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ZoaZoa日記

気の向くままに書き散らしてゆきます。皆さまの考えるヒントになればと思います。

選択基準の罠

 誰しも自分が感じている以上の事を発想するのは難しいものである。ある人が感じている事というのは、ある人の目や耳などの感覚器から入った外部情報すべてではない。外部情報をすべて保存できるほど、私たちの脳の容量はない。私たちは外部から様々な情報を選択的に取り入れている。外部情報のうち何を「選択」するのかは、人によって全く違う。なぜ違うのかと言われても、それはその人の「個性」としか言いようがないので、答えようがない。理由を考えるとしても、その理由を考えるのも、また人間であって、その理由の考察に「選択」がかかるから、ますます訳のわからないことになる。

 選択された情報は、脳内にストックされ、他のストックされた情報と組み合わさり、新たな情報を取り入れる時の「選択の基準」となる。その繰り返しで、年齢が重なれば重なる程に「選択の基準」は強化されてゆく。「選択の基準」が強化されすぎると、何を見せても聞かせても同じような解釈しかできず、「頭が固い」などと言われるようになる。しかしながら、その選択の基準が全くないと言う場合、この世界はあまりに不確定である。いったい、外部情報をどう処理していいものかわからない。世間一般では処理できない情報を「訳がわからない」という言葉で表現する。この世界が「訳のわからない事」だらけだったら、とてもじゃないが、平穏安心して生きてゆく事は難しい。

 さらに言うなら、ある程度はその「選択の基準」が互いに共有される必要もある。人間は、やはり社会の中で生きているので、「最低限の選択の基準が共通である」という前提でなければ、社会生活はなかなか困難であろう。互いに全く理解不能な「選択の基準」しかないなら、コミュニケーションは辞書で定義されている言葉上のやりとりに過ぎず、各個人が持っている「実感」を持って情報のやり取りが出来ない事になる。話しが通じているようで、通じてないというのも、こういった「選択の基準」が微妙にずれているために起こるような気がする。誰にも理解できない、その人だけの「選択の基準」のことを妄想と言い、その妄想が社会生活を送る上で大幅に障害となった場合は、統合失調症のような状況ということになるのであろう。

 

ボクには世界がこう見えていた―統合失調症闘病記 (新潮文庫)

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 かなり大昔にNHKで連想ゲームという番組があった。チームが二つに分かれて、キャプテンだけがお題を見る事ができる。そして、キャプテンがそのお題から連想される言葉を提示して、各チームの回答者がそのお題を当てると言う流れである。今思えば、非常に地味な番組である。当然のことながら論理的に導き出されるヒントは駄目である。例えば、お題が「5月」だった場合「4月の次の月」とかいう類い。つまり、連想される言葉というのは、辞書で機械的に調べられるものでなく、同じ文化圏で育った人々にそれなりに共通の「選択の基準」から導き出されるのである。しかしながら、その連想の幅は、すなわち選択の基準は人によって微妙に違う。違うから、いくらヒントを出してもわからない場合がある。そこで、他の回答者が正解を言うと、分からなかった回答者は「あ!そういう見方もできたか!」と気付く訳である。そこにゲームとしての面白みがある。

ペアペア連想ゲーム 完全日本語版

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 さて、ここで究極の連想ゲームが展開される映画を紹介したい。「ユージュアル・サスペクツ」。見た事がある人ならいろいろな意味で「究極の連想ゲーム」という言い回しに納得していただけるかと思う(というのも、私の「選択の基準」がある程度は共有されるだろうという見込みで書いている)。題名の意味は「お決まりの容疑者」ということであるが、すでにこの題名からして見る人の「選択の基準」を誘導している。どんな話かといえば、コカインの取引現場が襲撃され、唯一の生存者キントの尋問が始まる。この尋問がリアルタイムの現実の出来事で、キントの証言はすべて回想で表現され、それを軸として事件の真相に迫ってゆく。基本、キントの語る回想を映像で再現する訳だが、その回想シーンこそが、見ている者の各々の選択の基準へと誘導してゆく罠なのである。

ユージュアル・サスペクツ [DVD]

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  映画(に限らず、コミック、小説、演劇)には、「結末がほぼ見えているけれども、何度見ても感激する作品」と「結末は予想できない、もしくは全く予想外の結末になり、一旦結末がわかってしまうと二度目からは興奮が半減する作品」とがある。前者は「ヒーロー・ヒロインもの」「恋愛もの」のような「様式化」した物語である。話の途中でいろいろあってハラハラドキドキしても、結末はほぼ決まっている。車寅次郎は結婚しないし、ジェームズ・ボンドは死なないし、出会うことなく男女がすれ違ったまま終わるラブストーリーもない。結末は決まっているので、そこ至る過程での様式を楽しむのである。

 

第1作 男はつらいよ HDリマスター版 [DVD]

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  後者はミステリーやサスペンス(場合によってはSF)作品がこれに該当する。そういった一つの典型例として、「猿の惑星」1968年版がある。ある宇宙飛行士が不時着した惑星は、言葉を操り文明を築いている猿の惑星だった。そして人類は猿以下の存在だった。最後に主人公はどういう現実を知ってしまうのか。という、知っている人には、今更な作品ではあるが、まだ見た事のない人は、そんなに注意い深く伏線を追わなくても一瞬でわかるオチなので、最初に見る時の新鮮な驚きを味わってください。わかってしまえば、この驚きは二度と味わえないので、見る前にネタばれサイトを覗くのは厳禁である。

猿の惑星 [DVD]

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  さて、「ユージュアル・サスペクツ」である。この作品の場合、衝撃の結末を知ったとしても、二度目が興醒めになるかといえば全くそんなことはない。というよりも、何度見ても新たな発見がある作品であって、よほどに練られた脚本である事がよくわかる。後者のタイプの映画ではあるが何度でも楽しめる例外中の例外な作品と言える。ハッキリ言って、これほどに人間の選択基準の隙をついた作品はなかなかない。ということで、まだ見ていない人は、これもまたネタばれサイトなどは一切見ずに、鑑賞してみてください。そして、自分の「選択基準」によって、どのようにミスリードされていったのかを2回目、3回目鑑賞するたびに確認してみると楽しいと思う。

 自分の力で、自らの選択基準を変える事は難しい。強制的な外的環境の変化、もしくはこのような映画などによって、自らの選択の基準の脆弱性に気付くが多い。仮にこのような映画や連想ゲームを媒介しないでも、普通の日常生活の中で「選択の基準」の見直しができるような人がいるとすれば、社会との関係性を保ちながら常に新しい世界が見えているということであるから、人生が毎日新鮮で楽しいと思う。しかし、人間の脳の特性として、なかなかそういう境地には至れないようである。