ZoaZoa日記

気の向くままに書き散らしてゆきます。皆さまの考えるヒントになればと思います。

「この世界の片隅に」の化学

名前の由来

 「この世界の片隅に」を映画で初めて知り、このページにたどり着いた人は、この記事のタイトルを見て「あの作品と化学なんて関係あるのか」と不思議に思っているかもしれない。一方、原作の「この世界の片隅に」に深く親しんでいる人なら「ああ、あの事ね」とおよその見当がついている事だろう。

 本当に沢山の人がこの作品について激賞している状況の中、せっかくなので「この作品での化学の視点」についても、まとめておこうと思う。より多くの人(特に理系の人)が映画を見に行くきっかけ作りに、あるいは既に観た人がまた見にゆきたい気分になれば幸いである。

 

 さて、「この世界の片隅に」の化学とは何か?実は、この世界の片隅に」の登場人物の名前のほぼすべては元素名からつけられているのだ(と推測される)。確かにそう思って見ると、偶然にしては出来過ぎで、作者が意図的に命名したと考える方が自然であるらしい。なお、どの元素をどの名前に当てはめるのか意見が分かれているものもあるので、ここではあくまで私個人の解釈ということをお断りしておく。では、紹介していこう。

 

北條家=ホウ素 B

 北條(浦野)すず(主人公)= スズ Sn

 北條周作(すずの夫)= 臭素 Br

 北條円太郎(周作の父)= 塩素 Cl

 北條サン(周作の母)= 酸素 O

 

  黒村家= クロム Cr

  黒村(北條)径子(周作の姉)= ケイ素 Si

  黒村キンヤ(径子の夫)= 金 Au

  黒村晴美(径子の娘)= アルミニウム Al

  黒村久夫(径子の息子)= ヒ素 As

 

小林夫妻(円太郎の姉夫婦)= コバルト Co

 

浦野家=ウラン U

 浦野十郎(すずの父)= 重水素 D 又は 2H

 浦野キセノ(すずの母)= キセノン Xe

 浦野スミ(すずの妹)= 炭素 C

 浦野要一(すずの兄)= ヨウ素 I

 

森田家(すずの母方の実家)= モリブデン Mo

 森田イト(すずの母方の祖母)= イットリウム Y

 森田マリナ(すずの母方の叔母)= 鉛 Pb

 森田千鶴子(すずの母方の姪)= 窒素 N

 

水原哲(すずの同級生)= 鉄 Fe

 

白木リン(呉の二葉館の遊女)= リン P

 

りっちゃん(席が隣のすずの同級生)= リチウム Li

 

隣保班(隣組の面々)

 知多さん= チタン Ti

 刈谷さん= カリウム K

 堂本さん= 銅 Cu

 

なお、映画には登場しないが、他に

 

テルちゃん(リンの同僚)= テルル Te

栗本さん(円太郎の同僚)= クリプトン Kr

 

というのもある。

 

「だから何?」と言われるとちょっと辛いのだが、それぞれの元素の特性のあれこれと登場人物のあれこれとを照らし合わせると、これがなかなか面白いのである。当然、作者がどう想定したかは全くわからないから、今から書く事は勝手な私の妄想に過ぎない。まあ、こういうものには正解はないと思うので「こういう見方もあるかもね」と暖かく見ていただければ幸いである。ただ、原作も映画も未見の人で、ある程度化学の知識もあり、物凄く勘のいい人は、この妄想でネタバレ的な雰囲気を嗅ぎ取ってしまうかもしれない。そこはうまく意識をぼやかして一旦は心の隅の隅に格納し、映画を見に言って欲しい。

 

浦野家と北條家

 ウラン(浦野家)はすべての同位体放射性元素で、御存じの通り、広島に落とされた原子爆弾の材料である。広島の原爆被害はウラン核分裂の連鎖反応によって生じる膨大なエネルギーによって引き起こされた。一方、原子力発電所における核燃料としても重要だ。しかし、原子力発電所ではその核分裂は制御されていなければならない。

 制御するために必須なのが、核分裂で生じる中性子を減速・減少させる減速材及び制御棒である。減速材として現在最も使われているのが、水である。しかし、中には、水素の中性子が一つ多い重水素(浦野十郎)で作った重水を減速材に使う場合もある。また、古いタイプの原発では炭素(浦野スミ)が減速材として使われることもある。

  しかし、制御棒の素材および減速材として重要なのはなんといってもホウ素(北條家)だ。ホウ素は半減期1秒以上の放射性同位元素を持たず、事実上、安定元素のみの元素である。そして、より多くの中性子を捕えることができる。つまりはドーンとこいと言う感じの元素だ。

 また、核分裂がおきると、その副産物として核分裂生成物が生じる。これは原爆でも原子炉でも変わらない。そこで、あらゆる元素が生じるかといえば、そんなことはない。明らかにウラン原子核の割れ方に傾向があり、生じる核分裂生成物は特定の元素に偏在する。例えば、ストロンチウムモリブデン(森田家)、ヨウ素(浦野要一)、キセノン(浦野キセノ)、セシウムなどである。ストロンチウムヨウ素セシウムの三つは原発事故でお馴染みであろう。他の放射性元素原発事故で放出されているのだが、ガスとして拡散したり、半減期が短かったりで問題にはされてない。また、ストロンチウムは崩壊の過程でイットリウム(森田イト)の放射性同位体が生じる。

 なお、十郎を除いた浦野家と北條家の男性は塩素(北條円太郎)ヨウ素(浦野要一)臭素(北條周作と全員、17族(ハロゲン)の元素である。この中で最も反応性が高いのは塩素、逆に一番落ち着いているのがヨウ素だ。

 また、コバルト(小林夫妻)の放射性同位元素は原子炉で安定元素のコバルトに中性子を当てて人工的に生成させる。つまり、意図的に中性子との「お見合い」をさせないと生じない放射性同位元素なのだ。

 また、核分裂ではなく、核融合においてはリチウム(りっちゃん)の同位体は重要な核燃料源であり、同時に水素原子の中性子が三個の同位体三重水素トリチウム)を人工的に製造する時にも必要となる。核化学から離れるが、炭酸リチウムはそう鬱病の治療薬として使われている。

 

北條(浦野)すず

 スズ(北條すず)と言う元素は風変わりである。まず温度によってその性質が変わる。13℃以下では灰色スズとなり長期間置いておくと、ボロボロになって来る(スズペスト)。スズは酸にもアルカリにも溶ける両性金属でもある。両性金属は他にアルミニウム(黒村晴美)、鉛(森田マリナ)がある。また、放射線を出さない安定同位体が10種類もあり、これも別格だ。これは中性子と陽子が安定した構造を取りやすい魔法数を持った元素だからだと考えられている。この魔法数を持った元素は、他に酸素(北條サン)がある。そして、炭素(浦野スミ)、ケイ素(黒村径子)、(森田マリナ)とは14族(炭素族)の仲間同士だ。

 また、スズの応用面として、ブリキがある。これは、(水原哲)にスズをメッキしたものだ。スズがすぐに酸化被膜を作ってくれるので鉄の酸化(錆)を防いでくれる。しかし、ブリキは外に出したりして傷をつけたりすると、スズのメッキ部分に穴があき、そこから鉄がどんどん錆びてしまう。ただし、メッキ部分のスズは鉄よりもイオン化傾向が小さいので変化しない。

 

白木リン

 リン(白木リン)は酸素などと化合物となっていればそれなりに安定しているが、単体で存在していると不安定な場合もある。白リンと呼ばれる同素体は、強い毒性があり、50℃以上で自然発火する危険な物質である。しかし、その白リンも酸素を遮断して300℃に熱すると、赤リンとなって、非常に安定した毒性の少ない物質に変わる。すなわち、反応する条件や相手次第で落ち着き場所を確保できる元素である。そして、ある意味、スズ(北條すず)の変幻自在な所と少し似たところがある。なお、リンは15族(窒素族)の元素でヒ素(黒村久夫)と同族である。

 

 

黒村径子と黒村晴美

 クロム(黒村家)は、その腐蝕されにくい特性を応用して合金やメッキには欠かせない金属である。大昔は懐中時計と言えば銀時計が一般的だったが、今では手入れの楽なクロムメッキの時計が主流である。とはいえ、全く錆びない(黒村キンヤ)によるメッキは現在でも高級腕時計などに使われ、時計を単なる道具でなく宝飾品として扱う伝統が維持されている。また、ケイ素(黒村径子)の結晶(水晶)は電圧をかけると規則的な振動が起こる。その性質を利用して作られたのがクオーツ時計である。機械式に比べて誤差が非常に少ないため、機械式の時計は今ではほとんど見かけなくなった。

 時計とは離れるが、アルミニウム(黒村晴美)の酸化物の結晶にクロムが部分的に入りこむと色を呈するようになり、1%のクロムが入るとルビーとなる。また、単体のアルミニウム(黒村晴美)は酸化した金属を還元する働きがあり、金属酸化物とアルミニウムの混合物にうまく点火する事ができれば、大量の光と熱を発しながら爆発的に反応が進み(テルミット反応)、単体の金属を得る事ができる。しかし、素人が分量を誤ってこの反応を実行すると大事故につながる場合もある。

 なお、(黒村キンヤ)とアルミニウム(黒村晴美)は、銀や銅に次いで電気伝導率が非常に高い金属である一方、ケイ素(黒村径子)とヒ素(黒村久夫)は、導体と絶縁体の中間、いわゆる半導体の材料として欠かせない元素である。

 

隣保班の面々

 カリウム刈谷さん)、チタン(知多さん)、(堂本さん)は三つとも第4周期の元素である。第4周期は遷移元素が登場し、他人ではあるけど横のつながりも大事という雰囲気が出てくる周期である。つまりは隣組と言う訳だ。なお、この三つの元素の中では原子半径が一番大きい(幅を取る)のがカリウム刈谷さん)、酸化物が看護婦の白衣のように真っ白で、白色顔料や日焼け止めに使われるのがチタン(知多さん)、そして、元素の発見年代が最も古い(古参)のが言うまでもなく(堂本さん)である。

 

あなたは誰?

 「この世界の片隅に」の小説版では、映画でも原作でも出てこなかった新たな「名前」が出てくる。その名は「ヨーコ」。既に映画を見た人、原作を知っている人は、どこで彼女が登場するかおよそ見当はつくであろう。これは私の妄想と言うより希望なのだが、この「ヨーコ」は漢字で「陽子」であって欲しい。

 陽子(プロトンは、原子の原子核において正の電荷をもつ粒子である。陽子の数が原子番号すなわち元素の種類を決める。今ある元素の起源も元をただせば陽子である。具体的には恒星の中で陽子がぶつかりあって、核融合反応が進行し、新たな元素が生れてくるのだ。そして、そこで生じた新たな元素たちは、恒星の終焉とともに広い宇宙へタンポポの綿毛のように散らばってゆく。つまり、陽子(プロトン)は新たな始まりの象徴なのだ。

 

小説 この世界の片隅に (双葉文庫)

小説 この世界の片隅に (双葉文庫)

 

 

 

こうして、元素とからめて「この世界の片隅に」を鑑賞すると、これからは周期表を見るだけで、それぞれの元素の行く末を想い、胸が熱くなってしまうかもしれない。

 

 以上、かなり変則的な「この世界の片隅に」の紹介(?)であったが、この作品は、本当にいろいろな要素が詰まっているので、化学の他にもいろいろな見方ができると思う。様々な視点を通して、全く気付かれていなかった「この世界の片隅に」の新たな魅力がさらに増えてゆけばいいなあと思っている。

 

追記:

 浦野十郎は、ジルコニウム(Zr) という視点もある。ジルコニウムは原子炉での核燃料の被覆管の材料である。

 また、白木リンの白木が、白金(Pt)と言う見方もできる。白金は、酸化しにくい貴金属として金と並ぶ元素であると同時に自動車の排気ガスを浄化する三元触媒の材料の一つとしても重要である。

 とかあれこれ書いているうちに貴重な情報が。作者の弁によると、浦野十郎はロジウム(Rh)だそうだ。ウラン核分裂における最終安定核種の一つだ。キセノン(浦野キセノ)とある意味、同じ枠組みになる。

 

1年後の追記:

 「この世界の片隅に」ブルーレイの特典ディスクにある「公開記念!ネタバレ爆発とことんトーク!」の中で、「ヨーコはヨウ素でいいよね」という片渕監督とこうの史代さんの弁があったので、ヨーコはヨウ素(I)らしい。コメントでご指摘したくださった方、改めてありがとうございました。

 なお、ヨウ素放射性同位体であるヨウ素131はウラン核分裂で生じるメジャーな娘核種(娘という語が使いたいのである)である。そして、放射性崩壊をした後は、安定核種であるキセノン131になる。つまり、原爆で亡くなったすずさんの母、浦野キセノへと回帰するという見方もできないことはないだろう。

 また、私の錯覚・誤解かもしれないが、浦野キセノとヨーコが何気に邂逅していると思われるシーンもあるので興味ある方は探してみる事をお勧めする。

音の風景が広がる 「この世界の片隅に」後篇 

冒頭5分間の奇跡

 予告のPVを見ている時分から、「これはすごい!」という予感はあったのである。しかしながら、本編はそんな予感をはるかに超えるものであった。

 原作とおなじく、海苔が干してある浜辺で、すずが母親に海苔の荷を背負わされる所から映画は始まる。原作よりもかなり引いたカットになっており、小さなすずがほぼ真ん中にちょこんと立っている。荷物を背負うすず。すずはまるでその風景の一部のようだ。画面全体に充満する微かな浜辺の音。下手すると汐の香さえ漂ってきそうである。原作に忠実どころの話ではない。原作の諸要素を最大限増幅させたような圧倒的な「空気感」に「うわあ、ちょっと!ちょっと、これは!」とつい変な声が出そうになった。何がちょっとなのか自分でもわからない。入って来る情報が多すぎて混乱していたのであろう。

 そして、いきなりすずの語りが始まる。どんな事情の人が声をあてていようが私には関係ないのだが、これがまたこの「空気感」の中に最初からあるべくしてあるような声として、さりげなく「音の風景」の中に滑り込んで見事に融合してゆく。もう始まって数十秒で、完全に「この世界の片隅に」私自身が入ってしまった。

 やがて船頭さんとすずの会話が始まる。すずとの距離がより間近になり、船頭さんにお辞儀し、たどたどしく挨拶をし、座りが悪い様子など、「微かな揺らぎ」をもちつつ、「生きた人間」としてのすずの実在感が立ち上って来る。そして、船が街へ近づいてゆく中で生活音も微かに増え始め、すずがこの時代この場で確かに生きている事が実感されてゆく。まさに動きの部分でもリアリティの山が築かれている。片渕監督の話によると、やはり単位時間当たりのコマ数は通常のアニメ作品よりもかなり多いようだ。言うまでもなくこの作品ではCGアニメの部分は皆無である。つまり、微かな揺らぎは私の気のせいでなく、実際にそう感じるように作っているのである。

 さて、上陸して広島の街を歩くすず。年の瀬なので多くの人が道を行き交う。ここで、また「うわあ」と声を出しそうになる。街ゆく人々それぞれが独自な「微妙な揺らぎ」によって、独立して動いているのだ。つまりは単なる群衆でなく、確かにその場その時代に生きていた一人一人を余すことなく描写しているのである!そして、さらにはっきりした輪郭と遠近感を持って満ち溢れる雑多な街の音、音、音。そんな中で、菓子や人形を眺めるすず。すずの後ろではヨーヨーで遊ぶ子供たち。ここに出てきた人々が十二年後にどれだけ生きているだろうか。しかし、この時、確かにここに人々の生活があり、それぞれに生きていたのだ。もうここまでで胸がいっぱいである。涙が出そうだ。

 そして、すずは道に迷う。普通、道に迷ったらもう少し、おどおどして慌てるものだが、すずは視線を落として大正呉服店の建物に寄りかかっているだけだ。もちろん、本人は途方に暮れていて、心の中では「うちは、ぼーっとしとるけん、迷子になるんかのう。困ったねえ」などとぼんやり考えているのである。こんな能天気なすずがその後に経験するあれこれの事を思うと、また堪らない気持ちになって来るのだが、そこに追い打ちをかけるように、すずの心情をそのまま歌にしたような「悲しくてやりきれない」がコトリンゴのささやくような声で始まる。もう駄目である。目頭が濡れてくる。まだ始まって五分も経ってないのに、完全にあちら側に持っていかれてしまっている。本当に奇跡としか言いようがない冒頭五分間である。

 

この世界の片隅に 劇場アニメ公式ガイドブック

この世界の片隅に 劇場アニメ公式ガイドブック

 

 

 

全編に溢れる音の風景

 驚く事に、冒頭のこうした情報(情緒)密度を維持しながら、物語はその後も進んでゆく。と言っても、物語らしい物語はない。かなりぼーっとした少女が周囲に揉まれ、あれこれドジをしながら、平平凡凡と日々を過ごしてゆくだけである。この作品を観た人の多くは、当時の生活の様子がよく実感できたという感想を抱くだろう。また、あの時代に生きた人は忘れていたあの頃の事を鮮明に思い出すかもしれない(本当の飢えはあんなものでないなどと言う人もいそうだ)。

 そうしたリアリティは、言うまでもなく膨大かつ厳密な時代考証に基づいて、小津安二郎の映画のように、画面の隅々まで市井の生活を再構築した絵コンテ及び原画が大きな役割を果たしている事は言うまでもない。今もほぼ変わらない自然景観や実在した建築も当時にそう見えていた通りに忠実に再現しているそうだ。しかし、いくら正確に再現と言っても、実写ではないのである。実写どころか、原則こうの史代タッチで描写されているから、すべて淡い水彩画のような雰囲気にまとめられている。つまりは細密な描きこみは、一部の兵器以外ではほとんどないと言っていい。なぜそれでリアリティを感じるのか。

 一つは人間の視覚というのは、ある程度の「目印」「お約束」が成り立つと、別に細密に描写しなくても「そういうもの」としてまとめて情報処理してしまう癖があるからだろう。もし、本物そっくりでなければ対象を正しく認知できないのであれば、漫画やアニメーションの鑑賞は成立しなくなる。

 そしてもう一つの要因は、ここまで再三述べてきた音の風景や微かな揺らぎによって生じる「空気感」である。単に効果音を入れるだけでなく、それぞれの音の指向性および距離感まで考え抜かれているのが本当に素晴らしい。兄弟を起こさない様に祖母を呼びにゆく時のすずの声。海苔を漉く水の音。隣組が一升瓶に醤油を注ぐ音。スケッチブックで擦れる鉛筆の音。アキアカネが飛ぶ音(!)。ともあれ、例をあげだしたきりがない。その場の空気感を感じる事が出来れば、見ている者もすずの世界と一緒に時を刻む感覚になってゆく。つまり、戦前の呉にタイムスリップして、同じ空気を吸っている状況になるのだ。「リアルとリアリティとは違う」ということが、これほどに顕著にわかる作品もなかろう。

 そして、そうした音の風景の中に、まるでコロボックルが自然発生的に音楽を奏でているようなコトリンゴの音楽がひっそりと寄り添い、それぞれの場面の「空気感」を補強してくれる。当然の事ながら、音楽が前に出すぎることもなく、この作品全体を上質なベールで優しく覆ってくれるような楽曲たちである。それはそれなりにメッセージ色の強い歌詞のついた四作品でも変わらない。

 

劇場アニメ「この世界の片隅に」オリジナルサウンドトラック

劇場アニメ「この世界の片隅に」オリジナルサウンドトラック

 

 

 

日常の音と非日常の音

 すっかり当時のあの場所の人間として生活している気になっていると日常では聞く事のない「非日常の音」が入って来る。最初はまるで遠方の花火のような、あるいは運動会を知らせる号砲のような長閑な音として針巻山の高射砲が鳴り響く。その音の遠近感もたまらない。しかしながら、日常の音の風景の中に、「非日常の音」が乱入する事が多くなる。ついには警戒警報が鳴り響き、灰ケ峰の向こうから敵機来襲。

 ここは人々が生活する場である。戦場ではない。しかし、戦闘機のエンジン音のダイナミックな三次元的高速移動、腹に響く照射音、飛び散って地面に響く破断片。すべて非日常な夢でも見ているような「音の風景」が展開する。さらには、戦局が悪化するにつれ、防空壕で爆裂振動が不規則に直接腹に響くように伝わり、至近距離でのグラマンによる地響きのような掃射などなど、容赦なく音響で殺しにかかっている感じである。下手なVRを余裕で超えて、感覚的に「自分の身が危ない!」とつい思ってしまうほどだ。

 この日常に刺しこまれた非日常の音の音響設計は本当にそれまでの長閑な生活を打ち砕くには十分すぎるリアリティがある。しかし、その非日常の音の風景が日常になってゆく。その音の風景が遷移してゆく様子もまた別の意味で恐ろしい。空襲警報が町内放送と同じレベルに変容してゆくのだ。

 そして、あの日の閃光。続く鈍い音と衝撃波。北條家の瓦が数枚落ちる。感覚的には小規模な地震のように思える。広島に原子爆弾が落ちたのである。歴史的な後付けになるが、最も「非日常」と言える音の風景である。しかし、その時の呉市民は直接の被害を感じずに、広島方面の突然発達した積乱雲のような雲を不安そうに眺めつつも、生活を続ける。この日常と非日常がいびつに交錯する「音の風景」は個人的には既視感がある故に、本当になんともいえない気分となる。

 原爆をテーマにした映画は数多くあるが、原爆投下の瞬間は基本的に記号的表現にならざるを得ない。なぜなら、広島市内で原爆投下の瞬間を忠実に再現しようとすれば、観客の鼓膜は破れ、劇場ごと衝撃波で吹っ飛んでしまうからだ。当時の様子を正しく伝えるには、爆心地からある程度離れた場での様子を描写する他ないだろう。そう言った意味で、本作は、映画において原爆投下の瞬間を忠実に再現した最初の作品になるのではないか。前例があれば教えてほしい。

 こうした「真に迫った」などと言う生易しい言葉では伝えられない生命の危機を日常で感じる「音の風景」は、初めて経験する人が多いだろう。そして、実際に経験した人は、遠い昔の事であってもフラッシュバックが起こらないか心配になる程である。ともあれ、これは音響設備の整った映画館でないと体感できない。DVDが出てから見ようと言うのでは駄目である。映画館で見なくてはこの映画を観る価値は半減してしまうだろう。

 

音の風景が途切れる時

 本作にリアリティを与え続ける「音の風景」と「微かな揺らぎ」。それが途切れる瞬間が3回ある。1回目は呉の生活とは全く違う世界から神の視点が現れた時。2回目は、ある個人の日常生活が断絶してしまった時。3回目はエンドクレジットが始まる時である。

 1回目と2回目に関しては、詳しくは語れない。原作未読の人にとっては、語れば半分くらいネタばれになってしまう。言える事は、「リアリティが喪失する恐ろしさ」をここまで感じた事はないと言う事だ。物理的な無音状態ということではない。その場の空気感がなくなり、精神的な真空状態になるような、そんな根源的な恐ろしさなのである。1回目は、同じ人間が無感覚になる恐怖。ここでは機械音が鳴り響くだけだ。そして、2回目は、それまでの日常が一瞬で決定的に違うものへ変質する恐怖。音の風景だけでなく、目で見る風景さえ消失し、深い内面の心象風景がコトリンゴの独特の和声に伴ってシネカリアニメーションで描かれる。この時、また「うわあ」と声が出そうになった。「これをこう表現するのか、、、」というのが正直な感想。表現者のあくなき執念を感じた。

 

エンドクレジットでのご褒美

 3回目はエンドクレジットだ。本編が終わる訳だから「音の風景」と「微かな揺らぎ」はおしまいなのは、当然と言えば当然。コトリンゴの「たんぽぽ」という前進性あふれる曲がそよ風のように流れる。観た人はわかると思うが、エンドクレジットは原作愛読者にはもうこれ以上にないくらい最高の贈りものである。月並みな表現になってしまうが、これまで何度も読み返した原作「この世界の片隅に」がここで見事に完結するのだ。もう、感無量という他ない。さらには「原作にあったアレは?」というわだかまりも最後の最後に何気なく現れて、エンド。拍手!

 そして原作未読者はエンドクレジットで一気に我にかえり、「自分の日常とすずの日常がどこかで連続しているのかな」などと思いつつ、いつの間にか目頭から液体が流れ出ている事に気付く事になるであろう(ここは個人差があります)。エンドクレジットの後半部分がよくわからなかったならば、是非とも、原作を読んでほしい。そして、また映画館に足を運び、この作品を味わってほしい。

 

 あれこれ駄文を連ねたが、この映画については、これだけ描いても到底、自分の感じた事を充分に文章化したとは思えない。観た人も「感想は言葉にできない」と言う人が圧倒的である。それは本当に痛いほどわかる。まずは映画館へ行き、自分の目で観て欲しい。観て、あなたなりに沢山の事を感じてほしい。あくまでここに書いた事は私の視点である。

 

 この作品は、アニメ史上の最高傑作、本年度邦画No.1などという次元でなく、間違いなく日本の文化遺産となると私は確信している。

音の風景が広がる 「この世界の片隅に」中篇 

微かな揺らぎも時間を作る

 ロボット工学の言葉に「不気味の谷」というものがある。ロボットをなるべく人に似せて作ってゆくと徐々に親近感がわいてくるのだが、どこかで「人に似ているが故の不気味さ」が感じられ親近感が一気に低下(谷)するという現象である。その原因はいろいろ言われており、いかんせん人間の感性の問題であるから、はっきりした理由はわからない。

 私の個人的な感覚で言うと、単に見かけがそっくりになるだけでは不気味の谷は感じられない様に思う。その人間そっくりのロボットの動きが人間のそれでない事が大きな要因のように感じられるのである。どれだけ細密に正確に人の動きを模倣しても、現時点では生身の人間の本当の動きにはならない。何が違うのか。それは、人の動きの中には常に微かな揺らぎがあるのだ。ロボットにはそれが全くない。それは単に規則的あるいはランダムにロボットを微かに振動させればいいというものではない。実際の生身の人間の揺らぎは極めて複雑である。生きた人間の「微かな揺らぎ」は通常は意識されてないし、見ている側も気付かない。しかし、驚く事に私たちの視覚はその微かな揺らぎを何気なく認知しているようなのである。

 それは、私自身の体験では、生身の人間がロボットやアンドロイドの動きを模倣する時に痛感した。どれだけ上手に模倣したとしても、本物のロボットと比べるとすぐにわかってしまうのだ。単純に「静止している」というだけでも、私たちは生身の人間の「微かな揺らぎ」を感じとってしまう。無論、遠目に見たら区別はつかないかもしれないが、ちょっと近づくとすぐにわかる。多少、視力がわるくてもわかる。つまり、物体の外見の詳細の違いでなく、「動き方」で人間であるかどうかを峻別しているのだ。

 前編で「視覚は理屈の上での時間の経過を認識する」と書いたが、どうやら「微かな揺らぎ」を認知するような「意識に上がってこない視覚」と言うものもあるようなのである。これは誰にでもあるのかどうかはわからない。とりあえず、私にはあるらしい。そうでなければ、視力のあまりよくない私が人間そっくりのロボットをロボットとして一瞬で判別できる根拠がない。そして、その「微かな揺らぎ」はどうもその物体の「空気感」を醸しているようなのだ。すなわち体感できる生きた時間が発生する。別の言い方をすれば「生物の実在感」である。その実在感こそが、生物と非生物を区別する決定的な要素のように私には感じられる。そして、当然「微かな揺らぎ」には時間の要素も含まれる。

 

こうの史代の微かな揺らぎ

 いいかげん本題の映画の話を始めたらどうか言われそうだが、もう少しこの作品の凄さの前提を語るのを許して欲しい。こうの史代の描く人物もしくは生き物に、私はこの「微かな揺らぎ」をかなり強く感じてしまう。頼りないラフスケッチのような線によって構成されるのが「こうのタッチ」の特徴だが、そのタッチの揺らぎが読み手の私へ伝わってきて、落ち着いて見ていれば、しっかりした造形の人物や生物なのに、読み進める中でそれぞれのキャラクターが実際に微妙に動いているかのような錯覚に陥るのである。

 無論、読み進めるのをやめて、その人物なり生物なりをじっくり凝視すれば、そもそもダイナミックな「運動性」のないのが彼女の作風であり、絵そのものに躍動感はあまりないから、静止しているのに決まっているのだ。しかし、再び作品として読み始めると、動いているような感じになるのである。もっとベタな表現をすれば登場人物が「生きている」。それはあの「不気味の谷」の原因となったものとは全く逆の「リアリティの山」、すなわち生きている存在の「空気感」が彼女の作品には何気なく築かれている事に他ならない。特に「この世界の片隅に」では、当時の市井の人々の生活を忠実に再現しようという作者の執念が宿った作品なので、その「微かな揺らぎ」具合が半端でない。つまり、「この世界の片隅に」で表出されるこの「微かな揺らぎ」による「空気感」をアニメーションとしてどう表現するか。素人目にも極めてハードルの高い課題のように思える。では、空気感醸成の大きな要素となる「音」の方はどうか。

 

こうの史代の音の風景

 漫画においては台詞以外の音は一般的に擬音や音符によって表現する。もちろん、様々な工夫によって音の存在を示す手法はあるものの、読者の感覚によっては目的とする音響が想起されない危険性もあり、擬音を使わずに音を表現するのはそれなりに冒険である。

 そうした一般則の中で、こうの史代の作品における音の扱いは独特である。まず擬音はよほど必要に迫られない限り使わない。かといって、特定の音を想起させるような意図的な試みもほとんどない(ように見える)。だからこうの史代作品をぼんやり読んでいると、彼女の作品全般が本当に静謐な印象を受けるのだ。はなから音の部分は放棄しているようにさえ見える。まさに紙芝居を無言で見せられているよう。

 ところが、少し読む速度を遅くして、じっくりとこうのタッチを味わいながらコマを眺めると大きな音ではないかもしれないが、そのカットでの音の風景が立ちあがって来るのだ。それはなぜかと言えば、第一の理由として、こうの作品においては「登場人物が何かの作業をしている場面が非常に多い」事があげられる。何かの作業をしているということは、そこには爆音ではないかもしれないが、間違いなく何がしかの生活の音が生じているのである。ちょっとゆっくりした読み方をするとその「音の日常風景」が脳内に補完されてゆく。第二の理由として「ワイドレンジで風景を切り取られる事が多いために、風の音、草や葉のすれる音、鳥のさえずり、人々の微かな足音など生活環境の中での様々な音がその微かな揺らぎのタッチから漂ってくる」事もある。ともあれ、ちょっとした読み手の意識の違いで、静謐だった全体の雰囲気が途端ににぎやかになってゆく。そこもまたこうの史代作品のマジックである。

 こうした「この世界の片隅に」の音の風景も、アニメ化する場合、どう処理するかなかなか難しい所があるだろう。シーンに合わせて効果音を詰め込めばいいと言う単純な話ではない事は、私でも何となくわかる。単なる音でなく「空気感」を漂わせないといけないのだ。

 さて、いよいよ映画本体の話に移る。はっきりいってこの作品の持つ情報量は常軌を逸したものがある。客観的な情報に限っても、原作以上に膨大な資料に裏打ちされた隅々まで入念に描かれた日常の事物・風俗の数々、こうのタッチと融和しつつも細密かつ正確な描写の兵器群、主人公のいる場として完全に溶け込んでいるにもかかわらず原作以上に存在感のある建築群および自然景観、などなどいちいち語っていると際限がない。こういった客観的な事項は私よりもはるかに詳しい方がいるだろうから、そちらに任せることにする。私はこの作品のベースにある「音の風景」と「微かな揺らぎ」について書いてゆく。後編へ続く。

 

「この世界の片隅に」公式アートブック

「この世界の片隅に」公式アートブック

 

 

音の風景が広がる 「この世界の片隅に」前篇 

音は時間を作る

 NHK‐FMで「音の風景」という番組がある。様々な場所の音だけを流しつつ、それがどんな場所でどんな状況なのかを簡潔に説明するだけの内容である。音だけだから、その風景が実際にどんなものなのか、言葉で説明されてもほとんどわからない。しかしそれ故に、ながれる音に意識が集中し、おそらくはテレビなどで同じ場所を見た時よりもはるかに鮮明に印象に残る。これは人によるのかもしれないが、私はそこに存在する音こそが場のリアルな空気を伝えるものと思っている。

 空気を感じるというのは、言い換えれば微細に変化し続ける揺らぎをまとめて感知している状況ということになろう。完全に時間が止まっていれば、そこでの空気感はなくなるはずだ。感覚的に時間を認知する時に音は極めて重要な要素となる。無論、形や位置の変化を通して視覚による時間の経過を判断することもあるが、それはあくまで、「頭の中の理屈の上での時間の変化」だ。例えば漫画は1ページに存在するコマ数は有限であり不連続である。あるコマとあるコマの間の時間は部分的に断絶している。しかし、読んでいて気にならないのは、時間の経過を頭の中で適宜補足しているからである。原則、視覚は不連続な時間しか認知できない。なぜなら、視覚は脳が処理するには情報量が膨大すぎるので、純粋に連続して視覚情報がどんどん脳内に入ってきたら、脳はすぐにパンクである。よって、刺激として網膜に光が届いても、「見えてない」「見てない」事も多々ある。

 音はそうではない。耳に入る音は、連続的にダイレクトに脳内に入って来る。言語の意味を「聞き落とす」ことはあっても、言葉の「音自体」をカットすることはほとんどない。さらには、無音の中にも、何か連続性を感じている。いや、無響室のような特殊な場にいない限り、この空気に満たされた世界で、厳密に無音ということはありえない。意識がある時に、音は刺激として途切れることはない。聴覚は連続した時間を体感的に認知するのに必須の感覚である。そして、音楽が時間芸術と言われる所以である。

 

この世界の片隅に」と私

 前置きが例によって長いが、映画「この世界の片隅に」を見てきたのである。個人的に完成をずっと切に待ち望んでいた作品であり、クラウドファンディングに間に合わなかった事への後悔をずっと持ち続けつつ、どれだけ時間がかかろうとも良い作品になればいつまでも待っていようと覚悟していた作品であった。部分映像が徐々にPVで流れるたびに、「これは想像以上に凄いかも」と予感はしていた。コトリンゴの音楽付きのPVが流れる頃には、そのPVを見るだけで感極まる感じになっていた。

 

www.youtube.com

 映画を観終わった今、ここまで到達してしまった作品にクラウドファンディングのチャンスを逃した過去の自分を激しく叱責したい衝動にかられている。そして、自分の想像をはるかに超えたこの上なく愛おしいこの作品に貢献してくれた人々に深く深く感謝したい。本当にありがとうございます。

 

 ということで、今、私のできるこの作品への貢献は、何度でも劇場に足を運び作品を見る事と、より多くの人にこの作品を紹介することだろうと思って、この記事を書いている。

 映画本体の話は後編でする。面倒な人は、そこから読み始めてもいいかもしれない。ただ、前篇・中編で語る、この映画の凄さを理解するための前提を知っていると、これから鑑賞する人にとっては参考になると思う。既に観た人もまた、違った視点でこの作品をとらえることができるかもしれないので、前篇・中編もお読みいただければ幸いである。

 

 こうの史代この世界の片隅に」の原作は雑誌連載時にリアルタイムで読んでいて、毎度毎度、多様な表現手法に圧倒されていた。と同時に、類を見ない(というか、こうの史代作品ではありがちな)主人公の能天気なキャラクター造形と詳細膨大な時代考証とのギャップもなんともたまらなく魅力的で、当初は深刻な事件は何も起きない戦中ほのぼの漫画として終わってしまうのかなと思っていたくらいである。しかし、そんな訳はないのであって、上中下コミックで言えば下巻での急展開に衝撃をうけた読者も多かったであろう。私もその一人である。彼女の「夕凪の街」は序章に過ぎなかったのだなと思った。

 

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

 

 

 

こうの史代の作品の特異性

 こうの史代の作品については、様々な人が詳細に論考しているので、今更私が何か書くのは気後れする。ただ、あえて私が感じている事を書くなら「こうの史代の作品は高度に昇華された紙芝居である」ということだ。もちろん、ちゃんと吹き出しもあるから、厳密な意味での紙芝居ではないかもしれない。しかし、説明的な台詞はほとんどなく、何か物語の背景を語りたい時は、人でなく、文字自体で語らせる事が多い。「この世界の片隅に」では他の作品よりも情報量が多いために、しばしば欄外に補足説明、および一次資料の模写、戦時かるた、当時の歌の歌詞などを縦横無尽に活用している。また定点観測的な描写が非常に多いのも紙芝居的だ。人物同士ががちがちに近寄ってあれこれするというシーンよりも、ちょっと引いた視点でのカットの連続が圧倒的に多い。そして、なんといっても手塚治虫以降の「運動性」が彼女の作品には希薄なのだ。躍動感あふれるコマというのは極めて少ない。登場するキャラクターはいきいきと存在しているのに、まるで田川水泡の「のらくろ」に先祖返りしたような平面的な表現手法も散見される。

 

 

 現在の大部分の漫画家は、多かれ少なかれアニメの申し子である手塚治虫の影響を受けているので、原作がアニメ化されて違和感を覚えると言う事はほとんどない。それは、原作の漫画の表現手法がすでにアニメの文法を内包しているからに他ならない。原作で描いてないカットもアニメの中では出てきているはずなのに、それは見ている人の印象に残らない。つまり、そういう約束事で原作も読んでいるので、アニメで原作の空白が埋められても、それは無意識のうちに省略されているのだ。人によっては、その作品をアニメで知ったのか原作で知ったのか曖昧になる場合すらある。

 逆に言うと手塚文法からやや外れた作家の作品は、アニメ化するのが難しいものが多い。例えば、オノナツメのような切り絵の集積のような作風の場合、アニメ化するためには、どこかで割り切って原作と違うテイストにするか、原作に近づけるためにとことんアニメの方を先鋭化させるかしかない。「さらい屋五葉」などは、卓越したクリエーターあってこそのアニメ化であっただろう。

 

 

さらい屋五葉 コミック 全8巻完結セット (IKKI COMIX)
 

 

  また、意外に思う人もいるかもしれないが、福満しげゆきの作品群もアニメ化しにくいと思う。本人が意識してか無意識かわからないが、はなから手塚文法から外れた過剰で特異な「運動性」が充満していて、あれをアニメに強引に落とすと相当に気持ち悪い事態になるだろう。あるいはアニメ化すると無意味になるネタも多い。例えば、近刊「妻に恋する66の方法」にある「浮遊妻」の話などは、アニメにしてしまえば「それって飛び越えてるだけじゃん」と言う事になって、全く面白くなくなる。

 

 

 

 そして、こうの史代の作品群もアニメ化するのは非常に難しい事は容易に想像がつく。もちろん、こうの史代の画風とストーリーで「動く絵」にするというだけなら出来るかもしれない。しかし、単に記号化されたアニメ文法にこうの作品が無理やり落としこまれるだけなら、彼女の作品に充満する「空気感」はほとんど失われてしまうだろう。それではアニメ化する意味はない。しかし、「空気感」は冒頭で述べたように「音」によって醸成されるのではなかったか。なぜ二次元の紙媒体であるこうの史代作品に「空気感」が宿るのか。中編に続く。

「君の名は。」のティアマト彗星を再考する

 以前に書いた「君の名は。」の科学・後編であるが、その後、小説版をよくみたら、彗星の諸条件および衝突時刻などが書いてあったので、さすがに部分訂正では済まないので、改めて書くことにした。全く、何を読んでいたのか我ながら情けないが、計算しなおす。「またまた無粋な事を」と思う人が大半だろうが、この作品をこれだけ沢山見に行った人がいれば、彗星に興味を持った人も少しはいるだろうから、私の妄想を楽しんでくれれば幸いである。

 

ティアマト彗星断片のスペック

 さて、改めてImpact Earth! にデータを入力して、どんな感じになるかやってみよう。基本、自分で複雑な計算はできないので、このサイトの数値を信じる事にする。

 小説版によると、糸守町に衝突した彗星の断片は

 

大きさ:直径40m  

密度:岩塊程度  

衝突速度:秒速30km 

衝突時刻:20時42分

生じたクレーターの直径:約1km  

 

他に、「衝突地点から5km離れた場所でも1秒後にはマグニチュード4.8の揺れが伝わり」「15秒後には爆風が吹き抜け」とある。

 なお、衝突時刻から逆算すると彗星分裂から約2時間後の出来事となるようである。上記の衝突速度から再計算すると、彗星本体は地球から216000kmの距離にあったと考えられる。ロシュ限界の19134kmからすればそれなりに離れた位置にあったと言うことになる。とはいえ、地球と月の距離384400kmよりも近いので、地球近傍天体である事には変わりない。

 

一応、ケイ酸塩の岩塊と言う事で密度は3g/cm3として、衝突角度は前回と同じく70°とする。

 

さて結果であるが、

 

なんと、

この条件ではクレーターができない!

上空6万mで分裂し、さらに細かくなった破片が

流れ星のように散らばるだけだ。

 

いわゆる、ツングースカ大爆発と同じパターンということになる。

 

ちょっと彗星断片の直径が小さいなあとは薄々は感じていたのだが、やはり駄目でした。ついでに言えば、この規模だと687年に一回程度の頻度で地球に落ちてくるそうだ。

 

 なお、大気圏突入時のこの彗星断片のエネルギーだが、4.52×1016ジュールということで、およそ関東大震災と同じ程度のエネルギー量である。ただし、地面に衝突した訳ではないので、上空で破片が分裂した地点から5kmの場所でどの程度の揺れが観測されるかはわからない。ただ、衝撃波によって、地面も揺れた事は充分に想定できる。ただし、「マグニチュード4.8の揺れ」とあっても、マグニチュードは揺れの尺度ではない(揺れの尺度は「震度」もしくは「ガル」)ので、実質的に何も表していない。よって、5kmの地点でどの程度の揺れが起きたかはわからない。そして、5km地点では約26秒後に秒速131mの突風が吹くようだ。

 

 

南海トラフ地震 (岩波新書)

南海トラフ地震 (岩波新書)

 
([し]5-1)地震イツモノート (ポプラ文庫)

([し]5-1)地震イツモノート (ポプラ文庫)

 

 

 ともあれ、小説版の条件では、(パドゥー大学のシミュレーターが正しければ)糸守町に単独でティアマト彗星の直径40mの破片が衝突する事はない。あるとすれば、分裂した多数の小さな破片のうち燃え尽きなかったものが民家や体育館の屋根を突き破ったり、相当に運の悪い人を直撃したりするくらいだろう。さて、困った。

 

条件を考えなおす

 困っていてもしょうがないので、打開策を考えてみよう。ともあれ、小説版にある条件を変えなければ、どうにもならない。しかし、数字として出ているものを変える訳にもいかない。変えるとすれば「密度」だ。密度は、あくまで「岩塊」ということでケイ酸主体の岩石を想定した。もしこれが、鉄主体の岩塊だったらどうだろうか。密度8g/cm3で計算してみよう。

 

生じるクレーターの直径:1.7km

生じるクレーターの深さ:363m

衝突地点から5kmでの爆風:15秒後に秒速206m

地上衝突時のエネルギー:4.64×1016ジュール(およそ関東大震災と同じ)

衝突地点から5kmでのメルカリ震度階級:5(気象庁震度階級では5弱~5強)

衝突頻度:1500年に一回

 

おお、今度はクレーターができる!

 

多少の数値のずれはあるが、見事にほぼ映画及び小説版の被害状況になる。彗星の周期もだいたいこんなものだろう。つまり、落ちてきたのは「鉄」(もしくは鉄と同等の密度を持つ物質)と考えるほかない。

 

 さて、ここで大きな問題がある。太陽系の起源からすると、彗星核にそれほどの量の鉄がある事は非常に考えにくいのである。鉄は宇宙全体で見ればそれほど珍しい元素ではないが、太陽系などが形成する過程では、より太陽に近い場所に局在する事になる。局在していわゆる地球型惑星(水星、金星、地球、火星)及び小惑星体(アステロイドベルト)ができたとされる。木星よりも遠い惑星の主成分は水素、水、メタン、アンモニアなどのガスであり、その他の単体や化合物は量的にはかなりマイナーな存在となる。

 彗星の多くはその木星型惑星からさらに遠方が起源と言われている。いわゆる、太陽系外縁(エッジワース・カイパーベルト)である。その領域の天体の多くは主成分が氷とされている。実際、テンペル第一彗星を間近にとらえたESA(欧州宇宙機構)の彗星探査機、ロゼッタの観測によれば、彗星の核は「凍った泥団子」のような存在形態だったらしい。凍ったというのは、水が凍っているのである。そして太陽の引力で集まらなかった塵がその氷の中に分散して混在しているのだろう。よって、彗星の核に直径40mもあるような鉄の塊があるというのは、現状では天文学的にはかなり無理のある(本来ならケイ酸塩の巨大な岩塊があるのも無理がある)話なのである。しかし、40mの鉄の塊が落ちて来ないと「君の名は。」の話は成立しないのだ。これは科学の視点で見れば、「テレビの解説の彗星の軌道が間違っている」というある意味「人為的」な問題ではなく、結構根本的な矛盾点といえる。

 

彗星の科学―知る・撮る・探る

彗星の科学―知る・撮る・探る

 
太陽系探検ガイド エクストリームな50の場所

太陽系探検ガイド エクストリームな50の場所

 

 

 

ティアマト彗星は人工天体?

 ここからは本当に私の妄想であり、「お前の頭の中ではそうなんだろう」の世界なので、暖かい視線で読んでほしい。

 「彗星の核に直径40mの鉄の塊がある」というのは、現時点での天文学での太陽系においてはほぼありえない事である。しかし、もしこれが人工物だったらどうだろうか。自然には起きない事でも、誰かが意図的に鉄(もしくは鉄と同じ密度の物質)の塊を内包した人工天体を太陽系に設置していたとしたら。

 

 話がいきなり飛ぶが、スタートレックに出てくる宇宙艦隊には「艦隊の誓い」というものがある。どんな内容かというと「宇宙艦隊に所属する宇宙船とその乗組員は、いかなる社会に対してもその正常な発展への介入を禁止する」というものである。原則的にワープ航法を自力で開発できるまでは、観測・観察にとどめ、その文明と直に交流する事はない。そのような上位の存在を仮定してみる。

 現在の地球は当然、ワープ航法は開発されてないので、宇宙艦隊的にはまだ観察・観測段階の文明である。しかし、ある宇宙艦隊の構成メンバー(たぶん文明学者とか)が「ただ眺めていても致し方ない。ある種の文明的・文化的な実験を行いたい」と発案した。とはいっても、何か文明を極端に進化させるような物体を地球に送りつける訳にもいかない。ならば、「自然現象に見える小規模な災害(地球規模で見れば)を起こして、地球の原住民がその災厄に対してどう変化してゆくかを観察するのはどうか」と考えた。地球側としてはいい迷惑である。

 

スター・トレック オフィシャル 宇宙ガイド

スター・トレック オフィシャル 宇宙ガイド

 
生命と情報の倫理――『新スタートレック』に人間を学ぶ――

生命と情報の倫理――『新スタートレック』に人間を学ぶ――

 

 

 

 そこで、1200年周期で地球の同一地点に鉄の密度の物体を落下させる人工天体を太陽系に設置したのである。民俗学的には、「1200年と言う周期で、地球の原住民がどの程度『伝承』を保持できるか」また「災厄に対してどの程度の対策を考える事が出来るか」「災厄と文明の進歩との関係は」など観察・考察ポイントが多々あろう。ただ、それだけだと伝承が途絶えた場合、同じような被害が繰り返されるだけで倫理的に問題があるだろう。

 

宇宙艦隊の巫女設定

 そこで巫女の設定である。宇宙艦隊の文明学者は、原住民になり済まして、最初の彗星断片の落下を実施する前に、落下地点周辺にいた女性のシャーマン的な存在へ「心身入れ替わりとタイムリープの能力」を与えたのである。ただし、夢うつつでしか発揮できないように設定し、明確な予知能力として認知できないように配慮した。宇宙艦隊からその特別な能力を授けられた末裔が、宮水家の女性である。

 さらに念押しに、宇宙艦隊は、タイムリープ微生物を巫女の細胞へ共生させる処置もした。その微生物はいわばミトコンドリアのような存在として母系遺伝するので、誰と結婚しようが、宮水家の巫女には代々と伝わってゆき、「心身入れ替わり・タイムリープ能力」が世代交代を経て失われない様に補強するのだ。男系のシャーマンの方にも「心身入れ替わり・タイムリープ能力」を与えたのだが、それは巫女が持つタイムリープ微生物に触れると作動するように設定した。「君の名は。」の作中では、それは「組み紐に染みついていた三葉の細胞断片」であり「三葉の唾液(当然、口腔表皮細胞が含まれる)から作った口噛み酒」である。瀧は、三葉が持っていたタイムリープ微生物に触れることで、入れ替わりの夢を見るようになり、三葉と時空を超えて出会う事が可能になる。

 宇宙艦隊の文明学者は、「地球の未成熟な科学では理解できない宇宙艦隊の科学体系をどのように受容し、文化の中に組み込み、どのようなドラマが展開してゆくのか」も観察するのである。

 

ミトコンドリアが進化を決めた

ミトコンドリアが進化を決めた

 
ミトコンドリア・ミステリー―驚くべき細胞小器官の働き (ブルーバックス)

ミトコンドリア・ミステリー―驚くべき細胞小器官の働き (ブルーバックス)

 
ニホンザル観察事典 (自然の観察事典)

ニホンザル観察事典 (自然の観察事典)

 

 

 

つまり、「君の名は。」とは「宇宙艦隊の観察・実験映画」だったのだ。

以前、「神の視点で見るから瀧が馬鹿に見える」と書いたが、訂正したい。

宇宙艦隊の観察・実験映画」なので、瀧が馬鹿に見えるのである。

 

 妄想に過ぎないのは重々承知であって、新海誠監督も上記のような事はまず考えていないだろうが、個人的には上記のように考えると非常にすっきりするのである。

 

宇宙、それは最後のフロンティアなのだ。

「君の名は。」と震災

人は見たいものを見る

 普段、何気なく見ている風景も、何かのきっかけで、それまで全く存在すら気付いていなかった物が急に見えてくる事がある。例えば、「歯が痛いなあ」などと感じて街を歩いていると、「こんなに歯医者の看板ってあった?これでは町じゅう歯医者の看板だらけだな」と言うような不思議な感覚になる。別に、私の歯が痛くなったから、歯医者の看板が出現した訳ではなく、単に「見えていても、見てなかった」「見たいものだけを見ていた」と言う事であろう。

 

 いろいろ気になる事も多かったので、再び「君の名は。」を見てきた。ハッキリ言って、「一回目、一体自分は何を見ていたのだ、お前の眼は節穴か!」と思った。まさに「見たいものだけを見ている」状態だった。こんな調子だと、まだまだ見落としている事、見えてない事が多々ありそうな気がする。が、とりあえずは二回目の鑑賞で「見えた」事を備忘録的な意味合いも含めて、列挙しておく。新海誠ファンや「君の名は。」に心酔している人にとっては、今更ながらの「常識」ばかりだろうが、こういう間抜けな人もいると言う事で暖かく見てほしい。何かまだ勘違いがあったらご指摘いただければ幸いである。

 

1.オープニングが記憶以上に作品要素を濃縮していた。

 組み紐やムスビのイメージは当然として、竜のモチーフや三つの時代(八年前・五年前・現在)の服装の変化、舞台の変転などがすべて凝縮されていた。全編をわかった上で見ると、本当に無駄なショットがない。

2.宮水神社の神楽舞で使う神楽鈴のデザインが「竜」。

 竜は言うまでもなく「彗星」の象徴。

3.瀧の通う高校の名前が「神宮高校」。

 神宮を名乗れる神社は限られているので、それが瀧の通う高校名というのは象徴的。

4.頻出する戸の開閉カットに法則性があった。

 ムスビがつながる時は開き、ムスビが途切れる時は閉まる。

5.瀧のバイト先の店名が「il giardino delle parole」だった。

 直訳すると「音声言語の庭」つまり、新海誠の前作品「言の葉の庭」になる。

6.神楽舞で三葉が彗星本体、四葉が分裂する彗星核を象徴する?

 これはあくまで推測だが、竜をかたどった神楽鈴を使いつつ、あの二人が分離してゆく舞の流れはたぶんそうなのだろう。

7.都会の風景は彩度が落ちたのでなくて、漂う粒子状物質の靄を表現。

 遠景でなく、雑踏などのカットでその効果が使われている。

8.糸守町の長閑な鮮やかさは湖畔の水蒸気によるうっすらとした霞で表現。

 逆に、糸守町の風景では、俯瞰的なカットでこの効果を使っている。

9.彗星が落下する10月4日は、人類が初めて人工衛星スプートニク)を発射した日。

 たまたまかもしれないが、新海誠の素材に天文関係が多いので、わかって使っている可能性は大。「秒速5センチメートル」では、ロケット発射が絶縁の象徴。

10.テレビの解説でロシュ限界の言及があった。

 ここまで語らせているなら、やはり彗星軌道の誤りはもったいない。

11.彗星衝突の入射角が約70°だった。

 これは「秒速5センチメートル」のロケット発射角度とほぼ同じ。

12.瀧と奥寺先輩とのデートの「懐かしの風景」写真展で「三陸」地域の展示もあった。

 三陸は、言うまでもなく東日本大震災津波により街が失われた地域。つまり、そういう写真展ということ。

13.瀧と旅館に泊まっている時の奥寺先輩の下着の色は黒。

 「だから何」と言われても困るが、奥寺先輩っぽいなと。

14高山ラーメンのおじさんが瀧に渡す弁当が「おむすび」。

 言うまでもなく、三葉たちが神体に向かった時の弁当と同じ。つまりは、お「ムスビ」。

15.瀧と三葉が心身共に邂逅している山頂シーンで、瀧が写っているカットでは彗星落下後の湖面が、三葉が写っているカットでは彗星落下前の湖面が背景になっていた。

 これは、二人が邂逅している特異点(半径数m)以外は、時間も空間も交錯していないと言う事を示唆している。

16四葉は彗星衝突の8年後に東京の高校生になっていた。

  成長していてわかりにくいが、組み紐を結んでいるから間違いなかろう。

17.最後の「決め台詞」のシーンで彩度が上がったように感じたのは錯覚。

  駅の雑踏から外の晴れあがった風景へ移行していく中で徐々に彩度があがってきているので、最後の最後で急に上がった訳ではない。

 

 他にもきっと見落としている事がいろいろあるとは思うが、これくらいが私の限界である。小説版やスピンオフ小説で物語の背景を仕入れても、こんなものだから、情けない事限りなし。で、二回目で実は涙がでそうになったシーンがいくつかあった。自分でも「え?」と思ったのだが、その「涙」は、どうやら「震災」との個人的な連想がいろいろ結びついた結果であるように思えた。ということで、「君の名は。」と震災について書く。

 

君の名は。」と震災

 既に非常に多くの人が「君の名は。」と震災との関係性について語っている。「震災後の気持ちの整理の一つの方向性を示した」という肯定的な意見もあれば、「こうも綺麗にまとめてしまっては危険だ」と言う手厳しい評価を語る人もいた。しかし、私自身は、一回目を見た時に「震災について意識しているな」と感じた部分もあったが、それほどに露骨でもなかったので、「震災映画」という印象は持たなかった。実際、被災者でもない限り、「君の名を。」を一回見るだけで自動的に震災についてのメッセージを強烈に受け取るというのは、なかなか難しいだろう。そもそも、誰が見てもわかるような直接的な震災メッセージが入っていれば、私自身、一回目の鑑賞で純粋にエンターテイメントして楽しめなかったはずだ。

 

 とはいうものの、新海誠が震災について全く意識せずに「君の名を。」を作り、この作品から震災を読みとるのは見る側の勝手な思い込みだ、というのはいくらなんでも無理な話であろう。もちろん、震災なんて何も考えずに楽しめる作品ではあるが、そんなに底の浅い作品ではないと私は思うのである。二回目を見た今、それを確信している。まあ、確信しているのは私なのであって、それが新海誠の真の意図なのかは定かではない。ここから書く事は、例によってあくまで私の個人的な考えである。

 

 ほぼ同時期にヒットしている「シン・ゴジラ」は、やはり震災の中でも「原発事故」を想起させるように構成されていると思う。ゴジラそのものが人間の生み出したもので、それが暴走して制御できないと言う状況の作品だからである。奇しくも、赤坂が「自然災害とは違う。対処できる」旨の発言をしている。無論、「シン・ゴジラ」もまた、そんな事を考えなくても、徹底的に楽しめる作品である事は「君の名は。」と同じである。

 

 一方、「君の名は。」の方は、「津波被害」を象徴しているということになろう。彗星衝突という人間の力では回避不可能な自然災害を扱っており、それなりの周期性もある。さらに写真展で「三陸」をあえて入れているし、彗星衝突の際に想定される糸守湖による津波被害などがその根拠である。男女のロマンスであると同時に、そういった自然災害を通した物語が「君の名は。」である。

 二回目鑑賞で涙が出そうになったのは、物語の「構造」が見えて、私個人の震災関連の経験とリンクした瞬間があった事が原因だ。だから、非常に個人的な話になり、普遍性はない。というか、震災経験に普遍性などもともとないので、ここに書くことに意味があるのかどうかはわからない。が、ともあれ書いておきたいので書く。

 

君の名は。」の三層構造

 「君の名は。」を二回見て強く感じたのは、この作品は三つの層構造になっているのではということである。

 まず「表層」に「瀧と三葉のロマンス」がある。これはまあ、誰が見ても分かる男女の物語であって、音楽で言えば主旋律(ソプラノ)に当たる。基本的に八年前から現在に至る物語だ。当然、ここだけに着目していても充分に楽しめるように新海誠は入念に設計しており、多くの人のハートを射止めた部分もこの二人の世界の物語だろう。

 一方、「深層」、音楽で言えば「バス」にあたるのは、糸守湖を形成した「1200年前の彗星衝突をきっかけに発生した伝承」である。彗星という災厄に対して、未来へどう対策してゆくか。近代化以前であるから、ご神体を祀り祈祷する他なかろう。そして起こった災厄を後世へ忠実に伝えていかなければならない。これは、途中「繭五郎の大火」で文字情報としては失われるのであるが、糸守の伝承行事として形式的に受け継がれてゆくことになる。そして、そのベースがあるからこそ、瀧と三葉の時空を超えた物語が始まる訳で、「深層」と言っても極めて重要である。

 そして「中間層」、音楽で言えば「中声部(アルト&テノール)」にあたるのが、糸守町およびそこに暮らす人々である。糸守町は、「深層」の伝承と「表層」の瀧と三葉をつなげるためにはなくてはならない「場」である。そして、彗星が衝突する前、すなわち三葉が生きる「8年前の糸守町」は、田舎ながらも戦後から近代化が進んできたほぼ同じ価値観を共有する歴史ある共同体であった。その中で三葉が育った。つまり、三葉自身がいくら都会にあこがれると言っても、三葉は糸守に根(ルーツ)がある人間であり、宮水家だけでなく糸守町に住む人々すべてによって、三葉の存在は支えられていたのである。まとめると、

 

   表層 :瀧と三葉

   中間層:糸守町とその町民

   深層 :昔から受け継がれている伝承

 

 ということになる。

 そして、それぞれの層の横のライン、つまり表層なら「瀧と三葉」、中間層なら「一葉と四葉」(もしくは、テッシーとさやちん)、深層なら「彗星衝突と神事様式発生」がある。それと同時に、表層と中間層「三葉⇔一葉」、表層と深層「伝承⇔三葉」、中間層と深層「一葉⇔伝承」のように層ごとの縦のラインもある。横のラインも縦のラインも、すべては「ムスビ」である。

 ということで、それぞれの層で私が感じた事を記す。

 

表層:瀧と三葉

 この層を中心に話は進むので、この層の流れだけを追っても充分にハラハラドキドキして面白い。というか、初めてこの作品を鑑賞する観客の大部分はそうだろう。私も実際、一回目はそうだった。

 しかし、二回目の時、瀧と三葉のあれこれを見ながら、ふと「この二人は特別な『ムスビ』によって出会えた類稀なる幸運な特例なのだな」となぜか思ってしまったのである。まあ、特別な「ムスビ」にロマンがあり、時空を超えた「愛」に多くの人々は感動しているのは言うまでもない。しかし、逆に言えば、ちょっとした手違いで「三葉が助かった時間軸」が成立しなかったら、三葉はこの世におらず、瀧のもやもやした感覚が続くだけで、二人は8年後に出会う事もないのである。

 東日本大震災が起きた当時、新聞に掲載される死亡者名簿をかなり懸命に見ていた時期がある。なぜ懸命に見ていたのかと言えば、知り合いがいないか探していた訳なのだが、若い世代、特に十代の名が目に入るたびに、胸が締め付けられる思いがした。知り合いでもないのに「生きていればこの子にはどのような縁・未来があったのかな」とついつい考えてしまうのである。

 瀧が図書館で糸守町死亡者名簿を閲覧し、宮水三葉の名を見つけるシーンで、そんな震災当時の自分の事を思い出した。「もし、東日本大震災津波で命を落とす事がなければ、上京して、瀧のような男性に、もしくは奥寺先輩のような女性に出会う『縁』があった若人もいたに違いない。亡くなったのは彼らの責任ではない。男女交換の時空を超えた瀧と三葉のような特別な『ムスビ』がなかったとしても、何らかの『縁』によって導かれた男女がいたなら、もっと….」と考え始めて、なぜか涙が溢れそうになった。そんな事を考えてもどうにもなる訳ではない。場合によっては、こんな「もしも」を考えるのは、前を向いている遺族に失礼であるのは重々承知ながら、やはり瀧と三葉を見ていたら考えてしまったのである。

 しかし、逆に考えれば、あの被災地に居ながら、様々な「縁」に導かれて、津波に呑まれることなく、今も生きている若人はきっと沢山いることだろう。もしかすると上京して運命的な出会いをしている人もいる事だろう。震災から五年経ったのである。その出会いは、瀧と三葉のような特別な『ムスビ』ではなかったかもしれないが、生きているからこそ実現している「縁」である。夢想を広げれば、意識に登って来ないだけで、実は夢の中で瀧と三葉のような事が多くの若人に起きていて、普通はそれが強烈に「忘却」されしまっているだけのかもしれない。つまり、それこそ溝口俊樹と宮水二葉のように、いずれ出会うように、無意識に行動を選択していたのかもしれないのだ。

 

中間層:糸守町とその住民

 私が「君の名は。」の中で最もリアリティを感じた登場人物は、「高山ラーメンのおやじ」である。他の登場人物はやはりこの作品のために造形されたキャラクターであり、アニメーションと言う世界の枠の中で生きている。しかし、「高山ラーメンのおやじ」は、ある意味この作品の中では「異質」である。私がリアリティを感じた理由は、同じような境遇と雰囲気を持った人物が具体的に思い浮かぶからである。住んでいた故郷が津波で失われ、他の場所で店を始めている人はそれなりにいて、普段は震災の事などは口にせず黙々と仕事をしている。不躾な客が津波の事などを尋ねても、遠い目をして、淡々と答えるのみ。はっきりした感情を表に出す事はまずない。

 

 高山ラーメンのおやじは、彗星衝突時には既に糸守町にはいなかっただろう(だから、生きている)。そして、彼が帰るべき故郷はもうこの世にはない。そんな彼が、瀧のスケッチを見て「良く描けている」としみじみ言うのである。そして、失われた故郷がどうにかなる訳でもないのに、瀧を龍神山まで車で案内し、弁当まで手渡す。そして別れ際に「良く描けていたから」とまた言うのである。写真でなく、糸守の風景を「誰か」の視点で描かれている事に、高山ラーメンのおやじは、「郷愁」と同時に「何かただならぬ事」を感じ、この青年には何かをせずにいられないと思ったのである。そう思ったら、ここで、涙腺が緩んだ。実はこの高山ラーメンのおやじがに瀧が出会わなければ、瀧は何もつかめないまま東京へ戻ってしまう結果になっていたはずだ。そうなれば、三葉と瀧が出会うと言う未来もない。高山ラーメンのおやじもまた「ムスビ」の一つである。

 なお、高山ラーメンの店や弁当の包み紙に描かれていた「さるぼぼ」は、安全や安産祈願の飛騨高山の民芸品である。基本的に「のっぺらぼう」なのが大きな特徴で、「誰かはわからない誰か」を瀧が探している場面で出てくるのは、なかなか象徴的である。

 

 瀧と三葉だけを見ていると忘れがちだが、瀧の行動によって三葉が彗星被害を免れる時間軸になったとしても、糸守町が消滅する事には変わりない。すなわち、糸守町の人々は全員助かったとしても、宮水神社はなくなり、あの即席カフェもなくなり、被災者として他の場所で生きてゆく事になるのだ。宮水一葉や宮水俊樹がどうなったかは描かれていないが、とりあえずテッシーとさやちんは8年後には、婚礼に向けてウキウキなようである。さやちんが飽きもせず(ちょっと高級になった)ショートケーキを頬張るのも微笑ましいし、テッシーがいかにも土建屋な服装なのも相変わらずだ。

 そして、8年後の宮水四葉。姉に「口噛み酒を売り出せば?」などと無邪気に進言するようなちょっとオマセな小学生だった彼女は美しく成長して東京で高校生をやっている。授業を受けている表情は、決して暗い訳ではないが、どことなく虚ろである。こういう表情は私自身、何度も見た事がある。故郷を失い、根っこのない新天地で懸命に学校生活を送る生徒たち。普段は明るいし、地元の子達ともワイワイやっているのだが、ふとある瞬間に寂しげな顔になる事がある。彼ら・彼女らが本当の所、何を想っているのかはわからない。しかし、「故郷がない・生まれ育った故郷へ戻れない」という動かせない事実に、何も想わない・感じない訳はないだろう。ともあれ、高校生になった四葉のあの表情を見たら、そんな事があれこれ思い出され、やはりぐっとこみあげるものがあったのである。

 

 

高山ラーメン 醤油5食

高山ラーメン 醤油5食

 
飛騨のさるぼぼ NO.9 (赤:さるぼぼ柄)

飛騨のさるぼぼ NO.9 (赤:さるぼぼ柄)

 

 

 

深層:昔から受け継がれている伝承

 ある人がそこに実在すれば、意識する・しないはともかく、その人の中には間違いなく、遠い祖先から受け継がれた遺伝子がある。無からいきなり人間が誕生したりはしない。

 しかし、文化の伝承となると不確定要因が多い。受け継がれる文化を「ミーム」などと言ったりするが、時間の経過の中に埋もれて、発生した当初の「意味」がわからなくなっているものは、糸守町に限らず、多々ある。

 震災後、すっかり有名になった「津波てんでんこ」。「津波が来たら、人の事などかまわず、各々の判断でとにかく高台に向かえ」という教訓なのだが、この言葉も、大震災レベルまでいかなくても、比較的短周期で起こる中規模な津波被害が繰り返されたからこそ、伝えられてきた言葉であろう。しかしながら、それが沿岸住民全員に身についていた言葉だったのかと言えば、なかなかそこは難しいところだろう。そうした教訓が身に染みる経験に昇華されるには、一人の人間の生涯はあまりに短い。つまり、深い意味も理解したうえで、子孫へ伝えていく強靭な意志が継続しなければ、そのような伝承は簡単に失われてゆく。

 大震災直後、沿岸の被災地に赴いて、放射線の測定や津波による動植物の状況を見に行った事がある。その時に気付いたのは、津波到達地点ぎりぎりの所に、示し合わせたように大小の神社がある事であった。標高差のそれほどない、何気ない田んぼのど真ん中にある神社も、本当に津波到達点ぎりぎりに建立されていた。地図で広範囲に調べると、本当にことごとく津波到達地点ぎりぎりに神社があるのだ。おそらくこれは偶然ではない。千年以上前にM9クラスの貞観地震が起きた時に到達した大津波の災厄と関連して、その場所に建立されたのであろう。しかし、その神社がその場所にある意味は長い年月の間に失われてしまったのである。これは私個人だけの妄想でなく、本としてまとめた人もいる。糸守町の彗星もまた、千年周期の出来事だ(この辺の設定、新海誠はやはり巧い)。

 「君の名は。」では伝承の縁起(記録)は「繭五郎の大火」で失われてしまったと言う事になっているが、仮に記録が残っていたとしても、「彗星の破片が再び同じ場所に落ちる」なんて事は、まっとうな科学者であれば想定しないだろう。しかし、文化的な伝承の中には、未来への教訓として無視できない内容が含まれている事もあるかもしれない。フィクションの中とは言え、瀧と三葉、糸守町の人々は、その伝承によって救われた事は間違いないのである。

 

 

利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>

 
津波てんでんこ―近代日本の津波史

津波てんでんこ―近代日本の津波史

 
神社は警告する─古代から伝わる津波のメッセージ

神社は警告する─古代から伝わる津波のメッセージ

 

 

 

 長々とあれこれ書いてきたが、実は「君の名は。」の中で、新海誠は上記のような三層構造の世界観をある場面でコンパクトかつスマートに提示している。どの場面かと言えば、瀧が口噛み酒を飲んで、様々なイメージ群が現われてくる所である。あの幻想的な映像の中に、ここに書いたような三層を構成する要素がすべて詰まっていると言っていい。実は、ここでもちょっとウルッと来てしまった。作品の中で、宮水一葉が「すべてはつながっている」と語る所がある。いろいろと思い返せば、本当に「ムスビ」はいたるところにあり、「無縁」と言うことはないのがこの世界なのである。その事を、この作品を通して改めて感じる。

 

 

 パンフレットの中で、新海誠は「観終わった後に、一曲の音楽を聴いたと思えるものを作りたい」と語っている。私自身が三層構造の説明に音楽の例えを出したように、「君の名は。」は極めて音楽的な作品である。というより、新海誠の作品は元々、「音楽的絵画」の側面が強い。ただ、「ほしのこえ」から始まり「言の葉の庭」至る彼の作品群は、あまりに抒情的な部分が勝っているが故に構成上の弱さがあり、「ソナタ」というよりも、上質な「歌曲(リート)」のような印象を与えるものであった。

 しかし、「君の名は。」は、前記事及び本記事で書いたように、いくつかの要素を有機的・重層的に組み合わせて壮大なドラマを作る事に成功している。そして、形式に縛られながらも、彼独自の抒情性は失われてはない。

 すなわち、「君の名は。」という作品は、新海誠が満を持して完成させた「交響曲」なのである。

 

9/13追記:

瀧の名字「立花」だが、「橘」とすると、古今和歌集の「五月待つ花橘の香かげば昔の人の袖の香する」という恋人を追慕する有名な歌を思い出すのだが、やはり新海誠はこの歌を意識して「たちばな」にしたんだろうか?ありうると言えばありうる。そして、「タチバナ」は日本書記では「非時香菓(ときじくかぐのこのみ)」と記され、不老長寿の妙薬として珍重されたらしい。時を超える主人公の名前の由来として「非時」という文字列があるのが、また暗示的だ。

 

 

 

 

改めてもう一度みたい「君の名は。」

 人の記憶は全くあてにならないのは重々承知しているつもりだが、いざ自分の事になると「忘れた事」の自覚がないから始末が悪い。思い出せない事は、私の中ではない事になっているから、見落とした事自体に気付かない。で、改めて「事実」を提示されると「そう言えばそんなこともあったな」とようやく思い出すのである。つまり、完全に最初から認識してないのでなくて、一旦は情報を入力したのに、それが全く引き出せなくなっているのだ。

 

 何の事を言っているのかというと「君の名は。」についての自分の記憶である。前の記事を書いた後に、小説版「君の名は。」を読んでいたら、映画の中で「これあったよ、なんでコレを忘れてるんだよ、自分」と言う事がかなりあったのである。

 

 

 

 

 自分なりにショックだったのは、神社の縁起が焼失した原因「繭五郎の大火」のことをすっかり忘れていたことだった。結構、インパクトのある名称で、映画を見ている時は「まゆごろう、か」と苦笑したはずだったのに、すっかり忘れている。神社や湖の名前もやはり「宮水神社」「糸守湖」だった。ということで、前の記事は部分的に改正した。

 また、映画の台詞と小説の台詞とが完全に一致ししているかどうかは定かでないが、なんとテレビの解説で「ロシュ限界」という言葉まで出ている。これは私の記憶には全く残っていない。そこまでもし厳密に映画で言及しているなら、作品全体の厳密性を統一する意味で、山本弘氏の言うように確かに「彗星軌道のミス」は非常にもったいないと言う気もする。

 

本編を補完する「Another side :Earthbound」

 さて、欠落した記憶を渇求する立花瀧のように、私もまた映画だけでは想像で補うしかなかった事柄を求めて、「君の名は。Another side :Earthbound」を読んだ。

 第1話:瀧、第2話:テッシー、第3話:四葉、第4話:三葉の父(俊樹)の視点による、いわゆるスピンオフの内容だ。これが、本当に映画の「欠けたピース」を見事に補完する物語で、自分なりに腑に落ちる事だらけで、ある意味、本編と同じくらい感動した。というか、第4話の宮水俊樹の物語などは個人的にはある意味本編より面白い。

 まあ、意地悪く言えば「本編だけですべて理解させるべきでは?」という気もするが、作品の奥行きを別の媒体で知るというのも楽しいものである。そして、前の記事で私が自分勝手に妄想していた事の裏付けが取れたと言う満足感もある。そして、案の定、想像以上に新海誠が物語を作り込んでいることもわかる。ほんの少し内容を紹介しよう。

 

 

君の名は。 Another Side:Earthbound (角川スニーカー文庫)
 

 

 

 

瀧について:「ブラジャーに関する一考察」

 本編のみをちょっと醒めた目で見ていると、「瀧がかなり間抜けに見えてしまう」事はある意味避けられない。「もっとはやく電話連絡しろ」とか「なんで紙のメモを残さないんだよ」とか「糸守町の三年前の災害に思い至らないとかありうる?」とか「あれだけ特徴的な場所をなぜ地図で確認できないの」とか言い出したらきりがない。しかし、そういった瀧の間抜けさは、見えている側が「神の視点」になっているから見えてしまうものである。もっと平たく言えば、いわゆる「志村!後ろー、後ろ!」の視点だ。だいたい、人間というのは自分の事は棚に上げて、人の事は良く見えるものである。岡目八目。

 それにしても、瀧は間抜けすぎないか。そう思った人は、Another sideの第1話を読めばいい。結論から言えば、「もともと瀧は間抜けな奴」だったのである。身も蓋もないがそう言う事だ。例えば、彼は三葉に指摘されるまでブラをつけないで登校しているのである。そして、体育では、ブラなしのままバスケで大活躍。当然、男子の視線釘付けなのだが、なぜ釘づけになっているのか自覚がない。つまり、かなり想像力や観察力が欠如しているのだ。小説版では「試してみたけれど、電話やメールは通じない」という設定になっているのだが、それでも東京の自宅で紙に記録を残さないというのは、ブラをつけるという発想すら出てこない瀧なら十分にありうる。そして、三年前の災害の事も、飛騨地方の地理的な感覚も、たぶん都会育ちの彼の日常にとっては、「別世界」のことだったのだろう。ただ、自分の「かたわれ」である三葉への想い(実際には「何か思い出すべき誰か」)だけで、深い考えもなく、スケッチを描き、探す当てもないあの場所を探しに行くのである。

 中には「瀧と三葉が相思相愛になる過程があまり描かれていない」という感想もあったが、心身交換を繰り返している二人な訳だから、ある意味、それぞれの自己愛を少し拡大するだけで、容易に相思相愛になるだろう。Another sideでも、三葉の身体に入った瀧が、鏡で三葉の姿に思わず見とれるという描写がある。そして、いくら瀧が間抜けであっても、糸守町の巫女としての重責すなわち糸守町の地縁(Earthbound)という圧迫感を嫌でも感じ、三葉の健気さを好ましく思ったに違いない。二人は互いに別個の人間としては会えないけれども、身体だけを通して交流を続けている訳で、皮肉な事に、普通の男女よりも精神的な距離を縮めるのはさして時間はかからないだろう。そして、龍神山の外輪山で、一瞬ではあるが、二人は事実上「一身一体」すなわち「両性具有」のような存在になる。そして、「彼は誰時」を過ぎ、それぞれは、また別個の人間として別れ、互いを求め合う存在に戻るのだ。ほとんど、プラトンの「饗宴」でアリストパネスが語ったとされる男女の愛の起源に通じるものがある。

 

饗宴 (光文社古典新訳文庫)

饗宴 (光文社古典新訳文庫)

 

 

 

テッシーについて:「スクラップ・アンド・ビルド」

 テッシーこと勅使河原克彦は、メカに強い多少オカルト好きの高校生である。父親は地元の建築会社の社長。当然、町長の宮水俊樹(三葉の父)とも悪い意味でつながりがある。彼自身は父親と町長がつながっているのは、不健全だとも感じている。悪い奴ではなさそうだ。主人公ではないから、本編だけみるなら、その程度の情報しかテッシーには与えられない。そんな彼が三葉の言葉を信じて、いきなり変電所爆破を実行する訳だから、かなり唐突というかリアリティがない。ほとんど「数学できんが、なんで悪いとや!」の「高校大パニック」の世界である。

 しかし、Another sideの第2話を読むと、彼があの行動をとるに至った背景がわかる。彼は地方特有の町に充満するあまりの閉塞感に押しつぶされそうになっていたのである。そうであれば、今の高校生なら地元を離れて都会へ行く訳だが、彼は非常に責任感も強い。建設会社の社長の息子ということで、会社を引き継ぐ事は予め決められた事だ。それに反抗して勘当されても都会へ出る程に、テッシーは自分勝手ではない。自分の生まれ育った場所、糸守,町を愛しているのだ。ただ、現状では未来がない事も充分にわかっている。自分が社長になった時には、過去のしがらみ(Earthbound)で身動きとれなくなったこの町を根本から作りなおす。スクラップ・アンド・ビルドだ。手順として、そのためには一旦、すべてを更地にしないといけない。「地震や大火事が起きれば、この町を作りなおせる」と彼はそれを半分真面目に夢想するのだ。そう思うと、三葉とさやちんに「カフェに行こうか」と提案する彼の心情というのは、半分冗談ではあるが半分本気であることがわかる。ただ、今はまだそこに存在してないだけで、いつかは本式のカフェを糸守に作る事を諦めてはいないのだ。

 そんな彼が三葉から「彗星が落ちてくる」と真顔で言われたら、真偽はともかく、町をゼロから作り直す絶好のチャンスと考えるだろう。当然、「その話のった!」となる。まあ、さやちんは、そう言う意味で部外者だから、三葉の話もテッシーの熱意も理解できずに、彼らの勢いに呑まれてずるずると町内放送をやってしまうのだが。しかし、テッシーは本気の本気なのだ。変電所爆破は、彼にとって決して衝動的な行動ではない。

 本編では、テッシーとさやちんは都会で結婚することになっているようだが、時間はかかるかもしれないが、彼らが中心となって、きっと糸守町を立派に復興・再建してくれることだろう。

 

 

高校大パニック [DVD]

高校大パニック [DVD]

 

 

 

四葉について:「アースバウンド」

 三葉の妹である宮水四葉もまた、本編では詳しくは語られないが、限られた登場シーンだけみても、無邪気で好奇心旺盛、子供らしい賢さもある愛すべきキャラクターである事はわかる。個人的に思い出したのは、「クロムクロ」に出てくる、白羽由希奈の妹、小春である(というか、「君の名は。」自体、物語の構造が「クロムクロ」に似ている部分が多い)。

 Another sideの第3話では、この四葉の内面世界が語られる。姉の異変を客観的に観察し、何が起きているかをおそらくは誰よりも多面的に推理する。残念ながら、彼女の推理はことごとく的外れなのだが(当然だ)、小学生の限られた知識からあれだけ考えられれば立派である。そして、言うまでもなく四葉もまた、宮水家の血筋である以上、文字通り糸守町のEarthboundからは離れられない宿命を持った存在である。

 さて、その四葉だが、なんと好奇心で宮水神社の拝殿の自分が作った「口噛み酒」を飲んでしまう。口噛み酒といえば、時空を超える重要なアイテムだ。三葉が作った酒を瀧が飲めば、組み紐で結ばれたかたわれ同士が時空を超えて出会う事になる。

 しかし、四葉には、ペアとなる組み紐もない、つまり、四葉には「縁」のある存在がまだいないのだ。そんな四葉が口噛み酒(しかも自分で作った)を飲んだらどうなるか。

 これは宮水家の血筋を遡る他なかろう。既に記録が失われたはるか昔、まだ宮水神社が壮大な神殿を有していた頃。そんな昔に四葉の精神は飛び、四葉と最も縁の深い先祖に憑依する訳である。繭五郎の火事で失われた神社の縁起のエピソードも、この四葉の物語で補完されるのだ。宮水神社の神事は、単に古臭い因習ではなく、確かに受け継がれるべき大切な「何か」があったのだ。すなわち、惰性も混じった形式的なEarthboundでなく、まさに地域の切実な願いが充満したEarthboundをはからずも時を超えた四葉は見せてくれたのである。

 なお、口噛み酒自体は、四葉によると、「えぐ酸っぱい味」がしたそうだから、生化学的にはアルコール発酵には失敗していると思われる。もしかすると、幻覚作用を引き起こす成分が醸造されていて、瀧も四葉も、その影響を受けて様々な幻影を見ただけなのかもしれない。古代シャーマンがトリップするために様々な幻覚作用を引き起こす植物やキノコを摂取することは普通に行われていたはずなので、あながち間違いではないかもしれない。しかし、それでは、伝奇ロマンは台無しで、「怪奇大作戦」のテイストになってしまう。

 

 

新版 ガマの油からLSDまで―陶酔と幻覚の文化

新版 ガマの油からLSDまで―陶酔と幻覚の文化

 
DVD 怪奇大作戦 Vol.1

DVD 怪奇大作戦 Vol.1

 

 

 

宮水俊樹について:「あなたがむすんだもの」

 第4話はなかなか奥が深くて、「君の名は。」の大人バージョン言ってもいい内容である。あえて表現するなら、実相寺昭雄ウルトラQ ザ・ムービー 星の伝説」の雰囲気を持ちつつ、星野之宣「宗像教授伝奇考」で補強したと言った感じの話である。わかる人には、この説明だけで、私のワクワク度を想像できるかと思う。はっきりいって、この第4話のエピソードだけで、一つの作品が作れると思う。

 本編では三葉の父、宮水俊樹は「嫌な奴」としてしか印象に残らないだろう。一応、二回目の三葉の説得によって、糸守町民を避難させる結果になるが、その細かい過程は省略されている。登場するシーンでは、一葉からも三葉からも邪険にされ、テッシーの父とも癒着して、ほとんど悪いイメージしかない。あんなキャラをなぜ出す必要があったのかと思った人もいるだろう。

 ところが、宮水俊樹は、昔、溝口俊樹という民俗学者だった。そして、謎の多い宮水神社の縁起を調査するために「民俗学者」として糸守町を初めて訪れたのだ。その時、出会ったのが宮水二葉、つまり三葉の母となる女性だ。「ひと目あったその日から」という感じで、溝口俊樹からすれば民俗学の調査、宮水二葉からすれば貴重な伝承を学術的に保存してもらうと言う名目で二人は頻繁に逢瀬を重ねる事になる。

 その二人の民俗学的な丁々発止が、歴史素人の私としては、ほとんど「宗像教授伝奇考」の展開である。なんと巫女である二葉もまた彼女のなりの仮説(直感に基づく部分があるにせよ)を持っているのだ。

 宮水神社の祭神は、機織りを教えた神である倭文神(しとりかみ)である。しかし、どこの神社の倭文神とも関連がないと言う。そして、糸守ではその倭文神は竜を退治した伝説がある。そこに、「君の名は。」でも重要なアイテムとして登場する、組み紐の話が絡んでくる。倭文神に関連して、時間軸の交錯を象徴する組み紐を「編む事自体が重要」だと二葉は断言する。根拠はない。ただ彼女のなかではゆるぎない確信がある。それを宮水家の巫女は続けてきた。そして、退治すべきその竜は何を象徴しているのか。言うまでもなく、それは彗星である。彗星が定期的に災厄をもたらし、組み紐でつなぐ時空を超えた「縁」によって、その災厄を防ぐ、そうした流れが綿々と受け継がれてきたのだ。

 ともあれ、溝口俊樹は、二葉に惹かれ、やがて宮水俊樹となる。そして、宮水神社の神主となるが、近代的な学術の世界と前近代的な土着の強固な因習の世界とはあまりに違っていた。二葉の糸守町での神がかった絶対的な存在感に戸惑いつつ、二人の娘(三葉、四葉)も授かる。しかし、二葉は免疫疾患で亡くなってしまう。かけがえのない二葉を失った俊樹は慟哭する。しかしそんな悲しみをよそに、宮水一葉のみならず、近代的な死生観とはあまりに乖離した糸守町の二葉の死への感覚に、俊樹は戦慄するのだった。「この町は狂っている」。俊樹は家を出て、古臭い因習に縛られた町を変えるべく、町長になる決意をする。糸守町を近代的な町に変貌させるのだ。そのためなら、多少汚い事もやってやる。そして町長となった。

 彗星が落ちる日、三葉が町長室へやって来る。「糸守町に彗星が落ちる」などたわけた事を言う。しかも、姿は三葉だが、そこにいるのは三葉ではない。俊樹にはわかるのだ。この感覚、覚えがある。ともあれ、今は祭りの運営で忙しい。三葉を追いかえす。しかし、再び泥だらけの三葉がやってくる。今度は心身ともに三葉だ。そして、それは過去から連なった二葉の姿でもあった。俊樹は町長として避難訓練と称して住民の避難を指示する。

 俊樹は、糸守町のEarthboundに惹かれ、Earthboundを呪い、Earthboundによって最後は救われたのである。そして、その時の流れの糸を紡いでいたのは、ほかならぬ宮水家の巫女たちだったのだ。おそらくは、二葉と俊樹もまた若かりし頃、瀧と二葉のように、夢の中で心身交換を行っていたのであろう。しかし、理性的で知能の高い俊樹は、瀧と違い「奇妙でリアルな夢でとどめて」それ以上追及せず、完全に忘却してしまったのだ。しかし、俊樹は無意識のうちに民俗学を専攻し、瀧と三葉が最終的に東京のあの階段で再会するように、俊樹と二葉もまた糸守町の宮水家で邂逅したのだった。あくまで想像であるが、二葉の方は、「必ず『彼』がここにやって来る」と確信があったのだろうと思う。そして、二世代の連携によって、糸守町の災厄は防がれることになる。

 

 

 

ウルトラQ ザ・ムービー 星の伝説 [DVD]

ウルトラQ ザ・ムービー 星の伝説 [DVD]

 
宗像教授伝奇考 (1)

宗像教授伝奇考 (1)

 
日本書紀(上)全現代語訳 (講談社学術文庫)

日本書紀(上)全現代語訳 (講談社学術文庫)

 

 

 

読んでから映画館でもう一度見よう

 「君の名は。」の小説版はともかく、「君の名は。Another side :Earthbound」はちょっと高校生には難しい部分があるかもしれない。しかし、「君の名は。」の映画を一回見て、どうも釈然としない人、あるいは「もう一回見に行きたい」と思っている人は、是非とも、この二つのテキストを読んでから、映画館へ向かって欲しい。全編に散りばめられた何気ない描写それぞれに深い意味がある事に気付き、きっと新たな感動を味わう事が出来るだろう。

 ともあれ「君の名は。」、傑作である。