろう。知らないと言うのが、場合によっては良い方向に作用する事があるが、先入観なしに優れた作品を初体験して感激するというのはその典型である。

 

 

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 ある程度の歳をとって経験を重ねると、あるいは、それなりの量の様々な作品を知ってしまうと、新たな作品に接する時、「これはアレの二番煎じだな」とか「この設定はあの名作に比べるとリアリティないなあ」とか純粋に作品に没頭できなくなる部分はどうしても出てくる。上述の梶尾真治氏も「気の名は。」を見た後に、ツイッターで「ほとんど先が読めてしまった」旨を呟いておられる。まあ、タイムトラベル・ロマンスの大家だから、当然であろう。「批判のための批判」でなくても、人生や創作物の経験値が上がるごとにそうなってゆくのは、程度の差こそあれ、残念ながら避けられない。十代の頃に感動した作品でさえ、年齢を重ねてから改めて見返すと「何に感激していたのかわからん!」と自分自身にあきれる事もよくある。まあ、人間、日々変わってゆくのである。

 「君の名は。」についてネット上で辛口なレビューを書いている人は、やはりそれなりに人生経験や多くの作品に既に接してきた方なのだろう。若い人(特に十代)で、この作品について批判的に書く人がいるなら、既によほど様々な創作物に接してきた人もしくは自ら創作に苦悩している人か、単に「批判のための批判」の人だろうと勝手に想像している。ま、実際はどうなのかわからない。人それぞれなので。

 

 何の予備知識もなく見に行った私も、最初の三十分間くらいでほぼ話の筋は見えてしまった。見えてしまうと言う事は、やはり「ハラハラドキドキ」しながら見ている人とは後半の驚き度合いが違ってくるのはやむを得ない。しかし、先が見えてしまっても、あるいは多少の設定のアラがあっても、個人的に、この作品は素晴らしいと思う。見に行くかどうか迷っている人がいたなら、よほど気難しい人でもない限り、「見て損はしない良い作品だよ」と伝えるだろう。以下、ネタばれが相当含まれているので、まだ見ていない人は注意されたし。

 

 

 

 

 

 

 

君の名は。」の全体の個人的感想

 何が良かったといえば、「時空を超えるアイテムが渋い」という事がある。まず、ここが私好みだ。なお、ここで書く感想は個人的な見解であり、絶対にそうだというものではないので、その辺をわかった上でお読みいただきたい。

 まず、「赤い糸」と言うあまりにベタなものを、伝統工芸の「組み紐」(正式な名称、忘れた)に関連付けて、活用したのが巧い。しかも、一本だけでなく、色の違う紐を組み合わせて何本もの組み紐を宮水家は編んでいる。すなわち「組み紐」を編む作業シーンを通して、「時を自ら編む」かつ「異なった時間軸をつなげるマルチバースの概念」をも象徴しているのではないか。マルチバースについては、トッシーもムー的な雑誌を示して何気に説明していた。

 そして、物質的に時空を超えるアイテムとして「口噛み酒」を使うのもいい。時間軸を超えた情報伝達は、紐があれば成り立つのだが、時を隔てた物質は出会う事はできない。そこをある意味強引に結びつけてしまうのが、「口噛み酒」というアイテムだ。下世話な言い方をすれば、事実上の時間を隔てた間接キスであり、別の見方をすれば一種のアニミズムと言ってもいい。それが時空を超えた物質的な接続を成立させる「きっかけ」とする訳である。三葉が三年前に口から吐いた息の中の酸素原子が、三年後の瀧の肺に入る事は現実的には確率的に当たり前のようにありうるのだが、それは二人だけの話ではないから、説明した所で、見ている方は納得いかないであろう。あくまで、三葉成分が濃厚な、しかも神域で発酵していた口噛み酒に瀧と三葉をつなげるアイテムとしての意味があるのだ。

 さらには、この作品のベースを表す「誰そ彼」や「彼は誰時」という美しい日本語を、あのクレーター外輪山の風景の中や音楽とリンクさせてクライマックスで使うのもいい。やはり音声だけだと、その意味合いはなかなか実感できない訳で、わざわざ「言の葉の庭」に登場した百香理先生に黒板上で書かせてまで、「誰そ彼」「彼は誰時」と言う言霊を「言葉アイテム」として活用している。新海誠作品全般に言えることだが、彼が選ぶ「言葉」というのは、本当に繊細で美しいものが多い。「現実はそんな綺麗事ばかりじゃない。気障ったらしい。感傷的過ぎる」という人もいるかもしれないが、時として美しい言葉に身をゆだねるのもいいのではと個人的には思う。

 

 反対に、おそらくは時空を遮るアイコンとして、閉まる戸のカットがかなり繰り返し登場する。煩雑に感じる人も多かったかもしれないが、時空のつながりは儚く、何度でも途切れうる様を象徴しているのだろう。そう思ってみれば、二人がつながっている事へのアンチテーゼとして戸の開閉のカットが後半になる程にヒリヒリ感じられてくる。

 

 そしてやはり極めて抒情的な映像・構図・カット割りが圧倒的に素晴らしい。辛口な評価な人も、この映像美だけは認めている場合が多い。実際、奥行きのある水彩画のような映像は、新海作品以外ではなかなか見る事はできない訳で、特に都会と田園風景との対比の巧さにいつも感心させられる。構図やカット割りもさることながら、私の目が悪いのかもしれないが、都会の風景の時は全体に彩度を微かに(本当に微かに)下げているように見えるのである(ついでに言うと、都会のシーンでも、最後の最後、二人が階段で振り返る所は、ほんの微かに彩度がクイっと上がったような気がするのだが、これはさすがにこちらの思い込みが大きい気がする)。そして、今回は特に糸守町の描写が、様々なアングルを通して本当に美しく表現されている(どうやら諏訪湖周辺がモデルらしい。確かに言われてみれば似た雰囲気だ。が、糸守湖は断層湖の諏訪湖と違いクレーター湖という事になろう)。個人的にはこの風景を見ているだけでも心地よい。

 

 彗星を設定に使うと言うのもいい。まず、彗星は外観的にも美しいし、空を見上げて巨大な彗星があるだけで絵になる。そして、周期的にやってくるというのも物語を作りやすい。さらには、その彗星こそが悲劇の原因という二重性もいい。当然、その彗星の災厄は、この作品の民俗学的なモチーフとしても使われるのである。そして、「彗星の核が衝突して一つの町が消える」というぎりぎり災害の規模が実感できるそのスケール感がたまらない。天体衝突の話は、大抵は地球滅亡レベルの規模が多く、それをどうにか阻止する話になる訳だが、「君の名。」では、とにかく衝突は避けられないのである。

 

 

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 オープニングも非常に効果的である。ついつい、RADWIMPSの疾走感あふれる音楽に惹きこまれてしまうのであるが、あやふやな記憶をどうにか引き出して、思い返してみればあの短時間のオープニングの映像の中にこの物語の諸要素が実は詰め込まれていたりする。そして、OP曲の夢灯籠の歌詞もまた見終わって振り返れば、納得の内容である。初見ではっきりと意識できないとしても、この作品全体の基調をあの短いオープニングでとても手際よく提示しているように思える(繰り返すが、あくまで私の個人的意見である)。

 

 

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 また、意図的に省略しているシーンを要所に入れるのもなかなかいい。例えば、三葉の最初のシーン。糸守町の家の和風な寝室で三葉の身体に入った瀧が目覚め、違和感から胸を触るシーンがある。男女入れ替え話ではお決まりのシーンだ。そして、襖を開けて妹の四葉が入ってきて「なにやっとるん?」となる。ところが、その次のシーンは丸一日経過して、三葉の身体が三葉に戻った日常がいきなり出てくるのだ。男女入れ替えの話なのに、なんと入れ替わった初日の当惑の日常が省略されているのである。省略された一日は、それぞれ見ている側が想像で補完する他ない。それは瀧の側も同じだ。ところが、徐々に二人の心身交換の日常を何気ないカットの積み重ねで補ってゆく。そして、日常の充実した様子の描写がマックスになった所で、RADWINPSの歌詞付きの音楽が鳴り響く。無論、ここでも歌詞と映像はリンクしている。しかし、曲が終わると、ぱたりと心身の交換ができなくなる。ここから、また省略のシーンが多くなってゆく。

 後半で特に印象的なのは、「彼は誰時」を経て戻って来た三葉(中身も三葉)が町長室へ乗り込んでゆくシーン。なんと、乗り込んでゆくだけで終わりなのである。町長の対応を最後まで入れるのは論外だが、一言ぐらい三葉が町長に迫る台詞を入れて、三葉と町長との緊張が生じた状態を作った上で次のシーンに入ってもよさそうなものだが、それすらない。そこからしばらく三葉は画面に登場しない。彼女がどうなったかは、かなり長い時間わからない。つまり、詩情あふれる都会風景を切なく見ながら、見ている人はしばらく瀧と同じように、三葉について想いを募らせることになる(まあ、瀧は思い出せない「何か」を渇望するのだが)。

 そして、最後の最後。階段シーンでほぼピンポイントの充填に到達する(ついでに言うと、最終直前の瀧の後ろの「テッシー・さやちんカップルの昔と変わらない会話」シーンもなかなかスパイスとして効いている)。

 つまりは、欠落→充填→欠落→充填の繰り返しで、幾度か観客は充填のカタルシスを感じつつ、欠落が生じたら再び想像で補完しながら次の充填を求めることになる。シーンの欠落はすなわち「二人の記憶の欠落」を象徴し、ずっと傍観者で見ているはずの観客も、欠落したシーンをこれまでの話の流れを思い起こしながら、補完する。その作業を通して、二人の距離感・疎外感と見ている人の欠落感とが共鳴できるようになっているのではないか。まあ、ちょっとそれは考えすぎかもしれないが。

 ともあれ、おそらくは、こうした演出の工夫で、この物語の終盤に向けての圧倒的な駆動力が維持されているように思うのである。人によっては、「説明不足」「不親切」「必然性がない」「唐突過ぎる」と言う風に感じるのかもしれないが、私は、自分勝手に楽しむ事ができた。

 

また、何気に飛騨の民芸品である「さるぼぼ」が出てくるのも個人的にツボだった。

 

 さて、ここまでは全然「『君の名は。』の科学」になっていないのであるが、後編で具体的に書いていこうと思う。私には映画でも小説でも、なんらかの作品を鑑賞している時、「科学の視点」というものが通奏低音的に作動していて、「おやおや」と思う所を発見する事も多い。まあ、発見した所で、よほど滅茶苦茶な内容でない限り興醒めする事は滅多にない。理科の教科書ではないのだから、基本的に話が面白ければいいのである。逆に話が面白くなければ、いくら科学的な整合性が取れていてもしょうがない。

 「君の名は。」でも「おや?」と思う事がいくつかあった。別に「おや?」と思う事があっても、作品の価値は全く減じないし、私個人の中では「良い作品」であることには変わりない。ただ、「このような視点もある」という事で、「君の名は。」に感動して、なおかつ理科的な事にも興味があるという人は、是非後編も呼んでいただければ幸いである。