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ZoaZoa日記

気の向くままに書き散らしてゆきます。皆さまの考えるヒントになればと思います。

シンゴジラの音楽

 同じ映画を見ても、感じ方が人それぞれなのは当然ながら、シン・ゴジラほどその感じ方・捉え方が多種多様に分岐する作品もなかろう。公開後たった二週間程度でとんでもない数のコメント・感想・解釈・解説がネット上に溢れかえっているのは前回のシン・ゴジラの生物学に書いた通りである。

 

 

 

 今回はシン・ゴジラの音楽について感じる所・思う所を書いてみたい。当然、音楽の側面でもいろいろと様々な意見が出ている。旧作のゴジラの音楽を使ったのが素晴らしいと言う人もいれば、録音が古くて今の映画館では違和感があったと言う人もいた。また、エヴァンゲリヲンの音楽が多いのはいかがなものか、という声もそれなりに多く、鷺巣詩郎の曲は余計だったのではという手厳しい意見も見受けられた。

 

 

シン・ゴジラ音楽集

シン・ゴジラ音楽集

 

 

 

 私個人としては、上記の意見のどれにも与しない。というのも、たぶん上記の意見を書いている人達と私とではおそらく音楽的な背景がかなり違うと想像されるからである。

 

伊福部昭シン・ゴジラ

 まず、旧作のゴジラの音楽があまりゴジラ映画とつながっていないと言う事がある。私にとって、年少の頃より長年親しんだ怪獣映画といえば「ガメラ」なのである。ゴジラシリーズは相当に年齢を重ねていった後に見始めた。よって、映画館で見られたゴジラは、機龍二部作以降である。

大怪獣ガメラ [Blu-ray]

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 そう言う訳なので、ゴジラの音楽の認識順番としては、世間一般と逆で、まずはラベルのピアノ協奏曲の第3楽章ゴジラ(に似た)音楽初体験となる。18分30秒あたりである。無論、この曲を初めて聴いた時、ゴジラに似ているとは全く思ってない。

 

ラヴェル:ピアノ協奏曲

ラヴェル:ピアノ協奏曲

 

 

  次に出会ったのが伊福部昭のヴァイオリンとオーケストラのための協奏風狂詩曲である。これを初めて聴いた頃は、映画音楽でない方の伊福部昭の曲に夢中になっていて、9分11秒あたりの部分を耳にした時「ラベルの協奏曲そのまんまじゃん!」とずっこけた記憶がある。伊福部作品には他にもプロコフィエフのピアノ協奏曲3番冒頭にそっくりなフレーズが出ていたりして、近代音楽の部品を結構そのまま活用している事が多い。もちろん、部品であるだけで完全に伊福部節の中で同化してしまっているのだが。

 

楽 協奏風交響曲&協奏風狂詩曲~伊福部昭の芸術5

楽 協奏風交響曲&協奏風狂詩曲~伊福部昭の芸術5

 

 

 そして、ゴジラ映画というものをちゃんと見たことないので、一作目から見てみようと思ってビデオを借りてきたら、いきなり冒頭で協奏風狂詩曲(ラベルのピアノ協奏曲)が登場して「なんじゃこりゃ!」となったのである。無論、ゴジラの音楽よりも、協奏風狂詩曲の方が作曲時期は古い(もっといえば、映画「社長と女店員」「蜘蛛の街」でも既に使っている)。伊福部昭の音楽がすでに強く刻み込まれていた私にとって、「伊福部昭の音楽がゴジラという映画の伴奏として使われている」と言う感じで「ゴジラの音楽は伊福部昭」という感覚にはなれなかった。それは今でも変わらない。伊福部昭自身も「周囲から『映画音楽を作るなど作曲家として邪道』と揶揄された」と回想している通り、本業はやはり純音楽の作曲家という意識はどこかにあったように思う。

 と言う訳で、シン・ゴジラ伊福部昭の音楽が流れる事自体は、伊福部作品を愛する自分としては嬉しい事なのだが、それは「初代ゴジラの音楽だったから」でなく、「伊福部昭であるから」だ。本気を出した時の伊福部昭(別にゴジラの音楽が片手間だったという事でなく、情熱の方向性が違うと言う意味で)は、ピアノとオーケストラのためのリトミカ・オスティナータの終盤(17分00秒あたりから)を聴いていただければ充分であろう。こういった伊福部成分がゴジラの音楽に昇華されているというのが、私の感覚なのである。

 ということで、シン・ゴジラで伊福部音楽に改めて魅了された人は、彼の他の多様な側面にも注目してもらえれば幸いである。

 

 

ゴジラ

ゴジラ

 

 

現代日本の音楽名盤選5 伊福部昭・小山清茂・外山雄三 (MEG-CD)

現代日本の音楽名盤選5 伊福部昭・小山清茂・外山雄三 (MEG-CD)

 

 

 

 伊福部昭シン・ゴジラの音楽について小室敬幸氏が「音楽から読み解く「シン・ゴジラ」の凄み」というタイトルで譜例も入れて実に楽しくきちんと解説して下さっている。音楽素人からすれば、なんとなく感じている事を具体的に提示してもらえてありがたい限りである。伊福部音楽=ゴジラ音楽という人が、どのようにシン・ゴジラの音楽を受容しているかをひじょうにわかりやすく解説してくれているので、目から鱗であった。また、鷺巣詩郎の仕事についても、推測を交えながらも解説してあり、シン・ゴジラという作品は、音楽もまた入念に設計された「仕掛け」が満載である事を実感できた。

 

 

鷺巣詩郎シン・ゴジラ

 「エヴァンゲリヲンの音楽を使いすぎでは」と言う指摘も、事実としては認知できるものの「そこに何の問題が?」というのが正直なところである。おそらくはエヴァンゲリヲンの音楽の刷り込みが強すぎて、その原初イメージに引きずられてしまう違和感があったのだろうと想像する。私の場合、エヴァンゲリヲンの音楽もまた、様々な音楽を想起させるもので、特にシン・ゴジラで多用された「ヤシマ作戦」の音楽は、エヴァンゲリヲンで初めて聴いた時には、いろいろ連想する曲が出てきたものである。

 

Shiro SAGISU Music from“EVANGELION:1.0 YOU ARE(NOT)ALONE”

Shiro SAGISU Music from“EVANGELION:1.0 YOU ARE(NOT)ALONE”

 

 

 まず、ジョン・バリー「007/ロシアより愛をこめて」の「セブン」。与える印象は微妙に違うのだが、似ていると言えば似ている。そして、だいぶん印象は異なるが、同じような傾向の音楽として大江戸捜査網のテーマ曲も出てくる。

 

007/ロシアより愛をこめて オリジナル・サウンドトラック

007/ロシアより愛をこめて オリジナル・サウンドトラック

 
大江戸捜査網 オリジナル・サウンドトラック
 

 

 以下、素人的に屁理屈を並べる。3拍というのは基本不安定で、偶数拍は安定感のある拍である。奇数拍と偶数拍が混在すれは変拍子である。最も単純な変拍子は3:2の5拍子だ。例として、倉橋ヨエコのロボットを上げておこう。なにか急かされている感じになり安定感はない。さらに2拍足して、「2:3:2」としても、奇数である事には変わりないので、プロコフィエフのピアノソナタ7番終楽章のように、疾走感は高まるが、無理やり前進させされているような不安定な感じになる。偶数拍だけだと「不安定さ」は出て来ないので、強制的にアクセントでも入れない限り、リズムだけで切迫感は出しにくい。といっても、上記の例を見てもわかるように奇数拍を入れればいいというものでない。解決策としては、小節全体で偶数になるように拍を設計すれば、不安定と安定とが遷移して、聴く者に何らかのアクションを誘導させることができる。

 

 

プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ 第2番,7番,8番

プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ 第2番,7番,8番

 

 

 その最も単純な解決案は「3:3:2」にするということだ。3拍の部分の不安定さが2拍の部分で落ち着く。その繰り返しで健全な前進性が生まれる。先のジョン・バリーの007、大江戸捜査網がこのパターンである。

 「3:3:2」の変形として、「3:3:2:2:2」というのもある。譜面上は2小節となっているのだが、レナード・バーンスタインの「アメリカ」が代表例だ。「3:3」でタメて「2:2:2」で弾けるという対比サイクルを繰り返す事で前進性というよりも、舞踏への勧誘を強く促す音楽となる。

 

 

 

 「3:3:2:2:2」の最後の2拍を省いた「3:3:2:2」とすると当然不安定感は増す。と同時に二拍で終わるから前進性はある。前進性はあるが、足りない拍は自分で補って突破せよというような感じになる。リズムを刻んで思いだした人もいるだろうが、このパターンは、スパイ大作戦のテーマである。

 

 

スパイ大作戦 ファイル1 ― オリジナル・サウンドトラック

スパイ大作戦 ファイル1 ― オリジナル・サウンドトラック

 

 

 

 さて、ヤシマ作戦の音楽であるが、これは、なんと「3:3:3:3:2:2」という拍になっている。不安定な3拍が4つ連続した後に、絞めで2拍が二つ。前進性はやや薄れるものの、複雑な不安定なプロセスが秩序だって順次進行してゆく時のBGMとして最適なリズム構造と思われる。

 

 このヤシマ作戦の音楽がシン・ゴジラの「巨大不明生物特設災害対策本部(巨災対)」のテーマになったことで、この曲のポテンシャルが最大限発揮されたと言っていいだろう。巨災対向けのカッコいい楽曲はおそらく他にもいろいろあるだろうが(例えば、マイティジャックのテーマ曲のような)、架空の秘密兵器の出て来ないシン・ゴジラにおいては、面倒で困難なプロセスを粛々と根気よく地道に進めてゆくほかない訳で、さらには情報量の多い台詞もこのテーマの拍に非常にうまくハマり、シン・ゴジラで中心的な役割を果たす「巨災対のテーマ」として、この「ヤシマ作戦」以外の音楽はもう何も思い浮かばない。

 そして、サントラである「シン・ゴジラ音楽集」を聴くと、この「巨災対のテーマ」は物語の進行ともに六回も巧妙に変奏され、盛り上がってゆく。この事を見ても、巨災対のテーマがシン・ゴジラの人間側の通奏低音のように作用していることがわかる。今後、シン・ゴジラの音楽と言えば、この「巨災対のテーマ」になるのではないか。ともあれ、日本映画史上に残る極めて効果的なBGMであると思う。

 

 

シン・ゴジラ音楽集

シン・ゴジラ音楽集

 

 

 

シン・ゴジラの音楽>

 最後にシン・ゴジラのために作られたオリジナルの音楽について書く。既に小室敬幸氏が鷺巣詩郎伊福部昭とのモチーフの共通性について考察しており、鷺巣さんが、この作品を通して洗練された形で伊福部音楽の種子を蒔いている事がわかる。

 その考察の中で、サントラのトラック3「対峙」の音楽(第三形態と自衛隊が初めて対峙する場面で使われる)とトッラク20,21の「特殊建機小隊」の音楽(ヤシオリ作戦の血液凝固剤注入場面)とが共通のモチーフで、同じ戦闘場面である「タバ作戦」では違う音楽が使われていることに疑問を呈している。

 個人的には、これは自衛隊の意識の差を象徴させたものであろうと推察する。最初の対峙は「自衛隊が初めて国内で国民がいるかもしれない場所で火器を使う」という「初体験」の緊迫感がある。一方、ヤシオリ作戦の方は、不確定要因が多く放射線被害も無視できない決死の作戦という別の意味での「緊迫感」がある。ともあれ、どちらも非日常の中のさらなる非日常の緊迫感だ。

 そして「タバ作戦」は、攻撃が政府から承認されていて、自衛隊としては「入念に計画された勝つ事前提の作戦」なのである。つまり正体不明なゴジラという攻撃対象ではあるものの、自衛隊としてやることは「通常業務」である。そこは非日常の中の「自衛隊の日常」があるだろう。と言う訳で、タバ作戦はゴジラへの攻撃にはかわりないが、自衛官の根底にある意識は違うと思われるので音楽も違うのであろう。といっても、徐々に情勢が不利になるので悲劇的な曲想になる事には変わりないのだが。

 また、伊福部モチーフを内在する音型をさらに変形させながら、トッラク1「上陸」、トラック4「報道1」、トッラク13「悲劇」、トッラク14「報道2」、トッラク22「終局」と適用し尽くす所はまさに職人である。特に、「上陸」「悲劇」と「報道2」、「悲劇」と「終局」とか強く関連付けられているのは、物語の潜在的な解釈を広げる上で非常に効果的である。

 また、トッラク13の「悲劇」には歌詞があり、その意味は様々な人が和訳してくださっているが、この哀歌を素直に受けとめれば、ゴジラは牧吾朗自身であるように解釈できて、あの美しくも悲劇的なシーンの見え方もまた違って見えてくるというものである。無論、解釈はヒト様々であって、自分なりに納得できる答えが別にあれば、あのシーンを改めて味わえばいい。ただ、歌詞を知らないで見るのと、知って見るのとではかなり違う事は間違いない。

 小室敬幸氏は終局の後半部分の弦楽合奏が示すモチーフが暗示的だと言っているが、私も同感である。映画を見た人は、あの謎のエンディングを映像的に知覚しただけでなく、おそらく音楽の側面でも潜在意識的になんらかの「余韻」として感じたはずだ。

 

 そして、その余韻をかき消すかのように、初代ゴジラのオープニングのテーマが相当に手の込んだ古い録音でエンドロールに流れる。これもまた見事な演出と言えよう。そして、最後の最後で「ゴジラVSメカゴジラ」で締めくくるので「いやあ、いいものを見たなあ」という達成感を嫌でも感じてしまう。最後まで誠にかゆいところに手の届く選曲である。

 この終曲の終曲を聴いていると、同じ監督で続編はないだろうなと思う。この終曲には、何か「すべてやりきったぜ」という監督の万感の想いが込められているように感じるのである。

 

ベスト・オブ・ゴジラ

ベスト・オブ・ゴジラ

 
完全収録 特撮映画音楽 東宝篇10 ゴジラVSメカゴジラ

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