ZoaZoa日記

気の向くままに書き散らしてゆきます。皆さまの考えるヒントになればと思います。

食べ物で観る「この世界の片隅に」 ② ‐コメと代用食‐

「腹が減っては戦はできぬ」とはよく言うものの、その腹を満たすのはやはり「主食」と呼ばれるものであろう。②ではコメと代用食について思いつくままに書く。

 

<コメ> 稲Oryza sativa

 米は戦前の日本人の主たるエネルギー源であると同時に、文化的な支柱とも言える部分も強く、戦争中の「白米への渇望」についての描写は様々な物語でなされてきた。

 しかし「この世界の片隅に」ほど戦前日本人の米信仰を丁寧に描いた作品はなかなかない。お茶碗の中にある米の比率や状態を時系列できちんと変化させ、楠公をはさみつつ、闇市で台湾米を登場させ、サンがコツコツと瓶搗き精米してきた「真っ白な米」を玉音放送の晩に電灯の下で食べ、最後に広島駅にいたヨーコさんをおにぎりが引き寄せる。「米がなければラーメンを食べればいいのでは」と素朴に思う若い人がいてもおかしくない現代ではあるが、この作品をじっくり鑑賞することで、当時は明けても暮れても米一択であり、いかに米中心で食生活が回り、米不足がどれだけ食生活を空虚な状態にしていたかを追体験できるだろう。

 その米中心主義は楠公を自分で作ってみるとさらに実感できる。楠公飯、好みはあるだろうが、水を吸ってふやけたポン菓子のような食感で、味付けや具を工夫すれば日常食として個人的には全く問題ない。しかし、それは現代の食の感覚であって、当時の人は「米の増量法」としてやってみたものの、「貴重な米を無駄に使ってしまった。少量でも普通に食べた方が良い」という感覚の方が強かったことだろう。そんな事もあって、大々的に普及せず「戦時中と言えば楠公飯」とはならなかったのだろうと思う。作品の中で描かれている失望感は、「純粋な味の問題」というよりも「米特有の充実感・食感の喪失」の側面の方が大きかったように思う。なお、楠公飯は玄米を使うので、白米よりも多くのビタミン・ミネラル・食物繊維も摂ることができる。しかし、戦時中はそんな事は関係なく、とにかく白米を腹いっぱい食べたいのである。今でも健康食と称して病院や施設の献立に玄米を出すと「こんなものを食わせるのか!」と激怒する後期高齢者がいるものだが、そう言いたくなる気持ちはわからないでもない。食と言うのは栄養だけでは語れないのだ。

 米と言えば、日本酒も忘れてはならない。作品の中では、すずさんの婚礼の膳と第二エンディングのリンさんの回想場面で出てくるが、当時の経済統制の状況を考えると、精米歩合65%以上・アルコール添加の清酒である可能性が高い。ただ、粗悪日本酒の代名詞ともいわれる三倍増醸清酒は当時まだ国内にはそれほど流通してないはずなので、すずさんたちが飲んだ日本酒は現在なら「糖類無添加本醸造酒」に近い品質のものだったと思われる。銘柄は言うまでもなく三宅本店の「千福」であろう。余談になるが、三倍増醸清酒の製法を戦前に積極的に研究していたのが実は三宅本店の満州の系列会社、満州千福醸造で、その時のノウハウが呉空襲でほとんどの蔵を失った三宅本店の戦後復活の礎になったそうである。なお、「千福」と言う銘柄は1916年に登場し、奇しくも「この世界の片隅に」の公開年である2016年に100周年を迎えていたのである。

 

<代用食>

 戦時中、特に末期に米の代わりとなるエネルギー源、すなわち代用食は主にサツマイモ(甘藷・Ipomoea batatas )、カボチャ(南瓜・Cucurbita moschana )、ジャガイモ(馬鈴薯Solanum tuberosum )の三つである。よって、仮に歴史のいたずらで、この三つの作物がもし日本になかったなら、大戦末期には国内で大量の餓死者を出した事は確実であろう。

 特にサツマイモは江戸後期の飢饉において多大な貢献をしたと言われているように、食糧難の戦時中にも大活躍し、「この世界の片隅に」では茶碗の中身としてたびたび登場する。ただし、戦後に品種改良されたベニアズマのような繊維質の少ないホクホクのサツマイモを想像しては駄目なのであって、当時の瀬戸内沿岸ではおそらくは「七福」と呼ばれるコロコロした品種が流通していたと思われる。また、サツマイモは葉や茎の部分も食べられ、芋よりもビタミン類やアントシアニンが含まれるので密かに北條家の健康維持に役立っているはずなである。すなわち、サツマイモは米に代わるすずさんたちの生命維持に多く聞く貢献していた作物であったのだ。

 カボチャは、晴美さんに落書きをされたり、懐妊が疑われた朝の「はい!二人分」の茶碗に入っていたり、玉音放送で泣き崩れるすずさんの傍らにあったりと、それなりに重要な場面で登場する。形状からして、ニホンカボチャだと思われる。作物としてのカボチャは根菜類に比べ、畑から盗まれやすいという欠点があるが、ビタミンAやカロテノイドが豊富な事から夜盲症の防止となり、灯火管制下の夜間の空襲が常態化している状況では、ある意味で理にかなった食材と言える。

 ジャガイモは「刈谷さん監修料理」や空襲で焼き出された人のおすそわけで登場し、縁側のサンの「みんなが笑って暮らせれば…」や径子さんアイスクリーム回想などのシーンで芽摘み作業でも登場する。ご存じのようにジャガイモの芽にはソラニンという有毒成分が含まれるので、戦時下といえども芽摘みは入念に行う必要がある。ともあれ、食材として何気によく使われていた事がうかがえる。こうしてみると、ジャガイモ、食材としては影の四番ピッチャー的な存在だ。ちなみに、欧米ではジャガイモは貧窮作物としての歴史があるので、豊かなはずの進駐軍の残飯にも浮かんでいる。

 以上、三つの作物はすべて元をたどれば中南米原産であり、栽培が比較的容易という共通点がある。特にカボチャは、本当に農作物かと思うくらいにほっておいても勝手に実をつけるので、戦時下の作物としては救世主だった事は想像に難くない。が、あまりにあらゆる場所で作らされたせいか「二度とカボチャは見たくない」という世代を作ってしまった要因でもある。はたして、すずさんたちは戦後に食糧事情が豊かになった後でも、晴美さんの思い出や玉音放送とセットになった嫌な顔をせずカボチャを食べ続けただろうか。

 まだ余裕ある頃には、コムギ(小麦・Triticum aestivum )を原料とした饂飩やマカロニなども代用食として活用したようだ。原作でも、炭団の代用品を作る回で饂飩が登場する。ただ、小麦粉といっても、現在のような真っ白な粉でなく、戦争末期には様々な雑穀・大豆粉や糠・ふすまなどが混入している実態不明の代物となっていたため、饂飩と言っても現代の私たちが想像するものとは違うだろう。よく「戦時中を体験しよう企画」などで「代用食の『すいとん』を再現しました」など言うのも、正体不明の小麦粉が手に入らない以上、当時の「すいとん」を忠実に再現するのは実は難しい。というか、ほぼ不可能であろう。食というのは、多かれ少なかれ一期一会なのであり、戦前まで遡らずとも、20年前の饂飩と現在の饂飩とを比較しても微妙に違うはずなのである。

 ということで、この作品で登場するまっとうな小麦製品は、お盆の草津の昼食の素麺(冷麦かもしれない)と進駐軍の残飯に混じっているパスタくらいであろう。とはいえ、やはり米第一主義の中にあっては、パン類・麺類は食生活が豊かになった戦後にその地位が徐々に高まったといえるだろう。今でも駅前の大衆食堂などで「ラーメンライス」などというメニューがあるのは米第一主義の名残のように思える。

 

③では、副菜となるような、野菜・野草・ダイズについて書いてゆく。

食べ物で観る「この世界の片隅に」 ① ‐ノリ・タンポポ・ダイコン‐

 食い意地が張っているので「この世界の片隅に」に登場する食べ物については公開初日で見た時から密かにあれこれ気になっていたのである。とはいえ、情報量が膨大すぎる作品なので、映画館で何度見てもわからない事もあり、食べ物に関しては少々もやっとしていた時期があった。しかし、ブルーレイも発売され、原画集も出版された現在、様々な疑問が解決してきたので、「この世界の片隅に」に登場する食材について(少し大風呂敷でひろげて多少「栄養学」の視点も含めた)備忘録のようなものを6回に分けて書いてみたい。

 今は映画館のみならず様々な媒体で日々この作品「初観賞」の人々は増えているわけで、そんな人のためにもこの作品の奥深さをお伝えできればと思う。

 

 

 とはいえ、例によって、あくまで私が作品を鑑賞して「認識できた」ことしか書けないので、知識不足な点や根本的な誤解などが多々あるとは思う。言うまでもなく、一番詳しいのは片渕須直監督&浦谷千恵監督補そして原作者こうの史代さんなのであって、「この世界の片隅に」愛好者にすぎない私があれこれ細かな事を書くのは戦々恐々なのは今も変わりはない。間違い等の御指摘があればありがたし。

 

 ①ではこの作品において、重要な役割を持つ食品「ノリ」「タンポポ」「ダイコン」を記していこう。なお、参考までに食材となった生物の漢字名・学名も載せておく。

 

<ノリ> 海苔・Pyropia tenera

 海苔は、この作品を象徴する最も重要な食材であろう。なんといっても、「この世界の片隅に」と言う作品は、すずさんの海苔のお使いに始まりヨーコさんの海苔のおにぎりに終わる物語なのである。

 海苔は栄養の点で見れば、あらゆる栄養素が含まれたかなり優秀な食品である。人体に必要なミネラル・ビタミン・アミノ酸・必須脂肪酸・食物繊維などがほぼ完璧に含まれている。ただし、何百グラムも大量に食べるものではないし、重量当たりのエネルギー量も小さいので、「海苔だけ食べて生きてゆく」というのは無理である。そもそも何百グラムも食べれば、微量ミネラルを過剰摂取する事になって弊害の方が大きくなる。ただ、適量食べることで、他の食品では摂取の難しい微量ミネラルを得ることができるので、食卓に海苔があるかないかでは、栄養学的にはだいぶん様子が変わってくる。

 すずさんが海苔摘み・海苔漉きをしている場面でてくるが、戦前の海苔は「養殖」というより「天然ものを採集している」といった感じものだ。というのも、アサクサノリという藻類の実態がよくわかってなかったので、計画的に人工養殖する事が難しかったのである。そんな背景もあり、当時、海苔は高級品であった。高級品であるからこそお歳暮・お中元の代表選手だった訳であるし、すずさんがなぜ海苔を中心街の料亭にわざわざ届けに行ったのか少し実感できるのではないだろうか。

 戦後、英国の藻類学者K.M.Drew-Bakerによってアサクサノリの全生活史が解明され、その知見をもとに熊本の天草で初めて海苔の人工養殖が可能になった。そこから、計画的な生産ができるようになり、海苔は庶民でも気軽に購入できる食材となった。桃屋の「ごはんですよ」があの価格で購入できるのは戦後の海苔養殖技術のおかげなのである。

 

タンポポ> 蒲公英・Taraxacum sp.

 タンポポを食品にカウントするのは微妙な人もいるかもしれないが、「マイマイ新子と千年の魔法」から引き継がれる、この作品になくてはならない重要なアイテムであることには異論はないだろう。現在では野草マニアでない限り食する事は少ないとは思うが、どこにでも目立って生えているので「食べられるかな」と思われがちな野草の筆頭格とも言える。実際、好みは分かれるもののちゃんと下処理をすれば普通に食べられるし、薬草やお茶としても使われる。というか、すずさんの野草料理の餌食になった他の植物も、多かれ少なかれ薬草であって、図らずも北條家は毎日「薬膳」を食していたことになる。

 あっさり「タンポポ」と書いてしまったが、作品を見た人なら「白いタンポポ」という事が印象に残っている事だろう。セイヨウタンポポTaraxacum officinale )が圧倒的多数の現在、白いタンポポを探すのは苦労する事だろうが、本来、日本のタンポポには非常に多くの種類があり、その分布や分類も一筋縄にはいかない。とりあえず、北條家周辺に咲いている白いタンポポは地理的な位置・時代背景・総苞片のつきかた・種子の色などから、シロバナタンポポTaraxacum albidum )である可能性が高いと思われる。しかし、岡山や広島東部にはシロバナタンポポに似たキビシロタンポポTaraxacum hideoi )が、東北にはオクウスギタンポポTaraxacum denudatum )などが分布しているので、地域によっては白いタンポポをみつけたからといって「すずさんが愛でたのと同じ白いタンポポ」であるとは言い切れない事もあるのが難しいところだ。

 

 

<ダイコン> 大根Raphanus sativus

  大根はかなり様々なシーンで登場する。家の軒先によく干されているし、漬物おかずとしても食卓の常連だ。カブ(Brassica rapa var. glabra )も何気なく幾度か画面に登場する。今と同じで、基本は大根と同じ扱いであろう。

 個人的に最も印象的だったのは江波から呉に帰る時にすずさんが背負っている大根だ。実は原作では周作が大根を背負っている。さて、すずさんに大根を背負わせた監督の意図はいかに?

 これはあくまで私の個人的な想像であるが、縁談話を聞いてすずさんがあわてて江波に戻る時に水原哲と鉢合わせする場所が大根畑なのである。そして、年度は違えども、水原哲の入湯上陸の事で周作さんと列車内で喧嘩する時に背負っているのが、その江波の大根なのである。つまりは、すずさんは意識してないにせよ、大根は江波と水原哲をつなぐ作物ということになるのかもしれない。そして、終戦後。刈谷さんの物々交換リアカーにも大根がそれなりの数「搭載」されている。言うまでもなく、それは江波の大根ではない。そして、そのリアカーは重巡洋艦「青葉」を眺める水原哲の後ろを通り過ぎる。江波と水原哲をつなぐ「何か」は違った種類のものになったのだろう。

 大根はエネルギー源にはほとんどならず、日々の食卓の「かさ増し要員」な訳だが、実は隠れた栄養供給源としての側面がある。それは根ではなく葉の方だ。いわゆる大根菜である。カボチャでも出てきたが、ビタミンA、カロテノイド、その他ビタミン・ミネラル摂取に大きく貢献しているはずだ。まとまって収穫できる野菜が限られている以上、大根葉は貴重な微量栄養素の宝庫だったであろう。ということで、すずさんが背負っている大根もしっかりと葉がついている。

 原作では晴美さんとの種まき競争、映画では「藍より蒼き♪~」と空の神兵を晴美さんと歌いながらの畑作業で芽生えとして登場するコマツナ(小松菜・Brassica rapa var. perviridis )もカブや大根と同じくアブラナ科の作物で、栽培も容易で、似たような栄養供給源となる。

 なお、こうの史代さんが飼育していた(最終的に逃亡した)インコの名前が大根の別名の「すずしろ」である。元素名と同時並行で、このインコの名前もまたすずさんの名前の由来になったという説もある。そう言われると、こうの史代さんが飼っていたインコ(すずしろ)の凶暴さやどこにでも雑草のように根を張る大根は、すずさんのキャラクターと相通じるものがあるかもしれない。

 

 続く②では、米と代用食などについて書いてゆこう。

KUBO 日本ではない日本的なものへの憧憬

 KUBO 二本の弦の秘密 を観てきた。

 

 あくまで個人的な意見ではあるが、表現手段と物語が完全に表裏一体化したおそらくは歴史に残る傑作であろう。この作品に関しては、ストップアニメーションの気の遠くなるような超人的な制作過程が宣伝でも解説でも強調される事が多い。しかし、言うまでもなく「物語を表現するためにストップアニメーションがあるのであり、ストップアニメーションの特性を最大限生かすためにこの物語がある」のである。優れた作品はおおかた結果的にそうなるものだが、この作品ほどこの事を思わずにはいられないのである。

 

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 もしかするとストップアニメーションというものに不確定要因を感じ「DVDが出てから家で時間のある時に見よう」とぼんやり思っている人もいるかもしれない。しかし、この作品は是非とも映画館で見てほしい。というのも、KUBOは、映画館で見なければわからないことがあるのだ。 

 人間が何かを注視している時の中心視野はせいぜい20°程度しかない。その角度の範囲に観賞モニターがおさまった場合、KUBOの本当の動きやテクスチャーはよほど目の解像度が良くなければ感じとる事はできないであろう。原理的にはモニターにより近づけばよい訳だが、そうなるとモニターの画素の方が気になってくる。KUBOはあまりに超絶技巧な仕上がりになっているので、家の小さなテレビやモニターなどでぼんやりと観ると「CG映画」と感じてしまう危険性がある。

 この危惧は映画館の大きなスクリーンで観賞する事でほぼ解決する。よほど視力がわるくない限り、もしくはよほど後部の座席に座らない限り、鑑賞者はスクリーン上の登場キャラクターの動きやテクスチャーの圧倒的な実在感に息をのむに違いない。折り紙や被服の微妙な皺、わずかなムラが煌めく金属光沢、様々な物体の不確定な落下運動。すべてデフォルメされた存在であるはずなのに、すぐ目の前にあるかのような実在感がある。すべて実物を動かしているのであるから、リアリティがあるのは当たり前と言えば当たり前である。しかし、その当たり前の事を本当に実現させるのが一番大変なのである。

 

 いきなり話はとぶが、中世日本、もしくは近世日本の「雰囲気」というものを私たちはどのようにして実感する事ができるだろうか。結論から言えば、それは現代を生きる人には本当に「実感することはできない」のである。しかしながら、今の日本は、歴史の積み重ねによってある訳だから、資料を駆使して(場合によっては妄想によって)様々な人が過去の「空気」の再現を試みている。しかし、どれだけ時代考証をしたとしても、その時代の「空気」について何が正解は結局わからない。

 KUBOの前半部分で登場する村の風景が出てきた時に、ふと思い出したのが渡辺京二「逝きし世の面影」である。

 

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

 

 

 この本は、明治期に日本に来た様々な西洋人たちの日本の印象の言説を引用しながら、失われた日本の「空気」の再現を試みたものである。あたかも当時の「雰囲気」をリアルに感じてしまうような筆致なのだが、現代人がその時代にタイムスリップして本当にそのような「雰囲気」を感じとれるのかどうかは定かではない。

 しかし、KUBOにはそのような疑念が浮かぶ暇もないほどに現代日本ではない「逝きし日本の面影」が迫って来るように私には感じられるのである。そう感じてしまう要素は様々だろうが、一番大きいのはゼロから作り上げた人物造形に依る所が大きいだろう。KUBOの芸に集まる村人たちは、一人一人がそこに生きていた実在の人々のように見える。当然、モブではない。村人の誰か一人をピックアップしても余裕で物語が作れるのではないかと思うほどに、生き生きした「なり」をしているのだ。KUBOと親密に会話をかわすカメヨ婆の存在感も非常に懐かしい感覚を覚える(吹き替え版では、このカメヨの声を小林幸子がやっているのだが、これがまた妙にはまっている)。

 ふと、明治期に活躍した風刺画家、ヴィクトル・ビゴーの描いた庶民の素描も思い出す。明治期の庶民の写真は、数は少ないが残されていて、それを頼りに当時の雰囲気を想像する事も可能である。しかしながら、写真は事実関係を検証する資料としては貴重だが、リアリティという観点では、写真はビゴーが描いた当時の人々の生き生きとした素描には到底かなわない。

 

ビゴー日本素描集 (岩波文庫)

ビゴー日本素描集 (岩波文庫)

 

 

 人によってはKUBOを観て「これは日本ではない。西洋人のオリエンタリズムにすぎないのでは」と感じる可能性もあるだろう。確かに日本の伝統芸能や工芸への造形が深ければ深いほどに、登場する被服・小道具、建築などは一見すると珍奇で奇抜なデザインに見えてしまうかもしれない。

 しかしながら、今となっては「現代を生きる私たち日本人」と「日本に思い入れのある現代西洋人」とで中世日本の精神性への理解に差はあるのだろうか。日本人側は中世の「日本の伝統様式」はある程度は継承したかもしれないが、その精神性を本当に受け継いでいるのか。もしかすると、その形だけの「伝統様式」をもって「日本的」と思い込んでいるだけかもしれない。極端な事を言えば、西洋人が様々な資料を参考にして思いめぐらす中世日本の世界観と日本人であるというだけで勝手に想像している中世日本の姿とは実質的にはそれほど大きな差はないのかもしれない。

 もしそうなら、どの国の人間であろうと、日本の中世への想いの強さが大きければ大きいほど、創作したモノに多くの命が吹き込まれる事になろう。実際、それぞれのキャラクターやテクスチャーのデザインは、彼らが存分に夢想した中世日本のエッセンスが見事に昇華していると私は思う。

 例えば、亡くなった人の魂を運ぶ鳥として鷺を使うのである(「この世界の片隅に」ファンなら、あのシーンを思い出すことだろう)。これは製作者の完全創作かといえば、そうとも言い切れなくて、江戸期の怪異として鳥山石燕の著作に登場する夜に白く発光する鷺、いわゆる「青鷺火」を参考にした可能性がある。しかし、怪異というよりも、最終的に救済の存在として活用されるのである。

 クワガタというお調子者のキャラクターも登場する。鍬形の全形と兜の質感が融合したような造形である。手足も六本あり、関節部分も昆虫のそれである。と同時に鋭角的なデザインは単なる昆虫の模倣ではない事を示す。あくまで「武士の装束」なのだ。戦国時代にはかぶいた兜が多数作られたが、その中の一つとしてあってもおかしくない。

 分かりやすく言うと、KUBOに登場する様々なデザインは日本的なものへの想いを生涯捨てなかった日系人イサム・ノグチのデザインした照明「Akari」のような作品に似た存在と言えるように思う。

 

イサムノグチAKARI10A

イサムノグチAKARI10A

 

 

 KUBOの物語は少年の成長物語の王道のようでいて、最後の最後で一気に極めて現実的な着地点に到達する。そこが単なる冒険譚とは違うとも言える。乱暴に言ってしまうなら、KUBOの物語の骨子はパウロ・コエーリョの「アルケミスト ~夢を旅した少年~」に近いかもしれない。一方で、KUBOの物語は、途中のある点からエンディングの直前までKUBOが片目で見ていた白昼夢のようなものだったと強引に解釈することもできよう(まあ、それではいろいろ矛盾は生じるのだが)。どちらにしても、「人間にとって物語とは何か」という根源的な問いを物語に内包させている事には変わりない。

 

アルケミスト―夢を旅した少年 (角川文庫―角川文庫ソフィア)

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 三味線が第二の主人公のようなものだから、音楽は当然の事ながら五音階が効果的に使われている場面が多い。充分に聴き取れたか自信がないので間違っているかもしれないが、その五音階も「ド‐♭ミ‐ファ‐ソ‐シ」の民謡音階と「ド‐♭レ‐ファ‐ソ‐♭ラ」の都節音階の両方を使っているのが本格的である。とはいえ、コルンゴルド風(ジョン・ウイリアムス風とも言う)の壮大な音楽も活劇場面では使われ、これが合衆国の作品であることを思い出させてくれる。

 エンディング曲は「While my guitar gently weeps」。ギターならぬ三味線でやる訳で、なかなか狙った選曲である。吹き替え版では、三味線を吉田兄弟が下の音源よりもパワフルに演奏している。

 

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 演出に関しては、監督自ら「黒沢明宮崎駿の影響を受けた」と言っているように、場面転換のテンポ、アクションの遠近法、自然現象も含めた多様な運動の対比などなど、先人の技法を取捨選択して最大限活用しているように見える。私だけかもしれないが、クワガタの様々な動きなどは黒沢作品に登場する三船敏郎のそれを連想してしまう。また、折り紙が宙を舞う場面などでは、飛行体の卓越した描写に定評のある宮崎駿作品の様々なカットを思い出す。

 そして、何と言っても製作者はおそらくは辻村寿三郎の存在を意識していたに違いない。どの程度、参考にしていたかわからないが、彼の存在を知らないというのはちょっと考えにくい。ある年代以上なら、KUBOを観て、1974年からNHKで放映されていた人形劇「新八犬伝」「真田十勇士」を連想するかもしれない。若い人のために説明すると、辻村寿三郎はそれらNHK人形劇に登場する人形を製作していた巨匠なのである。彼の製作する人形は、表情が変わるしくみにはなっていないにも関わらず、ドラマの中では表情が刻々と変容するように見え、当時としてはかなりな視聴率を記録したのである。辻村寿三郎がKUBOを観たならば、どのような感想を抱くのか非常に興味がある。

 

NHK人形劇クロニクルシリーズVol.4 辻村ジュサブローの世界~新八犬伝~ [DVD]

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 ということで、ネタばれしないように留意しながら、いろいろと思いつくままに書いた。

私にとって、KUBOは「日本ではない日本的なるものへの憧憬」を日本人である私に様々に抱かせる大切な作品となった。日本に生まれ育った人ならば、是非とも映画館でやっているうち観てほしい作品である。

 私の個人的なこれらの感想が観賞のなんらかのきっかけになれば幸いである。

「この世界の片隅に」 すずさんの戦後日記

 「この世界の片隅に」を映画館で最後まで見終わって、「あの後、すずさんたちはどうなったんだろうなあ」と思った人は、おそらく私だけではないだろう。そして、「今でもすずさんは生きています!」という片渕監督の言葉も感覚的な真実味を帯びていると思った人も多かろう。

 私個人も何度か映画を見ているうちに、すずさんのリアリティをさらに体感したい欲求を抑えきれず、「すずさんが戦後、ずっと日記をつけていたら、どんな事を書くのかな」と勝手にあれこれ妄想していた。それをまとめたのが、この「すずさんの戦後日記」である。

 はっきりいって、全国のすずさんファンの中には「こんなのすずさんじゃない!」と憤慨する方もおられようが、あくまで私個人の妄想であって、「すずさんはこうでなければならない」と私が考えている訳ではない。人それぞれに、それぞれの「すずさん」が心の中に住んでいるだろうから、それを否定するものではない。

 すずさんの二次創作においては、広島弁というのは「すずさんらしさ」を出す重要な要素である事は間違いないのだが、この日記では原則的に広島弁は使わない事にした。理由は二つあり、一つは「私自身が広島出身でないので、いいかげんな広島弁は広島出身の人から見ればストレスになるであろうこと」、もう一つは「原作において、書き言葉に方言は出て来ないこと」である。「広島弁でないとすずさんらしさが出ない」と感じる方は、それぞれの頭の中で広島弁に変換してお読みいただければ幸いである。

 また、淡々と戦後の日々を綴っていくと単調になる気もしたので、わざとらしく思われるかもしれないが、あえて片渕監督、こうの史代作品関連によるスター・システムをかなり強引に採用した。また、わかりにくい事項はリンクを貼ってある。

 書いてみて、戦後70年と一口に言われてしまうが、本当に長い年月であることを実感した。そして、人が90年以上生きるというのはこういう事なのだとも思った。ともあれ、長くなるので、気になる年代からお読みいただければ幸いである。

 言うまでもなく、本編のネタばれ満載なので、まだ映画本編を見てない人は、注意されたし。

 

 

 

すずさんの戦後日記

 

 

 

 

 

 

 

・1946年(昭和21年)~1955年(昭和30年)

 1946年(昭和21年)すずさん21歳

 戰争も終わって一年以上過ぎた事だし、いつまでも書きものが不自由だと不便なので、左手で文字を書く訓練として日記をつけやうと思ふ。それにしても、いくら左手と言っても我ながら蛞蝓がのたくりまわったやうな文字で不甲斐ない。

 

 1947年(昭和22年)すずさん22歳

 生まれて初めて選挙というものに行く。勝手がわからなくて、周作さんに誰の名前を書けばいいのか訊いたけど、すずさんの好きな人でいいと言うので、武田キヨさんに一票入れた。せっかく入れたので当選して欲しい。

 

 1948年(昭和23年)すずさん23歳

 いきなり久夫君がうちに来た。晴美さんに会いたくて家に黙って来てしまったようだ。下関に連絡して、何日か泊る事になった。お義姉さん、ずっと穏やかな優しい表情で、久夫さんにあれやこれや世話をしていて母親なんだなあと思った。それはそうと、久夫君のためにお義姉さんが買ってきたくれたアンドーナツみたいな菓子に呼ばれたがのだが、ほっぺたが落ちるほどに美味しかった。生きていてよかったと思う。晴美さんにも食べさせてあげたかった。

 

 1949年(昭和24年)すずさん24歳

 広島に野球のチームが出来ると聞いて、すごく興奮している。名前は広島カープカープは英語で鯉の意味らしい。とても縁起の良い名前だ。これからずっと応援する事を心に誓う。

 

 1950年(昭和25年)すずさん25歳

 今度は、本当にオメデタみたいだ。周作さんと話し合って、男の子なら文民政治が続くようにと「文夫」、女の子なら高台院のように逞しい女性にと「ねね」にしようと決めた。ヨーコさんは最近覚えた洋裁で赤ちゃんの服を作るとはりきっている。

*:「文夫」=フッ素(F)、「ねね」=ネオン(Ne)である。フッ素とネオンは隣同士の元素である。

 

 

 1951年(昭和26年)すずさん26歳

 ルース台風でまた家の屋根が吹き飛んでしまった。お義父さんが言うには、子供も三人になり、家を二階建てに建て直した方がかえって安上がりかもしれないとのこと。街中も新しい建物がどんどん建てられて、昔とは全然違う感じになってきている。

                           *:結局二卵性双生児だったようだ。

 

 1952年(昭和27年)すずさん27歳

 お義姉さんが子供たちの面倒を見てくれるので本当に助かる。何か、港の方が随分と賑やかになっているようで、とても大きな船を作っている。周作さんに聞いたら石油を運ぶ船で、タンカーというらしい。世界一の大きさだそうだ。どれだけの石油を運ぶ事が出来るのか、想像しただけで気が遠くなる。

 

 1953年(昭和28年)すずさん28歳

 最近、子供たちのお守をしながらラジオで「君の名は」を欠かさず聞いている。橋の上での出会いなんて、うちと周作さんみたいだ。それにしても、ついこないだまで空襲の放送を聞いていたのにこんな男女の話が同じラジオから聞こえてくるのは不思議な感じ。

 

 1954年(昭和29年)すずさん29歳

 評判になっていた「ゴジラ」を観てきた。一緒に観に行った文夫は途中で泣きだしたが、ねねは街が破壊される様子をワクワクして見ていたようだ。うちは島の影からゴジラがにゅっと現れるのがとても怖くて、この怖さに覚えがあると思ったら、鬼イチャンだ。そうか、鬼イチャン、南の島でゴジラになったのか。

 

 1955年(昭和30年)すずさん30歳

 周作さんのお供で防府天満宮に行く。近くを散歩していたら、地元の子供たちが川を堰き止めていた。何をしているのかと思ったら、金魚をそこで飼っているらしい。ちゃんと島などを作り竜宮城のように飾り付けもしていて結構本格的。

 

・1956年(昭和31年)~1965年(昭和40年)

 1956年(昭和31年)すずさん31歳

 「もはや戦後ではない」という台詞を周作さんから聞いた。戦争の後の事を戦後と言うのに「戦後ではない」というのはどういうことだろう?と尋ねて、周作さんからいろいろ説明を聞いても、何か狸に化かされたようにますます意味がわからなくなった。

 

 1957年(昭和32年)すずさん32歳

 広島の平和記念公園インドの首相のネルーさんが来た。周作さんやすみちゃんの話だと、凄く大勢の人が公園に集まってお祭りみたいだったそうだ。前に、日本へ象も贈ってくれたし、今度はわざわざ広島まで来てくれるなんて、ネルーさんはきっととても優しい人に違いない。

 

 1958年(昭和33年)すずさん33歳

 文夫がフラフープを買って欲しいというので、買ってあげたはいいが、すぐに飽きてしまい納屋に放置してある。ためしにうちもやってみたけど、案外難しくてうちの身体が回るだけで、フラフープはうまく腰の所で回らない。悪戦苦闘している所をお義姉さんに見つかってしまい、お義姉さんに貸すと、あっさり曲芸師のように回し始めて、さすがモガだった人は違うなあと久々に感心した。

 

 1959年(昭和34年)すずさん34歳

 今日は家に誰もいなかったので、テレビで好きな番組を存分に見られると思って、チャンネルをガチャガチャ回していたら、つまみが取れてしまい、NHKしか見られなくなってしまった。焦っているところに、貧相な顔をした男の人が家にゴム紐を売りに来た。話を聞いていると戦争で大変な苦労をしてきたようで、可哀そうだったので、少し高かったけど買った。その話をお義姉さんにしたら、それは「押し売り」というものらしく、久々に長々と小言を言われた。買ったゴム紐、たしかに短い。でも、テレビのチャンネルの事は誰も気付かない。シメシメ。

 

 1960年(昭和35年)すずさん34歳

 ねねがダッコちゃんを欲しいというので街で探してみたが、呉ではなかなか売ってない。困っていたら、お義姉さんのツテであっさり手に入った。ありがたい。ねねは妙にお義姉さんと気の合う所があって、外見もなんとなく似てきた気がする。ねねは周作さん似だから、当然と言えば当然かもしれない。

 

 1961年(昭和36年)すずさん36歳

 お義姉さんがヨーコさんのお見合い相手の写真を持ってきてくれた。まだ早いのではと思ったけど、うちも考えて見れば今のヨーコさんより若い時にここに来たのだった。相手の人も身寄りがなく、この家に来てくれるらしい。そうか、ヨーコさん、もうお嫁さんか。まあ、まだ決まった訳ではないけど。

 

 1962年(昭和37年)すずさん37歳

 お義姉さんが久夫君と一緒に暮らす事になった。久夫君、跡取りと聞いていたけど、もう大人だし、結局、呉で造船技師として働く事になった訳だから、親子一緒に住むのは当然と思う。この家からお義姉さんがいなくなるのは、寂しいような嬉しいような心細いような清々しいような複雑な気持ち。

 

 1963年(昭和38年)すずさん38歳

 うちもこの歳でついにお婆ちゃんになってしまった。ヨーコさん、お疲れ様。女の子でした。名前は、お義父さんから一文字とって、円(まどか)ちゃんだそうだこんにちは赤ちゃん♪この家も賑やかになる。

            *:言うまでもなく、北條家の伝統に則って、円に関係する名前である。

 

 1964年(昭和39年)すずさん39歳

 アベベと言う人は前のオリンピックでは裸足でマラソンに出たそうだ。今回の東京オリンピックでは靴を履いて走っていたけど、ゴールした後でも余裕があって、靴も買えなかったような貧乏な国から来た選手はさすが鍛え方が違うなと思った。

 

 1965年(昭和40年)すずさん40歳

 文夫が家の中でやたらに、大声でオーオー唸っているので、何かと思ったらジャングル大帝の主題歌だという。音が全く外れていて歌である事すらわからなかった。音痴な癖に大声で歌うのは円ちゃんも怖がるし、近所迷惑だからやめてほしい。

 

・1966年(昭和41年)~1975年(昭和50年)

 1966年(昭和41年)すずさん41歳

 最近、テレビによく出ている山本リンダという歌手がねねと同じ歳と知って、かなり驚いている。同じ16歳でこうも違うものか。でも、うちの16歳の頃と比べればねねの方がはるかに垢ぬけている。時代が違いすぎて、比べるのは虚しいというか無駄のような気がする。

 

 1967年(昭和42年)すずさん42歳

 円ちゃん、サンタクロースが本当にいると信じていて可愛い。リカちゃん人形が欲しいそうだ。ちょっと貫禄が足りないけれども、サンタクロース役はお義父さんに今年もやってもらおう。ヨーコさんは、大きな毛糸の靴下を編んでいる。

 

 1968年(昭和43年)すずさん43歳

 文夫、てっきり広島大学を受験するものと思っていたら、山口大学教育学部に行きたいと言う。なんでも藻類の研究で偉い先生がいるそうだ。理科の先生になるのかな。ねねの方は、お義父さんの英才教育のおかげか、東京の工学部のある大学に行って自動車を作りたいらしい。合格すれば、二人ともこの家を出る事になるので、寂しくなる。そして、うちらの財布もさびしくなる。

 

 1969年(昭和44年)すずさん44歳

 亀の映画がみたいとすみちゃんがいうので、久々に広島までお出かけ。すみちゃん、前より綺麗になって若返っている気がした。なぜ結婚できないのか世界の七不思議だ。可愛い亀が出てくると聞いていたのに、出てきたのはとてつもなく大きな亀で口から火を吐いたり回転して飛んだりして、ほとんど怪獣だ。しまいには、包丁のお化けみたいなやつも出てきて、すみちゃんに騙された気分だ。すみちゃんが何故こんな映画を見たいと思ったのか分からない。何かあったのだろうか?でも、同時上映の時代劇は可愛い化け物がいっぱい出てきて面白かった。

 

 1970年(昭和45年)すずさん45歳

 今思い出してみても、大阪万博は夢の中のおとぎの国に行ったような出来事のように思える。でも、手元にはお義姉さんから渡された「迷子ワッペン」の半分(しかも子供用?)があるので、確かに行って来たのだ。未来の服を着た案内の人に連れられて行った迷子センターは子供ばかりで大人はいなかったので、ちょっと恥ずかしかった事も夢の中の出来事ではない。でも、あの会場は大人だって迷子になってもちっともおかしくないと思うよ、周作さん。

 

 1971年(昭和46年)すずさん46歳

 帰省した文夫にボーリングを誘われたので行ったけれども、初めての事で勝手がわからず大変だった。球は重いし、前に転がす事がなかなか出来ず、思わぬ方向へ飛んでゆく。周りの人にかなり迷惑をかけてしまった。一緒に行った周作さんは意外と上手だった。昔、海軍の下士官兵集会所でちょっとやらせてもらった事があるらしい。あんな大変な時代に本当?

 

 1972年(昭和47年)すずさん47歳

 円ちゃんは、最近、テレビでアニメばかり見ているせいか、うちにムーミンやハゼドンの絵を描くようにせがんでくる。うちの頼りない線で描いても円ちゃんが喜んでくれるので嬉しいけれども、勉強しなくて大丈夫かな。まあ、うちも円ちゃんの年頃の頃は絵ばかり描いていたけどね。ふと、晴美さんと魚の絵を描いていた事を思い出す。

 

 1973年(昭和48年)すずさん48歳

 最近、どんどん物の値段があがって、このままでいくとまた配給になるのではと不安だ。周作さんのコネでトイレットペーパーなどは大丈夫だけど、そのうち「仁義なき戦い」に出てきそうな闇市の怖いおっさんの所へ買い物にいかなければいけなくなるのだろうか。それにしても、ああいう任侠映画で呉が有名になるのは正直、複雑な気分だ。

 

 1974年(昭和49年)すずさん49歳

 円ちゃんの見ていたアニメで、干上がった海に昔沈んだ戦艦大和が出てきたので、少し懐かしくなって、大和が海に浮かんでいる所をお父さんと昔に見たと言うと、大和と言う名の戦艦が本当にあったことに驚いていた。呉に住んでいながら知らない方が驚きだが、考えてみれば戦争が終わってからもう30年も経とうとしているから無理もないのかもしれない。アニメでは、大和は宇宙船になって地球を救うために一年間の旅にでるらしい。宇宙では食事とかの補給はどうするのだろうか。

 

 1975年(昭和50年)すずさん50歳

 やった!!カープ、リーグ優勝!ついにここまで来た。新幹線に乗って、後楽園まで応援しに行った甲斐があった。それにしても、新幹線、あまりに速くて景色がどんどん流れてゆき本当に映画の早回しのよう。何と言っても同じ日に広島から東京まで行けてしまうなんて、煤まみれで汽車に乗っていた頃からすれば夢のようだ。

 

・1976年(昭和51年)~1985年(昭和60年)

 1976年(昭和51年)すずさん51歳

 日本で初めて五つ子が生まれたそうだ。うちらは双子だっただけでも本当に人様よりも倍大変だったのに、それが五つ子であればどんな苦労になるか想像もつかない。五つ子だと、ミルク代も月に三万円もかかるのだそうだ。経済的にも大変だが、五人の面倒をいっぺんにみるのは聖徳太子でも無理ではないか。文夫は地元の教員採用試験になかなか受からないので、東京都を受験するらしい。また寂しくなる。

 

 1977年(昭和52年)すずさん52歳

 文夫が東京から帰省した折に紹介したい人がいるというので何事かと思ったら、どうやら文夫にもついに「いい人」ができたらしい。お世話になった教授の娘さんで光子さんというらしい。今から会うのが楽しみ。ねねは相変わらず、結婚なんてしている暇はないと言っている。

 *光子(みつこ)=光子(こうし)=フォトンである。陽子の崩壊によって生じる素粒子でもある。

 

 1978年(昭和53年)すずさん53歳

 ようやく我が家にも電子レンジがきた。これで、コンロがなくても温め直せる!さっそく朝に作ったゆで卵をいれてスイッチオン。でも、しばらくしたら物凄い音がして、中で卵が爆発していた。いったい何が起こったのかさっぱりわからない。下手に触ってまた爆発したら怖いから、誰かが帰って来るまでそのままにしてある。

                *すずさんがやったからといって、決して真似をしてはいけない。

 

 1979年(昭和54年)すずさん54歳

 ついにカープ日本一だ!!と嬉しくてテレビの前で衝動的に踊っていたら急に立てなくなってしまった、気持ちと身体が混乱して、家族に心配をかけてしまったが、どうやらこれが世に言うギックリ腰というやつらしい。

 

 1980年(昭和55年)すずさん55歳

 やった!また日本一だ!でも、今度は周作さんの監視下の元、衝動的に踊ったりせず、静かにテレビを見ていましたよ。見ていたのに、なぜか立てなくなってしまった。どうやら、興奮して無意識のうちに身体がいつもと違う動きをしていたらしい。また家族に迷惑をかけてしまった。

 

 1981年(昭和56年)すずさん56歳

 光子さんが元気な男の子を産んでくれた。名前は「元気」だそうだ。男の子らしい名前だ。光子さんが山口に里帰りする途中で、呉にも寄ってくれるそうだ。元気くん、早く見たい。

 *:元気=ゲルマニウム(Ge)である。ゲルマニウムは炭素、ケイ素、すず、鉛と同族である。

 

 1982年(昭和57年)すずさん57歳

 周作さんがいきなりギターを習いに行くと言う。仕事が忙しくて諦めていたけど、退職した今が最後のチャンスだと思ったそうだ。そう言えば昔、納屋に弦の張ってないギターが隅にあった気がする。ただ、ギター教室の先生が若くて綺麗な女の人なのが少々腹立たしい。

 

 1983年(昭和58年)すずさん58歳

 円ちゃんが通っている大学の島津先生という人は清少納言が研究テーマで、平安時代の事を見てきたように講義するので大層人気らしい。円ちゃんもその先生の研究室に入り浸っていたら、なんとその先生、どうやら光子さんの事を知っているらしい。小さい頃、光子さんのお姉さんとよく遊んだそうだ。どこでどんなつながりがあるかわからない。

 

 1984年(昭和59年)すずさん59歳

 久々にカープ日本一!今年は勢いがあったように思う。それはそうと、久夫君が西鉄時代からライオンズのファンなのでお義姉さんも実は「隠れライオンズファン」だった事がわかりびっくり。この地でよく今まで隠し通してきたなあと家族に話すと、皆はずっと昔から知っていたらしい。例によって、うちだけ知らなかったのか。

 

 1985年(昭和60年)すずさん60歳

 周作さんのギターの発表会に行った。本当に立派な演奏で感動したので、先生にお礼を言いにいったら、手放しで周作さんの事を絶賛してくれてうちの事のように嬉しい。それに対抗する訳ではないけど、うちも絵画教室に通う事にした。先生にしっかり習って、下手でもいいから左手でちゃんとした絵を描きたい。やはりうちは絵を描くのが好きなのだ。

 

・1986年(昭和61年)~1995年(平成7年)

 1986年(昭和61年)すずさん61歳

 レンガ通りで、円ちゃんが若い男の人と手を組んで歩いているのを目撃してしまった。少し後をつけてみたけど、かなり進展している仲のようだ。何故かどきどきしてしまって、ヨーコさんに報告しようかと思ったけど、円ちゃんも考えて見ればもう大人なのだから暖かく見守る事にした。ともあれ、こんな歳になっても、周作さんとリンさんの時のようにドキドキしてしまう自分に驚いた。

 

 1987年(昭和62年)すずさん62歳

文夫が担任している6年生のクラスで去年に転校してきた野球の得意な活発な女の子がいるそうで、なんとその子、カープの大ファンだと言う。東京でもカープファンがいるとは、とても嬉しい。でも、その女の子、名字が石川なので「ごえもん」と呼ばれているらしい。石川といえば、石川さゆりだっているのに、なぜ「ごえもん」になってしまったのだろう。

 

 1988年(昭和63年)すずさん63歳

 ねねがエンジン開発チームのリーダーに抜擢されて広島に転勤してくることになった。凄いなあ。難しい事はわからないけど、とにかくねねが近くに来てくれて嬉しい。それにしても、ねね、お義父さんの血筋をしっかり受け継いでいるなあ。でも、機械の話を始めると止まらない所は受け継がなくてよいです。

 

 1989年(平成 元年)すずさん64歳

 とうとう昭和が終わってしまった。今年が何年かわからなくなる時は、自分の年齢を思い出せばよかったけれど、これからはそうもいかなくなったので困ったことだ。そうだ、もう歳を取らなければいいのだな。永遠の64歳、北條すず。

 

 1990年(平成 2年)すずさん65歳

 今日は円ちゃんの結婚披露宴に行ってきた。天井からお婿さんが登場したり、ケーキの上に花火があったり、様々な出し物が次から次へと続いたりで全く飽きない。うちと周作さんの時からすれば、同じ国の結婚式とは思えない。でも、円ちゃん、衣装を着替える時はちゃんと席をはずすので、偉いなあと思った。

 

 1991年(平成 3年)すずさん66歳

 カープ、本当に久しぶりのリーグ優勝。でも、日本一になったのもついこないだのように思える。さすがに、もうギックリ腰にはならない。そこは、年の功というものだ。と余裕でこの日記を書いていたのだが、どうも何か怪しい。今、周作さんに助けを求めているところ。

 

 1992年(平成 4年)すずさん67歳

夏休みで元気くんが遊びに来てくれているのだが、小学校5年生とは思えないくらいに絵が上手い。うちを描いてくれるというので、半分冗談で若く描いて、と頼んだら、十代の頃のうちを想像で描いてくれて、それが大昔にうちが描いた絵にそっくりで、ふいに涙が溢れてしまった。こういうのは隔世遺伝というのだろうか。

 

 1993年(平成 5年)すずさん68歳

 とうとうひいお婆ちゃんになってしまった!円ちゃん、お疲れさま。元気な女の子で名前は、球美(たまみ)にしたそうだ。最近の子供の名前は外国の人のような名前が流行っているけれど、素直に良い名前だと思う。お産の時には、旦那さんも側についていてくれたそうで、世の中も随分と変わったものだ。

                        *:円を立体化して「球」にしてみたのである。

 

 1994年(平成 6年)すずさん69歳

 早いもので、うちがこの家に来てからもう50年になる。今から50年前は、お義父さん、お義母さん、晴美さん、そしてうちの右手もこの家にいて、それから本当にいろいろな事があって、新しい家族が増えて、今もこうしてこの家でうちが生きている。何か不思議な感じだ。

 

 1995年(平成 7年)すずさん70歳

 神戸で大きな地震があって、街が焼け野原になっているような状態で、婦人会でヨーコさんが現地にボランティア(?)に行くという。ボランティアというのは、勤労奉仕みたいなものらしい。うちも家で何もしないでいるよりも炊き出しで何でも手伝いがしたいと思って、ヨーコさんに連れて行ってほしいと言うと、年寄りはかえって足手まといになるから駄目と言われた。何か大昔に同じような事があったような気がする。

 

・1996年(平成     8年)~2005年(平成18年)

 1996年(平成 8年)すずさん71歳

 たまちゃん、まだ小さいのに名犬ラッシーに夢中らしい。毛の長い犬を見ると、全部ラッシーと呼ぶそうだ。そのうち犬が飼いたいと言ってこないかと円ちゃん心配している。犬くらい飼ってあげればいいと言ったら、最近は外で大きな犬を飼うのも気を使うのだそうだ。

 

 1997年(平成 9年)すずさん72歳

 絵画教室で風景の写生会があり、見晴らしのいいところで、新しく入って来た若い女の子とあれこれ話をしていたら、なんと、その子はりっちゃんのお孫さんだった!りっちゃん、広島で元気に暮らしているらしい。りっちゃんが生きている事がわかって、うちが小学校だった時のいろいろな風景や出来事がいきなり鮮明に思い出された。すぐにでも会いに行きたい。それにしても、どこでどんなご縁があるかわからないものだ。

 

 1998年(平成10年)すずさん73歳

 すみちゃんが東京の病院に入院したというので、元気くんに会いたいのもあるので、東京までお見舞いに行って来た。病院の近所の花屋さんでお見舞い用の花を買おうと思ったら、なんと菊しか売ってない花屋さんでびっくりした。すらっとした美人さんと穏やかそうな眼鏡の店員さんがいたが、病院に菊を持ってゆく訳にもいかず花を買うのは諦めた。お菓子だけ持って病室に行ったら、すみちゃんのベッドの周りは既に花でいっぱいだった。モテる人は違うなあ。相変わらず、担当の看護師さんが研修医のお兄さんといい感じになっているとかの話で盛り上がる。やはりおばあちゃんになってもすみちゃんはすみちゃんだ。

 

 1999年(平成11年)すずさん74歳

 久々に帰省した文夫と話をしていたら、文夫の勤める小学校で、学校に鶏を連れてくる女の子がいるらしくかなり困っているそう。学校でも鶏を飼育しているのだから、いいのではと言ったら、その鶏は学校の鶏に攻撃するから問題なんそうだ。いまどき、随分と野性味のある子供もいたものだと感心した。

 

 2000年(平成12年)すずさん75歳

 元気くんが雑誌の新人賞で入選したそうだ。でも、元気くんの漫画が載っている雑誌を本屋で探したら、表紙が若い女の人の裸同然の水着の写真で、ちょっとレジに持ってゆくのが恥ずかしかったので、文夫にその雑誌を郵送で送ってくれるように頼んだ。届くのが楽しみだ。

 

 2001年(平成13年)すずさん76歳

 歳のせいか最近、伝えたい言葉がでてこなくて、アレとかコレとか言ってしまう事が多い。知っている言葉を言い間違える事もあって、ブロッコリーの事をブッコロリーと言ったりして、たまちゃんに大笑いされる。ついにうちもボケてきたのだろうか。周作さんは、すずさんは元々ボケているから大丈夫と言っているのだけど、何が大丈夫なのだろうか。こんな事を考えているのはボケているからなのだろうか。

 

 2002年(平成14年)すずさん77歳

 たまちゃんが家に来て、魔女とか宝石とか指輪とかぶつぶつ呟いているので、何かと思ったら学校の出し物で「アリーテ姫の冒険」と言う劇をやるんだそうだ。たまちゃんは魔女の役。聞いた事がない題名だったので、白雪姫みたいな話かと聞いたら、去年、アニメにもなったような比較的新しい話らしい。たまちゃんにあらすじを聞いたら、わくわくするような面白さだ。三つの願いが叶う指輪があったら、うちなら何に使うだろうか。うーん、減らない絵の具、洗わなくていい筆、何枚でもめくれるスケッチブックがあったらいいなあ。

 

 2003年(平成15年)すずさん78歳

 文夫からいきなり電話が来て、交通事故でお金が急に必要になったけど、今手持ちがないから困っていて、すぐに現金が欲しいというので、すぐに銀行へ行って文夫の口座にお金を振り込んだ。気が動転していたので、振り込んだ後になって、銀行に行けないから困っているのではと思って、文夫の勤める学校に電話したら、お金には困っていないという。狐につままれた気分だが、後で周作さんに話したら、それは最近流行っているオレオレ詐欺ではないか、という事だった。なんでこれが詐欺なのかわからない。

 

 2004年(平成16年)すずさん79歳

 外に出るのも段々と億劫になって来たけど今日はすみちゃんに付き合って久々に広島の平和記念公園に行った。すると木陰でゲロを吐いている女の人がいたので声をかけたら、平和記念資料館で気分が悪くなったらしい。友人の父親追跡に付き合ってわざわざ東京から来たそうだ。随分と友達想いな人だ。どことなくリンさんに似ていた気がする。その友達の父親というのは広島出身なのだろうか。聞きそびれた。

 

 2005年(平成17年)すずさん80歳

 文夫の勤める小学校で、教室で大きなナメクジを飼う女の子がいて困っているらしい。そのナメクジのせいで学校に来なくなる児童もいるそうだ。学校に来たくなくなる程のナメクジはどんな大きさなのか、都会にはそんなナメクジがいるのか、そっちの方が気になってしかたがないので、想像で絵を描いたら、円ちゃんからナメゴンの絵?と言われた。

 

・2006年(平成19年)~2017年(平成29年)

 2006年(平成18年)すずさん81歳

 千鶴子ちゃんとこの礼花ちゃんがいきなり東京からこっちへ帰って来て、帰省理由も話さずに、海岸でワカメをひたすら拾っているそうだ。心配した向こうの家のお義父さんもお孫さんと一緒にわざわざこっちまで駆けつけたらしい。いったいどうしたんだろう?もしかすると、二人目ができたのかな。

 

 2007年(平成19年)すずさん82歳

 南の島で海賊になって、海賊の敵になったお義姉さん向かって銃を派手に撃って清々する夢を見た。なんでこんな珍奇な夢を見たのかと思ったら、ブラックなんとかというアニメを円ちゃんの家でたまちゃんと一緒に何となく見ていたせいだろう。

 

 2008年(平成20年)すずさん83歳

 文夫の小学校では動物の飼育はいろいろな事情があって止める事になったらしい。そして成り行きで、学校で飼っていた鶏二羽を引き取ったそうだ。光子さんは小さい頃に家で飼っていた事を思い出して、名前もつけて可愛がっているらしい。元気くんも独り立ちしたことだし、文夫さんももうすぐ定年なんだから、夫婦水入らずで鶏の世話をするのもいいと思うよ。

 

 2009年(平成21年)すずさん84歳

 光子さんのお姉さんの新子さんの小説を元気くんが漫画にするのだそう。長期の本格的な初めての連載になりそうで、元気くんはりきっている。元気くんの絵は、うちの若い時の絵と良く似ているから、いつもうちが漫画描いているのかと思ってしまう。うちも、今みたいな時代に生まれたら漫画家になっていたような気がする。

 

 2010年(平成22年)すずさん85歳

朝のドラマのゲゲゲの女房を見ていたら、水木しげると言う人は、戦争で片手を失っても漫画家として頑張ってきたみたいだ。いくら利き手と言っても大変な苦労をしたと思う。うちも、もっと早い時期に頑張っていれば漫画家になったのかもしれないと思った。

 

 2011年(平成23年)すずさん86歳

 今日ようやく東京にいる文夫と電話でつながった。全員無事で家も大丈夫とのこと。ただ、飼っていた雌鶏が今回の大きな地震で驚いたせいか、壊れた小屋から飛び出していなくなったらしい。ともあれ、三人とも無事でよかった。

 

 2012年(平成24年)すずさん87歳

 文夫によると、今度は雄鶏の方がいなくなったそうだ。元はつがいだったらしいから、相棒を探しに旅に出たのではないかな。文夫も光子も鶏が餓死していないか心配しているみたいだけど、鶏の餌となるものは意外と野山や街にあるから心配しなくていいと思う。うちもその辺の野草を食べて過ごしていた事もあったし。

 

 2013年(平成25年)すずさん88歳

 円ちゃんのうちに行ったら、たまちゃんが部屋に籠って何かをやっていた。円ちゃんに聞くと同人誌というのを作って東京へ売りに行くらしい。産直みたいなものだろうか。居間に降りてきたたまちゃんに、どんなものを作っているのか見せてほしいと言ったら、絶対に人には見せられない類のものらしい。人に見せられないものを売っていいのかと思ったけれども、きっと東京なら買ってくれる人がいるのだろう。何日も徹夜しているそうで、大変そうだったけど熱中しているみたいでいいことだ。若いというのは羨ましい。

 

 2014年(平成26年)すずさん89歳

 パソコンなんてうちには縁がないものと思っていたけど、たまちゃんにペンタブと言うのを教えてもらって、減らない絵の具、洗わなくていい筆、何枚でもめくれるスケッチブックがうちの生きているうちに実現していて感動している。いくらでも描き直せるし、色も塗り直せるので、面白くてしかたがない。昔、すみちゃんのために描いた漫画をまた本当に描いてみたくなってきた。

 

 2015年(平成27年)すずさん90歳

 たまちゃんがいろいろやってくれたおかげで、うちの描いた漫画がコミケで完売したそうだ。まあ、「人気漫画家・北條元気のお婆ちゃん」という事で興味本位で買った人が大半だろうが、それでもうちの絵が多くの人に見てもらえてうれしい。好きな事をやってこうして人様に売る事が出来るなんて、今は本当に良い時代だ。何かぼんやりと抱いていた夢がかなったような気がして、もうこの世に思い残すことはないと思った。

 

 2016年(平成28年)すずさん91歳

 いろいろな人から、すず婆ちゃん映画に出てたよと言われる。いくらボケているといっても、自分が映画に出るはずもない事くらいわかる。だいたい女優でもなんでもないこんな死にかけのお婆さんがどうして映画に出ていることなんてあるだろうか。しかし、たまちゃんまでそんな事を言い始めて、ポポロに連れて行ってくれるというので、すみちゃんも誘って、明日、その問題の映画を観に行こうと思う。ポポロなんて、もう何年も行ってないな。

 

 2017年(平成29年)すずさん92歳

 昨年は、カープもリーグ優勝したし、うちとしか思えない主人公のアニメ映画が大変な評判になったりして、本当に夢のような年だった。「この世界の片隅に」。本当に懐かしい人達に直に会えた気がして、いろいろ大変だった事も鮮明に思い出して、今まだこの世界に生きている事に感謝したい気持ちで一杯だ。そして、映画のおかげで、うちの昔の話を孫たちも聞きたがるようになった。そんな訳で先に逝った人達への冥途の土産話はもう少し待ってもらおうと思う。ともあれ、とてもいいものを作ってくれて、原作者のこうの史代さん、監督の片渕須直さんには感謝の念しかない。

 

補足:

1970年(昭和45年):大阪万博に招待してくれたのは久夫君である。久夫君のいる系列会社がパビリオンを出展していたのである。言わば、新し物好きの径子さんへの久夫君なりの親孝行である。

1988年(昭和63年):その後、ねねは、開発にかかわったエンジンをのせた車に最晩年の円太郎を乗せることになる。その時、円太郎が呟いた台詞。

「鳴らしとるのう...ねねの二百馬力がええ音鳴らしとる。チャターマークとの戦いから始めて、ここまできたかのう」

どのメーカーのどんなエンジンかはわかる人はわかるだろう。世代を超えてエンジニアの魂は受け継がれていったのである。

 

本編から私の妄想の戦後日記における人間関係を図として下にまとめた。

クリックすれば拡大する。参考になれば幸いである。

 

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年賀状のこたえ

皆さま、あけましておめでとうございます。

今回は年賀状について。

 

毎年、年賀状を作っていると、年を追うごとに年賀状のアイデアが枯渇してきて、困った事になる。せっかく出すのだから、月並みな内容では申し訳ないという気持ちがあるのだが、さすがに一個人の発想には限界がある。ということで、今年はクロスワードと漢字パズルに逃げたのだが、逃げた所で、逃げ道があるのかどうかは保証の限りではない。そして、こういったクロスワード+パズルの場合、万が一、答えがわからないと、新年早々もやもやした気分となるだろうから、この場を借りて、問題と解答を公表しようと思う。

 

まず、クロスワードはこんな感じ。色のあるコマは文字は入らない。

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縦のヒントは、小文字のアルファベット、横のヒントは、大文字のアルファベットである。そして、灰色の数字は、次の漢字のパズルに使う。

 

まず、縦のヒントは

a  木星周辺の小惑星

b 権力者の側で機嫌をとる人々

c 水蒸気が地表で氷結したもの

d 世界最小の鳥

 

横のヒントは

A 年齢の程度

B 鳥獣捕獲のための粘性物質

C ジプシーの別称

D 串に刺して焼いた鶏肉

 

そして、漢字パズルの方であるが、四つの部分を組み合わせて一つの漢字を作る。ただし、二つの部分は、クロスワードの1と2に入った文字を使う。だから、クロスワードが解けないと、漢字パズルもできないということになる。ここでは2つの( )にそのクロスワードでわかった文字が入る。

 

一 、( )、( )、一

 

問題は以上。では、解答へいこう。

下にスクロール。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

縦のカギ

a ト

b トリマキ(取り巻き)

c シモ(霜)

d チドリ(中南米の小さい鳥の一種)

 

横のカギ

A トシ(年端)

B トリモチ(鳥餅)

C 

D ヤキトリ(焼き鳥)

 

太文字が漢字パズルに使う部分だ。

 

ということで、漢字を作る部分は

 

一、ロ、ハ、一

 

という構成になる。これを組み合わせて漢字を作ると、一つの答えは

 

 

となる。

この答えとなった人は、今年の干支であるから、きっと今年は良い事があるだろう。

 

 

あるいは、もう一つの答えとして

 

 

というのもある。貝はお金の意味であるから、こちらの答えにした人は、今年は金運がいいのかもしれない。

 

ともあれ、皆さまにとって今年が良い年でありますように。

 

追記:クロスワード、一行多かったので、修正(1/4)。

音楽で観る「この世界の片隅に」

コトリンゴで良かった

 「この世界の片隅に」の音楽がコトリンゴで本当に良かったと思う。というのも、こうの史代作品の中での「音の風景」をアニメーションで実現するには「空気感を作る成分として無駄なくひっそりと機能する音楽」がなにより大事で、その「空気感」を作るアーティストとしてコトリンゴこそベストだと勝手に思っていたからだ。既に映画を見たならば、これだけの説明でわかる人も多いと思う。

 

 さて、そんなコトリンゴによる「この世界の片隅に」の音楽について、無謀にも譜例なども参照しながら、音楽素人なりに語ってゆきたい。もうそうせずにはいられないのだ。専門の方からすると楽典上の間違いや根本的な勘違いもあるとは思うので、あまりに目に余るよう出れば、ご指摘いただければ幸いである。なお、譜例はあくまでメモ程度のもので、調や拍子が正確である保証はない事は予めお断りしておく。原則サントラに沿って書いてゆく。太字はサントラでの曲名を示す。サントラを聴きながら読むと、私が伝えたい事もわかりやすいだろう。

 そして長い記事なので、目次をつける。気になるところからお読みいただければ幸いである。

 そして、さすがにネタバレなしでこの作品の音楽について語る事はできない。ここから先、相当なネタバレを含むので、まだ映画をご覧になってない方は、一度(以上)映画館で「この世界の片隅に」を鑑賞された後に読む事を強くお勧めする。

 

劇場アニメ「この世界の片隅に」オリジナルサウンドトラック

劇場アニメ「この世界の片隅に」オリジナルサウンドトラック

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目次

・「讃美歌」から「悲しくてやりきれない」へ

・「讃美歌」から「みぎてのうた」へ

・すずさんの生活音楽

・新しい日常への律動

・真空の音楽と歪んだ世界

・「周作さん」のテーマの変容

・「たんぽぽ」から未来へ

 

 

 

 

「讃美歌」から「悲しくてやりきれない」へ

 すずさんが海苔を背負って船に乗る冒頭のシーン。長閑な風景に寄り添うように、すでに和やかな音楽が流れ始めている。しかし、それが讃美歌111番神の御子は今宵しも」の前奏であった事を知れば、多くの人は「おや、クリスマス?」と自然に感じてしまうことだろう。この讃美歌は今でもクリスマスシーズンの空気を彩る音楽の一つである。

 

讃美歌111番「神の御子は今宵しも」

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 現代を生きるほとんどの人は、戦前と聞けば、「クリスマスなどという浮かれた事は全くない重く暗い時代」というイメージがドラマや映画を通じて刷りこまれているだろう。そういったこれまでの戦前の暗いイメージは、この冒頭の讃美歌と広島の街の生き生きとした賑やかな風景によって見事に払拭される。観客は、戦前にもクリスマスはあり、あの赤い衣装のサンタクロースさえ街を闊歩している事に気付く。音響と視覚により、昭和9年の広島が全くの別世界でなく、今現在のこの世界へと連続している事を鑑賞者は実感するのである。

 当然、海苔のお使いではあるものの、すずさんもそんな街の雰囲気に浮足立っている。しかし、浮かれるのもつかの間、すずさんは迷子になり、大正屋呉服店にもたれかかり、道端をぼーっとながめている。そこで、耳元で囁かれるようにコトリンゴの歌が始まる。「悲しくてやりきれない」である。

 コトリンゴは定石通りにはこの歌を始めない。空虚五度らしき持続音を含めつつ調性を曖昧にしたまましばらく保持し、観客に少しばかりの不安定感を与える。そして、青空にクレジットが浮かぶあたりで和声的に解決して、ほっと一安心。観ている側はある種のつり橋効果で無意識のうちに、いつのまにか作品世界へ引き込まれてしまう。その後も単純な伴奏というより「声楽付き室内交響楽」といった感じの極めて凝った編曲で曲を盛り上げてゆく。コトリンゴの歌とこの編曲は、原作を知っている人にとっては「すずさんという人を体現させたような曲だなあ」と感覚的に共感できるだろうし、原作を知らない人は少なくとも「何かふわふわした雰囲気の作品なのかな」と予感することだろう。ザ・フォーク・クルセダーズの原曲をよく知っている人なら、この曲の成り立ちや歌詞まで深読みして、もっといろいろな事を連想したかもしれない。なお、映画本編では、サントラの楽曲を短く編集した形で流れる。

 と言う事で、冒頭五分間程度は「讃美歌」で時代感覚を馴染ませた後、「悲しくてやりきれない」ですずさんのキャラクター及び雰囲気を刷り込み、音楽によっても観客をこの作品の世界観へどっぷり浸かるような流れになっている。見事だ。

 なお「悲しくてやりきれない」の作詞者、サトウハチローは広島の原爆で弟を亡くしている。また作品中の呉の街角風景の電柱看板で登場する「清酒千福」の戦後のCMソングの作詞もサトウハチローである。

 

 

 「讃美歌」から「みぎてのうた」へ

 冒頭の讃美歌はもう一つ重要な役割を担っているように私は思う。この讃美歌の歌詞は「神の御子はベツレヘムでうまれたもう」なのである。つまりはマリアさまの処女懐胎。それは、子供に恵まれなかったすずさんの右腕へ孤児が寄り添ってくるあの場面を連想してしまう。

 実際、そういった宗教的なイメージは本編終曲の「みぎてのうた」で再び登場する。「みぎてのうた」の歌詞の大元は、原作の最終回におけるすずの右手からの「しあはせのてがみ」の文面である。原作を読んでいた時は、淡々とした、しかし強い意志を持った愛の叙事詩のように受け取って、「悲劇からの静かな歩み」を表すような曲(例えばマイケル・ナイマンの「if」のような感じの曲)を勝手に想定していた。「みぎてのうた」を知った後だと、この選曲は非常にありきたりすぎて自分のセンスのなさを痛感する。

 マイケル・ナイマン if

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 コトリンゴと片渕監督は原作の歌詞を整理しつつ「みぎてのうた」を、まるでオラトリオの一場面のようなフルオーケストラの壮大な曲にした。異論は承知で言うと、「みぎてのうた」の曲の流れ自体は、規模も曲想も歌詞もすずさんの右手の身の丈には全くそぐわないものの、グスタフ・マーラーの「復活」終楽章後半、合唱が入る20分40秒あたりからの展開を連想してしまう。また、「みぎてのうた」の旋律が少し山田耕作の「この道」に似ているのも、再生の象徴として考える上でも良い感じだ。無論、映画の中では前面にじゃんじゃん鳴り響く訳ではないが、「ありふれた静かな物語が実は奇跡に他ならない」というある種の宗教的な高揚感を「みぎてのうた」がしっかりと支えている事は間違いない。

 なお、サントラでは終始伴奏がついているが、映画本編では戦災児のヨーコが焼け野原で歩くあたりから無伴奏になるので、ヨーコのポツンと何の支えもない状況がさらに際立っている。

 

グスタフ・マーラー 交響曲第二番「復活」第五楽章

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山田耕作 この道

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 なお、サントラでおまけのように付いているビックバンドジャズ風の曲「New Day」は、注意深く聴かないとわかりにくいが、この「みぎてのうた」のジャズバージョンである。「原曲」からそれなりに変形されているので、全く違う曲のように聴こえる。いったい映画のどこに使われていたかと思っていたが、三回目鑑賞でどうやら進駐軍の場面でうっすら流れているようだ。つまり、進駐軍がもたらした俗世での物質的・食欲的な「奇跡」を最後のシーンの前に密かにすべり込ませているという事なのかもしれない。

 

 

すずさんの生活音楽

 この作品は、「悲しくてやりきれない」「みぎてのうた」の印象が強いので、一回観たくらいでは、他にどんな音楽が映画の中で流れていたかを明確に思い出せる人はそう多くないだろう。かろうじて「讃美歌」「隣組」があった事を思い返すくらいだろうか。

 なぜそうなるのかと言えば、おそらくはコトリンゴの作った音楽が、エリック・サティの「家具の音楽」のような性質を持ったものだからだろう。「家具の音楽」とは、乱暴に言ってしまえば「音楽自体をじっくり聴かせる目的のない音楽」すなわち本来の意味でのBGMである。

 「この世界の片隅に」は、原則的にすずさんの視点のみで構成されている作品だ。すずさんが見てない事・想像してない事はほとんど描写されない。つまり、この映画の音楽のは、すずさんの日々の心象風景を補佐する存在と言ってもいいだろう(ただし、本編最後の「みぎてのうた」は、すずさんから失われた右手の視点によるあの世からの音楽だ)。

 すずさんは、外に向かって何かを強く主張する事はない。外見上はいつもぼーっとしているように見える。ところが、内面は当然のことながら様々に揺れ動いている。すずさんの気持ちの変化は、テンポよく展開されるエピソードやちょっとしたカットの変化で様々に表現されているが、やはりなんといってもすずさんの心情を直接的に表現できるのは音楽である。それを活用しない手はない。

 といっても、音楽の専門家でもないすずさん個人が心の中で壮大な交響楽を奏でていたら、それは誇大妄想な人になってしまうだろう。やはり、家族との風景も含めてすずさんの生活に寄り添った音楽とするためには室内楽で表現するのが適切だ。サントラをじっくり聴くとわかるが、これがまた単なる効果音楽にとどまらない、機知にあふれ洗練されたコトリンゴらしい曲たちなのだ。

 例えば、(富田勲の「きょうの料理」でも使われる)マリンバを使った「ご飯の支度」など、ジャン・フランセを思い起こさせるような、本当に楽しい描写音楽である。包丁で何かを刻んでいるようなリズムは実際に「菜箸」を使っているらしい。

 

富田勲 きょうの料理

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 ジャン・フランセ クラリネット五重奏 二楽章

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 「隣組」の編曲も、原曲にある戦前歌謡臭さをそぎ落とし、間奏部にカノンやハミングを挿入して、一筋縄でいかないコミカルソングに仕上げている。こうの史代の原作では「隣組」の歌詞を並列させた紙芝居構成だったのが、映画では、このコトリンゴ版「隣組」のおかげで見事にドタバタミュージカルに仕上がっていて、すずさんの間抜けさ加減(身体凶器?)がより引き立てられている。

 

隣組

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 新しい日常への律動

 生活音楽の中には、同じようなテーマが繰り返し使われる場合がある。一つは、後述する「周作さん」のテーマ。もう一つは、「朝のお仕事」のテーマだ。

 「朝のお仕事」は、北條家に嫁いだすずさんが初めて迎える一日目の朝に流れる音楽だ。譜例にあるように、同じリズムが繰り返され、見知らぬ地でのすずさんの新たな日常へのぼんやりした不安が現れているように思える。一歩一歩自分の力だけで歩む事が出来ず、二歩目(二分音符)からは周囲の流れに任せる様を示しているような感じだ。

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  全く同じリズムは、周作さん見送る時の「お見送り」でも登場する。今度は戦争が激しくなり、最も頼りにしている周作さんが家から居なくなってしまう事への寂しさを暗示しているように聴こえる。デートの時よりもお化粧が上手くなっているのもある意味、切ない。そして言うまでもなくその直後に起こる「喪失による新たな日常」の予感の音楽でもあり、リズムは同じでも旋律は暗い色調へ変化してゆく。

 

  すずさんの内面における次の新たな日常は、さらに玉音放送のあの日に訪れる。それまで周囲に流されて生き、我慢を重ねてきた日常の根底が失われ、自分自身への後悔に押しつぶされそうになるあの瞬間に流れる「飛び去る正義」だ。譜例にあるように、すべてピアノによる四分音符となり、弦楽器がそれまでのリズムを刻みながらも、ついにすずさんは心身共にボロボロになりながらも一歩一歩自分の足で歩み始め、走り出すのだ。

 

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真空の音楽と歪んだ世界

 順番が前後したが、すずさんの右手と晴美さんは時限爆弾によって失われる。その時のシネカリアニメーションは、完全に無音と言う選択肢もあったように思う。右手が失われるあの空白の時間は、魂が真空になったような状況であって、下手に煽情的な音楽を入れれば視覚効果が台無しになる危険性がある。原作を読んだ時点でも、私の中ではあのコマの空白は「無音」であった。しかし、コトリンゴは「あの道」でそこに余白の作曲家モートン・フェルドマン風の音楽をあえて入れたのである。音に歪みも加え、シネカリアニメーションの示す息苦しさ・窒息感が嫌でも立ちあがって来る。続く真空状態の精神を強調する「良かった」もまた心象風景を単純な図式に納める事を許さないある種の脅迫的な響きを保持している。

 

モートン・フェルドマン 5つのピアノ

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 そして、自己表現の手段であった右手を失ったすずさんの歪んだ世界へ「左手で描く世界」が差し込まれる。厳密な十二音音楽ではないだろうが、調性感が出ない様に配慮された無調のフラグメントで、すずさんの歪んだ心象風景をよく表している。あえて言えば、ニコライ・ロスラベッツ程度の無調感だろうか。

 

ニコライ・ロスラベッツ 3つの練習曲

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 「周作さん」のテーマの変容

 すずさんにとって、やはり周作さんは一番大事な人である。だから、心象風景でもちゃんと周作さんのテーマがある。それは、浦野家へ訪問した周作さんを、すずさんが窓越しに目にした時に流れる。サントラでの題名もずばり、「周作さん」。こんな感じのテーマだ。

 昔どこかで会ったような、キャラメル味が想起されるような青年への淡い乙女心をうまく表しているテーマだと私は思う。

 

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 このテーマは、その後もすずさんが周作さんと関わる場面で登場する。まず、周作さんが誇らしげにすずさんへ戦艦大和を紹介する「戦艦大和」。東洋一の巨大戦艦だから、もっと壮大な音楽が出てきてもよさそうだが、すずさんにとっては戦艦大和であろうと周作さんとセットの呉の風景である。よって、水鳥が優雅に着水するような雰囲気の音楽になっている。そして、呉の街中を周作さんと徘徊する時に流れる「デート」。こちらは単純に家から解放されて花の都パリを凱旋しているような「夢の時間」を素直に表現した音楽になっている。

 

 さて、その後、いろいろ互いに大変な事があり(映画では登場しないが、リンさん関係もいろいろあり)、それも乗り越えて「受け身」だったすずさんが一人の人間として、妻として周作さんと関われるようになる。その一つの終着点を表すテーマが「最後の務め」だ。

 

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 周作さんのテーマとは別物のように見えるが、聴けばどことなく雰囲気は残っている。違うのは、(仮であるが)一小節目が元のテーマと違い単純に上昇音型になっている点と、続く小節の音が引き延ばされている事だ。これは右手を失い、様々な闇を胸に秘め、自分の意志で歩めるようになったすずさん自身の姿であり、同時にそんな変容したすずさんが周作さんを夫として眺める視点のように思える。

 

ここからは単なるこじつけである可能性が高いが、聴いた個人的な印象として記す。

 

 

 この後、本編最後に登場する、「みぎてのうた」の一部の音型もまた、「最後の務め」の一小節目の変形のように思う。譜例を示す。

 譜面上はリズムも音高も違うのであるが、どことなく似ているような気がするのだ。つまり、すずの分身である「あの世の右手」のテーマということになる。それは「最後の務め」の合わせ鏡となるようなテーマであると同時に地上のすずさんたちを見守る天界の音楽と捉える事も出来る。

 

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 さらに、クラウドファンディングの二番目のクレジットで流れる「すずさん」もまた、「みぎてのうた」「最後の務め」から誘導された音型のように聴こえる。ここでは、あの世から観客へ向けて、映画では語れなかったリンさんとの事を、すずさんの右手が紅を絵具として描いてみせる所だ。少し寂しげではあるものの、「最後の務め」に比べると随分と滑らかなで自在闊達な音楽である。そして、本編に完全に没入してしまい我を失った観客への「魂の冷却材」として、これほど適切な音楽はないだろう。

 

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 「たんぽぽ」から未来へ

 「みぎてのうた」で感動的に本編は終わり、続いてアルベルティ・バスに乗って「たんぽぽ」が始まる。同時に戦災孤児だったヨーコのその後が紙芝居形式で描かれてゆく。久夫くんも登場する。つまりは、すずさんの視点ではなく、ちょっと引いた場所、すなわち段々畑のたんぽぽ(及び、たんぽぽの綿毛)の視点から北條家のその後を見せてくれていると言った感じだ。この「たんぽぽ」、旋律的に大きなヤマやサビがないのに、妙に前進性を感じる曲ではなかっただろうか。聴いていると何か、前向きになれるというか。

 それはこの曲が、おそらくミクソリディア旋法を使ったものだからだろう。ミクソリディア旋法は、昔はアイルランド民謡等で多用された旋法だが、それが移民と共にアメリカ合衆国へ渡り、ブルーグラスやカントリー音楽、ロックなどに応用されて現在に至っている。「たんぽぽ」に合わせて音階を表すとこんな感じだ。

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 長調でも短調でもないその独特な響きは「色々あっても前を向いてやっていこう」と言うような力強い曲想によくマッチする。具体例として、Old Joe Clark、イーグルスのSeven bridges roadをあげておこう。

 

Old Joe Clark

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 イーグルス Seven bridges road

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 つまり、この「たんぽぽ」は、すずさん及び北條家の未来を明示する役割と同時に、鑑賞者自身の「これから」についても、そっと後押してくれる曲でもある。もちろん、歌詞もそういった内容になっている。「たんぽぽ」の綿毛は、今「この世界」に生きている喜びを私たちに与えながら、未来へ飛んでゆくのだ。

 

 

 以上、音楽素人の個人的な雑感を書いてきた。あまりにすずさんとベストフィットしたコトリンゴのセンスと音楽的なイディオムの豊富さに改めて感嘆せざるを得ない。まだまだ気付いてない事もあるだろうし、根本的な思い違いをしている所もあるかもしれない。が、音楽の観点でも「この世界の片隅に」を鑑賞するきっかけになれば私としては大変嬉しい。

 

*映画本編を再び観に行ったら、いろいろ勘違いしている部分があったので、修正した。「お見送り」を晴海・径子さんのお見送りとなぜか思っていたのだった。周作さんには申し訳ない事をしたと思っている。人の証言はあてにならない事の生き証人になってしまった。

 

追記(2017/1/17)

サントラには入ってないが、劇中で使われた曲は他にもいくつかある。例えば、すずさんが径子さんを見送りに行く時にすれ違う女子挺身隊の隊列が歌っていたのは「勝利の日まで」。この曲も、作詞はサトウハチローだ。そして、A応Pが歌っている。まさに適材適所。

すずさんと晴美ちゃんが草を摘みながら歌っていたのが「空の神兵」。これを歌っている時に敵機から狙われるのだから皮肉である。そして、エンジンの解説をしながら寝てしまう円太郎が寝入りばなに歌うのが、言わずと知れた「軍艦行進曲」。戦後、パチンコ店のテーマ曲みたいになってしまったので、「隣組の歌」と並んで人口に膾炙している歌だろう。

また、海軍病院で蓄音器から鳴っていたのは、言うまでもなくグレン・ミラー・オーケストラのムーンライトセレナードアメリカ合衆国の楽団なので、当然「敵性音楽」。

 

 

 

 

数式で表す「この世界の片隅に」

 「また珍奇な事を」と思っているかもしれない。確かにこの作品そのものを数式で表そうなど、無理筋な話だ。ただ、映画「この世界の片隅に」について考えていると、頭の中で様々な要因が交錯し、さらに作品への想いが強くなってゆくのを日々実感する。「これはいったいどういう事が私の中で起きているのか」と個々の要素を分離してあれこれ考えていたら、何やら数式のようなものが浮かんできた。それを整理してみたのが、下になる。

すなわち、

 

 映画「この世界の片隅に」の評価( K )を数式で表すと次のようになると思われる。

 

    K = a(x + y) + b(x + y) – c

  ただし、

  x は「映画を観て言語化できる事柄」、

  y は「映画を観て言語化できない事項」、

  a は「映画を観た後に気付く事項」、

  b は「こうの史代の原作」、

  c は「先入観」

  

  である。以上5つはすべて変数であり、かつ0以上である。

 

 

 まあ、お遊びと言ってしまえばそれまでで、厳密な数式ではない事は百も承知である。「宇宙にどれほど文明が存在するか」を示すドレイクの方程式の劣化版みたいなものだ。ただ、映画「この世界の片隅に」をどのように受け止めているかを頭の中で整頓するには少し役立つような気もする。順番に、解説していこう。

 

x y

 多くの創作物というのは、「言語化できる事項」と「言語化できない事項」とが足し合わされて成り立っている。小説などは当然の事ながら「言語化された事項」の部分が大きいジャンルだが、それでも創作者が伝えたい事がすべて言語化されている訳ではない。もしそうなら、それは小説というよりも「報告書」もしくは「論文」と呼ばれるものになろう。また、「音楽」は「言語化できない事項」の部分が非常に大きいジャンルだ。無論、楽曲分析もできるし、曲の構造などを言語化できるが、実際の音楽体験はそれだけで説明できるものではない。

 基本的に創造的な活動をする人々はこの「言語化できない事項」を鑑賞者へどれだけ多く伝えられるかを目標としていると思われる。といっても、言語化できない事項だけで成り立つ創作物はほとんどないだろう。なぜなら、創作者と鑑賞者との間に言語化できる何かがないと、互いに何を感じているのか共有するのが困難だからだ。

 言語化できる事項は、映画においては「ストーリーと設定」「小道具・セット・背景・色彩」「登場人物の名称・キャラクターや台詞」などがある。これらは別の言い方をすれば「客観的な鑑賞データ」と言う事が出来る。

 一方「言語化できない事項」は、「鑑賞者の感情がその映画によってどのよう動かされたか」である。その感情の揺れは「言語化できる事項」の組み合わせと、映画から受け取った言語化できない綜合的な情報(音楽、雰囲気、空気感など)とが合わさって醸成される。そして、その感情の揺れを「言葉にする」事はあっても、それは主観的であるが故に仮の「言語化」であって、感情の揺れそのものが言語化された訳ではない。

 一般的に「言語化できる事項」の割合が多い作品は「理屈ぽい」と言われ、「言語化できない事項」の割合が多い作品は「訳がわからない」と言われる事が多い。どちらにせよ、映画作品の個々の基本的な作風は主に式の (x + y) として示される部分だ。

 そういった視点で言うと「この世界の片隅に」は、まず「言語化できる事項」の情報量が通常の映画よりも桁違いに膨大である。この作品に隅々まで満たされているのは、戦前の呉・広島のすべてを圧縮した客観的事実の集積である。記録や証言、つまり「言語化された」ものを全部まるごと映画の中で再構築させたものだ。情報が膨大と言う事は、感情の揺れを作りだす「言語化できる事項」の組み合わせも無尽蔵にある。さらには映画から無意識に受け取る「雰囲気・空気感」なども、遠近感も含めた音響効果や登場キャラの微細な運動のアニメーションによって、非常に濃密なものになっている。すなわち「言語化できない事項」の情報量も半端ではない。

 通常、ある人が認知する情報がその人の許容量を超えると、オーバーフローしたぶんの情報は無意識のうちに適宜カットされる。しかし、本作品ではアニメーションという記号化された表現形態と言う事もあり、情報の許容量を超えても、その人へ「入ってきてしまう」ようである。

 その結果、この作品を初めて鑑賞した人の多くが「感想は言葉にできない」「感動したなどと安易に言えない」としか言えなくなってしまう。人によっては「どういう訳か冒頭から涙が止まらない」「映画終わっても席から立ち上がれない」「映画館から出てしばらくしてから涙があふれてきた」というような状況になる場合もあるようだ。それは、感情を揺れ動かす桁違いの情報をダイレクトに受け取ってしまい、これまでに経験した事のない感覚に戸惑い、どう脳内で処理したらいいか見当がつかない結果であろう。つまり、仮の「言語化」をも不可能にする精神状態に陥ってしまうのだ。

 この x y の部分だけでも、とんでもない作品なのだが、まだ先がある。

 

a b

 娯楽作品と呼ばれる多くの映画作品は、観終わった時、「あー面白かった」という感じで数分後には映画を見た事さえ頭の中から霧散する事が多い。一方で、観終わった後の余韻がずっと残り続ける作品もある。

 「この世界の片隅に」は言うまでもなく後者の典型であって、「言語化できない何か」が残像のようにいつまでも心に逗留し、ぼーっとしているとつい作品の事を考えてしまう。そして、「あれはもしかしてそういう意味?」「これはそれだったのか!」「あれは結局どういう事だったのか?」などと映画を観ている時には気付かかなった事が立ち上って来る事もある。また、インターネット上の様々な人の感想や見解を知るごとに「そういう見方もあったのか!」「えー!そうだったの!」と目から鱗状態になる事もしばしばだ。

 すなわち「映画を観た後に気付く事項」が極めて多いのも「この世界の片隅に」の大きな特徴だ。もともと作品自体の情報密度が大きいので当然の成り行きである。そして、後に気付く事は大抵「言語化できる事項」であり、最初に観た時に「言語化できた事項」の追加情報だ。そして、その追加情報によって、新たな「言語化できない事項」、すなわち「心を揺り動かされる要因」も増える。すなわち、映画を観てない時でも、この作品は心の中で変化し続けると言う事になる。これは式の a(x + y) の部分だ。

 そして、「こうの史代の原作」という項目も加わる。本作ではこれもまた非常に重要な要因だ。通常、原作のある映画というものは、「原作を忠実にトレースする」「原作を凌駕する」「原作の良さが失われる」の3パターンがあるように思う。通常は、b=1である。原作を超えるか超えないかが問題になる訳だから、原作が基準値となるのだ。一般的に原作を凌駕すると言われる作品の場合、(x + y) の数値が高くなる。そして、原作を知らずに鑑賞すればb=0である。

 しかし、「この世界の片隅に」はそれらのどれでもない。あえて言えば、「原作が映画を補強し、映画が原作に新たな命を吹き込む」という相互に作用し合う極めて動的な関係性だ。つまり、事実上、b >1という不思議な状況になるのだ。

 原作未読で映画を観た人の中には「映画館からの帰路、速攻で原作全巻を買った」という事もしばしば聞く。確かに原作で確認したくなる仕掛けが映画本編にも仕組まれているし、それに気付かずとも「とにかく原作を読みたい衝動」にかられるようである。増刷も随分とかかっているようだ。原作をすでに知っている人は改めて隅々を読み返す事になる。そして、映画において原作から省かれた部分、逆に映画で追加された部分を照らし合わせているうちに、作品の奥行きを改めて実感する。

 すなわち、映画を観た時に既に認識していた「言語化できる事項」及び「言語化できない事項」について、原作と映画の比較によって、それまで見落としていた事をさらに発見し、それぞれの意味合い・作者の意図の深さを痛感することになるのだ。そうした事を通じて、「どこまで考え抜かれて創作されたのか」「この作品をすべて理解し感じ尽くす事は可能なのか」という気分になってくる。これらは、式の b(x + y) の部分となる。

 

 ともあれ、様々な要因の変数が加算されてゆくことで、「この世界の片隅に」への評価は鑑賞後の時間が経過すればするほどに上昇してゆくのである。そして、二回目三回目と映画館へ足を運ぶたびに、さらに理解が深まる。理解が深まれば新たに得た視点で原作を再読し、また映画を観に行きたくなるというサイクルになる。

 

そして c

 映画をより有意義に鑑賞しようとする時に、最も障害になる要因が「先入観」である。まあ、完全に一切の先入観を排除すると言うのも至難の業だが、どんな名作でも観る前の勝手な先入観によって、映画を鑑賞する目が曇ってしまう事は意識しておかねばならない。

 言葉で説明し難い「この世界の片隅に」と言う作品について様々な賢い人々が言及していて、それぞれに「うまい事を言うなあ」と感心する。そんな中で、岡田斗司夫氏が「泣いてはいけない映画である。泣いてしまえば、その時点で単純な感情に支配されてしまうから」という趣旨の事を言っていた。

 すなわち、「泣ける映画」と決めつけて「泣くつもり」で映画を観にゆくと「泣きどころ」を探すことに意識が集中してしまうのだ。その結果、この作品のディテールをすっぽり「感じ忘れてしまう」危険性がある。そうなると「なんか退屈な話だった」「特に泣けなかった」と言うざっくりし感想しか出て来ないかもしれない。あるいは「泣けそうなシーン」を予め設定して、気持ちを無理に盛り上げて涙を絞り出し、表層的な物語のみで「まあ、もっと泣ける作品はあるけどね」という感想になってしまうかもしれない。岡田氏が「泣くな」というのは、そういう「泣く事で白痴化する」事への注意喚起だろうと思う。泣くという行為そのものによって「これは悲しい話なのだ」と自分を納得させる方向へ堕ちてしまうのだ。つまり、「泣いてはいけない」というより「泣くつもりで行くな」ということだろう。観に行った人が流した涙は「目的」ではなく「結果」である。

 「先入観」には、監督や配役・配給会社に対するもの、映画のテーマ(この作品の場合「反戦」など)に関するもの、評論家の批評などがある。どれも映画そのものへの純粋な評価を困難にする。すなわち、cは作品への評価をマイナスに持ってゆく唯一の要因である。「この世界の片隅に」と言う作品に対して、現時点では、ほとんどの人が非常に高い評価を与えている。しかし、かなりの少数派ではあるが、極めて低い評価をつけている人もいる。

 この作品をどう評価しようと自由だし、映画の作風の好みも人それぞれだろう。ただ、xyab の値に比べ、c の値が大きくなりすぎて低評価になっている可能性もある。もしかすると、原作未読で b=0かもしれない。もしそうなら、非常にもったいない。そういう人は、先入観を拭って(それがまあ、難しいのだが)、改めてもう一度、まっさらな気持ちで「この世界の片隅に」を観てほしいと個人的には思う。

 

 上記の数式が「この世界の片隅に」を観た後の心の置き場作りに役立つ部分があれば幸いである。