ZoaZoa日記

気の向くままに書き散らしてゆきます。皆さまの考えるヒントになればと思います。

自覚した出会いと刻まれている出会い

 生きていると様々な事や物に出会う。田舎道でのハクビシン。古本屋での場違いな写真集。見知らぬ街を運転していて聴こえてきた音楽。試験会場で隣にいた幻のような人物。体調を崩して学校を休んだ時に家のテレビで見たとりとめもない映画。山奥に突然威容を現す巨大な発電所

 

ハクビシン・アライグマ―おもしろ生態とかしこい防ぎ方

ハクビシン・アライグマ―おもしろ生態とかしこい防ぎ方

 
水力ドットコム

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 これまで私が出会ったもの、もしくはこれから私が出会うものは、私だけが知っている総和であって、あえて人に伝えてどうにかなるものでもない。ここで書いたところで、誰かの役に立つ事はないであろう。しかし、もしかすると、ここでの内容がきっかけとなって、それぞれの人なりの新たな世界が開ける事があるのかもしれない。ということで、思いつくままに好き勝手に書いてゆく。

 出会いというのは、本人がはっきり自覚している場合と、自覚はなくてもいつの間にか刻み込まれているという場合がある。その境界線は曖昧ではあるものの、日々の出会いをすべて記憶していたらあっという間に脳の容量をオーバーするだろうから、適宜、出会いの内容はカットされる。その中でどういう訳か印象に残った事が、「出会いの記憶」としてとりあえず保存される。ただ、保存されているからと言って、いつでも取り出せるとは限らない。たまにしか取り出さない記憶は、徐々に「本当にそんな出会いがあったのか」という頼りない気持ちになってくる。そして、自覚している出会いというのは、繰り返し出し入れされていて、普段の生活の中でも「生き続けている」と言っていいだろう。ところが、困った事に、出し入れを頻繁にするものだから、「出会いの記憶」が時間の経過とともに変容してゆくのである。それは出会った時の「脳」と、現在の「脳」の状況が違うのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが、「出会った瞬間」のあの感触はもう二度と味わうことができないのである。例えば、「いやいやえん」という有名な児童作品があるが、最初に読んだのは相当に幼いころである。しかし、その後と様々な機会に読み返しているので、この作品と最初に出会った時の感触(時期や場所はわかるのである)は残念ながら、今となっては再現する事はできない。当時の児童文学にしては、異例の不条理物語に子供たちが夢中になるのは、大人の視点から読めばよくわかる。さすが、すっとぼけた「ぐりとぐら」のコンビの作品であると理解できる。が、それは後知恵である。実際に子供の気持ちにもどって、この作品を読みながら「わくわく感」を取り戻そうとしてもなかなか難しい。ただ、出会っている事は間違いないし、この作品の価値が減ずるものではない。というか、人々が何かを語る事の大半は、この「自覚している出会い」である。

いやいやえん―童話 (福音館創作童話シリーズ)

いやいやえん―童話 (福音館創作童話シリーズ)

 
大型絵本 ぐりとぐら (こどものとも劇場)

大型絵本 ぐりとぐら (こどものとも劇場)

 

 

 ところが、自覚がなくて、いつのまにか刻み込まれている出会いというのは、「きっかけ」がなければ、「出会い」の記憶が再生されることは滅多にない。しかし、普段は封印されている分、余計な偽の記憶が付加されていないせいか、再生される記憶は、まさに「出会った瞬間」の新鮮な感触が蘇る事が多い。

 ということを書くのも、最近、幼年時代に読んでいたと思われるとある絵本を図書館で見て、一気に幼年時代の感覚のようなものが体の芯からもぞもぞと這い出てきたからである。その絵本とは「しろいうさぎとくろいうさぎ」である。

  まず今まで思い出す事のない絵本であった。細密な鉛筆のドローイング(?)による、黒いううさぎと白いうさぎの恋愛結婚譚である。客観的に見れば、幼児にとっては、「うさぎさん、かわいい」とだけ見ても充分に楽しめる絵本である。変に擬人化されてない分、本物の兎に近い「質感」が伝わってくるので、小動物が好きなら、絵を眺めているだけでもほくほくした気持ちになるだろう。図書館で何気なく手に取った時も「なーんか、見覚えあるなあ。なんか、ウサギがリアルだなあ」くらいだったのが、ページを開いて、1ページ目で、パッと奥深い記憶のスイッチが入ってしまった。読んだ時の部屋の臭いや季節まで鮮明に思い出され、そして、他の絵本では感じないような何かいけない話を読んでしまったような感覚も再現された。大人の視点では「この話のテーマは幼児にはわからないだろうな」と思うかもしれないが、そんなことはないのである。4歳児が読んでも、この作品のテーマは、「感覚」としてつかむことができる事はありえる。その感想を言語化できないだけである。この私がしっかりその感覚を思いだしているのだから、間違いない。そして、実はこの物語の「気恥かしさ」はその後の自分の人生に通奏低音のようにずっと私の中にあったように思う。まさに、出会いが刻まれていた訳である。しかし、肝心の絵本の方をすっかり忘れたつもりになっていたのだ。

しろいうさぎとくろいうさぎ (世界傑作絵本シリーズ―アメリカの絵本)

しろいうさぎとくろいうさぎ (世界傑作絵本シリーズ―アメリカの絵本)

 

 

 そういうこともあるので、出会いには「自覚している出会い」と「無意識に刻まれている出会い」とがあると考えておいた方が良い。